零章
「白き魔女が出たぞ」
帝國兵の列に、戦慄に似た動揺が波紋のように広がった。
先刻まで戦場を照らしていた月明かりが、重い雲に遮られる。
闇が降りた瞬間、帝國兵たちは慌てたようにライトを点けた。青白い光が仲間たちの顔を浮かび上がらせると、互いに息を呑んだ。褐色の肌、血のように赤い瞳、泥に汚れた金色の髪——誇り高き帝國の戦士たちの顔に、今は恐怖の色が滲んでいる。
「上官……白き魔女とは?」
若い兵士の声が震えていた。
「皇國のエース・オブ・エースだ」
上官は低く答える。その声にも、かすかな緊張が宿っていた。
「しかし、皇國軍は慶州から撤退したのでは?」
「やつは単騎でも戦局を覆す。それが白き魔女という化け物だ」
風が吹いた。草叢がざわめき、誰もが息を殺して闇の向こうを見つめている。
「ライトを消せ」
命令と共に、深淵がすべてを包み込んだ。
闇が落ちた瞬間、恐怖という名の冷気が兵士たちの背筋を這い上がる。誰もが息を殺し、見えぬ敵の気配に身を竦ませていた。
「アレクシス、俺と背中を合わせろ」
「はっ」
下級兵アレクシスは、上官の逞しい背中に自分の背を預けた。
まだ十四歳の少年にとって、大人の筋肉で覆われたその背中は何よりも頼もしい盾であった。しかし、厚い肉の壁越しにも、上官の心臓が激しく脈打つのが伝わってくる。恐怖は階級を問わず、すべての者を平等に支配していた。
風もない夜に、野獣の遠吠えが木霊した。
「ナアァァァァっぁぁぁぁッぁ!」
その声は人のものではなかった。
アレクシスは銃を構えながら、喉の奥で小さく息を呑む。闇の向こうから、何かがこちらを見つめているような——そんな悪寒が、少年の肌を粟立たせた。
帝國軍は昼間の戦闘では連戦連勝を重ねていたはずだった。
それが夜の訪れとともに、慶州の深い山あいに誘い込まれたような錯覚さえ覚える。
「こんな絶壁の坂に潜むことなど、絶対に不可能だ」
上官の声が闇に響く。
「はい!」
あたりの至るところから、兵士たちの反応が返ってきた。
「お前ら、銃だけはいつでも撃てるようにしておけよ」
「はっ! 準備万端であります」
「しかし、やつらは妖術を使うと聞きます」
「神くず使いのほとんどは女だ。遅れを取ることはない! 我らは誇り高き帝國兵士だ!」
『おおおおおッ!』
闇夜に男たちの怒号が響いた。
だが、それは恐怖の裏返しでしかない。声を張り上げることで、己の心の動揺を紛らわそうとする、痛ましいまでの虚勢であった。
しかし、それが功を奏したのか、天が帝國に味方したのか——曇っていた空が次第に晴れ渡っていく。
重い雲の切れ間から、満月が静かに姿を現した。
銀色の光が戦場を照らし出すと、帝國兵たちに安堵の息が漏れる。
その時だった。
遠くから悲鳴にも似た声が上がった。
「上を見ろぉぉぉ!」
兵士たちが一斉に空を仰ぐ。
急峻な山頂付近を、何かが飛んでいた。
それは鳥ではなく、人の形をしていた。月光に照らされたその影は、人の姿をしていながら、背に翼を持つ異形の存在であった。
それが幽玄に旋回している。まるで死神が獲物を品定めするかのように。
アレクシスの握る銃が、汗ばんだ手の中で滑りそうになる。
——バーンッ!
誰かが発砲した。
それを合図にしたかのように、次々と上空に向けて銃声が響く。
火花が闇を一瞬だけ照らし、硝煙の匂いが鼻を突いた。
「おまえら、待て、この距離では当たらん……」
上官が制止の声を上げたその時、険しい坂を二つの影が駆け上がってくる。
巨体を揺らしながらも、しなやかに闇を切り裂いて——それらは帝國兵を次々とその巨大な爪で切り裂き、牙で噛みついては人形のように投げ捨てていく。
悲鳴がこだました。
血の匂いが夜風に重く混ざる。
「うわぁぁ、俺の手が!」
「近づくな! くるな!」
大混乱であった。巨大な獣に銃を構えようとしても、その前には味方の兵士がおり、撃つことができない。
「くそッ!」
上官も完全に混乱していた。
指揮など取れるはずもない。
そのとき、アレクシスだけは空を見上げていた。
一人の人影が降ってくるのが見えたのだ。体を大の字に広げ、悠々と舞い降りてくる。少年のような、少女のような——その中性的な美しさに、アレクシスは息を呑んだ。
「抜刀——蒼天一抹」
朗々とした声が夜空に響いた。
少年が抜刀した瞬間、青白い炎と禍々しい瞳が闇に浮かび上がる。
妖刀から、この世のものとは思えぬ光を放っていた。
少年は空中で刀を振るう。
横一線。
その動きは舞踊にも似て、美しくも恐ろしい。
空転 —— 乱
直下 —— 嵐
空気 —— 蘭
斬り —— 濫
闇夜 —— 卵
裂き —— 瀾
火狩 —— 鸞
呪文のような音律が、アレクシスたちに降り注いでくる。
それは死の調べであった。
青い稲妻となって、鋭い斬撃が無数に降り注いでくる。アレクシスが銃を向けようとした瞬間、手にした銃身が真っ二つに切り裂かれた。背中を預けていた上官の膝から上が飛び散り、重心が傾く。アレクシスは懸命にその崩れ落ちる体を支えた。
「うわぁぁぁぁ!」
「ひおぃいいいぃ!」
遠近に悲鳴がこだまする。
「白き魔女だ!」
青い刃の稲妻が、まるで神罰のように無数に降り注いだ。
それは光でありながら死そのものであった。触れるものすべてを両断し、血と肉を大地に撒き散らす。
アレクシスは恐怖に震えながら、上官の血に濡れた体を抱きしめていた。温かい血が頬を伝い、鉄の味が口の中に広がる。
斬撃が大地を大きく裂いた。
その反動を利用して、空から舞い降りた死神は、静かに地に足をついた。その美しい顔には、何の感情も浮かんでいない。しかし、翡翠色の瞳が一瞬だけ迷いを見せた。
まるで、この力が本来の彼のものではないかのように——。
戦闘の衝撃で外れた眼帯が足元に落ちているのに気づき、魔女はそれを拾い上げて右目に嵌め直した。
しかし、意外なことに、その白き魔女はアレクシスを見ると、肩にかけていた襷を外した。
「これで縛って、止血してください」
それは流暢な帝國語であった。
「————」
だが、次は皇國の言葉で何かを呼んだ。
すると、二匹の生き物が急峻な大地を蹴って、白き魔女のもとへ駆けつけてくる。それは、アレクシスが見たことのない四つ足の生き物だった。
琥珀色のまん丸い瞳を持ち、美しい毛並みに覆われている。
いや——昔、どこかで見たことがあった。
だが、アレクシスはそこで恐怖のあまり記憶を失ってしまった。
その記憶が闇に沈む前に、上官の悲鳴じみた声が聞こえた。
「駄目だ。行かせるな! 姫様の本陣に行かせるな!」
これは、白き魔女と呼ばれ、皇國の守護者となった少年——白桜蔭曉人の始まりの物語である。
そして——時間は五年前のあの最悪な日に遡る。