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皇國の白き魔女  作者: 花園野リリィ
2/13

プロローグ

 ホテルの廊下に出て、俺は夜景を見ていた。

 窓ガラスに映る自分の顔——目の下に影が落ち、頬はこけている。それなのに、唇の端がほんの少しだけ上がっていることに気づいた。疲労で重くなった瞼の奥に、何か温かいものが灯っている。十年ぶりに感じる感覚だった。

 エルピス——希望を意味するハンドルネーム。

 今日、その名前が世界の頂点に立った。

「ふふ」

 俺は右手を見つめた。

 まだ、あの温もりが残っているような気がした。

 数時間前、初めて触れた他人の手のひら。その感触が、まだ消えていない。

 カーペットを踏む、柔らかい音。

 最初は遠く、それから少しずつ近づいてくる。

 俺は視線を街並みに戻した。眼下に広がるビル群の灯り。遠くで救急車のサイレンが、ガラス越しに届いている。

 足音が止まった。

 背後の空気が、微かに動いた。

(誰かいる?)

 首筋に、視線の重さを感じる。振り向かずに、ガラスに映る影を探した。フードを被った人影——その輪郭が、街の光に揺れている。

 呼吸の音が聞こえた。荒く、不規則で、喉の奥で引っかかるような息遣い。

 そして、酒の臭い。安い蒸留酒の、鼻を突く刺激臭が、ゆっくりと俺の背後から近づいてくる。

(まずい)

 足を動かそうとした瞬間、

 背後から熱い吐息が首筋にかかった。

「⋯⋯ッ」

 腹部に何かが突き刺さった。

 熱い金属の感触——いや、それが理解できたのは数秒後のことだ。

 ドクン。心臓が一度跳ねた。脇腹のシャツが生温かく濡れていく。

 指先で触れると、粘ついた液体が糸を引いた。視界の端が白く滲み始める。

(刺された?)

 理解が追いつかない。

 痛みがない——いや、痛いはずなのに、脳がそれを拒否している。

 現実感がない。まるで他人事のように、自分の腹から血が流れるのを眺めていた。

 ドクン、ドクン、ドクン。心臓が獣のように暴れ出す。血管の中を、氷と炎が同時に駆け巡る。視界の端が白く発光し始めた。これは——死ぬ、という現象なのか?

 指先が小刻みに震え、次いで腕が、肩が痙攣し始めた。奥歯がガチガチと音を立てる。自分の意志では止められない。

 足元の床が、まるで船の甲板のように傾いだ。

 いや、傾いているのは世界ではなく、俺の方だ。

 なぜ、俺は——

「お、お、お、おまえが——エルピスだな」

 深く被った男の声が、まるでガラスの破片を喉に詰まらせたように震えていた。

 その両手に何か握られている。

 ナイフの柄を握る指が小刻みに痙攣し、俺の体内で刃が左右に揺れる。腹の奥で何かが裂ける音がした——ミチミチと、濡れた布を引き裂くような。

「う、うぐぅ⋯⋯」

 男の手首を掴もうとした。

 指が空を掻く。まるで水の中で溺れる者のように、俺の腕はただ虚しく宙を泳いだ。

 膝が折れた。

 コンクリートの床が俺の膝頭を打つ。冷たい。

(どうして——)

 数時間前に獲得した黄金のトロフィーが脳裏に浮かぶ。今はホテルの部屋に置かれている。

 俺は——頂点に立ったのだ。


 ストラテジーゲーム『七女神大戦』。


 半日にも及ぶ決勝戦が数時間前に終わり、リムゾムが手を差し出してきた。

「素晴らしい試合でした、エルピスさん」

 理知的な瞳を持つ、二十代半ばと思われる女性——。

 その瞬間、俺の思考が凍りついた。

(触れる? 人の肌に?)

 施設を出てから十年——コンビニは無人レジ、配達は置き配、すべてを機械越しに済ませてきた。それなのに今、目の前に白い手のひらが差し出されている。

 掌に汗が滲んだ。じっとりと湿った手で、彼女の手を濡らしてしまうのではないか。心臓が一拍跳ねるたびに、新しい汗が毛穴から押し出される。指先が微かに震えた。

 それでも——俺は手を伸ばした。

 彼女の手のひらは、想像していたよりも小さかった。そして、温かかった。

 心臓が、まるで少年のように暴れていた。


 そして今、全身からは冷や汗が吹き出している——あのときとはまるで違う種類の汗だ。


 耳元で空気が破裂した。

「おまえが優勝できるわけがないんだ!」

 男の声が、夜の静寂をナイフのように切り裂く。

「⋯⋯どうして?」

「皇國で⋯⋯勝てるわけが、ない」

 男の金切り声が裂けた。

「ズルしたんだ! そうだろ!? じゃなきゃ——じゃなきゃ俺が——」

 言葉が途切れる。

 ナイフを握る手が、激しく震えていた。

 唾が飛んだ。首筋に熱い飛沫がかかる。

 その生々しい湿り気に、俺の意識は再び腹の痛みへと引き戻された。ただゲームに勝っただけなのに——なぜこの熱が、この憎悪が、俺に向けられる?

 廊下の向こうで人影が揺れた。

「きゃあぁ! 誰か来てください!」

 女性の悲鳴が空気を震わせる。

 リムゾムだった。

 男がナイフを引き抜いた——腹の奥で何かが吸い込まれるような感覚。そして、闇が広がった。

 ——ドクン⋯⋯ドクン。

 ナイフが床に落ちる。

 金属が冷たい音を立てた。

 その音と同時に、俺の命が——何か大切なものが、身体から音を立てて流れ出していく。


 フードの男が、震える手でナイフを拾い上げた。

 そして、リムゾムに向かって歩き出した。

(やめろッ!)

 声が出ない。喉が血で満たされている。

「やめ——」

 口から溢れ出たのは、言葉ではなく赤黒い液体だった。

 リムゾムが後ずさる。両手を前に突き出して。

「いやぁ、やめて、お願い——」

 彼女の声が、廊下に響く。

 男の腕が振り上げられた。

 刃が、街の灯りを反射して鈍く光る。

 俺は這った。

 指先で床を掻き、膝で身体を押し出す。腹から血が流れるたびに、カーペットに赤い軌跡が描かれる。

(間に合え——!!)

 男の腕が振り下ろされた。

 リムゾムの白いブラウスに、赤い染みが広がった。

 彼女は胸を押さえ、ゆっくりと——まるでスローモーションの映像のように、膝から崩れ落ちた。

 床に手をつき、そのまま横向きに倒れる。

 彼女の瞳が、俺を見た。

 その視線に、言葉はなかった。

「あぁああああああぁ」

 喉が裂けるような声が、自分の口から出た。

 リムゾムが——彼女が——。

 心臓が跳ねるたびに、腹から液体が脈打って溢れる。まるで誰かが心臓を鷲掴みにして、スポンジのように絞っているかのように。目の前の床に、深紅の水溜まりが静かに広がっていく——まるで時間をかけて咲く花のように、ゆっくりと、ゆっくりと。

 呼吸が浅い。空気が喉を通らない。

 これが、終わり——。


(終わる? ここで?)

 違う。

(まだ何も始まっていない)

 十年間、画面の向こう側で生きてきた。人と触れ合うことから逃げ、安全な場所で、安全な勝利だけを積み重ねてきた。

 それなのに——ようやく、ようやく一歩踏み出したのに。

 リムゾムの手のひらの温もりが、まだ掌に残っている。

 終わらせるな!

 終わらせるものか!

 奥歯を噛みしめた。血の味が口の中に広がる。

 俺は這った。

 右手を伸ばし、床を掴む。左手で身体を引きずる。

 腹の傷口から血が溢れるたびに、視界が白く霞む。

(届け⋯⋯届いてくれ!)

 リムゾムまでの距離——三メートル? 五メートル?

 遠い。あまりにも遠く、視界がぼやける。

 彼女の指が、微かに動いた。

 俺に向かって、手を伸ばそうとしている。

(行く⋯⋯必ず——)

 爪が剥がれた。指先から血が滲む。

 それでも、止まらなかった。

 止まれなかった。

 やっと——やっと、彼女の指先に触れた。

 冷たい。

 さっきまで温かかった手のひらが、もう冷たくなり始めている。

「リム⋯⋯ゾム⋯⋯」

「⋯⋯エルピスさん」

 彼女の唇が、紫色に変わり始めていた。それでも、彼女は言葉を紡ごうとする。

 声にならない声。

 それでも、俺には聞こえた。

「——生きて」

 そして、彼女の指から力が抜けた。




 その瞬間——世界が、音を立てて裂けた。


 最初は、視界の端からだった。

 空間に亀裂が走る。ガラスが割れるように、現実が砕け散る。

 その裂け目から、光が——いや、光という言葉では足りない。

 眩さではなく、圧力。

 視覚ではなく、存在そのものを侵食する何かが、溢れ出してくる。

(何だ、これは——?)

 痛みが消えた。

 腹の傷も、爪の痛みも、すべてが無になっていく。

 身体が溶ける——いや、溶けているのか、消えているのか、それとも別の何かに変わっているのか。

 境界が曖昧になる。

 俺という存在の輪郭が、白い奔流に呑み込まれていく。

(死ぬ、のか? いや——もう死んだのか?)

 足元に床がない。

 重力がない。

 呼吸ができない——それなのに、息苦しくもない。

(ここは——)

 死後の世界?

 それとも、死ぬ瞬間に見る幻覚?

(いや、違う!)

 これは——何か別の、場所だ。

 陽炎のような揺らぎが、輪郭を持ち始める。

 太い、縦の線。

 樹皮のような質感。

(木——?)

 巨大だ。

 見上げても、頂が見えない。どこまでも、どこまでも伸びている——いや、伸びていた、のか?

 近づくにつれ、表面のひび割れが見えてきた。

 深い亀裂が、幹全体を覆っている。まるで、干からびた死体のように。

 枝という枝はすべて折れ、葉は一枚も残っていない。樹皮は灰色に変色し、かすかに腐敗の臭いがした。

(臭い? この空間に?)

 この木の大きさなら——生きていた頃は、どれほど巨大だったのか。

 天を覆うほどの枝葉を持っていたのかもしれない。

 だが今は、骨のように乾いた幹だけが、最後の威厳を辛うじて保っている。


 《《この木は——死にかけている》》。


 その根元に——何かが、いる。

 最初に見えたのは、触手だった。

 太く、長く、半透明の——何かが、地面から生えている。

 いや、生えているのではない。蠢いている。

 無数の触手が、ゆっくりと、波打つように動いている。

(何だ、あれは——)

 視線を上げた。

 人の、形。

 女性の、上半身?

 だが、大きい——あまりに大きい。

 俺の身体など、その足元にも満たない。ビルを見上げるような——いや、それ以上の圧迫感。

 肌は青白く、透き通っている。

 その胸に、何か、咲いている。

 青い、花? いや、違う。光っている。星のように。

 それが無数に、胸の表面で明滅している。

(気持ち悪い——)

 額を見た瞬間、怖気が走った。

 第三の目。

 縦に開いた、瞳。

 それが、俺を見ている。

 真っ直ぐに。値踏みするように。

 背筋が凍った。

 身体が、震える——動かない。

 逃げなければ——そう思うのに、足が動かない。

(これは——)

 神、なのか?

 違う。こんなもの、神なんかじゃない。

 これは——化け物だ。


『——エルピス。希望の名を持つもの』

 声が、脳に直接響いた。

 男でも女でもない。老人でも子供でもない。

 あらゆる声が混ざり合い、それでいて完璧な調和を持つ——抗えない言葉。

 感情がない。慈悲も、残酷さも、何もない。

 ただ、絶対的な命令だけが、俺の存在を貫く。

「……俺は死んだのか?」

 自分の声が、あまりにも小さく、哀れに響く。

 腹に手を当てた。傷口はなかった。

『——力を与えよう』

 神は——答えない。

 俺の問いなど、聞こえていないかのように。

 いや、聞こえているが、答える価値もないと判断しているのか。

 その声は、冷たい。

「ここはどこだ?」

 俺の声は震えていた。虚空に吸い込まれていく。

『——喜べ、我が吐き捨てる力を授けられることを』

 神の口が開いた。何メートルもの長さを持つ舌が、蛇のように伸び出す。

 その先端には眩く輝く光の珠——唾液の中で脈動し、甘美な芳香と腐敗の臭気を同時に放っていた。

 生と死、喜びと絶望、救済と堕落——すべてが混在する光の珠が、俺に近づいてくる。

 身体が動かない。

「やめろ!」

 叫びは虚しく響いた。

『——祝え、呪いの力を、呪え、祝いの力を』

 神の言葉は矛盾に満ちていながら、絶対的な真実として迫ってくる。

「俺に何をするつもりだ」

 答えは行動で示された。

 光の珠が俺の右目に抉り込まれた。

 灼熱——いや、それを超えた痛み。星が爆ぜるような激痛。喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。

『——妾の契約に縛られた者の一人として生きよ』

 右目を押さえながら、俺は吠えた。

「お前はなんだ。俺に何をするんだ」

 神は答えない。その存在は俺の問いを聞き流し、ただ嗤った。

『——六度、世界を作った』

「世界? なんのことだ?」

『六度、破れた』

 神の声が、途切れ途切れになる。

『妾は——他の神々に——蹂躙され』

 言葉が霞む。

 意味が掴めない。

『大樹は——朽ちる』

「何を言っているんだ。わかるように言え!」

『七度目の——世界、エルピス、おまえが——』

「何の話だ!」

『皇國を、導け』

「皇國?」

 最後、絞り出すように神は呟く。

『——希望の子よ、妾のために抗え、足掻け、そして、その生命を儚く散らせ』

(散らせ——だと?)

 俺を殺した男と女神が重なり合う。


 理不尽だ。

 理不尽すぎる。

 あまりにも、理不尽すぎるだろう!


 リムゾムの顔が浮かんだ。

 白いブラウスに広がる赤い染み。

 紫色になった唇。

 あの声——「生きて」と言った。

 掌に、まだ残っている。

 あの冷たい指先の感触。

 最後に触れた、彼女の手。


(散らせ、だと?)

 俺の内側から炎が湧き上がった。灼熱の痛みを押しのけて、怒りが台頭する。

「ふざけるな!」

 右目の奥で、何かが脈動した。

 埋め込まれた光の珠——それが、俺の怒りに呼応するように熱を帯びる。

「俺はおまえを見つけ出す——必ず、必ず見つけ出して——」

 喉が焼ける。

 それでも、言葉を吐き出す。

「——復讐する!」


(これは、誓いだ)

 リムゾムが言った——「生きて」と。

(だったら、生きてやる)

 この神を——見つけ出して、必ず——。


 光が急速に失われていく。

 白い空間が、闇に変わっていく。

 意識が、また別の場所へ引きずり込まれる。


 神の姿が遠ざかっていく——いや、俺が落ちているのか?

(忘れない——絶対に、忘れない!)

 視界が暗転する。まるで扉が閉じるように。

 最後に聞こえたのは——嗤い声だった。

 だが、どこか悲しげでもあった。

 まるで、己の運命を哀れんでいるかのように。


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