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皇國の白き魔女  作者: 花園野リリィ
3/14

第一章 異世界のゲーム ①


 意識が浮上してくる。

 最初に感じたのは——重さだった。

 胸の上に、何か温かいものが乗っている。

(——何だ?)

 次に、香り。花——何の花だろう。甘く、どこか懐かしいような。

 俺の部屋にこんな香りはなかった。


 音が聞こえる。

 衣擦れ——絹のような、軽やかな音。

 そして、歌声? 高い、子供の声。

(ここは——どこだ? 施設か?)

 瞼が重い。

 開けようとしても、鉛のように重たい。

 何かが、記憶の底で蠢いている。

 巨大な——触手?

 第三の目——。

(——夢?)

 いや、夢じゃない。

 何かがあった。

 確かに、何かが——。

 だが、思い出せない。

 霧の中を手探りするように、記憶の断片を掴もうとする。

 掴めそうで、掴めない。

 胸の奥が——ざらつく。

 気持ち悪い。

 何かが、引っかかっている。


(くそ——何だ、この感覚は)


 ゆっくりと、瞼を開いた。

 最初に見えたのは——天井。木目の美しい格天井。

(これがいわゆる、見知らぬ天井?)

 冗談めかして考えようとして、喉の奥が乾いた。

 視線を横に動かす。

 部屋——広い。

 壁紙は絹のような光沢。隅には花が生けられている。

 そして——。


「お兄さま!」


 声が聞こえた。高い、子供の声。

 近い——すぐそばだ。

 首を動かそうとして、胸の上の重みを思い出した。

(これ、人?)

 ゆっくりと視線を下ろす。

 黒髪が目に入った。おかっぱ——陽の光を受けて、艶やかに光っている。

 その下に、顔。

 大きな瞳——翡翠色。整った鼻。小さい唇。

 涙で、潤んでいる。


(——子供?)


「お兄さま、お兄さまぁ!」

 少女が、俺の胸に抱きついている。

 体温が伝わってくる。柔らかい。軽い。ミルクのような、甘い匂い。

(——誰だ?)

 心臓が跳ねた。理解が追いつかない。

 この子は誰だ。

 ここはどこだ。

 俺は——。

「よかった⋯⋯お兄さまが目を覚ましてくださって」

 少女の声が震えている。

 本当に、心配していたのだと分かる。

 だが——俺はこの子を知らない。

(お兄様ってことは俺の妹? 俺は施設育ちだぞ)

 確かに施設で妹のように懐いてくれた子はいたが、成人してからはほとんど会っていない。

(翡翠色の瞳? 日本人じゃないのか?)

 混乱する頭で状況を把握しようとする。

 しかし、この子の存在が現実感を持って迫ってくる。

 五歳くらいだろうか。達者な言葉遣いだなと感心する。

 少女は俺から顔を離すと、部屋の隅にいた人影に向かって声をかけた。

「お母さまにすぐにお知らせしてください。お兄さまがお目覚めになりました」

(お母様、誰のことだ?)

 視線を向けると、そこに少女がいた。

 召使い——だろうか。地味な服を着ている。

「かしこまりました、お嬢様」

 細い声で返事をすると、少女は静かに襖を開けて出ていった。

 無駄のない動き——訓練されているのだろう。

(この子は——お嬢様?)

 俺は清香を見た。

 五歳くらいの子供が、あんなに的確に指示を?

(この子、何者だ?)

「⋯⋯本当によかったです」

 女の子は安堵の表情を浮かべながら、さらに強く俺に抱きついた。

「ちょっと待ってくれ」

 俺は慌てて身を起こした。

 瞬きを何度も——する。右側に、何もない。消えた。いや、視界の右半分が、存在しない。

 暗闇だけが広がっている。

 心臓が止まりそうになった。

 首を右に向ける——暗闇が広がる。

 左に向ける——部屋が見える。

 右——暗闇。

 左——部屋。

「右目が、右目がッ!」

 声が裏返った。

「お兄さま! まだ動いてはいけません!」

 女の子が慌てて俺を押さえつける。その小さな手の力に、思いのほか抵抗できない。

(なんだ? 相手は五歳ぐらいだぞ)

 視線を落とした先に、見知らぬ腕があった。

 肺の空気が一気に抜けていく。

「ッ!」

 白く、細い。青白い血管が皮膚の下で透けている——これは、俺の腕じゃない。

 爪は健康的なピンク色で目の前の少女と甲乙つけがたい。

「これは、俺? 俺なのか?」

 声も、高い。喉がカラカラに乾いている。

 喉に触れると、あるはずの喉仏がない。滑らかな感触に戸惑う。

「お兄さまは落馬されたのですよ。お医者様が安静にするようにとおっしゃっていました」

「落馬?」

 ひどく間抜けだと思いながら言葉を繰り返す。

 意味が飲み込めない。俺は馬になんか乗ったことは生涯一度もない。

 震える手で右目に触れる。包帯が巻かれているのを感じた。

(何が起きてる? 状況を整理しろ⋯⋯俺は世界大会で『七女神大戦』をプレイしていたはずだ……そして、刺された!)

 慌てて横腹を確認するが、傷跡さえなかった。

 傷跡がないことに、胸がふっと軽くなった——次の瞬間、その軽さが重い鉛に変わった。

(じゃあ、いったい何が起きてるんだ!)

 頭の中で、情報を整理しようとする。

 俺は——刺された。腹を、ナイフで。

 リムゾムが——死んだ。

 俺の目の前で。

 それから——光。

 巨大な、木。

 化け物のような——神?

 そして——今、ここ。見知らぬ部屋。見知らぬ子供。見知らぬ、身体。

(死んだのか? 俺は、それとも?)

 無意識にシーツを握りしめていた。

(生きてる——のか?)

 リムゾムの声が、脳裏に響いた。


「生きて」


(生きて——? こんな形で?)

 喉の奥が詰まる。

 息ができない。部屋が揺れている——いや、俺が揺れているのか。

(落ち着け——落ち着け、落ち着け——)

 深呼吸。一度、二度。


(まず、状況を把握しろ。ここがどこか。俺が誰か。何が起きたのか)


「お兄さま? 大丈夫ですか?」

 女の子の心配そうな声が遠くに聞こえる。

 俺は深呼吸をする。

「ああ、大丈夫だ。ちょっと混乱してるだけだ」

 そう言いながらも、内心は激しく動揺していた。ここがどこなのか、自分がどうなってしまったのか、まったく見当がつかない。

 少女を改めて見つめる。

 先ほど感じた幼い美貌に加え、その服装も目を引いた。上等な生地で作られた提灯袖の服に、首元のリボンがレトロな雰囲気を醸し出している。

 俺は少女を見つめ、静かに口を開いた。

「頼みがある」

「はい。なんでしょうか? 清香(さやか)はお兄さまの頼みなら何でも聞きます」

 清香か——美しい名前だと思う。

(この子の名前は、清香)

「俺の頬を思いっきり叩いてくれ」

「できません!」

 いきなりの前言撤回に、戸惑うが、子どもとはそんなものだ。

「現実だと確信するために頼むんだ」

 俺の懇願に、考え込む清香のポーズが愛らしい。

(妹というよりも娘という設定のほうが真実味があっただろうな)

 清香は俺の顔に近づいてきた。

「では、こういうのはどうですか?」

 避ける間もなく、唇にキスをされてしまう。

 柔らかい感触が唇に重なり、一瞬思考が飛ぶ。混乱に拍車がかかる。

「んん……」

 少女特有の太陽とミルクが混ざったような甘い香りが鼻をくすぐった。

(待て、相手は五歳くらいの女の子だぞ! 俺は何をされてるんだ!?)

 慌てて俺は清香の顔を離した。

「こ、これは!」

 言葉につまる俺に、清香は無邪気な笑顔を向けた。

「お兄さま、これで現実だと分かりましたか?」

 その純真な瞳を見た瞬間、胃が重く沈んだ。喉の奥に苦いものが這い上がってくる。視線を逸らしたいのに、逸らせない。

(待て! 待て待て待て、俺、冷静に考えろ。これは明らかに異常事態だ)

 俺はきょとんとしている妹の目を見る。零れ落ちそうなほど大きい瞳だ。

 翡翠色のひまわりのような虹彩が美しい。

「質問に答えてくれ」

「はい!」

 清香は元気よく返事をする。

 その屈託のない笑顔を見た瞬間、肩の力がふっと抜けた。握りしめていた拳が、いつの間にか開いている。

「俺の名前は?」

「ハクオウ⋯⋯」

 清香が言いかけたそのとき、扉が開き、若い医師が入ってきた。十五、六歳ほどの少年で、顔色が悪く、手に持った医療道具がカタカタと震えている。

 包帯が床に散らばる。

 それを拾おうとするたびに、彼の寝癖の髪がピョコピョコ跳ねる。

日出吉(ひできち)先生、お兄さまは大丈夫でしょうか?」

 清香が心配そうに尋ねた。

「は、はい。いますぐ——」

 包帯を両手に持った日出吉と呼ばれた少年は、緊張した様子で俺に近づいた。

「目の状態を確認させていただきます」

 俺は目を覗き込まれた。

 彼の診察は丁寧だったが、どこか自信なさげだった。

「眼帯を当てておくといいでしょう。右目は⋯⋯これで大丈夫です」

 日出吉が包帯を巻こうとして——落とした。

 三度目だ。

 彼の額に、汗が浮かんでいる。指が震えて、うまく掴めないようだ。

(大丈夫か、この若い医者?)

 そのとき、襖が開いた。

 年配の女性——看護婦だろうか——が入ってきて、日出吉の手から包帯を取り上げた。

「先生、私がやります」

 声音は丁寧だが、目は笑っていない。

「あ、す、す、すみません——」

 日出吉は顔を赤らめ、申し訳なさそうに部屋の隅に下がった。

 看護婦は俺に向かって、小さく溜め息をついた。

「知識はあるんですけどね、この先生」

「あ、あ、あ⋯⋯」

 日出吉が項垂れる。

「私が処置しますから、先生は本でも読んでいてください」

 看護婦は手際よく包帯を巻き始める。

 顔を赤らめた日出吉は、申し訳なさそうに俺に一礼すると、部屋を後にした。

 入れ替わるように、若い女が部屋に駆け込んできた。


曉人(あきと)!」


 その声——心配と安堵が混じりあっていた。

 俺は、その女性を見た。

 息が、止まった。

 美しい——いや、それだけじゃない。清香に似ている。翡翠色の瞳。長く艷やかな黒髪。筋の通った鼻。紅を引いた唇。

 だが、もっと——大人の完成された美しさ。

(誰だ?)

 女性が俺に飛びついてくる。

 その瞳に、涙が浮かんでいる。

「よかった——本当に、よかった——」

 俺はその女性のふくよかな胸に抱きしめられた。

 柔らかい。温かい。甘い香り——花の。

 身体が硬直した。心臓が、バクバクと音を立てている。呼吸が、浅くなる。


(何だ、これは——)


 温もりが、全身を包み込んでくる。心地よい——はずなのに。

 怖い。

 理由は分からない。ただ、怖い。

 この温もりが——恐ろしい。

(やめてくれ!)

 手が勝手に動いた。女性を、懸命に押しのけている。

「すみません!」

 声が裏返った。高い声だ。身体が震えて止まらない。

 女性が驚いた顔で、俺を見ている。

「ごめんなさいね。息ができなかったのね」

 女性が優しく微笑む。

 その笑顔を見た瞬間——胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。


(母親——これが、母親?)


 施設育ちの俺は、母親というものを知らない。

 それなのに——今、目の前に。

(これが、母親——?)

 その眼差しには深い愛情が宿っていた。

「曉人、大丈夫?」

(曉人か⋯⋯それが俺の名前なのか? ここは過去の日本か?)

 目の前の状況と、断片的な情報が頭の中で高速で繋がり始める。

 天涯孤独の俺には、いつも自分の思考しか頼るものがなかった。

 だが——この頭の中の感覚が違う。まるで靄が晴れたように、一つ一つの情報が鮮明に浮かび上がってくる。

 思考が枝分かれし、可能性が次々と展開していく。

(記憶喪失を装えば⋯⋯)

 視線が女性と清香の間を行き来する。二人とも心配そうにこちらを見つめている。

 俺は彼女たちの好意を利用するのか。

 後ろ髪を引かれるものがあり、まともに彼女たちの顔を見ることができない。

(だが、この二人を騙してでも、現状把握するしかない)

 部分的な記憶喪失を装うのが最善策かもしれない。

 名前や家族のことは覚えているが、直近の出来事や怪我の原因は思い出せない——といった具合に。

 そうすれば、彼らの反応を見ながら、少しずつ状況を把握できるはずだ。

 深呼吸をして、俺は演技を始める準備をした。

「すみません、お母さま、清香⋯⋯まだ、頭がぼんやりしていて⋯⋯落馬と聞いたけど、どうして怪我をしたのか思い出せなくて⋯⋯」

 困惑した表情を作り、二人の反応を待った。

 この演技がうまくいけば、必要な情報を得ながら、自分の立場を守ることができるはずだ。

 母親と思われる美しい女性は、一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに優しい笑顔に変わった。

「あなたは、落馬して頭を打ったのね。医者は一時的な記憶の混乱があるかもしれないと言っていたわ」

 その声は優しく、心安らぐものがあった。

「⋯⋯すみません」

「ゆっくり思い出せばいいわ」

 頭を撫でられ、顔を上げて、絶句した。

「⋯⋯」

「いいのよ」

 正直に切り出すと母親は眉を寄せ、その翡翠色の瞳に不安が宿る。

「あなたは皇國陸軍幼年学校で学んでいたのよ。全寮制の名門校で、二年間も親元を離れていたの」

「二年も?」

「八歳のあなたを送り出したときは胸が張り裂けて、世界が終わるかと思ったわ」

 彼女の言葉に、俺は両手を見つめて息を呑んだ。確かに小さい。子供の手だ。指先は繊細でまだ男の骨張った感じがない。

 そして、指を数えた。八歳から二歳を足して——。

「えッ、俺は十歳!?」

 声が裏返った。おかっぱの黒髪が水分を多く含み、毛先が艶やかに光っている。自分の体の小ささに戸惑いを隠せない。心臓が早鐘を打ち始めた。

「そうよ。そして清香は五歳」

 母親の言葉に、俺の見立てが当たっていたことに一瞬安堵する。

 しかし、それにしては妹は聡明すぎる。五歳の子供とは思えないほど達者な言葉遣いだ。施設の子たちは別の意味で弁えていたが、それは家での辛い経験があったから、自分を出せないだけだ。

「そして、私は雪路(ゆきじ)。あなたの母親で、もう二十四歳のおばあちゃんよ」

(雪路——それが、母親の名前——二十四歳?)

「おばあちゃん!」

「そうよ。もう世間ではそういう歳よ」

 雪路は照れくさそうに微笑んだ。

 その若々しい美貌は、とても二人の子を持つ母親には見えない。肌は陶器のように滑らかで、一点の曇りもない。

「いやいやいや!」

 問題はそこじゃない。

(二十四歳で十歳の子供がいるということは⋯⋯十四歳で出産したことになる。尋常じゃないぞ。この世界はどこだ? 戦国時代か? それにしては二人とも洋装を着ている)

 頭の中で何かが高速回転している。汗が背筋を一筋、また一筋と這い落ちていく。

(俺は本当に、あのとき⋯⋯)

 胃が捻じれた。喉に酸っぱいものがせり上がってくる。

 雪路と清香の唇が動いているのが見えるが、音が届かない。まるで分厚いガラスの向こうにいるようだ。

 指先から血が抜けていく。

 腕が、脚が、冷たい水に沈められていくように感覚を失っていく。視界の端が白いペンキで塗りたくられていく。

(この世界は——どこだ?)

 雪路が何か言っている。清香も、心配そうに俺を見ている。

 だが、俺の頭は——もう、限界だった。

(とにかく——休まないと)

「すみません。少し、横になりたい」

 声を絞り出すと、雪路が優しく俺を寝かせてくれた。

「ゆっくり休みなさい。また後で話しましょう」

 その声が子守唄のように響く。

 瞼が重い。意識が、ゆっくりと沈んでいく。

(ここが——どこであろうと。俺は——生きている)

 リムゾムの言葉が、また響いた。

「生きて」

(ああ——生きてる。この意味がわからない世界で、生きて——やる)

 意識が、闇に沈んだ。


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