第一章 異世界のゲーム ④
落馬の回復に一週間ほどかかった。
右目の包帯も外れたが、まだ瞼が完全には開かず、特注の眼帯を装着していた。黒檀の木から削り出された細工が施された半月型の眼帯は、白桜蔭家の家紋である八重桜が白銀の糸で刺繍されている。
鏡を見ながら、俺は満更でもなかった。
顔の角度を変えてみる。
(……ちょっとかっこよすぎないか、俺?)
絶世の美人である雪路から良いパーツを譲り受けており、妹と同じ髪型も相まって、中性的な美少年でもあり、美少女のようでもある。そこに黒い眼帯だ。厨二心が騒がないわけがなかった。
だが、俺を待っていたのは、この世界の異常な倫理観だった。
「曉人、今日は特別なお客様が来るわよ。ちゃんとするのよ」
嬉しそうな顔の雪路はそう言いながら、俺の着物を丁寧に整えた。
その仕草には尋常ではない気合いが感じられる。
「お客様?」
「ええ、白桃泉家のお嬢様よ。あなたと近い年で、とっても可愛らしい子なの」
雪路の目が異様に輝いている。
「⋯⋯⋯」
「もう、曉人ったら鈍いんだから……ようやくお父さまがお許しくださったから、私、この一週間、走り回って、あなたの将来の《《花嫁候補》》に話をつけてきたんですから。今日は特別に三人にあってもらいますよ」
雪路の背後にはキラキラと星が舞っているのが見えるほど、熱のこもりようだった。
「は、花嫁……ですか?」
思わず二歩ほど後退してしまう。
その肩を掴まれる。
「あらあら、この子ったら照れちゃって。もう、可愛いんだから!」
(違う! 照れてんじゃない! 唖然としているんだ!)
文學が去り際に言った嫁探しというのは空耳ではなかったようだ。
この世界はまだ家同士のお見合いが強いようだ。
俺は慌てて雪路に聞き返した。
「いやいや? お母さま、花嫁って言われましたか?」
「ええ、そうよ。花嫁候補」
雪路は当然のように答えた。
「⋯⋯失礼ですが、私は十歳ですよね?」
「ええ、そうね」
「十歳の子供が花嫁を⋯⋯⋯」
(はあああ!? 俺に花嫁!? 十歳だぞ俺!? まだランドセルを背負って蝉を捕まえたりしたり……いや、この世界にランドセルはないだろうけど、そういう年齢だろ? 結婚とか早すぎんだろ!)
俺は心の中で高速でツッコミを入れた。どうやら百面相をしていたようで、雪路は怪訝な表情で俺を見た。
「落馬の影響で、常識まで忘れてしまったの?」
(いや、あんたたちの常識がおかしいんだよ! 十歳で見合いとか、どんな異世界だよ!)
俺は冷や汗を流しながら、何とか会話を続けた。
「すみません、その⋯⋯常識を思い出せなくて」
「まあ! まぁまぁまぁ!」
雪路は手で口を覆い、驚きの声を上げた。
「⋯⋯」
「こんなことまで忘れるなんて! お医者様をもう一度呼んだほうが⋯⋯」
「いえ、大丈夫です。ただ、確認したいだけで⋯⋯」
「そう⋯⋯」
雪路は不安げに俺を見つめた。
「この国ではね、名門武家の男子は遅くとも十五歳までに婚約を済ませるの。特に白桜蔭家の血筋は由緒正しき⋯⋯」
雪路は俺の困惑した顔を見て、言葉を切った。
「まさか、自分の家のことも忘れてしまったの?」
俺は小さく頷いた。
「では、簡単に説明するわね」
雪路は姿勢を正し、家の歴史を語り始めた。
「白桜蔭家は、五色家の中でも白家筆頭の名門家。初代当主の白桜蔭恒久公が、北方の蛮族との戦いで皇を救い、皇により賜った苗字なの」
雪路は手元の櫛で俺の髪を整えながら続けた。
「恒久公は戦いの最中、死んだ兵士たちの魂が桜の花びらとなって公を守るの皇が見たと語られているわ。その光景を『白き桜の蔭』と表現し、皇がその名を下賜されたのよ」
「そうだったのですか」
「ええ。それから三百年、我が家は加州の筆頭家として皇國を支えてきたの。だからこそ、血筋の純潔は何よりも大切なことです」
雪路は少し声を落とした。
「今は加州藩主は叔父、鷹尾様が直々に治めておられるけれど、いずれ我が家の血を引く者が継ぐことも約束されているのよ」
「まるで戦国時代のようですね⋯⋯」
思わず口にした言葉に、雪路は首を傾げた。
「戦国? 何のことかしら」
「いえ、何でもありません」
俺は慌てて言い繕った。文學から指摘されたように、余計なことを口にするとボロがでてしまう。
「それで、花嫁候補の家柄は?」
「今日来るのは皆、加州白家の分家筋。血筋の格で言えば白椿彪家が一番ね。続いて、白桃泉家は商才に長け、白蝋梅家は学識が深いけれど⋯⋯財政は厳しいと聞くわね」
明確に順列をつけているようだった。
(なるほど、家柄、財力、学識って、完全にスペック評価なのね。前世で関わった婚活サービスのデータ分析の仕事を思い出すな……あの世界は、人の欲が渦巻く世界で、人間の深淵を覗き込んだ気がしたぞ)
俺は頭の中で整理した。
(どうやら俺は、皇國と呼ばれる国に住民らしい⋯⋯この皇國には五つの主要な五色家があり、そのなかで白家筆頭が白桜蔭家なのか⋯⋯いやいや、まさかな)
俺の中で一抹の不安が駆け抜けたが、あまりに非現実的なので打ち消した。
「でも、お母さま。私はまだ十歳です。結婚なんて⋯⋯」
「もちろん、結婚式は数年後ですよ。今は良い縁を見つけるための見合いだけです」
雪路は当然のように言った。
武家の名門となるとそうなのかもしれない。
前世の歴史でも前田利家とまつは、松がわずか十一歳のときに嫁ぐと、十二歳になる前に長女を出産したと聞く。
戦国時代の武将たちにとって、早期の縁組は政治的安定や家系の存続を保証する重要な手段だったのだろうか。
「それでも⋯⋯」
俺は言葉を選びながら反論しようとした。
「あら、曉人。あなた、ずいぶん変わったわね」
雪路は眉を寄せた。
「前はすぐに結婚したいって言っていたじゃない。清香と結婚すると言って聞かなかったくらいなのに」
(はぁ、子どもの戯れとは言えマジで、そんな事を言っていたのか?)
俺が動揺していると、妹の清香の声がした。
「私としては、お兄さまとの婚約は魅力的な提案でしたわ」
「⋯⋯?」
振り返ると、そこには正装した清香が立っていた。
漆黒の髪は艶やかに結い上げられ、赤い絹糸で編まれた桜の花の簪が光を受けて揺れている。鮮やかな薄紅色の着物には、白い糸で桜の花びらが舞う様子が繊細に刺繍され、小さな身体にもかかわらず、その姿は完成された美と気品に満ちていた。
「私の顔になにかついてますか?」
その翡翠色の瞳は、俺の心の奥底まで見透かすように、静かに俺を見つめている。
五歳とは思えない落ち着きと優雅さで、まるで人形のように完璧だった。
「い、いやぁ⋯⋯なんでもない」
「でも、お母様、その案も検討くださいませ」
その言葉に、俺は衝撃を受けていた。
「な!?」
「私が他家の養女に出たら、お兄様との結婚も可能ですわ。でも、その間、お兄さまに会えないのは悲しいです」
「ほ、本気か?」
「本気ですわ。でも……待つこともやぶさかではありません。愛は時間とともに深まると言いますし」
清香の翡翠色の瞳に決意の色が浮かぶ。
(いやいやいや、やっぱりこの世界の倫理観、どうなってんだ!?)
「お兄さまが記憶を混乱させているのに、変なことを吹き込んではダメよ」
雪路が厳しい口調で叱った。
「すみません、お母さま」
清香は小さく頭を下げた。
しかし、その目は俺から離れない。
俺は言葉を失った。
前の曉人が妹と結婚したがっていたこと、そして清香自身もそれを望んでいるという現実——そこにはこの世界特有の価値観が垣間見える。
「清香、なぜ正装しているの?」
雪路が不思議そうに尋ねた。
「お嬢様方に、ぜひご挨拶したいと思いまして、将来のお義姉さまになるかもしれませんので」
清香は淑やかに答えた。
本当に五歳なのか、俺が施設の頃にいた子どもたちとは別格の知能の高さを感じる。
雪路はため息をついた。
「誰に似たのか、仕方ない子ね。でも、お兄さまの邪魔をしてはダメよ」
「はい、お母さま」
清香は俺の方へ一歩近づき、小さな声で言った。
「お兄さま、どうか良いお相手を見つけてくださいね」
その言葉には、単なる子供の甘えとは思えない重い感情が込められていた。