プロローグ
ホテルの廊下に出て、俺は夜景を見ていた。
窓ガラスに映る自分の顔——目の下に影が落ち、頬はこけている。それなのに、唇の端がほんの少しだけ上がっていることに気づいた。疲労で重くなった瞼の奥に、何か温かいものが灯っている。十年ぶりに感じる感覚だった。
エルピス——希望を意味するハンドルネーム。
今日、その名前が世界の頂点に立った。
「ふふ」
俺は右手を見つめた。
まだ、あの温もりが残っているような気がした。
数時間前、初めて触れた他人の手のひら。その感触が、まだ消えていない。
カーペットを踏む、柔らかい音。
最初は遠く、それから少しずつ近づいてくる。
俺は視線を街並みに戻した。眼下に広がるビル群の灯り。遠くで救急車のサイレンが、ガラス越しに届いている。
足音が止まった。
背後の空気が、微かに動いた。
(誰かいる?)
首筋に、視線の重さを感じる。振り向かずに、ガラスに映る影を探した。フードを被った人影——その輪郭が、街の光に揺れている。
呼吸の音が聞こえた。荒く、不規則で、喉の奥で引っかかるような息遣い。
そして、酒の臭い。安い蒸留酒の、鼻を突く刺激臭が、ゆっくりと俺の背後から近づいてくる。
(まずい)
足を動かそうとした瞬間、
背後から熱い吐息が首筋にかかった。
「⋯⋯ッ」
腹部に何かが突き刺さった。
熱い金属の感触——いや、それが理解できたのは数秒後のことだ。
ドクン。心臓が一度跳ねた。脇腹のシャツが生温かく濡れていく。
指先で触れると、粘ついた液体が糸を引いた。視界の端が白く滲み始める。
(刺された?)
理解が追いつかない。
痛みがない——いや、痛いはずなのに、脳がそれを拒否している。
現実感がない。まるで他人事のように、自分の腹から血が流れるのを眺めていた。
ドクン、ドクン、ドクン。心臓が獣のように暴れ出す。血管の中を、氷と炎が同時に駆け巡る。視界の端が白く発光し始めた。これは——死ぬ、という現象なのか?
指先が小刻みに震え、次いで腕が、肩が痙攣し始めた。奥歯がガチガチと音を立てる。自分の意志では止められない。
足元の床が、まるで船の甲板のように傾いだ。
いや、傾いているのは世界ではなく、俺の方だ。
なぜ、俺は——
「お、お、お、おまえが——エルピスだな」
深く被った男の声が、まるでガラスの破片を喉に詰まらせたように震えていた。
その両手に何か握られている。
ナイフの柄を握る指が小刻みに痙攣し、俺の体内で刃が左右に揺れる。腹の奥で何かが裂ける音がした——ミチミチと、濡れた布を引き裂くような。
「う、うぐぅ⋯⋯」
男の手首を掴もうとした。
指が空を掻く。まるで水の中で溺れる者のように、俺の腕はただ虚しく宙を泳いだ。
膝が折れた。
コンクリートの床が俺の膝頭を打つ。冷たい。
(どうして——)
数時間前に獲得した黄金のトロフィーが脳裏に浮かぶ。今はホテルの部屋に置かれている。
俺は——頂点に立ったのだ。
ストラテジーゲーム『七女神大戦』。
半日にも及ぶ決勝戦が数時間前に終わり、リムゾムが手を差し出してきた。
「素晴らしい試合でした、エルピスさん」
理知的な瞳を持つ、二十代半ばと思われる女性——。
その瞬間、俺の思考が凍りついた。
(触れる? 人の肌に?)
施設を出てから十年——コンビニは無人レジ、配達は置き配、すべてを機械越しに済ませてきた。それなのに今、目の前に白い手のひらが差し出されている。
掌に汗が滲んだ。じっとりと湿った手で、彼女の手を濡らしてしまうのではないか。心臓が一拍跳ねるたびに、新しい汗が毛穴から押し出される。指先が微かに震えた。
それでも——俺は手を伸ばした。
彼女の手のひらは、想像していたよりも小さかった。そして、温かかった。
心臓が、まるで少年のように暴れていた。
そして今、全身からは冷や汗が吹き出している——あのときとはまるで違う種類の汗だ。
耳元で空気が破裂した。
「おまえが優勝できるわけがないんだ!」
男の声が、夜の静寂をナイフのように切り裂く。
「⋯⋯どうして?」
「皇國で⋯⋯勝てるわけが、ない」
男の金切り声が裂けた。
「ズルしたんだ! そうだろ!? じゃなきゃ——じゃなきゃ俺が——」
言葉が途切れる。
ナイフを握る手が、激しく震えていた。
唾が飛んだ。首筋に熱い飛沫がかかる。
その生々しい湿り気に、俺の意識は再び腹の痛みへと引き戻された。ただゲームに勝っただけなのに——なぜこの熱が、この憎悪が、俺に向けられる?
廊下の向こうで人影が揺れた。
「きゃあぁ! 誰か来てください!」
女性の悲鳴が空気を震わせる。
リムゾムだった。
男がナイフを引き抜いた——腹の奥で何かが吸い込まれるような感覚。そして、闇が広がった。
——ドクン⋯⋯ドクン。
ナイフが床に落ちる。
金属が冷たい音を立てた。
その音と同時に、俺の命が——何か大切なものが、身体から音を立てて流れ出していく。
フードの男が、震える手でナイフを拾い上げた。
そして、リムゾムに向かって歩き出した。
(やめろッ!)
声が出ない。喉が血で満たされている。
「やめ——」
口から溢れ出たのは、言葉ではなく赤黒い液体だった。
リムゾムが後ずさる。両手を前に突き出して。
「いやぁ、やめて、お願い——」
彼女の声が、廊下に響く。
男の腕が振り上げられた。
刃が、街の灯りを反射して鈍く光る。
俺は這った。
指先で床を掻き、膝で身体を押し出す。腹から血が流れるたびに、カーペットに赤い軌跡が描かれる。
(間に合え——!!)
男の腕が振り下ろされた。
リムゾムの白いブラウスに、赤い染みが広がった。
彼女は胸を押さえ、ゆっくりと——まるでスローモーションの映像のように、膝から崩れ落ちた。
床に手をつき、そのまま横向きに倒れる。
彼女の瞳が、俺を見た。
その視線に、言葉はなかった。
「あぁああああああぁ」
喉が裂けるような声が、自分の口から出た。
リムゾムが——彼女が——。
心臓が跳ねるたびに、腹から液体が脈打って溢れる。まるで誰かが心臓を鷲掴みにして、スポンジのように絞っているかのように。目の前の床に、深紅の水溜まりが静かに広がっていく——まるで時間をかけて咲く花のように、ゆっくりと、ゆっくりと。
呼吸が浅い。空気が喉を通らない。
これが、終わり——。
(終わる? ここで?)
違う。
(まだ何も始まっていない)
十年間、画面の向こう側で生きてきた。人と触れ合うことから逃げ、安全な場所で、安全な勝利だけを積み重ねてきた。
それなのに——ようやく、ようやく一歩踏み出したのに。
リムゾムの手のひらの温もりが、まだ掌に残っている。
終わらせるな!
終わらせるものか!
奥歯を噛みしめた。血の味が口の中に広がる。
俺は這った。
右手を伸ばし、床を掴む。左手で身体を引きずる。
腹の傷口から血が溢れるたびに、視界が白く霞む。
(届け⋯⋯届いてくれ!)
リムゾムまでの距離——三メートル? 五メートル?
遠い。あまりにも遠く、視界がぼやける。
彼女の指が、微かに動いた。
俺に向かって、手を伸ばそうとしている。
(行く⋯⋯必ず——)
爪が剥がれた。指先から血が滲む。
それでも、止まらなかった。
止まれなかった。
やっと——やっと、彼女の指先に触れた。
冷たい。
さっきまで温かかった手のひらが、もう冷たくなり始めている。
「リム⋯⋯ゾム⋯⋯」
「⋯⋯エルピスさん」
彼女の唇が、紫色に変わり始めていた。それでも、彼女は言葉を紡ごうとする。
声にならない声。
それでも、俺には聞こえた。
「——生きて」
そして、彼女の指から力が抜けた。
その瞬間——世界が、音を立てて裂けた。
最初は、視界の端からだった。
空間に亀裂が走る。ガラスが割れるように、現実が砕け散る。
その裂け目から、光が——いや、光という言葉では足りない。
眩さではなく、圧力。
視覚ではなく、存在そのものを侵食する何かが、溢れ出してくる。
(何だ、これは——?)
痛みが消えた。
腹の傷も、爪の痛みも、すべてが無になっていく。
身体が溶ける——いや、溶けているのか、消えているのか、それとも別の何かに変わっているのか。
境界が曖昧になる。
俺という存在の輪郭が、白い奔流に呑み込まれていく。
(死ぬ、のか? いや——もう死んだのか?)
足元に床がない。
重力がない。
呼吸ができない——それなのに、息苦しくもない。
(ここは——)
死後の世界?
それとも、死ぬ瞬間に見る幻覚?
(いや、違う!)
これは——何か別の、場所だ。
陽炎のような揺らぎが、輪郭を持ち始める。
太い、縦の線。
樹皮のような質感。
(木——?)
巨大だ。
見上げても、頂が見えない。どこまでも、どこまでも伸びている——いや、伸びていた、のか?
近づくにつれ、表面のひび割れが見えてきた。
深い亀裂が、幹全体を覆っている。まるで、干からびた死体のように。
枝という枝はすべて折れ、葉は一枚も残っていない。樹皮は灰色に変色し、かすかに腐敗の臭いがした。
(臭い? この空間に?)
この木の大きさなら——生きていた頃は、どれほど巨大だったのか。
天を覆うほどの枝葉を持っていたのかもしれない。
だが今は、骨のように乾いた幹だけが、最後の威厳を辛うじて保っている。
《《この木は——死にかけている》》。
その根元に——何かが、いる。
最初に見えたのは、触手だった。
太く、長く、半透明の——何かが、地面から生えている。
いや、生えているのではない。蠢いている。
無数の触手が、ゆっくりと、波打つように動いている。
(何だ、あれは——)
視線を上げた。
人の、形。
女性の、上半身?
だが、大きい——あまりに大きい。
俺の身体など、その足元にも満たない。ビルを見上げるような——いや、それ以上の圧迫感。
肌は青白く、透き通っている。
その胸に、何か、咲いている。
青い、花? いや、違う。光っている。星のように。
それが無数に、胸の表面で明滅している。
(気持ち悪い——)
額を見た瞬間、怖気が走った。
第三の目。
縦に開いた、瞳。
それが、俺を見ている。
真っ直ぐに。値踏みするように。
背筋が凍った。
身体が、震える——動かない。
逃げなければ——そう思うのに、足が動かない。
(これは——)
神、なのか?
違う。こんなもの、神なんかじゃない。
これは——化け物だ。
『——エルピス。希望の名を持つもの』
声が、脳に直接響いた。
男でも女でもない。老人でも子供でもない。
あらゆる声が混ざり合い、それでいて完璧な調和を持つ——抗えない言葉。
感情がない。慈悲も、残酷さも、何もない。
ただ、絶対的な命令だけが、俺の存在を貫く。
「……俺は死んだのか?」
自分の声が、あまりにも小さく、哀れに響く。
腹に手を当てた。傷口はなかった。
『——力を与えよう』
神は——答えない。
俺の問いなど、聞こえていないかのように。
いや、聞こえているが、答える価値もないと判断しているのか。
その声は、冷たい。
「ここはどこだ?」
俺の声は震えていた。虚空に吸い込まれていく。
『——喜べ、我が吐き捨てる力を授けられることを』
神の口が開いた。何メートルもの長さを持つ舌が、蛇のように伸び出す。
その先端には眩く輝く光の珠——唾液の中で脈動し、甘美な芳香と腐敗の臭気を同時に放っていた。
生と死、喜びと絶望、救済と堕落——すべてが混在する光の珠が、俺に近づいてくる。
身体が動かない。
「やめろ!」
叫びは虚しく響いた。
『——祝え、呪いの力を、呪え、祝いの力を』
神の言葉は矛盾に満ちていながら、絶対的な真実として迫ってくる。
「俺に何をするつもりだ」
答えは行動で示された。
光の珠が俺の右目に抉り込まれた。
灼熱——いや、それを超えた痛み。星が爆ぜるような激痛。喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。
『——妾の契約に縛られた者の一人として生きよ』
右目を押さえながら、俺は吠えた。
「お前はなんだ。俺に何をするんだ」
神は答えない。その存在は俺の問いを聞き流し、ただ嗤った。
『——六度、世界を作った』
「世界? なんのことだ?」
『六度、破れた』
神の声が、途切れ途切れになる。
『妾は——他の神々に——蹂躙され』
言葉が霞む。
意味が掴めない。
『大樹は——朽ちる』
「何を言っているんだ。わかるように言え!」
『七度目の——世界、エルピス、おまえが——』
「何の話だ!」
『皇國を、導け』
「皇國?」
最後、絞り出すように神は呟く。
『——希望の子よ、妾のために抗え、足掻け、そして、その生命を儚く散らせ』
(散らせ——だと?)
俺を殺した男と女神が重なり合う。
理不尽だ。
理不尽すぎる。
あまりにも、理不尽すぎるだろう!
リムゾムの顔が浮かんだ。
白いブラウスに広がる赤い染み。
紫色になった唇。
あの声——「生きて」と言った。
掌に、まだ残っている。
あの冷たい指先の感触。
最後に触れた、彼女の手。
(散らせ、だと?)
俺の内側から炎が湧き上がった。灼熱の痛みを押しのけて、怒りが台頭する。
「ふざけるな!」
右目の奥で、何かが脈動した。
埋め込まれた光の珠——それが、俺の怒りに呼応するように熱を帯びる。
「俺はおまえを見つけ出す——必ず、必ず見つけ出して——」
喉が焼ける。
それでも、言葉を吐き出す。
「——復讐する!」
(これは、誓いだ)
リムゾムが言った——「生きて」と。
(だったら、生きてやる)
この神を——見つけ出して、必ず——。
光が急速に失われていく。
白い空間が、闇に変わっていく。
意識が、また別の場所へ引きずり込まれる。
神の姿が遠ざかっていく——いや、俺が落ちているのか?
(忘れない——絶対に、忘れない!)
視界が暗転する。まるで扉が閉じるように。
最後に聞こえたのは——嗤い声だった。
だが、どこか悲しげでもあった。
まるで、己の運命を哀れんでいるかのように。




