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プロローグ

「⋯⋯ッ」

 腹部を鋭い痛みが貫いた瞬間、俺は自分の身に何が起こったのか理解できずにいた。

 心臓が脈打つたびに、脇腹から血が溢れ、意識の輪郭が薄れゆく。

 死の影が着実に忍び寄るのを感じながらも、現実が夢のように遠く感じられた。

 なぜ、俺は刺されているのか。

「お、お、おまえが——エルピスだな」

 フードを深く被った男の声が震えていた。

 その手に握られたナイフもまた大きく震え、俺の体に突き立ったまま小刻みに揺れている。刃が動くたびに、新たな痛みが波のように押し寄せた。

「う、うぐぅ⋯⋯」

 俺は男の手を掴もうと試みたが、指先に力は宿らない。

 膝が砕けるように地面に崩れ落ちた。


(どうして——どうして、こうなった?)


 数時間前まで『七女神大戦』世界大会の決勝戦が行われていたはずだった。そこで俺は頂点に立ったのだ。

 黄金のトロフィーは今もホテルの部屋で、白いシーツの上に静かに横たわっている。

 大会後、珍しくプレイヤーのリムゾム氏と言葉を交わした。

 美貌の人だった。

 二十代半ばと思しき、理知の光を湛えた瞳が印象に残っている。

 彼女は手を差し出してきた。

 他愛もない握手だったのだろうが、他人と触れるのは十年ぶりであった。施設を出てからというもの、俺は人との接触を避けて生きてきた。仕事でも、買い物でも、すべてを機械的に済ませ、肉の温もりを忘れて過ごしてきたのだ。

 手のひらに汗がじっとりと滲んだ。

 脈拍するたびに汗が吹き出し、視界が眩んだ。

 まるで少年に戻ったかのような動揺が、俺の心を支配していた。

 耳元に怒声が響いた。

「おまえが優勝できるわけがないんだ!」

 男の怒声が夜の静寂を破った。

「⋯⋯どうして?」

「皇國なんて最弱国を使って勝てるわけがない。チートを使ったんだろう! いや、大会側とグルになったか!」

 男の唾が俺の首筋にかかる。

 その熱い飛沫に、俺は再び現実に引き戻された。理不尽な憎悪が、なぜ俺に向けられるのか——ただゲームに勝っただけなのに。

 そのとき、騒ぎを聞きつけた人影が廊下の向こうに現れた。

「きゃあぁ! 誰か来てください!」

 女性の悲鳴が響く。

 男はナイフを引き抜くと、慌てたように走り出した。

 足音が遠ざかる廊下で、一度つまずいて転げるのが見えた。その滑稽さと、腹に空いた穴の痛みが、妙に対照的だった。

「⋯⋯」

 俺は壁に寄りかかろうとしたが、体を支えきれずにそのまま床に倒れ込んだ。

 心臓が拍動するたびに、死神が心臓を鷲掴みにして血を絞り出すかのように、朱が腹部から溢れ出た。目の前の床にも深紅の水たまりが静かに広がっていく。まるで花びらが散るように、美しくも恐ろしい光景であった。

 意識が薄れゆく中、俺は思った——これが、俺の人生の終わりなのか、と。




 刹那、世界が裂けた。

 朝陽のような——いや、太陽の核心部から放たれる原初の輝きのような眩い光が、現実という幕を引き裂いて差し込む。それは単なる光ではなく、存在そのものを浄化せんとする神々しい瀑布となって、俺の意識を呑み込んでいく。

 光の洪水が俺を包み込み、地平線の果てまで広がる無限の輝きの中、俺の存在は塵のように小さい。

 その光景の中心に、目を奪われるほどの巨大な樹木が立っている。だが、その壮麗さは朽ちかけていた。かつて天空を覆ったであろう枝葉は枯れ落ち、生命力を失いつつある巨木は、最後の尊厳を保つように威厳を湛えている。

 その巨樹の下に、畏怖すべき存在が佇んでいた。

 美しくも禍々しい神——そう呼ぶほかない存在だ。人間の女の姿を基調としながらも、その規格外の大きさは神話の巨人を思わせる。額には第三の目が鋭く輝き、下半身は深海の奇怪な生物のように、太く長い触手が幾重にも蠢いていた。その脚は透明感のある鮮やかな色彩を纏い、毒々しい美しさを放っている。

 豊かな神には青い星のような花が咲き乱れている。まるで宇宙空間にあるかのように浮かび上がり、無数の蛇が交尾に励むように蠢き合っていた。

 露わになった巨大な乳房は重力に従わず、薄い衣装は風もないのに緩やかにはためいていた。それは神が人の形を借りて顕現した姿だと直感で理解せざるを得ない力があった。

 完全でありながら、どこか歪な模倣によって生み出された畏怖の対象。

「……」

 この存在の前に立つ俺は、あまりにも取るに足らない存在だ。塵芥のように些細で、蟻のように無力な存在でしかないことを本能が悟る。

「——エルピス。希望の名を持つもの」

 声は空気の振動を介さず、直接俺の脳髄に響き渡る。

 男でも女でもなく、老人でも子供でもない。

 あらゆる声が混ざり合い、それでいて完璧な調和を持つ抗えない言葉。

「……俺は死んだのか?」

 無意識に問いかけるが、己の声がいかに小さく、哀れに響くかを痛感する。

 腹に触れるが傷口はなかった。

「——力を与えよう」

 神は問いに答えず、一方的に宣告する。

 その声には慈悲も残酷さもなく、ただ絶対的な意志のみがある。

「ここはどこか?」

 混乱の中、俺は意味のない質問を繰り返す。震える声は虚空に吸い込まれていく。

「——喜べ、我が吐き捨てる力を授けられることを」

 神の口が開く。何メートルもの長さを持つ舌が蛇のように伸び出し、その先端には眩く輝く光の珠が宿っている。それは唾液の中で脈動し、甘美な芳香と腐敗の臭気を同時に放っていた。

 生と死、喜びと絶望、救済と堕落——相反する概念が混在する神の賜物が、俺に近づいてくる。

 恐怖に支配された俺の身体は、一片の砂のように動かない。

「やめろ!」

 叫びは虚しく響くだけだ。

「——祝え、呪いの力を、呪え、祝いの力を」

 神の言葉は矛盾に満ちていながら、絶対的な真実として迫ってくる。

「俺に何をするつもりだ」

 問いの答えは、行動によって示された。

 光の珠が俺の右目に抉るように埋め込まれる。

 灼熱の痛みが全身を貫く。星が爆ぜるような激痛に、俺は言葉にならない悲鳴を上げた。

「——妾の契約に縛られた者の一人として生きるがよい」

 痛みの中、俺は必死に問いかける。

「お前はなんだ。俺に何をするんだ」

 右目を押さえながら吠えるように叫ぶが、神は理解を示さない。その存在は俺の問いかけを聞き流し、自らの意志のみを告げるように嗤った。

「——六度の世界を作り、六度破れ、妾は他の神々に蹂躙された。大樹は朽ちようとしている。七度目の世界はエルピス、おまえが国を導け」

 混乱の中で、神の言葉は謎めいて響く。意味を理解できぬまま、俺は叫ぶ。

「何の話だ!」

 神は慈悲なく、最後の宣告を下す。

「——希望の子よ、妾のために抗え、足掻け、そして、その生命を儚く散らせ」

 その冷酷な言葉に、俺の内側から怒りが湧き上がる。理不尽な運命に対する反逆の炎が、灼熱の痛みを押しのけて台頭してくる。

「ふざけるな! 俺はおまえを殺す! 必ずだ」

 これは誓いであり、新しい人生の始まりだった。

 光が急速に失われ、意識が別の次元へと引き込まれていくのを感じた。

 そして、この邂逅は記憶に蓋をされるのであったが、俺の中で核となるのだ。

 偽りの神に抗えと。

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