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第二章 結ばれし師弟、始まりし盟約 ⑥


 紅葉は少女の名を知った。

「曉人と申します」

「男の子?」

「不確かな存在です」

 曉人は困ったようにそう答えた。

 その表情には、自分でも戸惑っているような複雑さが浮かんでいる。

 紅葉は改めて目の前の人物を観察した。

 服装は確かに少年のものだが、胸元には僅かな膨らみが見える。身長は百四十センチに満たず、平均的な成長を考えれば十二歳程度に思えるが、血色の良い肌や骨格の華奢さから判断すると十歳前後かもしれない。

(しかし、この理知的な発言⋯⋯)

 曉人の瞳には年齢に不相応な洞察力が宿っている。

 紅葉を見透かすような視線は、現役の教授を凌駕するものがあった。

「フーリエ変換を使えば、一般解を構成するという、とても美しい問題でした」

 曉人が唐突に口にした言葉に、紅葉は息を呑んだ。

「君が?」

「やっぱり先生があの問題を出題されたんですね」

 曉人の声には純粋な賞賛が込められている。

 その表情は、優れた数学的美しさに触れた者が持つ特有の満足感を湛えていた。

「見事な解答だった」

 紅葉は素直に認めた。

 五十五年の学者人生で培った審美眼が、あの解答の価値を正確に評価していた。

「先生の専攻はどちらだったのでしょうか?」

「有機化学⋯⋯特に分子構造の還元反応と合成経路の設計だ」

 紅葉の声には自嘲が混じる。

 かつての栄光が、今の境遇と対比されて一層惨めに感じられた。

「それでしたら⋯⋯」

 曉人は懐から小さな包みを取り出した。

「拙いものですが、これをご覧いただけますか?」

 包みを開くと、淡いピンク色の石鹸が現れた。桜の香りが仄かに漂う。

 紅葉は石鹸を手に取るとまず重量を確かめ、次に表面の質感を指で確認した。そして鼻を近づけて香りを分析する。

「苛性ソーダの中和率は適切だな。油脂の配合も悪くないようだが、ただし⋯⋯」

 紅葉の瞳に、久しぶりに学者としての鋭さが戻った。

「グリセリンの含有量をもう少し上げれば保湿効果が向上する。それと、この香料は天然の桜かな。揮発性が高すぎるじゃないだろうか。ベンジルアセテートを微量添加すれば香りの持続性が格段に向上するはずだ」

「⋯⋯」

 曉人が口をあんぐりと開けている。その表情には純粋な驚嘆が浮かんでいた。

 紅葉は内心で苦笑する。自分の知識をひけらかしてしまったのではないかという恥ずかしさと、久しぶりに専門知識を披露できた嬉しさが入り混じっていた。

「うちに来ればもっと良い石鹸の配合を教えてやれるが⋯⋯」

 そこまで言ったところで、紅葉は躊躇した。

(立心学舎のみすぼらしい様子を、この上品な子に見せるのか?)

 菊野と子どもたちの貧しい生活、自分の惨めな境遇——すべてを晒すことになる。口にしてから後悔してしまう。

「いいんですか? 行きます!」

 曉人の即答に、紅葉は面食らった。その声には一切の躊躇がない。

「汚い家だが⋯⋯」

「構いません」

 立心学舎への道のりは、加州の下町を通る。煉瓦造りの大学から徐々に木造の民家が増え、やがて貧困地区特有の雑然とした街並みに変わっていく。

 曉人は黙って歩いていたが、その表情に変化があることを紅葉は見逃さなかった。

(物珍しさがあるのか、いや違う、懐かしさのようなものが浮かんでいる? どうしてだ?)

 孤児院の前に到着すると曉人の足が止まった。

 建物を見上げるその横顔に、紅葉は奇妙な既視感を覚える。

「こういうところは初めてじゃないようだね」

「⋯⋯似ているところを知っています」

 曉人の声は小さく、どこか遠くを見つめるような響きがあった。

(この子もまた、何らかの事情を抱えているのだろうか?)

 紅葉は改めて曉人を観察した。上品な着物、血色の良い肌、丁寧な言葉遣い——どれをとっても裕福な家庭の子どもの特徴だ。しかし、孤児院を見つめるその瞳には、単なる同情を超えた深い理解が宿っている。

「菊野、ただいま」

 扉を開けると、菊野が振り返った。そして曉人の姿を見て、驚きの表情を浮かべる。

「まぁ、可愛いお客様ですわね?」

「曉人と申します。先生にお世話になっております」

 曉人は丁寧に頭を下げた。その所作は完璧で育ちの良さが隠しきれない。

 しかし紅葉は気づいていた。

 曉人の視線が、部屋の隅で眠る痩せた子どもたちに向けられていることを。ここが孤児院であることを説明するまでもなくわかっている。だが、その瞳には憐憫ではなく、深い共感が宿っていることに。

(二律背反⋯⋯この子を見ているとそう感じてしまう)

 紅葉は曉人を観察しながら、心の奥で呟いた。

 上品な佇まいと深い知性、そして孤児院を見つめる瞳に宿る理解——これらは単純に裕福な家庭で育った子どもの特徴だけでは説明がつかない。まるで相反する要素が一人の人間の中に同居しているかのようだった。

「君は以前、こういう環境にいたことがあるのか?」

 思い切って問いかけた。

 曉人は一瞬、目を見開いて驚いた表情を見せる。しかし、すぐに遠くを見つめるような眼差しになった。

「すぐに見抜かれてしまいますね」

「では⋯⋯」

「⋯⋯遠い昔のことです」

 その声には、年齢に似つかわしくない深い諦観が滲んでいる。

 十歳の子どもが口にするには、あまりにも重い響きだった。

(きっと優秀だから、名家に引き取られたのだろう)

 それは確かに僥倖と呼べるものだ。

 生まれ持った才能と知性があったからこそ、貧困から脱することができた。しかし同時に、紅葉の胸には複雑な感情が去来する。立心学舎に暮らす子どもたちを思い浮かべた。栄養不足で痩せこけた身体、それでも懸命に生きようとする意志はある。彼らにも曉人のような知性があったなら、運命は変わっていたのだろうか。

 彼らの多くは潜在能力を完全に発揮することなく人生を終えてしまうのではないだろうか。

「菊野、お茶を」

 紅葉は菊野に声をかけると曉人を地下室に案内した。そこは彼の私室兼実験室として使われている狭い空間だ。

 本棚には化学書が所狭しと並び、簡易的な実験器具が机の上に置かれている。かつての研究室と比べれば貧弱極まりないが、それでも紅葉にとっては最後の砦だった。

「ここが先生の研究室ですか」

「研究室というほど立派なものではないよ。ただの物置だ」

 自嘲気味に答えたが、曉人の反応は予想外だった。

「いえ、とても整理されていて機能的です」

 紅葉は戸棚から小さな石鹸を取り出した。

「これが家で使っている石鹸だ」

 手のひらに乗せられた石鹸は、曉人が持参したものとは明らかに質感が違う。ミルクが配合されているために、なめらかで上品な白さを保っている。素材はシンプルだが、その分、一つ一つの成分が計算し尽くして作ったものだった。

 曉人はさっそく手を濡らし、石鹸を使い始めた。わずかな摩擦で豊かな泡が立ち上がり、きめ細かな泡質に目を見張っている。

「すごい⋯⋯泡立ちが全然違います」

 感嘆の声を上げながら、手のひらで泡の質感を確かめた。

「この石鹸を売るつもりだった自分が恥ずかしいです」

「売るだって?」

 紅葉は眉をひそめた。

「はい。石鹸を量産して、女性向けに販売しようと考えていました」

「君が?」

「一人ではできないので、石鹸作りをする人を探していたのです」

 その発言に紅葉は眉をひそめた。

(つまり私は⋯⋯雇われの職人ということか)

 元大学教授が石鹸工場の作業員になる。

 その図式が頭に浮かんだ瞬間、屈辱的な感情が胸を駆け上がった。掃除夫でさえ屈辱的だったのに、今度は手工業者として使われるというのか。しかも、石鹸など誰でも作れるもので。

「先生の実用性と、僕の石鹸の魅力を掛け合わせたら、きっと女性に人気が出るはずです。売上を折半でどうでしょうか?」

 曉人の瞳には、単純な商売への興味を超えた何かが宿っている。

(折半だと?)

 紅葉は内心で苦笑した。

(まあ、悪い条件ではないが⋯⋯この子は私を対等な立場として扱うつもりなのか。それとも単なる慈善事業のつもりか)

 五十五年の人生で培った猜疑心が頭をもたげる。

 この美しい少年——いや少女が、本当に元教授の知識を必要としているのか、それとも哀れな老人への同情なのか判断がつかなくなった。

「私のような落ちぶれた人間と組んで、君に何のメリットがある?」

 声に棘が混じった。

 自嘲と警戒心が入り混じった、ひねくれた問いかけだった。

(どうせ、最初だけ利用されて、軌道に乗ったら用済みとして切り捨てられるのだろう)

 長年の挫折と屈辱が素直に希望を抱くことを拒んでいた。たとえ好条件を提示されても、心の奥底では罠があるに違いないと疑ってしまう。

 紅葉は立ち上がり、窓の外を見つめた。

「君のような上流階級の子どもが、なぜ私のような掃除夫と商売をする必要がある? もっと良い相手がいくらでもいるだろう」

 その言葉には、自分の境遇への苦々しさと、曉人の回答次第では関係を一刀両断に断つ意志を込めた。

「先生以上の人はいません」

「君は最初からそう言っていたがどうしてだ?」

「僕にはわかるからです」

 曉人は一呼吸置いてから続けた。

「それが確信に変わったのは、この石鹸の完成度を見たからです。限られた材料と設備で、これほど高品質なものを作れる技術者は他にいないはずです」

 紅葉は黙って聞いていた。

 曉人のお世辞ではない真摯な評価だった。そして、驚くことを言い出した。

「でも、僕が先生にお願いしたいのは石鹸作りなんかじゃないのです」

「なんだって?」

「僕のアドバイザーになっていただきたいのです」

「アドバイザーだって? なんだ、それは?」

 少年はしまったみたいな表情をして、言葉を探り出した。

「⋯⋯軍師みたいな立場です。先生の豊富な知識と経験、そして冷静な判断力があれば、きっと僕の足りない部分を補ってくださるはずです。石鹸事業は、その第一歩に過ぎません」

(この子は⋯⋯一体何を考えているのだ)

 紅葉は困惑した。

 十歳の子どもが軍師を求めるとは、どういうことなのか。

「君は⋯⋯何をしようというのだ?」

「この加州を⋯⋯ひいては皇國を救いたいんです」

 曉人の真剣な眼差しに、紅葉は息を呑んだ。

「なんだって?」

「三十五歳で死ぬこの国の歪みを正し、真に豊かな国にしたい。先生の知識があれば、きっと実現できると信じています」

「本気で言っているのか?」

「はい」

 曉人の確信に満ちた声に、紅葉は久しぶりに心の奥で何かが動くのを感じた。


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