第一章 異世界のゲーム ①
1
皇國の民は、自らが開けた禁断の壺より漏れ出でし災厄に、今もなお苛まれている。
短い生命、そして決められた死。
女神は人に直接手を下さず、ただ、好奇心という餌を撒いた。
開けてはならぬと言われた壺を、皇國がその手で開けてしまったのだ。
故に、女神に非はあらず、全ての咎は皇國の民の弱さにあるとされる。
狡猾なる女神たちの論理よ。
彼らが皇國の民もまた、その災厄から逃れられない。否、自ら進んで災厄を受け入れたと言えよう。女神・花葬朽姫との契約——それは三十五年という短き生と引き換えに、穢らわしき力『神くず』を得るというもの。
豊穣なる大地も、輝かしき技術も、彼らには与えられなかった。ただ、短き生と、ときおり生まれる呪われし力を持つ子だけが、かの国をかろうじて支えていた。若者は老いる前に子を成し、数を頼りに国を保つ。その姿は、まるで肥育され、繁殖を管理される家畜のようではないか。
にも関わらず、愚かな彼らは我らアポクリファ帝国の恩寵のある侵攻に抗おうとする。
なんと無謀で、愚かなことか。
壺の底に残った『希望』という名の最も残酷な災厄にすがり、破滅へと突き進む。
エルピス——希望。
それは彼らにとって、死へと向かう愚者の行進に他ならない。
希望にしかすがることができぬ憐れな民よ。いずれ、我ら帝国がその軛を解き放ち、真の秩序のもとで管理してやらねばなるまい。そう、帝国の有益な財産として、それぞれに有用な役割を与えるのだ。ある者は農奴として黙々と大地を耕し、ある者は鉱夫として己の限界に挑み、またある者は高貴なる者の愛玩動物となることで、我ら帝国へ奉仕する喜びの道を知るだろう。
それこそが彼らの最後にして、唯一無二の希望——エルピスの真の意味。
——アレクシス・ホープランド(七女神歴648-713)
アポクリファ帝国の哲学者、『希望の弁証法』より
目を覚ますと、柔らかい重みが胸の上にあった。
俺の部屋ではありえない花の香りが漂い、微かな衣擦れの音、そして子供の高い歌声が聞こえる。
「⋯⋯んんッ」
先ほど見た花葬朽姫の姿が記憶から溶けて消えていく。しかし、胸の奥には確かに何かが残っている。
怒りと決意の欠片だ。
(⋯⋯夢を思い出せないが、最悪な目覚めだ)
瞬きを繰り返すうちに、視界がはっきりしてくる。
(これがいわゆる見知らぬ天井というやつか)
しかし、予想していた病院の無機質な天井ではなかった。
木目の美しい格天井だ。
視線を巡らせれば、絹織物のような光沢のある壁紙が見え、部屋の隅には美しく生けられた花々が飾られている。
そして、レトロな洋服を着た少女が大きい瞳を俺に向けていた。
「お兄さま、お兄さまぁ!」
俺は声の方に視線を向けた。
甘い声とともに、見知らぬ小さな女の子が俺に抱きついていた。
おかっぱの黒髪が陽の光を受けて輝き、大きな翡翠色の瞳が涙で潤んでいる。透き通るような肌と相まって天使のような愛らしさだ。
(お兄様ってことは俺の妹? 俺は施設育ちだぞ)
確かに施設で妹のように懐いてくれた子はいたが、成人してからはほとんど会っていない。
(翡翠色の瞳? 日本人じゃないのか?)
混乱する頭で状況を把握しようとする。
しかし、この子の存在が現実感を持って迫ってくる。
抱きついてきた子供特有の体温や、ふわりと香る甘いミルクのような匂いは、これが夢ではないと告げているようだった。
「よかった⋯⋯お兄さまが目を覚ましてくださって」
五歳くらいだろうか。達者な言葉遣いだなと感心する。
清香は俺から顔を離すと、部屋の隅にいた人影に向かって声をかけた。
「お母さまにすぐにお知らせしてください。お兄さまがお目覚めになりました」
「かしこまりました、お嬢様」
細い声で返事をした召使いらしき少女が、静かに襖を開けて部屋を出ていく。その仕草には無駄がなく、よく躾けられているのがうかがえる。
だが、驚くのは年端もいかない少女の指示の的確さのほうだろう。
「⋯⋯本当によかったです」
女の子は安堵の表情を浮かべながら、さらに強く俺に抱きついた。
その仕草があまりにも愛おしく、思わず抱きしめたくなる。
「ちょっと待ってくれ」
俺は慌てて身を起こそうとした。
しかし、上半身を動かした瞬間、違和感に襲われる。
右目の視界がない。パニックが込み上げてくる。
「なッ!」
「お兄さま! まだ動いてはいけません!」
女の子が慌てて俺を押さえつける。その小さな手の力に、思いのほか抵抗できない。
(なんだ? 相手は五歳ぐらいだぞ)
改めて自分の腕を見て、息が止まりそうになる。
「ッ!」
白く、細い——明らかに子供の腕だ。
爪は健康的なピンク色で目の前の少女と甲乙つけがたい。
「これは、俺? 俺なのか?」
声も、高い。喉がカラカラに乾いている。
喉に触れると、あるはずの喉仏がない。滑らかな感触に戸惑う。
「お兄さまは落馬されたのですよ。お医者様が安静にするようにとおっしゃっていました」
「落馬?」
ひどく間抜けだと思いながら言葉を繰り返す。
意味が飲み込めない。俺は馬になんか乗ったことは生涯一度もない。
震える手で右目に触れる。包帯が巻かれているのを感じた。
(何が起きてる? 状況を整理しろ⋯⋯俺は世界大会で『七女神大戦』をプレイしていたはずだ……そして、刺された!)
慌てて横腹を確認するが、傷跡さえなかった。
安堵と同時に絶望が押し寄せてきた。
(よくある異世界転生とかか? はははは、そんなラノベみたいなことがあってたまるか!)
現実的なのに現実感のない状況に頭がぐるぐると回る。
これが夢なのか、現実なのか。それとも、俺は本当に正気を失ったのか。
「お兄さま? 大丈夫ですか?」
女の子の心配そうな声が遠くに聞こえる。
俺は深呼吸をする。
「ああ、大丈夫だ。ちょっと混乱してるだけだ」
そう言いながらも、内心は激しく動揺していた。ここがどこなのか、自分がどうなってしまったのか、まったく見当がつかない。
少女を改めて見つめる。
先ほど感じた幼い美貌に加え、その服装も目を引いた。上等な生地で作られた提灯袖の服に、首元のリボンがレトロな雰囲気を醸し出している。
俺は少女を見つめ、静かに口を開いた。
「頼みがある」
「はい。なんでしょうか? 清香はお兄さまの頼みなら何でも聞きます」
清香か——美しい名前だと思う。
「俺の頬を思いっきり叩いてくれ」
「できません!」
いきなりの前言撤回に、戸惑うが、子どもとはそんなものだ。
「現実だと確信するために頼むんだ」
俺の懇願に、考え込む清香のポーズが愛らしい。
(妹というよりも娘という設定のほうが真実味があっただろうな)
清香は俺の顔に近づいてきた。
「では、こういうのはどうですか?」
避ける間もなく、唇にキスをされてしまう。
柔らかい感触が唇に重なり、一瞬思考が飛ぶ。混乱に拍車がかかる。
「んん……」
少女特有の太陽とミルクが混ざったような甘い香りが鼻をくすぐった。
(待て、相手は五歳くらいの女の子だぞ! 俺は何をされてるんだ!?)
慌てて俺は清香の顔を離した。
「こ、これは!」
言葉につまる俺に、清香は無邪気な笑顔を向けた。
「お兄さま、これで現実だと分かりましたか?」
その純真な瞳に俺のなかに罪悪感と戸惑いが胸の中で渦巻く。
(待て! 待て待て待て、俺、冷静に考えろ。これは明らかに異常事態だ)
俺はきょとんとしている妹の目を見る。零れ落ちそうなほど大きい瞳だ。
翡翠色のひまわりのような虹彩が美しい。
「質問に答えてくれ」
「はい!」
清香は元気よく返事をする。
その純真な表情に、思わず緊張が和らぐ。
「俺の名前は?」
「ハクオウ⋯⋯」
清香が言いかけたそのとき、扉が開き、若い医師が入ってきた。十五、六歳ほどの少年で、顔色が悪く、手に持った医療道具がカタカタと震えている。
「日出吉先生、お兄さまは大丈夫でしょうか?」
清香が心配そうに尋ねた。
日出吉と呼ばれた少年は、緊張した様子で俺に近づいた。
「目の状態を確認させていただきます」
俺は目を覗き込まれた。
彼の診察は丁寧だったが、どこか自信なさげだった。
「眼帯を当てておくといいでしょう。右目は⋯⋯これで大丈夫です」
包帯を巻き直してくれる所作はとても丁寧だったが指が震えていて、途中で包帯を落としてしまうことが何度かあった。
俺はまだ眩しくて右目をすぐに閉じた。
廊下から現れた年配の看護婦が苦々しい表情で言った。
「日出吉先生は知識はあるんですけどね、実践が⋯⋯」
看護婦は言葉を濁しながら、日出吉を押しのけるようにして新しい包帯を用意して巻き出した。
「私が処置しますから、先生は本でも読んでいてください」
顔を赤らめた日出吉は、申し訳なさそうに俺に一礼すると、部屋を後にした。
入れ替わるように、若い女が部屋に駆け込んできた。
「曉人!」
声の主は、驚くほど美しい若い女性だった。先ほどの召使いらしき少女とともに部屋に入ってくる。
その顔立ちは清香に似ている。
(この人が⋯⋯母親? どう見ても十代後半にしか見えないぞ)
俺は困惑しながらも、その女性の姿を見つめた。年齢の割に若々しく、まるで清香の姉のようにさえ見える。
しかし、その眼差しには深い愛情が宿っていた。
(曉人か⋯⋯それが俺の名前なのか? ここは過去の日本か?)
俺は動揺しつつも、脳をフル回転させた。
天涯孤独の俺に頼るものは自分の脳しかなかった。常に思考を停めることはないのだが、この曉人の脳は、以前の俺よりもさらにクリアに思考を広げてくれる気がした。
(記憶喪失を装うべきか? そうすれば、この状況下で必要な庇護を得られるかもしれない。それに、目の前の二人は貴重な情報源になるだろう。しかし、好意を明らかに持ってくれている二人を騙すようで気が引ける⋯⋯)
部分的な記憶喪失を装うのが最善策かもしれない。
名前や家族のことは覚えているが、直近の出来事や怪我の原因は思い出せない——といった具合に。
そうすれば、彼らの反応を見ながら、少しずつ状況を把握できるはずだ。
深呼吸をして、俺は演技を始める準備をした。
「すみません、お母さま、清香⋯⋯まだ、頭がぼんやりしていて⋯⋯落馬と聞いたけど、どうして怪我をしたのか思い出せなくて⋯⋯」
困惑した表情を作り、二人の反応を待った。
この演技がうまくいけば、必要な情報を得ながら、自分の立場を守ることができるはずだ。
母親と思われる美しい女性は、一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに優しい笑顔に変わった。
そして、突然俺を抱きしめてきた。
豊かな胸元に顔が埋められる。柔らかさと温もり、そして安心するような甘い香りに包まれる。だが、十歳の子供の身体には刺激が強すぎたし、何より精神年齢的には大人である俺の意識は激しく揺さぶられた。
(これが母親の温もりなのか?)
施設育ちで、親の温もりを知らない俺は、心地よい揺り籠の中にいるような安心感を覚えつつも、戸惑いを隠せなかった。
このぬくもりが怖いのだ。
「すみません!」
俺は母親を両手で押しのけた。
「ごめんなさいね。息ができなかったのね」
「⋯⋯」
違っていたが頷くしかできなかった。
そんな俺を見て、母親が話し始めた。
「あなたは、落馬して頭を打ったのね。医者は一時的な記憶の混乱があるかもしれないと言っていたわ」
その声は優しく、心安らぐものがあった。
「⋯⋯すみません」
「ゆっくり思い出せばいいわ」
彼女は心配そうな表情で見つめてきた。
その美しさに一瞬言葉を失う。確かに清香に似ているが、成熟した魅力に溢れている。大きな翡翠色の瞳、筆で引いたように優美な眉、小造りで嫌味のない鼻。そして、小さい唇はリップを塗ったように桃色に輝いている。
(これが俺の⋯⋯母親? 年齢的にも見た目的にも信じられないが⋯⋯)
「お姉さん?」
言葉が思わず口から零れた。
「まぁ、まぁまぁまぁ! 曉人ったらいつからそんなお世辞を覚えたの?」
彼女は頬を薄く染めながら笑う。
「若すぎるよ」
「もうれっきとしたオバさんじゃない」
「それに⋯⋯綺麗すぎる」
満更でもなく喜ぶ母親の表情に、さらに混乱が深まる。
「も、もうこの子ったら⋯⋯学校で正直に育ったわね」
彼女は照れくさそうに言いながらも、嬉しそうな表情を隠せずにいた。清香も横で小さく笑っている。
「⋯⋯」
(一体全体どういうことだ。彼女は何歳だというのだ。逆算したら若くとも三十路前後だろうが、とてもそうは見えない)
俺はすまなそうに目を伏せた。長い睫毛が視界に入る。
「すみません、記憶が曖昧で⋯⋯」
正直に切り出すと母親は眉を寄せ、その翡翠色の瞳に不安が宿る。
「あなたは皇國学校で学んでいたのよ。全寮制の名門校で、二年間も親元を離れていたの」
「二年も?」
「八歳のあなたを送り出したときは胸が張り裂けて、世界が終わるかと思ったわ」
彼女の言葉に、俺は両手を見つめて息を呑んだ。確かに小さい。子供の手だ。指先は繊細でまだ男の骨張った感じがない。
そして、指を数えた。八歳から二歳を足して——。
「えッ、俺は十歳!?」
声が裏返った。おかっぱの黒髪が水分を多く含み、毛先が艶やかに光っている。自分の体の小ささに戸惑いを隠せない。心臓が早鐘を打ち始めた。
「そうよ。そして清香は五歳」
母親の言葉に、俺の見立てが当たっていたことに一瞬安堵する。
しかし、それにしては妹は聡明すぎる。五歳の子供とは思えないほど達者な言葉遣いだ。施設の子たちは別の意味で弁えていたが、それは家での辛い経験があったから、自分を出せないだけだ。
「そして、私は雪路。あなたの母親で、もう二十四歳のおばあちゃんよ」
「おばあちゃん!」
「そうよ。もう世間ではそういう歳よ」
雪路は照れくさそうに微笑んだ。
その若々しい美貌は、とても二人の子を持つ母親には見えない。肌は陶器のように滑らかで、一点の曇りもない。
「いやいやいや!」
問題はそこじゃない。
(二十四歳で十歳の子供がいるということは⋯⋯十四歳で出産したことになる。尋常じゃないぞ。この世界はどこだ? 戦国時代か? それにしては二人とも洋装を着ている)
俺の頭の中で疑問が渦を巻いた。冷や汗が背筋を伝い落ちる。
(俺は本当に、あのとき⋯⋯死んだのか⋯⋯そして、この曉人というやつは誰だ!)
吐き気が込み上げてきた。
二人の女の心配する声が耳に入らなくなった。
血の気が引いていく感覚と、冷たい汗が全身を包み込む。
「曉人!」
雪路の声が遠くに聞こえる。
視界が狭まり、周囲の景色が歪んでいく。
そして——気づけば再び意識を失っていた。