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凱旋が終わった後、僕は師範に呼ばれて食堂に向かった。
蒼天一刀流の本部であるこの道場には、四つの訓練場と、門下生が寝泊まりするための寮、それから食堂、会議室、座学を行う教室などがある。門下生の誰かが「学校みたいだ」と言っていたけれど、学校に通ったことのない僕にはピンとこなかった。
食堂に着いた僕は、すぐにカウンターで料理を受け取った。スープをよそってくれたおばさんが「どうぞ英雄様」と微笑みながら声をかけてくる。僕は頭だけ下げ、逃げるようにトレーを運んだ。
昼過ぎだからか、食堂の席は全て埋まっていた。視線を左右させて師範の姿を探したけれど見つからない。僕はトレーを持ったまま立ち尽くす羽目になった。またやってしまったと後悔する。こうなることが多いから先に席を取っておくべきなのに、いつも食堂に入ったら何も考えずにカウンターまで向かってしまう。
他の門下生はこうではなかった。道場に入ったばかりの門下生でも、食堂に来る時は必ず誰かが一緒にいて、席を取る人と料理を取る人で役割分担している。僕は何年もこの道場にいるのに、食堂に来る時は大体一人だった。道場に来たばかりの頃は誰かと一緒に行くことが多かったけれど、いつの間にか一人になった。
立ち尽くしていると、食事中の門下生と目が合う。慌てて焦点をズラし、奥の方をぼんやり見た。食堂を見渡していて偶々目が合ったふうに装う。とっくに満席であることを知っているのに、知らなかったフリをして食堂をもう一度見渡した。顔が熱を帯びる。席を見つけた演技をして、その場から去った。困ってない。助けなんかいらない。だから誰も関わらないでくれと強く祈る。
僕は惨めな人間なんかじゃない。
「レイ」
食堂の入り口を横切ると、来たばかりの師範に見つかって声をかけられた。立ち止まると、トレーに載せられた皿がカチャリと音を立てる。
「席がないのか?」
「あ、はい。そうみたいです!」
情けない人間だと見られたくなくて、平気であることをアピールしようと思ったら、少し声が大きくなってしまった。何人かの門下生たちがこちらを振り向く。じわりと汗が浮かんできた僕に、師範は「少し待つか」と言って傍に立った。
近くにいる門下生たちが、急いで食事を済ませて席を空けた。僕が腰を下ろすと師範がカウンターに料理を取りに行く。僕が一人で立っている時は急いで食べてくれなかったのに、師範と一緒になった瞬間、皆が態度を改めた。
僕の方が、師範よりも強いのに。
スープを一口飲んで、湧き出る衝動を宥める。とっくに冷めていたスープの中には、いつもより多くの肉団子が入っていた。食堂のおばちゃんが、ドラゴンを討伐した僕にサービスしてくれたのかもしれない。厚意は伝わってくるけれど僕の心は素直に喜べなかった。大人たちの僕に対する優しさは偽物じみている。その優しさは大人特有の余裕から来るものであり、僕の人間性とは独立したものだと思う。上の人間が下の人間にだけ発揮する、優しさという名の哀れみだ。
僕は、強いんだぞ。
ここにいる誰よりも。
師範が戻ってきた。トレーを目の前に置いた師範は、料理に手をつけるよりも先に話し始める。
「今回のドラゴン討伐について、国から褒賞が出るそうだが、いつも通り道場への寄付でいいか?」
パンを一口食べた師範に、僕は頷いた。
「はい」
「そうか。……ありがとう。レイは無欲だな」
「皆が喜びますから」
師範が難しい顔をしながら「助かる」と言った。
初めて寄付すると言った時、師範は目を輝かせて喜んでくれた。人にそんな顔を向けられることなんて滅多になかった僕は嬉しくなって、次も、その次も寄付すると言い続けた。すると次第に師範は不可解な顔をするようになった。羊だと思って育てていた子供が、山羊だったかのように。
「前も言ったが、寄付は強制ではないぞ? 自分で稼いだ金は自分のために使ってもいいんだからな? 使い道がないなら私が預かっていてもいい」
質問の意味が分からないけれど、それは僕の頭が悪いからなんだろうなと思って唇を引き結んだ。慎重な言い回しをされると、自分がいつ破裂するか分からない爆弾みたいに見られているような気がして、居心地が悪くなる。
「寄付は駄目ということですか?」
「いや……レイが寄付したいなら、それでいいんだ」
最初から寄付したいと言っている。
難しい話はしないでほしかった。お互いの意思を尊重するという空気を保つための、できるだけ直接的な表現を避けて繰り広げられる会話が気持ち悪い。薄皮一枚だけを撫でるような会話は、内容が頭に入ってこない。
皆、心のどこかに爆弾を抱えている。だから皆、相手の爆弾を刺激しないよう注意しながら人と関わっている。時間が経てば爆発させないコツみたいなのを掴んできて、少しずつ口数が多くなる。親しいってそういうことだと思う。でも皆、僕の爆弾だけは捉えかねているようだった。僕の爆弾だけはいつまでもコツを掴んでくれない。
文句は言えなかった。僕も同じだからだ。僕も皆の爆弾がよく分からない。ずっと関わっていてもコツみたいなものが全く見えてこない。師範とはもう長い付き合いなのに、未だに師範のどこに爆弾があるのか分からなくて怖い時がある。
「レイ」
師範は真剣な顔で僕を見た。
「何故、ボールを取ってやらなかった?」
グラスに伸ばそうとしていた手を引っ込める。
師範の目は穏やかだった。師範が今、自分自身に「穏やかでいろ」と言い聞かせているのが伝わってくる。そうでもしないと僕と話せないらしい。そう思うとなんだか僕が悩んでいるのも馬鹿らしくなってきた。
「いつも通りにした方がいいと思って」
「……そうか」
もう少し細かく説明するなら、師範に迷惑をかけたくなかったからだけど、こんなこと言っても師範を困らせるだけだし黙っておいた。これが師範に対する気遣いでないことは自覚している。食堂にいる他の門下生みたいに、困った人間だという露骨な目で僕を見てほしくないだけだ。今更すぎる危機感だけれど、師範にもそこまで見放されたら、爆弾に火が点きそうだった。
師範は淡々と料理を咀嚼した。僕も言葉を発することなく肉団子を口に運ぶ。師範が今、何を考えているのか気になって、味なんてほとんどしなかった。指定された場所にフォークを伸ばし、肉やら魚やらの塊を突き刺し、そのまま口に運ぶ。そういう作業を延々と繰り返しているだけで、これは食事ではないように思えた。
「少しここで待っていてくれないか。すぐに戻る」
師範が立ち上がり、トレーをカウンターに戻してから食堂を出た。
師範に合わせて食事を済ませてしまった僕は、居たたまれない気持ちを堪えながらじっと待っていた。食堂はまだ混雑している。早く席を立った方がいいんじゃないか。僕は今、疎まれているんじゃないか。少しずつ不安が膨らむ。どのくらい時間が経ったのだろう。師範はまだ戻って来ない。いつになったら戻るんだろう。もし戻らなかったらどうすればいいんだろう。
顔を上げると、一つ奥のテーブルで食事をしている少年と目が合った。僕はすぐに目を逸らす。彼は同い年で、かつ同じ時期に道場へ入門した人だ。
記憶力が脆弱な僕が、その程度で人のことを覚えられるはずがない。入門したての頃、僕は偶然、彼が母親と口論している光景を目の当たりにした。その時に聞いた言葉が今でも頭にこびりついているだけだ。
「お母さん! 俺、もう剣を辞めたい!」
あの時、彼は涙を流していた。
「どうしたの、そんな急に」
「だって、こんなに頑張ってるのに、また昇段できなかったもん!」
「ちゃんと成長してるわよ。この前の試合だって褒められてたでしょ?」
「でも、レイはまた昇段してるじゃん!!」
廊下の角で二人の話を聞いていた僕は、急に自分の名前が出てきたことに驚いた。僕は入門してから、他の誰よりも早いペースで昇段を続けていた。あの頃はまだ僕を褒めてくれる人も多かったので、今回もまた僕は褒められるんじゃないかと思ってウキウキした。でも彼の母親は溜息を吐いて、
「レイ君は、剣しかできないでしょ」
心が急速に冷めていくのを感じた。血の気が引いて、しばらく何もできなかった。母親の言葉に含まれた感情が子供心を深く抉った。
最も悲しかったのは、それで彼が立ち直ったことだった。彼が「うん」と小さな声を零し、納得の姿勢を見せた瞬間、僕の中で何かが崩れ落ちた。逃げるようにその場を去り、その日聞いたことは全部忘れてしまおうと努力した。でも今も覚えている。
数年経って、あの母親の発言が正しかったことを理解した。母親の言う通り、僕は剣しかできなかった。師範がいなければ食堂で座ることすらできない。足元に転がってきたボールすら拾えない。国から出る褒賞の使い道も分からない。大事なことすら覚えられない。難しい話についていけない。
剣になりたい。
鈍色の輝きを灯し、ただ敵を斬るためだけに存在する、一振りの剣になりたい。頭なんて邪魔だった。心なんて余計だった。僕の身体にはたくさんの粗悪品が絡み付いている。削ぎ落として最後に残ったものはきっと剣の形をしていると思った。
剣になりたい、剣になりたい、剣になりたい。
同門の皆も、街の皆も、求めているのはきっとそれだから。
剣を振る人間ではなく剣そのものになりたい。
そうすれば誰も苦しまないのに。どうして僕は人間の身体で生まれてしまったんだろう。誰がこんな醜い肉塊を取り付けてしまったんだろう。邪魔だ。消えろ。そう思いながら腕の皮膚を引っ掻いた。何度も掻くと血が垂れる。自分の血が不純物に見えた。それを構成している食事も汚いものに見えてしまう。どれだけ美味しそうな料理も、僕が口に入れた途端、汚いものに成り下がる。
「レイ、待たせたな」
師範が帰ってきたので、カウンターまでトレーを運んだ。時間が経ったせいで皿についているソースが乾き、かぴかぴになっていた。
「会議室まで一緒に来てくれるか? 大事な話がある」
大事な話なら、僕には理解できないんじゃないかな。
僕にとってはほとんどの話が大事に聞こえる。自分の中にある、大事と小事を区別する物差しを信用していない。だからどんな話も真剣に聞いている。聞いているのによく忘れる。
会議室に入ると、テーブルには既にお茶が二つ用意されていた。飲みかけではない。僕と師範のものだろう。食堂を出た師範は僕を呼ぶまでの間、ここで何かの準備をしていたらしい。
師範は僕を椅子に座るよう促し、自身も対面に腰を降ろした。椅子から人の温もりを感じる。さっきまでここに誰か座っていたみたいだ。師範は直前までここで誰かと話していたらしい。
「レイ」
師範は真っ直ぐ僕を見つめる。
「よければ、交流会に参加してみないか?」