第二章 黒い山への調停者 ②
大戦までの猶予は残り十年。
しかし、その間に白家の筆頭、白桜蔭家が何者かの手によって滅びる可能性が高いという暗い予兆を文學のみが掴んでいた。
(静かに世界は『七女神大戦』の開幕に向けて動いているってことか⋯⋯)
心地よいはずの春の風が頬を撫でるが、心がざわついて仕方がなかった。
俺の脳裏に最弱国の皇國の情報が浮かぶ。
皇國が女神・花葬朽姫と結んだ契約。
それは、皇國の民に三十五年という短すぎる生の枷をはめ、代わりに『《《神くず》》』と呼ばれる奇跡の力を、ごく一部の者に与えるというものだった。
ゲームでは単なる設定の一つだったそれが、ここでは人々の生き死に直結する。
俺は考えをまとめたく、文學のもとから一旦離れていた。
先程の会話を思い出す。
「何年前に、契約したのですか?」
「契約は十五年も前じゃ」
文學はこともなげに言った。
「ゆえに、今の皇國には三十五から五十までの熟練の働き盛りがおらん。ワシらのような五十過ぎは『前時代人』と蔑まれとる」
「じゅ、十五年⋯⋯え? でも、それなら」
俺の疑問を、老人は悟ったようだ。
「契約した年から、三十五歳を終えた者から死んでいった。皮肉なことに三十六歳だったものは生き延びた」
「ッ!」
その事実は刃物のように俺の胸に突き刺さり、血の代わりに寒気が染み出してくる。
ゲームの世界でも花葬朽姫と三十五年の契約をすると、問答無用でその年から三十五歳が終わると、人は死ぬ。
つまり——俺もその一人なのか。
残りは——二十五年。
思考が——動かない。
「すみません。少し、考える時間を⋯⋯」
「外の風でも浴びてくるがいい」
俺は庭を歩きながら、項垂れてしまう。
足が勝手に動く。気づけば、千鶴と出会った櫻の巨木の前に立っていた。
千鶴の姿が脳裏に蘇る——あの美しい翼が背から広がる瞬間。
しかし、その映像に今は別の色が重なる。灰色の、あの未来の映像だ。ギリッと軋みを上げるほど奥歯を噛み締めた。
(ゲームは三十年で終了するから初手で、花葬朽姫と契約して、能力者が育つまでを耐え忍ぶのが定石だが、すでに生まれているなら⋯⋯いや、そう単純な問題じゃないぞ)
子どもを多く作らないと国力が衰える。
それが皇國の抱える大きな課題だ。短い寿命の中で次の世代を育て、国を存続させなければならない。
しかし、それはしょせんは数の論理である。
一人、一人にスポットがあたるのは重要な役職の人物のみだ。
(この爺さんも、ゲーム内ならかなりの人物だろう)
思考を巡らせながら、俺はゲームのシステムと現実を照らし合わせていく。
ゲームの世界では三色家が国の中枢を担っていることになっていた。白家の名前など見たことなかった。
(白家は滅ぼされたってことか⋯⋯この目の力で、必ずなんとかしなくては)
ここ数日、天算眼で屋敷の使用人たちを観察していた。
侍女、庭師、料理人——彼らの頭上に浮かぶ数字は、まるで神が振ったサイコロの目のように無慈悲に能力を示す。ほとんどが十前後、十五を超える者は稀だった。
そんな中、文學の【知力: 18】【判断力: 18】という数値は、この世界の限界を示すかのように圧倒的だった。
(最高値は十八……まるで3D6の判定みたいじゃないか)
ゲームのシステムが頭をよぎる——あの無機質なインターフェース。クリック一つで決まる運命。数字で序列化される命。喉の奥が焼けるように熱い。胃の底から何かが這い上がってくる。
現実世界では見えなかった物が見えた。
世界の皮を一枚剥がして、その下の生々しい肉を見せられたような——吐き気を催す冒涜だった。
(人々はゲームの駒じゃないだろう)
その日その日を、人々は笑顔で生きている。
お見合い相手を選ぶことにイキイキと奔走する母の雪路。それに俺を見るたびに抱きついてくる可愛い妹の清香。
彼女たちの笑顔が脳裏に浮かぶ。温かい。柔らかい。しかし、その映像の周囲が——じわじわと黒く侵食されていく。まるで写真が焼けていくように。
指先が冷たい。まるで氷水に浸けられたように感覚が遠のいていく。
(十年後の大戦を前に、歴史の流れを変えることは可能なのだろうか?)
背後から足音が聞こえてきた。
文學の声に現実に引き戻される。
「落ち着いたか?」
「はい」
「部屋に戻るぞ」
「はい」
老人が歩き出す。痩身だが、印象は違う。その背中は——まるで山脈のように、どっしりとして動じない。威厳が、空気を押しのけるように前を進んでいく。俺はその後ろを、ただ黙って追った。
部屋に戻った文學は、机の引き出しから一枚の絹布を取り出した。
指先が布の端を掴む。ゆっくりと広げる——皇國の地図が現れた。
五つの島が並ぶ群島の国が皇國である。
北に位置するのが加州で白家が代々支配する領土だ。
東の山脈が多い島を慶州と呼び黒家が治めている。南の島は平州、西の島は煌州、そして中央の小さな島は皇州と呼ばれる。
「触れてみよ」
「はい」
俺は地図に指を這わす。
絹布の滑らかな触感が指先に伝わる。墨の香りが鼻腔をくすぐる。細かな筆遣いで描かれた山脈や海岸線——それらは確かにそこにある。これは記憶でも夢でもない。手が、それに触れている。
「白と黒は五百年来の不仲じゃ」
文學は淡々と説明した。
「隣国が仲良しということは歴史的にありません」
「うむ。その通り⋯⋯それで開幕の年に、加州と慶州を支配しているのはどこじゃ?」
老人が地図を睥睨する。
「慶州は赤家。加州は青家と黄家の分割統治です」
俺の言葉に、文學の指が地図の上で止まった。その指先が、わずかに震えている。老人は地図を見つめたまま——瞬きもせず——まるで石像のように動かない。
「⋯⋯」
沈黙が部屋に降りる。重い。
なぜ、俺は今まで気づかなかったのだろう。
脳裏にゲーム画面が浮かぶ——あの見慣れた皇國地図。加州の真ん中を縦に切り裂く、定規で引いたような一本の境界線。
他の地域の国境線は山や川に沿った自然な曲線を描いている。しかし、あれだけが——あれだけが異質な真っ直ぐな線。その境界線は現実社会でも見たことがあった。両手を机に押し付けた。
(明らかに戦後の痕跡じゃないか)
白家の領土が青家と黄家に分割された証拠だ。
「我が白家は⋯⋯白桜蔭家は滅びるというのだな」
文學の声は静かだった——しかし、その静けさには何かが潜んでいる。まるで湖面の下で巨大な何かが蠢いているような。
「⋯⋯」
重い沈黙。
深く刻まれた皺の谷間に影が落ち、翡翠色の瞳が異様な輝きを放っていた。唇の端が上がるその表情には、滅亡を告げられたはずの家の当主としての悲哀は——微塵も感じられない。
それどころか——。
「ははははははは、面白い」
それは、まるで、長年待ち望んだ時が来たと告げられた者の表情だった。
背筋を何かが這い上がる。冷たい爪が一本、また一本と皮膚を引っ掻いていく。祖父の笑みには、何か壮大な計画が——見えない糸が無数に張り巡らされているような——そんな予感がした。
「赤家のあやつの視点に立てば、おおよその青写真は浮かぶというものじゃ」
文學が黒い笑みを浮かべたまま俺を見る。
「と、いいますと?」
「曉人よ。ゲームの化かしあい⋯⋯第二幕を開こうじゃないか」
文學は言うと座敷の隅にある鈴を手に取った。
チリン——澄んだ音が空気を震わせる。一度、二度。
すぐに扉が静かに叩かれた。
「入れ」
「はッ」
十五、六歳と思わしき学生服の少年が恭しく頭を下げた。黒い詰襟、腰には真鍮の飾りのついた革ベルトが締められている。
「早苗を呼べ」
「かしこまりました」
少年は一礼すると、音もなく立ち去った。廊下に消えていく足音——それは次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
しばらくして、別の足音が近づいてくる。先ほどとは違う——もっとゆっくりとした、躊躇いがちな足音だ。
扉が開き、一人の少女が現れた。
その少女——早苗と呼ばれた者は十三、四歳ほどだった。
しかし、彼女の眼差しは虚空を見つめ、焦点が合っていない。まるで曇りガラスのように光を反射するだけで、その奥に何も映っていないようだった。足を運ぶ動きには慎重さがあり、黒髪は肩まで伸び、端正な顔立ちをしていたが、汚れも目立っていた。
両手を少し前に出して、ゆっくり進む。指先が空気を探るように動き、足裏で床の感触を確かめるように、一歩ずつ。
若草色の質素な着物を着た少女は、部屋の中央まで進むと、文學の声がした方向へと顔を向けた。
「旦那さま、およびでっしゃろか?」
田舎訛りの柔らかい声は、どこか遠くから響いてくるように聞こえた。
「今月の力は回復したか?」
文學の問いかけに、少女は小さく頷いた。
「へい、また、二人、おどこでも、おなごにでも、すること可能ですけろ」
早苗の言葉に、文學の口元が——さらに深く、弧を描いた。
「おまえの力を借りたい」
文學が穏やかな声音で言った。それは命令というよりも、いつもの会話のような自然さがあった。
「おらの力は、旦那さまのためにありますんだ。遠慮なく命じてけろ」
早苗は胸の前で両手を重ね、頭を下げる。
「うむ」
文學は満足げに頷くと、部屋の中の人間を見回した。
「では、目の前の男を一人、女にしてもらおう」
その言葉に、書生の顔が——一瞬にして赤く染まった。まるでインクを零したように、頬から耳へ、首筋へと紅潮が広がる。慌てた様子で文學を見つめる——目が見開かれ、唇が小刻みに震えている。
「わたくしでしょうか?」
書生の声は裏返り、最後の音節が不自然に高くなった。体が小刻みに震えていた。
「違うわ。曉人じゃ」
文學が指さした先は俺だった。
予想外の展開に、頭の中が真っ白になる——音が消える。視界が揺れる。心臓が暴れ馬のように駆け出した。
ドクン、ドクン、ドクン——。
(女に! 俺を女にするだと!? そんなことできるのか?)
慌てて眼帯をずらす。指先が震えて、一度では上手く掴めない。
早苗を観察する。彼女の姿が天算眼の視界に映る——その周りに淡い光の粒子が舞い、数値が浮かび上がった。
筋力: 6
敏捷性: 8
耐久力: 7
知力: 9
判断力: 11
魅力: 13
神くず:【性転の術】
能力値は全般的に平均以下だが、彼女の持つ【性転の術】という力が鮮明に目に見えた。その能力の詳細までは読み取れないが、文學の会話内容や、能力の名前通りなら俺の体に大きな変化をもたらす可能性が高い。
「お祖父さま、これは一体⋯⋯」
動揺が声に滲む。言葉の最後が震え、掠れた。
文學は軽く手を振った——まるで煩わしい虫を払うように。その動作には、俺の不安など歯牙にもかけない冷酷さがあった。
「これも我らのゲームの一部じゃ。お主の価値を示してみろ」
「どうして、女なんですか!?」
「男では、慶州に入れん」
文學が、断言する。
「いや、それは⋯⋯」
「白家の男児が慶州に? 黒家は即座に警戒する」
老人が、地図を指す。
「だが、花嫁候補なら?」
「⋯⋯」
「門が、開く」
シンプルだが、否定できない。
「それに、おまえは知っておるじゃろう?」
文學の目が、細まる。
「⋯⋯」
千鶴の、未来が脳裏に蘇る。
どこまで知られているんだ。しかし、それは俺の勘違いだった。
「すでに、おまえは男の視点を獲得している」
成人男性の、な。という言葉が隠されている。
反論ができない。
「皇國で立場の弱い女になって、隅々まで見てくるがいい」
「いや、そんなことが」
俺は動揺する。
「⋯⋯旦那さま、こちらのお方なんすね」
「ああ、やれ」
早苗が躊躇なく俺に近づいてくる。盲目の瞳は焦点を結ばないまま、しかし足取りは確かだった。床を踏む音——柔らかく、しかし一歩ずつ確実に近づいてくる。
「上着を脱いでけろ」
彼女の言葉は柔らかいが、有無を言わせぬ強さがあった。
「いや、ちょっと待ってください。心の準備が」
声は上ずり、俺は後退る。
文學が嘲るように笑った。
「人生に『心の準備』などという戯言は存在せぬ。訪れるものはただ受け入れ、対処することこそが男の道というものじゃ。覚えておけ」
「これから、女になるんですよね?」
俺のツッコミに早苗が間髪入れず返してくる。
「女は度胸だっぺ!」
早苗の手が俺の着物に伸びる——小さな指が器用に帯を探り、結び目を見つける。ほどく。襦袢の合わせ目を探る。盲目であるにもかかわらず、その動きには迷いがなかった。まるで目が見えているかのように。
「待って⋯⋯」
言葉は虚しく空気に溶けていった。
この部屋で決定権があるのは文學のみだ。
襦袢が開かれる。冷たい空気が肌に触れた。
早苗の手が俺の胸に触れた——冷たい。次いで股間に伸びる。
「ひゃあ!」
股間を掴まれた。
思わず上ずった声が漏れる。十歳の体とはいえ、触れられた部分が——反応してしまう。
「女の子みたいな声だけろ。それに肌も絹のように艷やかで、こんな肌理の細かい肌に触れたのは、おら初めてだ。おなごにするのか、もうなっているのか、頭がこんがるでよ」
早苗の素朴な言葉が、羞恥に油を注ぐ。
顔が——耳まで——首筋まで——熱い。
「何をする気ですか!」
俺は抗議の声を上げるが、早苗は意に介さない様子だ。
「静かにしてけろ、おらも集中するけろ」
早苗の指先から、月光を練り上げたような冷たい光が溢れ出した。それは液体のように指の間から滴り、空中で泡沫の泡となり弾ける。そして、まるで意志を持つかのように俺の肌を目指して染み込んでくる。
瞬間——。
全身の毛穴が、一斉に開いた。
鳥肌が、波のように押し寄せる。首筋から、背中へ、腕へ、脚へ。
光が染み込んでくる。
皮膚を透過して、血管に、筋肉に、骨に——細胞を沸騰させる。
(何だ、これは!)
痛みはない。
だが、熱い。内側から、すべてが灼かれている。
骨がきしむ。
ギシ、ギシ、ギシ——。
筋肉が溶ける。
まるで蝋のように、形を失っていく。
そして、再構築される。
別の何かに——。
「ひッ!」
裏返った声が、出た。
間髪入れず、胸が疼く。内側から、何かが押し上げてくる。
甘い——痛み?
いや、違う。これは小さいが乳房だ。
(やめろ! やめてくれ!)
脳が、拒絶する。
だが、身体は他人のように触れられているように、繊細に感じてしまう。
細胞の一つ一つが、痛みでも快楽でもない——不思議な感覚に包まれた。
まるで、自分が、自分から離れていくような浮遊感。
「————ッ!」
「いつ見ても、けったいな神業じゃな」
文學は冷静な観察者のように俺の変化を見つめていた。
「く、うぅ⋯⋯」
俺の体を包む光が徐々に収束していく。まるで闇に溶ける夜明けの星のように、光はじょじょに薄れ——透明になり——やがて完全に消えた。
沸騰した血液がゆっくりと元に戻っていく。その感覚が消えると、早苗は身体から蒸気をあげるほど汗塗れになり、糸が切れた人形のように——力なく崩れ落ちる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
その額には無数の汗粒が浮かび、光を反射している。呼吸は荒く乱れ、肩が激しく上下していた。
「これは⋯⋯」
全員の視線が俺に集中する。突き刺さる重みに、体が硬直した。
「旦那さま、上手くできたけろ?」
早苗が文學がいる方とは明らかに違う方向——ほとんど正反対の壁に向かって訊ねた。
「⋯⋯」
文學も書生も言葉を失っている。
空気が凍りついたように、誰も動かない。
書生の顔には驚愕の色が広がり、口が半開きになったままだ。
しかし、文學はすぐに皮肉げな表情を取り戻した。口元に浮かんだ微笑みには、何か企みがあることが明白だった。
「おぬしは生まれる性別をやっぱり間違えておったな。早苗がもっと早くからいたら、女児として育てたものを⋯⋯」
老人の言葉に、俺は慌てて自分の体を見下ろした。確かに何かが違う——視線が落ちる先に、以前にはなかった膨らみがある。小さいながらも、確かな膨らみが双つ存在する。体の重心が変わり、バランスがおかしい。
「な、な、なんだ、これは!」
「鏡を」
書生が差し出した手鏡を、震える指で受け取る。金属の冷たさが掌に伝わる。恐る恐る覗き込んだ。
瞬間、息を呑んだ。
「……誰だ、これ?」
鏡に映るのは、雪のように白い肌、翡翠色の大きな瞳を持つ、見知らぬ美少女だった。俺自身の面影は残っている——しかし、線の細さ、頬の丸み、唇の色艶。
紛うことなき美少女だ。
見たことのない美少女。いや、違う。見たことが、ある。
この顔——。
母の、顔だ。
雪路のきっと若い頃の顔だ。
そして清香の、未来、だ。
(これが、俺? 嘘だ。本当に女だなんて)
鏡の中の少女が目を見開いている。
俺が、口を開けば——少女も、口を開ける。
俺が、目を瞬けば——少女も、瞬く。
「う、嘘だ」
声が高い。だが、その声は俺の骨を振動させる。
戦慄く身体を止められず、祖父を見返す。
「お、祖父さま、これは?」
絞り出した声は、自分でも驚くほど高く、澄んでいた。まるで鈴を転がすような、透明感のある響き。これは俺の声じゃない。
驚きで言葉を失う俺の視界には、天算眼によって自分の能力値が浮かび上がっていた。
筋力: 7 (-1)
敏捷性: 13 (+1)
耐久力: 9 (-1)
知力: 16 (変化なし)
判断力: 14 (変化なし)
魅力: 17 (+1)
神くず:【愚者の眼:未識眼、天算眼】
肉体的な数値はわずかに変化していた。
「これは一体⋯⋯」
「その体で慶州に行ってもらう。表向きの理由は、そうじゃな——」
「⋯⋯」
文學は人の悪い笑みを浮かべていた。
まるでこれから楽しいことが起こるかのように。
「今度はおまえが花嫁候補として、慶州で見合いをして来い」




