第一章 異世界のゲーム ②
「⋯⋯お兄さま、大丈夫ですか?」
目を覚ますと、清香の小さな手が俺の手を握っていた。日が傾き、部屋の中は夕暮れの柔らかな光に包まれている。
「ああ⋯⋯大丈夫だ」
俺は弱々しく答えた。
頭痛はまだあるが、先ほどの混乱は少し落ち着いている。
(冷静になれ……俺。いくら目を逸らしたくても、これは現実だ。あのモニターの光も、データとにらめっこした仕事部屋も、もうここにはない。この小さな体、知らない家族、失われた右目の視界……これが、俺の新しいリアルなんだ。すぐに受け入れて、適応するしかない……下手にボロを出せば、この『曉人』という少年の居場所すら失いかねないぞ)
前世の記憶を持ったまま子供の体に転生した——そう考えるしかない状況だった。
「あのあと、日出吉先生に診ていただきましたが、身体の異常はなかったそうです。お兄さまは記憶の混乱も一時的なものだろうと仰っていました」
清香は真剣な表情で俺を見つめる。
「ありがとう、清香」
俺は彼女の小さな手を握り返した。
子供特有の温かさが、じんわりと伝わってくる。偽りの兄である俺に、こんなにも真っ直ぐな好意を向けてくれる存在に、心苦しくなる。
(俺は、この子が、大好きな兄の体を乗っ取った……悪者ってことだよな……)
罪悪感と後ろめたさに胸の奥が締め付けられた。
「お兄さま⋯⋯何か思い出しましたか?」
彼女の問いかけに、俺は慎重に言葉を選んだ。
「完全には⋯⋯だけど、少しずつ戻ってきているよ」
嘘をつくのは気が引けたが、今は自分の立場を守るためには必要なことだった。
扉が開き、雪路が再び現れた。彼女の美しい顔は心配で曇っている。
「よかった、目を覚ましたのね」
そう言って、彼女は俺のベッドの横に座った。その手が俺の額に触れる。
「大丈夫です⋯⋯心配をかけました」
「熱は下がったわね。でも、まだ無理をしないで」
雪路の指先が額に触れる。
柔らかく、温かい——その優しい感触に、心臓が少し跳ねた。
母親という存在を知らずに育った俺にとって、それは未知の感覚だった。
くすぐったいような、照れるような、そしてほんの少し、嬉しいような感覚がある。こんな風に真っ直ぐな愛情を向けられることに、まだ慣れていなかった。
(こんな風に誰かに心配されたことなんて、あっただろうか……)
施設育ちの俺には未知の体験の連続だった。
「曉人、お祖父さまが会いたがっていらっしゃるわ」
雪路の声音が少し硬い。何かを言い淀んでいるような、そんな雰囲気だ。
「お祖父さま?」
「ええ、文學お祖父さまよ。あなたが目を覚ましたと聞いて、すぐに会いたいと……」
文學——その名前を聞いて、俺は奇妙な感覚に襲われた。
なぜか懐かしさと同時に、畏怖の念も感じる。この感情はきっと曉人自身の記憶とリンクしているのだろう。
雪路はどこか不安げな表情で俺を見ている。
祖父に会わせることに、何か懸念があるのだろうか?
「⋯⋯会いたいです」
俺はそう答えた。
この世界のことをもっと知るためには、できるだけ多くの情報を集める必要がある。
少しして、扉が開き、一人の老人が入ってきた。
痩せこけた体に大鷲を連想させる鋭い目。その眼差しは若々しく、知性に満ちていた。まるで歴史上の偉人のような、近寄りがたい威圧感を放っている。
「曉人」
老人は静かに俺の名前を呼び、ベッドの側に置かれた椅子に腰かけた。
部屋の空気がピリッと引き締まるのを感じた。
「お祖父さま」
俺は自然とそう呼んでいた。
「落馬したそうだな。《《馬にも》》なめられたようだな」
老人——文學の口調には皮肉が混じっていた。
その目には心配よりも、軽蔑の色が見える。
「申し訳ありません」
俺は謝った。すると文學は鼻を鳴らした。
「何を謝る。男は結果だけだ。次は落ちなければいい」
簡潔な言葉だったが、その中に期待よりも諦めが色濃く混じっていた。
「⋯⋯はい」
俺がそう答えると、文學はしばらく俺を観察するように見つめていた。
部屋に流れる静寂が重い。雪路は少し離れたところで緊張した面持ちで立っている。
(お爺さまが、俺に会いたがっていたというのは、お母さまの優しい嘘だな⋯⋯)
不安そうな雪路の表情を見て確信した。
「⋯⋯」
恐らく彼女が無理矢理にセッティングしたのだろう。
家族の絆を取り持つためか、どうかはわからないが、目の前の老人が纏う気配は尋常でなかった。
この人物との関係は、今後の俺の運命を左右する——そう本能が告げていた。
(この状況、お母さまの期待に応えるだけじゃない。この爺さんを味方につけられれば、この世界での生存確率が格段に上がるはずだ。そのためにはまず、相手を知ることからだ)
どうやって、老人との会話を切り開いていくか。
俺は祖父を観察する。
データサイエンティストとして生きてきた俺の腕の見せどころだ。
(右手の指にインクの染み……日常的に筆を使っている証拠だ。服装は質素だが上質……見栄と実利を両立させるタイプか? この手のタイプは司令官タイプで勝ちにこだわる人間が多い。背筋が伸び、視線が高い……長く権力の座にいた人の癖だ。だが、今はどこか隠居の雰囲気もある……)
俺も背筋を伸ばし、丹田に力を込めた。
「私は、記憶が曖昧です。お祖父さまのことも正直に申しますと覚えておりません」
その発言に雪路が目を見開き、驚いた声を上げた。
「曉人! 何を言っているの? お祖父さまを忘れるなんて」
しかし、老人は俺が何か言おうとしているのを感じ取り雪路を手で制した。
「続けろ」
「はい」
俺は続けた。
喉元に氷のナイフを突きつけられているような錯覚さえあった。
「お祖父さま、あなたは⋯⋯政治に携わる方でしょう。そして今は何か執筆もされている。恐らく、日記か回顧録。右手の小指と人差し指の擦れ具合から察するに、毎日の習慣なのでしょう」
文學の目が細まり、くすんだ翡翠の目が興味深そうに輝いた。
「ほぅ、慧眼は福を招くというが、まさにこのことか」
顔を覗き込まれる。
老人の呼吸が近い。茶葉の香りと古書の匂いがする。
「それだけではありません。あなたはかつて高い地位にあり、多くの人を見下ろす立場にいた。でも今は引退され、この家で静かに余生を送っている。ただ⋯⋯」
俺は少し迷ったが、直感に従って続けた。
「完全には手を引いていない。まだ何かに関わっていますね」
文學の目が見開いた。
「武家には昔からこういう格言がある。蛙の子は⋯⋯」
だが言葉を途中で切った。
「いや、違うな⋯⋯」
老人はゆっくりと立ち上がると、雪路と清香の方を振り返った。
「雪路、清香、部屋から出なさい」
二人は驚いた表情を浮かべたが、すぐに従った。清香は不安そうに俺を見たが、俺は小さく頷いて安心させた。
扉が閉まると、文學は再び椅子に腰を下ろした。
今までとは違う低い声が問う。
「お前は——何者ぞ?」