第一章 異世界のゲーム ②
意識が、ゆっくりと浮上してくる。
二度目だ。また——目覚める。
(どれくらい、眠っていた?)
身体が重い。瞼が開かない。
無理に開けようとして——少しずつ、光が滲み込んでくる。
最初に見えたのは、橙色。窓から差し込む光——夕陽か?
畳の目が、金色に光っている。一つ、一つが、はっきりと見える。
(左目だけで、見ている)
右は——やはり、暗闇だ。
(くそッ、夢じゃない!)
俺は歯軋りをすると、小さな手が俺の手を包んでいた。
「⋯⋯お兄さま、大丈夫ですか?」
清香はずっとそばにいてくれたのだろう。
「ああ⋯⋯大丈夫だ」
喉の奥から声が漏れる——細く、高い。
喉に触れると、喉仏の突起がない。
俺は本当に十歳児になってしまった。
青褪める俺を清香が覗き込んでくる。
「本当に? 大丈夫なの?」
「あぁ⋯⋯ほ、本当だ」
声が空気の中をまっすぐ澄んで通り抜けていく。自分の声なのに、まるで他人が話しているような違和感が耳に残った。
頭が痛い。鼻の奥で、ツンとした痛みが脈打っている。
眠る前は——もっとひどかった。
頭蓋の内側を引っ掻き回されるような混乱。だが、今は、少し、マシだ。
記憶が曖昧だ。
断片が、いくつか浮かんでくる。
廊下——ホテルの?
悲鳴——女性の。
何か——巨大な、おぞましい——。
(思い出せない)
霧の中を手探りするように、記憶を辿ろうとする。
だが、掴めそうで掴めない。
指の間から、記憶の砂のように零れ落ちていく。
(何があった? リムゾムは——)
その名前を思い出した瞬間、胸が締め付けられた。
右目の視界は闇に沈んだまま。左目だけで見る世界は、奥行きを失って平らだ。
(それに⋯⋯この世界のことも俺は何も知らない)
息を吸う。吐く。もう一度吸う。心臓の鼓動が耳の奥で響く。
一拍、また一拍。その音に合わせて、思考を整理していく。
——受け入れろ。
目を背けたところで、事実は変わらない。
この手のひらのサイズ、低くなった視線、失われた右目——これが俺の現実だ。早く順応しなければ——。
清香が長い睫毛を何度も瞬きしながら見てくる。
「大丈夫。大丈夫だ」
俺は力こぶを作ってみせた——もちろん、子供の手にはそんなものはできないが。
ボロを出せば、この「曉人」という器すら失うことになる。
前世の記憶を持ったまま、子供の体に——そう考える以外に、この状況を説明する方法はなかった。
雪路も身を乗り出し、細い指が俺の頬に触れる。
「もう一度、先生を呼びましょうか?」
「あのあと、日出吉先生に診ていただきましたが、身体の異常はなかったそうです。お兄さまは記憶の混乱も一時的なものだろうと仰っていました」
清香の声が横から割り込む。
「もし、体調が悪かったらすぐに言うのよ」
「はい」
二人の視線が、じっと俺の顔に注がれている。
俺は彼女たちの瞳を順に見つめ返した。雪路の目。清香の目。その奥に、疑念の影はないか——必死に探る。眉の動き、瞬きの間隔、唇の端のわずかな緊張。どんな小さなサインも見逃すまいと、視線を這わせる。
だが、そこにあるのは心配と安堵だけだった。
息が、少しだけ楽になると、同時に——反対の感情が渦を巻いた。
「ありがとう、清香」
清香の手——小さくて、温かい。この子は、俺を信じている。「お兄さま」と呼んで、疑わない。
だが——俺は、本物じゃない。
胃の底に、重いものが沈む。
この身体は——曉人のものだ。本物の——曉人の。
俺は、乗っ取った——のか? それとも——。
(分からない)
ただ——。
簒奪者——その言葉が、頭の中で響く。はっきりと。
俺は——この子の兄を、奪った。
(ごめん。清香)
俺は清香の手を握った。
「お兄さま⋯⋯何か思い出しましたか?」
彼女の期待が込められた言葉に、俺は一瞬の沈黙を置いた。
「完全には⋯⋯だけど、少しずつ戻ってきているよ」
舌の上で言葉が滑る。嘘をつく感触は、砂を噛むように不快だった。
「無理をしなくてもいいのよ」
雪路はベッドの縁に腰を下ろし、俺の額に手を伸ばした。
「大丈夫です⋯⋯心配をかけました」
「熱は下がったわね。でも、まだ無理をしないで」
指先が額に触れる。ひんやりとした感触のあとに、じんわりと温もりが広がる。心臓が一拍、大きく跳ねた。
母親——その言葉すら、俺には教科書の中の概念でしかなかった。
施設の狭い部屋。共同の食堂。
誰かがこんな風に、理由もなく心配してくれたことなどなかった。
目頭の裏側がチリチリとする。これが、家族——くすぐったいような、気恥ずかしいような、それでいて少しだけ、胸が温かくなるような感覚。
それを曉人本人から奪った。
元の曉人はどこへ? 死んだ? 消えた? 混ざった?
何もわからない。
はっきりしていることは——一つ。
俺は簒奪者だ。
簒奪者だからこそ、転生者だという秘密を知られてはいけない。
雪路がそんな俺の頬を両手で包みこんだ。
「曉人、お祖父さまが会いたがっていらっしゃるわ」
雪路の声のトーンが変わった。
硬質な響きが、言葉の端に引っかかる。
「⋯⋯お祖父さま?」
「ええ、文學お祖父さまよ。あなたが目を覚ましたと聞いて、すぐに会いたいって……」
文學——名前を口にした瞬間。背筋を、冷たいものが走り抜けた。
(——?)
懐かしい。
(いや、違う)
懐かしい、はずがない。俺はこの人を知らない。
それなのに——。
緊張。羨望。いや、もっと深い感情だ——これは、畏怖に近い。
だが、どこか、温かいような。
(この感情は——)
胸の奥で、何かが蠢いている。自分のものではない——感情。
曉人の、記憶?
水面に波紋が広がるように、断片が浮かび上がってくる。
そして——。
(怖かった)
曉人は——この祖父を、怖がっていた。
「お祖父様が? 俺に?」
俺が尋ねると——。
雪路の目が——泳いだ。
(——?)
視線が定まらない。
俺を見ているようで、見ていない。
手が——動いた。指先が着物の袖を、ぎゅっと握りしめている。
(何か——不安があるのか?)
だが、何を?
「会うのを延期する?」
「いえ⋯⋯会いたいです」
俺はそう答えた。
情報が足りない。
この世界のルールを理解するには、できるだけ多くのピースを集める必要がある。
「わかったわ」
しばらくして、襖が開いた。
入ってきた老人を見た瞬間、部屋の空気が変わった。
畳の上を、大きな気配が滑るように近づいてくる。
足袋、和服、歩き方だけでも挙措が美しい。
「⋯⋯」
本能なのか、背筋に冷や汗が垂れた。
俺は顔を上げた。
痩せた体躯に、獲物を狙う猛禽のような鋭い目。皺の刻まれた顔の中で、その瞳だけが異様なまでに若々しく、研ぎ澄まされている。近寄るだけで切られそうな、そんな気配を纏っていた。
「曉人」
低く、静かな錆び枯れた声。感情という感情が、まるで一つずつ削ぎ落とされたかのように何も混じっていない。
(この声——)
前世で、聞いたことがある。
上司の、声だ。
会議室で、数字を読み上げる。
「このプロジェクトは失敗だ。君は分析が甘い」
どんな時も——同じトーン。何を考えているのか、分からない。次に何を言われるのか、予測できない。
(怖かった)
すべてを見透かされているような。そして今も——。
(同じか、それ以上だ)
背筋を、冷たいものが這い上がる。
「⋯⋯」
老人はゆっくりとベッド脇の椅子に腰を下ろした。
背筋が一本の若竹のように真っ直ぐだ。
喉が閉じていくような錯覚があった。
「⋯⋯お祖父さま」
絞り出すように、一言言うのがやっとだった。
「落馬したそうだな。《《馬にも》》なめられたようだな」
言葉の端に刺がある。
心配の色は微塵もない。その目に映っているのは——軽蔑。
「申し訳ありません」
俺が頭を下げると、文學は鼻を鳴らした。
「何を謝る。男は結果だけだ。次は落ちなければいい」
短い言葉。
だが、その奥に滲んでいるのは期待ではなく、諦めのように感じられた。
「⋯⋯はい」
老人の視線が、じっと俺を観察している。
値踏みするように、品定めするように。
部屋が静まり返る。
時計の秒針が進む音だけが、やけに大きく響く。
少し離れた場所で、雪路と清香が立っている。雪路の肩が小刻みに震えている。「お祖父さまがすぐに会いたい」と言ったあれは、母の優しい嘘だ——俺を見守る雪路の表情を見て、確信した。
「⋯⋯」
文學は俺に会いたがってなどいなかった。
彼女が無理やり引き合わせたのだ。
(なぜだ?)
理由はわからない。
家族の絆を繋ぎ止めるため? それとも——別の何か?
(もしかして、俺に違和感を覚えられたか!?)
背筋が凍った。
目の前の老人から放たれる気配は、尋常ではなかった。
この人物との関係が、俺の生死を左右する——その直感が、体の奥底が警告を発している。
(状況を読め。データを集めろ)
この老人を味方につければ、生存確率は跳ね上がるはずだ。
俺は老人を——観察し始めた。
データを集める。分析する。パターンを見つける。
視線——高速で走査。
《手》
右手——人差し指、小指。黒い染み——インク。擦れ方——均一。深い。
→毎日、数時間の筆記。
《着物》
質素——第一印象。だが、生地の織り——密度が高い。光の反射——絹。上質。
→見栄を張らない。が、質は妥協しない。
《姿勢》
背筋——直線。七十代でこの姿勢?
→幼少期からの上流階級の訓練。躾。
《視線》
高さ——わずかに上から。無意識の癖——長く、人を見下ろしてきた。
→権力者。
《呼吸》
ゆっくり——規則的。武術の——呼吸法。
→身体訓練の経験。
情報を繋げる。
権力者。実利主義。武術。執筆。
そして、今も、何かに関与している。
前世で見た——このタイプ。上司。取引先。競合の役員。何人も、いた。
だが、この老人は——それらすべてを兼ね備えている。
共通点。
勝つことだけを考える。目的のために——手段を選ばない。感情を——表に出さない。
そして、常に相手を分析している。
(まずい)
老人の目が、俺を、見ている。
ただ見ているのではない——分析している。
俺が老人を観察している間に——老人も——俺を観察していた。
(何を——見抜かれた?)
背筋に冷たいものが走る。
心臓が——早く打ち始める。
(落ち着け)
深呼吸——俺は背筋を伸ばした。丹田に力を込める。
(気を抜くな。一瞬の隙も——見せるな)
この老人は——危険だ。
もし、俺が、元の曉人ではないと知られたらどうなる?
殺される——かもしれない。
追い出される——かもしれない。
少なくとも、この家に、いられなくなる。
「⋯⋯」
「⋯⋯」
沈黙が続く。
文學の視線が、じっと俺を見つめている。
(何か、言わなければ)
だが、何を?
記憶喪失——それは、もう告げた。雪路と清香には、通じた。
だが——この老人には?
(通じるのか?)
視線が、鋭い。獲物を狙う——猛禽のような。
(嘘は——見抜かれる)
だったら——覚悟を決めた。
「私は——」
喉が渇く。唾を飲み込む。
「記憶が、曖昧です」
雪路の息を呑む音が聞こえた。
「お祖父さまのことも——」
言葉を続ける。もう、止まれない。
「正直に申しますと——覚えておりません」
「曉人!」
雪路の声が裏返った。
「何を言っているの? お祖父さまを忘れるなんて——」
彼女が立ち上がろうとした、その時。
老人が——手を上げた。
静かに。だが、絶対的な動作。
雪路が、固まる。
「——続けろ」
低い声で、感情が、読めない。
「はい」
喉が渇く。唾を飲み込む。
氷のナイフが喉元に突きつけられているような緊張感がある。
「お祖父さま、あなたは⋯⋯政治に携わる方でしょう。そして今は何か執筆もされている。恐らく、日記か回顧録。右手の小指と人差し指の擦れ具合から察するに、毎日の習慣なのでしょう」
老人の、表情が、変わった。初めて——。
目が、細くなる。くすんだ翡翠色の瞳。その奥で、何かが、光った。
(興味を持ったか? それとも——疑っている? いや、その両方か?)
文學はシニカルに笑った。
俺が老人を探っていることを、悟られた。
「ほぅ、慧眼は福を招くというが、まさにこのことか」
老人が身を乗り出す。
呼吸が近い。茶葉の渋い香りと、古書の紙と墨が混ざり合った匂いが鼻腔を満たす。
俺は身を乗り出した。
「それだけではありません。あなたはかつて高い地位にあり、多くの人を見下ろす立場にいた。でも今は引退され、この家で静かに余生を送っている。ただ⋯⋯」
一瞬、迷った。
だが、直感が背中を押した。
「完全には手を引いていない。まだ何かに関わっていますね」
文學の目が見開いた。
「武家には昔からこういう格言がある。蛙の子は⋯⋯」
言葉が途切れた。
「いや、違うな⋯⋯」
老人はゆっくりと立ち上がり、雪路と清香の方を向いた。
「雪路、清香、部屋から出なさい」
二人は顔を見合わせたが、すぐに従った。
清香が不安そうに振り返る。俺は小さく頷いた。
襖が閉まった。
静寂。
文學は——動かない。ただ、立ったまま、俺を見下ろしている。
時間が止まったように感じる。
心臓の音が、耳の奥で響く。ドクン。ドクン。
そして——。
老人が、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。背筋は、相変わらず真っ直ぐ。
だが——何かが、変わった。
空気が、重い。
「⋯⋯」
老人が口を開く。
声が、今までと違う。底の見えない、深い——いや、違う。冷たい。まるで、氷の刃のように。
「お前は——何者ぞ?」
その瞬間——。
全身の血が、凍りついた。




