第一章 異世界のゲーム ③
「⋯⋯」
「今一度問う——おまえは誰だ?」
言葉の合間に、見えない刃が潜んでいた。《《おまえは——孫ではない》》、と。
文學の目が、俺を見据え離さない。
文學の視線が、俺を貫く。
その瞬間。背後の空気が、揺らいだ。
(——!?)
何かが、潜んでいる。見えない。だが、確実に、この部屋に、いる。
首筋に熱い吐息——ハァ、ハァ、ハァ。荒い息遣いが耳元で反響し、獣臭い匂いが鼻腔を満たす。土と血と腐葉土が混ざったような、生き物の匂い。
右肩に鋭い視線。左脇腹に冷たい鼻先。足首にザラついた舌——ぬるりとした感触が素肌を這い上がる。頭上で響く羽ばたき音。背中を爪が這う。脊椎を一つずつ数えるように。
そして、俺の顔を、無数の瞳が見つめている。
虎の黄金の瞳が額を、龍の縦長の瞳が右頬を、鷹の琥珀の瞳が左頬を、蛇のガラス玉のような瞳が顎を、狼の氷の瞳が唇を。
上から、下から、前から、後ろから、右から、左から——あらゆる角度から、俺という獲物を観察している。どこから食えば旨いか。どこを噛めば致命傷か。どこを裂けば動けなくなるか。
皮膚が総毛立った。全身の毛穴が一斉に開き、冷や汗が噴き出す。
息が吸えない。喉が締め上げられ、心臓が暴れる。
足が動かない。足首に何かが巻きついている。冷たい。ぬるぬるする。締め付けてくる。蛇が、蛸が、烏賊が、逃がさない、と。
(逃げろ!)
脳が叫ぶ。
だが、身体が動かない。これは——金縛りなんかじゃない。
値踏み——いや、違う。これは解体だ。生きたまま、俺は解体されている。
(この場から逃げたい!)
文學の目が、細く笑った。
その瞬間、獣たちの気配がふっと消えた。吐息も、爪も、牙も、羽ばたきも——すべて。まるで初めから何もなかったかのように。
ただ——首筋に残る生温かい感触が、現実と幻覚の境界線を曖昧にしていた。
「くッ」
「どうした?」
「な、なんでもありません」
獣は消えた。だが、この老人の視線は、まだ俺を貫いたままだ。
(まずい)
掌が、湿る。シャツの背中に、冷たい汗が張り付いていく。
曉人という仮面が、音を立てて剥がれ落ちていく。
全てを打ち明けるか? いや——危険すぎる。
中途半端な嘘で誤魔化すか? だめだ——この老人には通じない。
(俺は——何者だ?)
転生者か? それとも、記憶が混ざっただけの曉人か?
自分でも、わからない。
(だったら——わからないことを、武器にするしかない)
記憶喪失——その仮面を、もう一度、はめ直せ。
息を整えろ。鼻から吸う。ゆっくりと——だが、震えが止まらない。
もう一度。
(興味を持たせつつ、核心は霧の中に——)
文學の視線が、じっとこちらを睨めている。
獲物が動くのを待つ蜘蛛のように。
喉の奥で唾を飲み込む音が、やけに大きく響いた。
「——お祖父さまは、なぜそう思われるのですか?」
文學の口角が、ゆっくりと上がった。
老いた顔の皺が、峡谷のように深く刻まれる。
「曉人は小さい頃から愚鈍だった」
俺の胸が締め付けられた。
「自分の名前を覚えるのにも三年かかり」
呼吸が浅くなる。
「三歩歩けば用事を忘れ」
目の前が昏くなってくる。
「弓を引かせれば隣の木に矢を射る」
言葉が、一つ一つ。
釘のように、打ち込まれる。
「そんな孫だからな」
(——曉人は)
望まれて、いなかった——のか。
胸の奥で、何かが軋んだ。
記憶の断片が、勝手に蘇ってくる。
施設の冷たいリノリウムの床。
職員の「あの子たちの親は来ないよ」と囁く声。
同じだ。曉人も——。
先程の雪路の柔らかい手のひらが、職員の義務的な掌に変わっていく。清香の体温が、マニュアル通りの優しさの温度に下がっていく。
(おまえも、孤独だった、のか)
「——曉人?」
文學の声が、現実に引き戻す。
「生まれたときから線が細く。泣き声も弱々しく、母親の乳も十分に飲めなかった」
文學の声は淡々としている。
「学校での成績は下から数えた方が早い。剣術の腕前も同様。跡取りとしては失格だった。正直、清香とお前は生まれる性別を間違えたと言わざるをえない」
言葉が一つ一つが錘のようにのしかかってくる。
家族だからこそできる、容赦のない解体作業。
(俺が、《《経験したことのない愛情表現だ》》)
奥歯が噛み合う。顎に力が入る。
そして、喉の奥から乾いた笑いが漏れた。
(ああ、これが——家族というものなのか)
「失礼ですが、あまりの言いようです」
「くくく、そこで笑うか」
「お祖父さまなりの不器用な愛情を感じましたので」
文學の目が、一瞬だけ見開いた。
次の瞬間、老人の喉から太い笑い声が転がり出る。背筋が弓なりに反り、肩が大きく揺れた。手のひらを、太ももに打ち据えてバンバンと叩く音が響く。
「これは一興」
「⋯⋯」
「先ほど、滔々とワシに意見したかと思うと、今度は愛情とな? これはモノノ怪か妖魔の類に魂を乗っ取られたか?」
「⋯⋯」
頬の筋肉が引きつろうとするのを、必死に押さえ込む。
老人は居住まいを正した。
「さぁ、ワシはおまえが知りたかったであろう、おまえ自身のことを答えてやったぞ」
文學の目が、三日月のように細まる。
まるで盤上で駒を追い詰めた棋士のように。
(確かに、俺が知りたかった俺のことだ。それをわかっていながら、説明してくれたんだ。そして、いま、この状況を、この老人は——楽しんでいる?)
心臓が喉元まで跳ね上がってきそうになる。
今さら愚鈍な孫を演じても遅い。
再び、思考が高速回転する——すべてを打ち明ける? リスクが高すぎる。
部分的な真実で煙に巻くか? どうやって? 転生者という核心部だけは絶対に隠すのは絶対条件だ。
鼻から息を吸う。
肺に空気を溜める。
「お見通しのようですね。確かに私はあなたの孫の記憶とは違う記憶を持っていますが、モノノ怪や妖魔の類ではないことは誓います」
文學の視線が、レンズのように焦点を絞る。
空気が止まった。
秒針の音すら聞こえない静寂。
やがて、片方の眉が持ち上がり、口元の皺が深くなるが、その意味は読み取れない。
「ならば、西の国に伝わるという精神侵食の魔法か? 敵国の術者が我が家の跡取りを乗っ取った、というわけかな?」
魔法——その単語が鼓膜を震わせた瞬間、目が勝手に見開く。
(本当に魔法が? 本当に異世界転生? 俺は?)
文學の目が、鋭く光った。
「ふむ、これは、図星というよりも、魔法の存在は知らなんだという類の顔じゃな」
視線が逸れる。首が勝手に動いてしまった。
しくじったと思っても遅かった。
老人が確信めいた乾いた笑いをこぼしている。
「⋯⋯」
情報が足りない。焦りが胃袋を掴んで揺さぶる。
だが、この老練な相手に隙を見せてはいけない——。
冷静に。感情を制御する。
だが、くそ、子供の体が言うことを聞かない。汗が止まらない——心臓が跳ねる。
「沈黙していても、おぬしの表情は雄弁に語っておるぞ」
文學の声が、部屋の空気を震わせる。
「驚きと混乱——そして恐怖。お前は西の国どころか、魔法の存在すら知らないようじゃな?」
西の国——あえて伏せている。情報を小出しにする駆け引き。
胸の奥で、怒りが燻る。と同時に、好敵手に出会ったような——奇妙な高揚感が湧き上がってくる。
落ち着け。心臓よ、脳にだけ血を送れ——。
感情を押し込める。
データを分析するときのように、冷静に、客観的に。施設でも、学校でも、社会でも、イジメの標的にされないように心の動きを隠してきた。
だが、この子供の身体は裏切る。
心臓が暴れ馬のように跳ねる。呼吸が浅く、速くなる。
このままでは一方的に探られて終わる。対等な立場——いや、少しでも有利な状況。こっちから仕掛けるしかない——。
体を前に倒す。
「西の国とやらは⋯⋯敵国なのですか?」
文學の鼻から、短く息が漏れた。
「同じ手を二度使うのは愚策ぞ」
先ほどの質問返しは、もう通じない。
老人の瞳に、懸念と——奇妙な好奇心が入り混じる。
まるで稀少な昆虫を観察する博物学者のような目つきだ。
ストレートな嘘は通じない。ならば、核心を伝えながらも、それを伝えられない旨を——。
「真実は語れども、真相は消して霧の向こうで見えません。手を伸ばせば掴めそうで、永遠に届かぬものかもしれません」
言葉を紡ぎながら、文學の目を見る——。
嘘ではない。
俺は世界を説明できても、証明する術はどこにもないのだから。
老人の掌が、ゆっくりと口元を覆う。
肩が小刻みに揺れている。
「なるほど、なるほど。詩人の魂を宿したか」
からかわれている? それとも本当に面白がっている? くそ、この爺さんの考えが読めない——。
文學の瞼が狭まる。
老人の背後から、また、あの気配が強く滲み出してくる。
無数の獣たちが俺の周囲を取り囲み、鼻先を顔に近づけてくる。生温かい吐息が頬を撫でた。獣臭い匂いが鼻腔を満たす。
無数の獣の目が、色々に俺を分析していく。
「嘘ではない、か」
「⋯⋯」
「だが、ワシに隠し事をするのは得策ではないぞ」
空気が重くなる。
すべてお見通しだと、その視線が告げている。
この爺さん、ただ者じゃない。正面からぶつかっても勝ち目はない。
なら、どうする? 観察した限り、退屈している。知的な刺激と、人を試すこと、支配することに喜びを感じるタイプ——それならば——。
背筋を一本の糸で吊られたように伸ばす。
俺の周りの獣たちの気配を無視する。
「お祖父さま——」
俺は喉を通る声が震えないように、両足を踏ん張った。
「私と——」
言葉を選ぶ。
取引、では、通じない。
賭けを、しましょう。
いや、それも、違う——俺に賭けたくなるものを提示していない。
じゃあ、どうする。
俺は唇が張り付く、その唇を無理やり開く。
「お爺さま、私と人生を賭けたゲームをしましょう」
乗るか? それとも一蹴されるか? 神頼みならぬ爺頼み——ちくしょう——。
少なくとも興味の対象となり続けることが、関係を維持する糸になる。
悲しいほど細い糸だが——。
文學の眉間に、一瞬だけ皺が寄った。
「⋯⋯」
「⋯⋯」
沈黙。
文學は動かない。
表情も、変わらない。
(駄目か?)
目を、逸らしたら——負けだ。本能が、叫んでいる。
視線を、合わせ続ける。
時間が、止まったように、感じる。
一秒が——。
一分に。
一分が——。
一時間に。
その間、老人が探るように無数の動物の視線で、俺を見極めようとする。
心臓の音が、耳の奥で響く。ドクン。ドクン。胸に爪を立てて毟りたくなる。
どれくらい時間が経っただろう。
文學の顔は動かない。だが、口元がわずかに動いたように見えた。
そして、皺が、広がった。
笑って——いる?
「ゲームとな——相わかった」
今までもっとも長い沈黙の後、老人は俺が望んだ答えを口にした。
膝を叩く音が、室内に響く。
老人が姿勢を正し、尋ねてくる。
「どのような作法で望む?」
その眼差しには、刀剣のような鋭さと幼子のような好奇心が混在していた。
「お祖父さまは、私を立派な跡取りに育ててくださいませ。私にこの世界で生きる知識を与えてください。その間に、お祖父さまは私の正体を見破るのです」
時間稼ぎと情報収集。
正体を見破られる前に、生き抜く術を身につける——。
文學の舌先が、唇をゆっくりと湿らせる。
「興味深い。何時から我が孫はこのような機知を備えたのか」
皮肉を滲ませつつも、目が輝いている。
文學の体が、座に深く沈む。濁りなき瞳が煌めいた。
「では、若人に一つ忠告だ。『ゲーム』なる言葉、ワシは初耳だったぞ。今後は不用意な発言を慎め。言霊は諸刃の剣、沈黙こそ叡智を司る。肝に命じよ」
目が三日月のように細まる。
くそ、こっちの世界の言葉じゃなかった——知らないくせに話を合わせてくる——この爺さんのほうが妖怪の類じゃないか——。
完敗だ。
「⋯⋯はい」
小さく頷く。
「では、問おう。お前の真の名は何と言う?」
「曉人」
老人の顔に刻まれた皺が、一層深く刻まれる。
「おまえは——白桜蔭曉人じゃ、わかったな?」
「はい」
文學がゆっくり立ち上がる。
「約束は果たす——お前が何者であれ、白桜蔭家の跡取りとしての教育を施そう」
その言葉には、鉄のような重みがあった。
胸の奥で、安堵と不安が絡み合う。
だが、心が読まれないように頭を下げた。
本当に信頼していいのか?
「ありがとうございます、お祖父さま」
老人の片眉が上がったが、何も言わずに扉へ向かう。
「どうしてって顔を必死に隠しておるな」
「⋯⋯」
「面白い会話だった褒美に一つ教えてやろう。我が白桜蔭家の家訓は、門戸を閉じるな、じゃからな」
「休め。傷が癒え次第、始める——」
文學が扉に手をかける。
「まずは、嫁探しだ」
(今なんて?)
扉が、閉まる。
(嫁——、嫁っていったか?)
胸の奥で、何かが引き締まっていく。
安堵と、新たな緊張が混ざり合う。
(嫁探し? 俺、十歳だぞ!)
だが、文學は——。
もう、いない。
扉が開く音と同時に、清香と雪路の足音が駆け寄ってくる。
「曉人、大丈夫? お父さまは何を?」
雪路の手のひらが、俺の額に触れる。ひんやりとした感触。
「お兄さま、怒られましたか?」
清香の小さな手が、俺の腕を握る。温かい。
——職員の手とは違う。
「ふたりとも心配をかけて、すみません。僕は大丈夫でしたよ」
「よかったわ」
口角を上げる。
「それに、お祖父さまはとても優しかったよ」
二人には真実を告げられない。
文學との間に生まれた奇妙な共犯関係は、まだ誰にも明かせない。
雪路の肩が、ふっと下がった。
「お父さまが優しいなんて、珍しいわ。あの人はいつも厳しいだけだから」
彼女の言葉に、老人の複雑な性格が見え隠れする。
瞼が重い。
「少し眠りたい⋯⋯です」
全身から、一気に力が抜けていく。
清香が毛布の端を引っ張り、体に掛け直す。そして、自分も布団に滑り込んでくる。
子どもの体温が、じんわりと伝わってきた。
瞼を閉じながら、思考が浮かぶ。
文學の爺さんは、俺の正体におおよそのあたりをつけている——興味がなくなる前に、この世界のことを知らなければならない——。
互いに互いを利用し合う関係。
だがそれは、この世界で生き抜くために必要な関係なのかもしれない。
そして、俺は今日から白桜蔭曉人として生きる。
門戸を閉じるな——。
確かに俺は、この扉からのうのうと入った闖入者だ。だが、この老人は、それを承知で招き入れた。




