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僕の人生は剣と共にあった。
小さい頃、多分、僕は普通の家庭で平和に過ごしていたんだと思う。でもしばらくして父親が姿を消した。更にしばらくして母親の様子がおかしくなった。
僕はおかしくなっていく母親を見るのが嫌で、道端に落ちていた木の棒を振って遊んでいた。
父親がいなくなった後、母親が熱心に絵本を読み聞かせてくれた時期がある。熱心すぎて少し怖かったけれど、読んでくれた本の中に剣士の冒険譚があった。あれが僕は好きだった。木の棒を振るっていると、絵本の中の剣士になったような気がして楽しかった。
母はみるみるおかしくなっていったので、僕はどんどん木の棒を振ることに没頭した。棒を振っている間は全てを忘れることができた。傍から見れば木の棒でも、僕にとっては光輝く剣で、誇らしい日々だった。
だから、この手で握るものが木の棒から剣に変わった時も、あまり違和感はなかった。
母は僕を蒼天一刀流の道場に連れて行った。剣士に憧れていた僕は大興奮だった。道場で木剣を貸してもらった瞬間、僕は時間を忘れて剣を振った。僕が剣を振る度に門下生たちが褒めてくれたので、気持ちよくなった僕はもっと夢中になって剣を振り続けた。
気がつけば母親がいなかった。
よく分からないけど、僕はそれから道場で過ごすことになった。
最初は混乱したけれど、一年か二年も経つ頃にはすっかり道場での暮らしに慣れていた。木の棒を振っていた時と同じだ。剣を振っている時だけは全てを忘れられる。剣を振っている時だけは世界から切り離される。剣を振っている時の孤独が僕を守ってくれる。
消えた父。
おかしくなった母。
次第に変な目で見てくるようになった門下生たち。
全部、剣を振っている間は気にならない。
だから僕は、剣を振り続けなければならなかった。
「レイ、無事に倒せたか?」
馬車に乗って街まで戻ると、城壁の外で師範が出迎えてくれた。師範の長い髪は、風になびくと狼煙みたいになってよく目立つ。昔、「戦いの邪魔にならないの?」と訊いたら「女を捨てろと言うのか?」と不機嫌そうに答えられた。あれ以来、師範の外見に対して口を開くことはなくなった。
荷台から下りた僕は、すぐに頭を下げる。
「師範、すみません」
「……まさか、倒せなかったのか?」
師範が目を見開いて驚いた。
見たことないくらい激しく動揺している。
「いえ、倒しました。でも剣を馬車に忘れてしまって」
「剣を……? じゃあどうやって倒したんだ?」
「木の棒が落ちてたので」
師範の目が険しくなる。
背筋が凍った。
「すみませんでした」
すぐに頭を下げた。
僕は今年で十五歳になる。この歳にもなると、流石に剣と木の棒は区別していた。
蒼天一刀流は剣の流派である。剣以外を使って戦うのは、門下生として相応しくない行為だと僕は過去に教わっていた。
でも師範は以前、こっそり僕だけに教えてくれた。本当は魔物を倒すことが最優先だから、剣を忘れた時は他の武器を使ってもいいと。だから今回は木の棒で戦うことにした。それでも剣を忘れたという事実は変わらないので、僕は師範をこれ以上刺激しないよう頭を下げながらじっとしていた。
他の武器を使っていいと教えられる前にも、僕は一度だけ剣を忘れたことがある。あの時は、剣で戦わなくちゃいけないというルールを守るためにわざわざ街まで戻ったのだ。そしたら師範が顔を真っ赤にしながら怒鳴り散らし、震えた手で剣を貸してくれた。あの時の師範はとても怖くて、何を言っているのか分からなくて、師範じゃない別の人の魂が乗り移ったみたいだった。あの時の師範だけはもう二度と見たくない。
「顔を上げろ」
恐る恐る顔を上げると、師範は額に手をやって溜息を吐いていた。
「メモは読まなかったのか?」
泣きそうになりながら答える。
「メモも忘れました」
師範は顔を歪めた後、また溜息を吐いた。師範の溜息にはいつも色んな感情が込められている。大体それは僕のせいだと分かっているけれど、師範はそれを僕に言っても理解できないと察しているから言葉にはしない。言葉の代わりに溜息にして、空気中に溶かす。師範の眉間に寄った皺が元に戻っていく。
「次からは気をつけろ」
よかった。今日は怒られなかった。
師範は、僕が道場に預けられてからずっと僕の面倒を見てくれている人だ。十歳くらいしか変わらないはずなのに、母親みたいなこともしてくれた。だから師範には感謝しているけれど、偶に怖くなることがあるのでそれだけが嫌だった。
「レイ、いいな? いつも通り凱旋して道場まで戻るぞ」
「はい」
これから凱旋が始まる。
僕は師範と足並みを揃えて街に入った。
人食いの化け物である魔物たちは、偶にこの街を襲撃し、その度に蒼天一刀流の門下生が対処している。とはいえ僕たち門下生も常に後手に回っているわけではなく、普段から周辺を警邏しており、危険な魔物を見たら人知れず処理していた。
ただ、今回みたいな強力な魔物が出た時は、人知れず処理というわけにはいかない。いざという時のためにも住民には避難の準備をしてもらう必要がある。こういう時は街の人たちにあらかじめ、どんな魔物が出現しており、誰が対処に向かっているのかという情報が周知される。
だから魔物が無事に倒されると、凱旋が行われる。魔物を倒してくれた門下生に、街の皆がお礼を言うのだ。
通常は戦闘に参加した人だけが凱旋するけれど、僕の凱旋だけは特殊な決め事があった。まず、僕は一人だけでは絶対に凱旋しない。必ず傍に師範がいる。それと、僕は一切口を開かない。喋るのが苦手だからだ。
僕が自由に喋っていると、周りから白い目で見られることがある。僕は普通に話しているつもりなのに、しばらくすると心がざわざわして、剣を振りたくなってくる。
皆、同じだと思っていたけれど、最近になってなんとなくそうじゃないことに気づいた。人と話していると、どうしても心がざわざわしてしまうのは僕だけらしい。
街の大通りを歩き、少し遠回りして道場に帰る。
道の両脇に街の人たちが立っていた。
「レイ様!! ありがとうございます!!」
「貴方のおかげで街は救われました!!」
凱旋中は不思議な気持ちになる。僕も人間だから、誰かに褒められるのは嬉しい。でもそれ以上に不安の方が強かった。
集団の視線は苦手だ。皆に見られていると失敗しちゃいけない気持ちになる。期待に応えなくちゃって思うと、胸の辺りがきゅっとして息を忘れそうになる。
その時、最前列に立っていた女の子がボール落とした。
青色のボールが僕の足元に転がってくる。
頭が真っ白になった。予想外のことだった。あ、え、と言葉にならない声が出る。丁度さっき「いつも通り道場まで戻るぞ」と師範に言われたばかりだ。でもこれはいつも通りではない。
全身から冷や汗が垂れる。顔が熱くなって、口がカラカラに乾く。こういう時はどうすればいいのか聞いていない。教えてくれなかった師範に対する怒りが込み上げる。
いつも通りって、無視した方がいいんだよね? ボールは別に僕が取らなくても他の誰かが取ってくれるし。というか僕がここから離れたら自分で拾えるだろうし。
だけど皆が僕のことをじっと見ていた。ボールではなく僕の顔を見ていた。ボールを取ってほしいという期待ではなく、ただ僕がこれから何をするのか気になっている目だ。
観察されている。そう思った瞬間、頭の中で考えていたことが全部吹き飛んだ。いなくなりたいという気持ちが強くなりすぎて、僕は気づいたらボールを無視して歩いていた。怖くて振り返れない。前しか見ることができない。ドラゴンに火を吐かれても汗なんてかかなかったのに、額から大量の汗が垂れていた。
とにかく余計なことをしたくなかった。そうすれば師範に怒られることだけは避けられるから。でもしばらく歩いているうちに、隣に師範がいないことに気づく。汗が垂れる。不安が募る。いつも通りに道場へ戻るには隣に師範がいなくちゃいけない。振り返ると師範は、女の子にボールを渡してあげている最中だった。
師範と目が合う。その目の奥には失望の色が宿っていた。
また失敗した。そう思った。