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師範はお茶を飲んでから続けた。
「交流会は分かるな? 毎年うちの道場が開催している、地域住民との交流を目的とした、まあファンサービスみたいなものだ」
師範の話は耳から入り、ほとんど頭に滞在することなく反対の耳から抜けていった。交流会があるのは知っている。ただ、長らく他人事だと思っていたものを目の前に持ってくるのは時間がかかった。
「交流会に参加できる門下生は限られている。住民たちを喜ばせなければならないからな。心苦しくはあるが、知名度が高い剣士を優先的に参加させている」
師範はお茶の入った器をテーブルに置いた。
「レイ、次の交流会に出てみないか?」
今まで交流会に誘われたことなんて一度もなかった僕は激しく動揺した。交流会ではいつも、知名度の高い門下生が街の人たち相手にパフォーマンスをしている。本来、蒼天一刀流の門下生で、最も知名度が高い剣士は僕のはずだ。なのに今まで呼ばれなかったことにはそれなりの理由があるのだろう。心当たりがありすぎるから疑問に感じたことは一度もない。
「僕でいいんですか?」
震えた声が出た。
師範が目の色を変える。
「言い方を変えよう。レイには、次の交流会に参加してもらう」
師範が立ち上がり、床に置かれていた箱を持ち上げ、テーブルに置いた。箱には大量の紙が溢れんばかりに入っていて、テーブルに置いた時の衝撃で幾つかが落ちる。紙がテーブルを滑って目の前に来たので、指で摘まんで拾った。二つ折りにされた紙の内側に書かれた文字が透けて見える。僕の名前、それから感謝の言葉が記されていた。
「レイが助けた人たちからの感謝状だ。今回のドラゴン討伐でまた多くの感謝状が届くだろう。これ以上は箱に収まらない」
じゃあ箱を増やせばいいんじゃないだろうか。
感謝状は、最初は全部自分で読んでいた。でも今回のボールを拾えなかった時みたいな失敗が積み重なって、次第に僕は街の皆にどう思われているのか知るのが怖くなり、読めなくなった。以来、僕に宛てられた感謝状は師範が受け取っている。でもこんなに貰えているとは思っていなかった。
「レイ、私はお前を信じている。これほど多くの人に望まれているレイならば、きっと変わることができると。三年前の出来事をいつまでも引きずる必要はない。今のレイに足りないのは、きっと切っ掛けだけだ」
師範は前のめりになって、僕の顔を凝視した。
「レイは英雄なんだから、日の当たる場所に出よう」
師範の目はキラキラと輝いていて、僕には眩しすぎた。
師範の発言は、徹頭徹尾、僕の未来を信じたものだった。だからこそ師範は今の僕を否定していると分かる。師範にとって僕は変わらなくちゃいけない日陰にいる人間なのだ。分かってはいたけれど、改めて知りたくはなかった。
変われるならとうの昔に変わっている。師範はまだ僕に絞りカス程度の可能性を感じているのかもしれないけれど、それは勘違いだ。僕は、師範が思っている以上に変わりたいって強く願っていたし、それで駄目だったから今の僕がいるのだ。切っ掛けが足りないなんて思わないでほしい。切っ掛けはたくさんあった。あったのだ。それをものにできなかっただけだ。
やめてほしい。僕が戦ってこなかったなんて思わないでほしい。今までもずっと僕なりに努力してきた。僕なり、の部分が共感されないのは分かっているけれど、頼むからなかったことにだけはしないでほしい。死にたくなるほど惨めだ。
額がじわりと汗ばんだ。英雄としての顔が溶け出し、内側に潜む醜い僕の顔が現れる。道場の皆は僕の正体を知っているけれど街の皆にはまだ辛うじて知られてないんじゃないかと思う。師範も知られたくないから僕を交流会に参加させなかったんじゃないだろうか。凱旋で僕を監視しているのも同じ理由のはずだ。呼吸が荒くなってきた時、ドアがノックされる。
「失礼します」
ドアを開けて入ってきたのは、金髪碧眼の青年だった。
「来たか、アッシュ。稽古中に呼び出してすまないな」
師範がアッシュを僕の隣に座るよう促す。
隣に腰を下ろしたアッシュは、僕を見て会釈した。僕も小さく頭を下げる。
「今年の交流祭では、二人にパフォーマンスをしてもらう予定だ。今のうちに段取りを打ち合わせておこう」
聞いていない。ふざけるな、と僕は心の中で悲鳴を上げた。
アッシュ。この男とだけは一緒になりたくない。
蒼天一刀流には実力を示す席次がある。僕が第一席になったのは四年前のことだ。長らく第一席だった師範を当時十一歳の僕が追い抜いたんだから、あの時の道場の騒がしさは凄まじかった。道場は街の人たちとも関わりが深いため、街全体が喧騒に包まれていた気がする。
しかし、それからしばらくして。第二席となった師範を、また別の門下生が追い抜いた。それがアッシュという男だった。
蒼天一刀流・第二席のアッシュは、僕とは全く違う生き物だ。彼こそが人間で、僕は剣を肉で包んだだけの塊だった。アッシュは目鼻立ちがとても整っていて、凱旋をすると黄色い声援がよく聞こえる。なのに性格も裏表のない爽やかなもので、皆が彼のことを気に入っていた。更に、完璧ではないという点も完璧だった。アッシュは虫が苦手らしい。この欠点が愛らしいのだと、アッシュを好む門下生の女たちはよくはしゃいでいる。
愛らしい欠点は欠点と言うべきではない。本当の欠点は誰からも嫌悪され、拒絶される。手を差し伸べたいと思える形をしていない。僕も虫は苦手だ。でも僕はそのことを師範にすら伝えていなかった。僕がそれを言ったところでアッシュのように愛されないのは分かっているからだ。
僕は知っている。蒼天一刀流の門下生で一番強いのは僕だ。でも一番人気なのはアッシュだ。その証拠に、アッシュは毎年必ず交流会に参加している。街の住民が触れ合いたいのは、ドラゴンを狩った僕ではなく、アッシュだ。僕の感謝状が箱一つなら、アッシュのは箱三つある。
「今年はレイと一緒に出られるのか」
交流会で僕と一緒にパフォーマンスをすると聞いて、アッシュは嬉しそうに微笑んだ。
「光栄だな、よろしく頼む」
アッシュが僕に手を差し伸べ、握手を求める。
その手を受け取ろうとして、でもやっぱり耐えられなくて、僕は膝の上で拳をきゅっと握り締めた。放り出されたアッシュの掌が静かに引っ込められる。師範とアッシュの顔を見たくなくて下を向く。僕は唇を強く噛んだ。
アッシュは僕のことを尊敬している。その無垢な暴力が、僕の中にあるべきでないプライドを刺激した。皆はアッシュのことを尊敬していて、アッシュは僕のことを尊敬している。それならなんで皆は僕のことを尊敬しないんだろう。思い上がった疑問が脳裏を過ぎる。第一席としての自負が、第二席にだけは負けたくないのだと騒ぎ立てる。
剣になりたい、剣になりたい、剣になりたい。
剣になりさえすればこの苦しみから解放される。僕が人間だからこんなにも悩む。上だとか下だとか、人気だとか、尊敬だとか、そんな複雑なものに悩む機構なんてこの身体に搭載しないでほしかった。
「アッシュ、頼むぞ」
「はい」
顔を伏せる僕を他所に、二人が短く言葉を交わした。頼むって何を? この場をグチャグチャにしてやろうかと思った。二度と悩まなくても済むなら、それも悪くない気がした。
「大丈夫さ」
アッシュが僕に語りかけているのが分かった。
「レイならやれる。なにせ俺より強いんだからな」
二人は今、気持ちいいんだろうな。冷めた心でそう思った。未熟な人間に希望を見出す行為で、善人であることを実感し、酔い痴れている。二人は僕を踏み台にして善人になりたいのだと思った。
もう、なんでもいいや。投げ遣りになる。パフォーマンスって何をするんだろうか。剣を振れるならなんでもいい。どうせ僕にできることなんて、それだけだ。