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僕が薄暗い部屋で生活するようになって、一週間が経過した。
門下生の中で唯一これといって仕事のない僕は、剣を振るだけの日々を過ごしている。この部屋は静かだから問題なく寝られるし、食事も時間になると運ばれてくる。満足のいく日常が続いていた。剣を振っているだけで僕の命が消費されていくのは、この世界のためにもなると思う。
流した汗をタオルで拭いた。タオルに染み込んだ重みが充実を表しているように感じる。人と話している時の嫌な汗と違って、剣を振る時に出る汗は爽快感に溢れていた。
訪問者は、そんな僕の充実に気づいていなかった。
「レイ、久しぶりだな。元気そうでよかった」
二度のノックが聞こえた後、扉の向こうから現れたのはアッシュだった。
本来なら元気を失ってもおかしくない。暗にそう言われた気がする。僕が「まあ」と適当に濁していると、アッシュは妙に真面目な顔で僕を見た。
「よかったら前の部屋に戻らないか?」
アッシュは僕の顔を見つめる。地中深くに埋められた爆弾、その導火線がどこにあるのか慎重に探るかのように。
「この一週間、師範と話したんだ。やっぱりこれは駄目なんじゃないかって」
レイも寂しいだろ? そう付け加えたアッシュの顔を、僕はまじまじと見た。僕は馬鹿だから基本的にはっきり言ってくれないと理解できないけれど、憐憫とか同情とか、そういった感情だけは例外だった。昔からそういう感情ばかり浴びてきたので、それらの感情だけは理解しやすかった。
だからアッシュの言葉の意味は分かったし、意味不明だった。なんでこの人はここまで親切にしてくれるんだろう? 僕のせいでしばらく謝罪に追われていたはずなのに。
ちょっとイライラした。僕は本当にこの部屋の居心地をよいものだと感じている。でもアッシュにとってそれは有り得ないことだったらしい。剣を振ることさえできれば僕は幸せなのに、アッシュはそれだけでは絶対に足りないと思い込んでいる。アッシュが人間だからだろう。僕は剣のなり損ないなので、価値観が違う。
「このままでいいよ」
異なる種族との会話は神経を磨り減らした。向こうにとっても同じだと思うけれど、僕の方が劣等種なんだから色々察してほしいなって思う。
拒絶の意思を伝えた僕に、アッシュは「そういうわけには」と食い下がった。イライラが募る。もうやめてほしい。剣を振ることで忘れられていたことを、わざわざ突きつけないでほしい。
僕が何のために剣を振っていると思っているんだ。
言ってもどうせ伝わらないんだろうな。なんだか疲れたな。師範みたいに溜息を吐いてしまう。アッシュの顔が微かに険しくなった。なんだよ、そんな顔できるのかよ。じゃあ最初から来るなよ。
アッシュは僕のことを尊敬している。完璧な人間であるアッシュは、だからこそ剣のなり損ないである僕に興味がある。自意識過剰だったらどれほどよかったか。アッシュの眼差しからは、剣士としての畏敬を確かに感じた。
断ち切りたい。そう思った僕は、言ってはならないことを口にする。
「三年前のこと、覚えてる?」
アッシュが目を見開いた。してやったり、という気持ちが湧く。僕は、師範と一緒にずっと隠していた真実を、アッシュへ伝えることにした。そうでもしないと、アッシュは僕のもとから去ってくれないと思ったから。
「アッシュの剣を壊したのは僕だよ」
◆
三年前の出来事。交流会の誘いを受ける際、師範がそう呼んだ事件がある。あの件は僕と師範、それから当時僕の弟子だった少年の三人しか知らず、決して外部には漏らさないよう取り決めていたことだった。
当時、僕は蒼天一刀流の十段だった。皆伝の一つ下にあたる段位である。師範は九段で、既に僕が第一席になっていた。十段と皆伝は長らく空席だったけど、やがて僕がどちらの席にも座すことになる。
あの頃の師範は、僕がマトモじゃないことを察しているようだったけれど、今と比べるとまだ失望より期待の方が勝っていた気がする。当時の師範は僕の中に新しい未来を見ていた。蒼天一刀流の長い歴史の中で、最高の剣士が生まれるかもしれない。その可能性さえあれば、他は全部どうでもいいとすら思っていそうだった。蓋を開けば、僕が期待に応えることで師範が喜んだのは一瞬だけで、その後はずっと疲れた顔をしている。
まだ僕の中にマトモの欠片くらいはあるだろうと考えていた師範は、僕に弟子を取らせた。ユウという名前の少年で、僕より一つ年上だった。といっても当時の僕が十二歳だから、ユウは十三歳だ。どちらも門下生の中ではかなり幼い方である。
当然、僕にマトモな指導なんてできるわけがないので、ユウはいつも困惑していた。僕はいっぱい考えてきたことを精一杯ユウに伝えようと努力したけれど、いつの間にか物凄く早口になってしまい、ユウに笑われた。恥ずかしくなった僕は、それからユウの前ではあまり喋りたくなくなった。
ただ、僕が実際に剣を振ってみせると、ユウの方から色々意見を求めくるようになった。こうなってからは僕もあまり緊張せずに話せるようになった。この関係はしばらく続き、偶に様子を見に来た師範も満足そうに見守ってくれた。
ある日、ユウと二人で剣を打ち合っていると、ユウの剣を真っ二つにしてしまった。よくある手加減の失敗だ。僕はすぐに倉庫へ向かって替えの剣を探したけれど、その日は大勢の門下生が魔物の討伐に出払っていて、剣も全て運び出されていた。
困った僕は、ふと妙案が浮かび、当時六段だったアッシュの部屋に向かう。
アッシュが蒼天一刀流の門を叩いた理由は、父親が魔物に殺されたかららしい。いつか、父親を殺した魔物を自分の手で倒したい。そんなふうに誰かと話していたのを僕は偶々聞いたことがあった。
偶々聞いた話には続きがある。アッシュの父親は鍛冶師で、父親が打った剣を形見として今も持っているようだ。アッシュはいつも部屋に飾ってあるその剣を見て、己の覚悟を思い出しているとのことだった。
なので、その剣を使うことにした。
アッシュも魔物の討伐に駆り出されているため、事後承諾になるのは仕方ない。形見とはいえ剣だ。使わないと勿体ないし、アッシュの父親も絶対にその方が喜んでくれると思った。でもユウは僕の考えに反対した。ここ最近のユウは従順だったから、急に反対されて僕は驚いた。
「大丈夫だよ、僕を信じて」
今なら絶対にこんなこと言わない。自分で自分を信じられないから。ただ、僕はやっぱり馬鹿なので、自分の馬鹿っぷりに気づくことすら一人ではできないのだ。僕が僕の異常性に気づけるとしたら、それは周りの人が教えてくれた時だけだ。僕にとって周りの人は鏡である。鏡の反応を見て、僕はようやく己の醜さに気づくことができる。
だから、師範が僕に絶望していなかった頃、僕もまた僕自身に絶望しきれなかったのだ。
ユウと剣の打ち合いを再開した。でもユウはアッシュの形見となる剣を握っているせいか、緊張して心ここにあらずといった様子だった。ユウの緊張が剣を伝って僕の方にも流れてくる。緊張に弱い僕は、すぐにまた手加減を失敗してしまった。
アッシュの剣が割れた。カラリと音を立てて、半分になった刀身が道場の床に落ちる。ユウが青褪めた顔で落ちた刀身を見つめて動かなくなってしまったので、僕はどうしたらいいのか分からず師範を呼んだ。
「なんてことを」
師範の反応を見て、僕は失敗を悟った。アッシュの形見は丁寧に手入れされていた。埃一つついておらず、錆一つついていない。切れ味も最高の状態に保たれている。毎日のように鞘から抜いていたのだろう。たとえ戦いには使っていなくても、アッシュがこの剣を他の用途に使っていたのは明白だった。
師範は僕の目の前で、ユウには一切責任がないことを必死に説明した。でもユウは今にも倒れそうなくらい青褪めた顔で頷くだけで、何も言わずふらふらと自分の部屋へ戻っていった。
師範は次に、僕と向き合わなくちゃいけなかった。師範は時間をかけて悩んだ後、ゆっくり口を開く。
「アッシュには黙っておいてやる」
その判断が正しいのかどうか僕には分からなかった。包み隠さずアッシュに伝えるべきなんじゃないかと思ったけれど、そうすれば師範に申し訳ない気がした。多分このことを公にしたら、僕よりも師範が一番困るような気がした。
だから僕は首を縦に振った。その瞬間、師範の瞳に深い失望の色が滲んだ。僕は気づいた。師範はまだ心のどこかで悩んでいたのだ。本当は僕に頷いてほしくなかったのだ。
もう遅かった。僕らは後ろめたい未来へ歩みを進めた。師範の瞳から失望が消えることはなく、それ以降、僕は人との関わりを限定されるようになった。凱旋で一言も発してはならないと決められたのも、この翌日だ。
師範は道場に帰ってきたアッシュに「悪い報せがある」と言って、二つになった形見をアッシュに見せた。当時から活躍していたアッシュの部屋に泥棒が入り、金目の物を盗もうとしたが、何もなかったため八つ当たりに暴れて帰ったのだろう。そういう設定だった。形見の剣は、金になりそうな見た目はしていないため、筋は通っていた。
師範はアッシュが帰ってくるまでに、アッシュの部屋を荒らして、泥棒の仕業に見せかけた。部屋の様子を見たアッシュは、師範を疑っていなかったと思う。だってその部屋は、まさに八つ当たりで荒らされたように見えたから。
アッシュはしばらく鍛錬を休んだ。アッシュを慕っている門下生たちは激昂した。あの時ほど道場の空気が殺気立っていたことはない。最終的に、アッシュの活躍を妬んだ他の流派の仕業ではないかという噂が流れた。
後日、ユウは蒼天一刀流を後にした。きっと耐えられなかったんだと思う。形見の剣が壊れたあの日以来、ユウは他の門下生と一言も話していないように見えた。そのせいで犯人ではないかと疑われてすらいた。
ユウは最後まで沈黙を貫くしかなかった。後ろめたい未来を歩むと決めた僕らの巻き添えになってしまったせいで。
あれから三年。長い月日が流れた。
アッシュは目を見開いたまま、しばらく立ち尽くした。やがて震えた声で「本当か?」と訊いてきたので、僕は「うん」と答えた。
アッシュは部屋を出た。
僕は剣を振った。