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 老人から娘の話を聞いて、二ヶ月くらい経った後。師範が僕の部屋に来て「倒してほしい魔物がいる」と仕事の話を始めた。


 なんとなく、僕はこれが老人の仕業だと気づいていた。この二ヶ月の間、僕らの街はそれまでが嘘だったかのように魔物に襲われることなく平和な日々を過ごしていた。魔物を送り込んでいた老人が、他のことで手一杯になったからだろう。


 二ヶ月ぶりに現れた魔物は、よりにもよって僕だけが倒せるような凶悪な種類だった。

 僕はそれを合図だと思い、魔物の討伐に向かった。


「レイ」


 道場を出る時、アッシュに声をかけられる。


「武運を祈るぞ」


 急にそんなことを言われて、僕はどう反応したらいいのか分からず適当に頷いた。声も出せなかったことが恥ずかしくなり、逃げるように馬車に乗る。


 荷台の隙間からアッシュの顔を見た。アッシュは僕がろくに反応を返さなくても、満足そうな表情を浮かべている。僕はその様子を見て、老人と話している時の心地よい気分を思い出した。矢印が僕に向いていない。僕がどんな反応を示そうと関係ないと言わんばかりのその態度が、僕にとっての適切な距離感となる。


 あれ?

 いいのかな?

 馬車に揺られながら、僕は不安になった。僕は今日、あの老人と会ってもいいんだろうか?


 走り出した馬車を止める勇気はないので、僕は結局、魔物を討伐した。二ヶ月ぶりの魔物は、多分アッシュには倒せないだろうけど、僕にとっては印象に残らない相手だった。

 その後、やっぱり老人と再会した。


「君の母親が見つかったよ」


 老人の短い報告が、僕の頭の中にある悩みを全部押しのけて、中心に鎮座した。他のことなんて全部どうでもよくなった。


「連れて行ってください」


「勿論だ」


 老人の案内に従って歩いていると、岩陰に隠された馬車に到着した。老人も僕と同じように馬車でここまで来ていたようだ。


 慣れない荷台に乗る。乗り心地は、蒼天一刀流の馬車よりずっとよかった。

 馬車が揺れる。地面を叩く蹄の音が聞こえた。

 僕は今、初めて外に出たような気がした。




 ◆




 馬車で二日かけて移動した後、僕と老人は荷台から降りた。そこは僕が暮らしている大きな街と違って、こぢんまりとした自然豊かな村だった。


 柵の内側に家畜の姿はいくらか見えるけど、村人の姿はあまり見えない。落ち着いているとも寂れているとも言えそうなこの村の、更に端っこで母は暮らしているらしい。老人はそれ以上の情報を僕に伝えることなく、案内を続けた。


「あの家だ」


 村の外れには森があり、そのすぐ手前に煉瓦造りの家があった。

 窓のカーテンが開かれている。近づけば中を覗けそうだけど、僕はそれ以上、足を先に進められなかった。中の様子なんて見なくても、この家の住人が幸せな日々を送っていることはよく分かる。家の周りには使い古されたテーブルと椅子が置かれていた。テーブルの上には子供が遊ぶような玩具が置かれていた。反対側にはたくさんの植木鉢が置かれている。色取り取りの花は、世話をしている人間の心の豊かさを象徴するかのようだった。


 咲き誇る花々を見ていると、僕の心は灰色に染め上げられた。もういい。これ以上、ここにいたくない。老人に声をかけようと思ったその時、家の扉が開いて誰かが出てくる。


 大人の男と、小さな男の子と、黒く塗り潰されたナニかだった。大人の男は椅子に腰を下ろし、子供を優しく膝の上に乗せた。子供はとても楽しそうに笑っている。黒いナニかは、たくさんのクッキーを載せた皿をテーブルに置いた。きっと焼きたてなのだろう。風に乗って、香ばしい匂いが僕の鼻孔に届く。


 この匂いを、僕は知っている。


 母だった。母がそこにいた。信じがたいけど母は普通に生きていた。びっくりするほど普通に。


 どうやったらそんなに普通に生きていけるのか知りたくて仕方なかった。母はどこにでもいる普通の母親として、大人の男と視線を絡め合い、男の子の口元にクッキーを運んであげていた。


 僕を切り捨てたからだと思った。

 母は最初から、僕を切り捨てさえすれば、普通に生きることができたのだ。


 そんなの許されていいんだろうか? だって、僕を生んだのは母だ。好きで生まれたわけじゃないのに。好きで普通になれないわけじゃないのに。僕を置き去りにして母が普通を手に入れるなんて、許されていいことなんだろうか?


 母は幸せそうに、男の子にクッキーを食べさせている。

 その光景を眺めているうちに、使命感が湧いた。目の前の現実は歪んでいる。そこに在ったはずのものを、なかったかのように扱っている。吐き気を催すほどの薄っぺらい幸福だ。


 僕が正さなくちゃいけない。

 無意識に歩き出していた。最初に大人の男が立ち上がり、不審者を見る目で僕を睨んだ。地面に降ろされた子供は僕を見て、屈託のない笑みを浮かべた。そして母は僕の顔を見て、大人の男と同じように警戒した。


 けれどすぐに母の表情は変わった。

 母は顔面蒼白となった。まるでこの世の終わりを見たかのように。


 僕は笑った。

 そういう顔で見られるのは、もう慣れている。

 お前のせいで。


「その人、他の男と結婚してましたよ」


 僕は母を無視して、警戒心を露わにしている大人の男に声をかけた。男は僕のことを対話可能な生き物と認識し、ほんの少しだけ態度を軟化させた。


「やめて」


 母が絞り出したような声で言う。


「お願い、何も言わないで」


 久しぶりに聞いた母の声は僕を拒絶していた。

 母が僕に伝えたのは、僕よりも大切なものを守るための言葉だった。怯えを押し殺したその姿からは、家庭を守ろうとする母親の本能を感じる。僕の時は発揮できなかった力を、母親は今、発揮していた。


 ぶっ壊してやりたいと思った。頭の中で母を一番傷つけられる言葉を探す。誰かが母を裁かなくちゃいけない。被害者ぶっている母の顔を見て僕は義憤に駆られた。


 頭が感情でいっぱいいっぱいになって、泣きそうになる。けど、今ここで弱みを見せたら、仕返しされると思った。だから平気なフリをするために笑顔を作る。


「その人、僕を捨てたんですよ」


 余裕を込めて言ってやるつもりが、僕の声は震えていた。

 酷く惨めな気分になる。自分がとても情けないことをしている気がした。黙って去ればよかったのか? 母と会わなければよかったのか? どうすれば僕の気分は晴れたんだろう。僕は馬鹿だから、自分が満足する方法すら分からない。


 堪えていた涙がちょっと溢れてしまった。でも母は自分のことで精一杯なので気づいていなさそうだった。僕は母に会って何をしたかったんだろう? それすら忘れてしまう。


 母は髪を掻き毟りながら、めちゃくちゃに叫んだ。「仕方なかったの!」とか「私も辛かったの!」とか、大きな声で感情を吐き出したけど、僕は「その程度なの?」って思った。僕の中にはその百倍叫ぶことがある。


 母が羨ましかった。僕は仕方ないことと戦い続けるしかなかったけど、母は逃げることができたのだ。僕は苦しみ続けるしかなかったけど、母はその苦しみを忘れて新しい人生を歩むことができたのだ。


 剣になりたい、剣になりたい、剣になりたい。


 羨ましさが怒りに化けた。あまりにもイライラしたから、心を落ち着かせたくて剣の柄に触れる。鞘と鍔がぶつかってカチャリと音が鳴った途端、母はびくりと肩を揺らした。母は僕の剣に一瞬目をやった後、「ごめんなさい」と呟いた。


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。


 母は繰り返す。僕が剣に逃げている時と同じように。

 ここへきて、こんな形で、僕は目の前の生き物が母親であることを実感した。蹲り、涙を流す母の姿は、僕にとって他人事ではない。


「レイ君」


 背後から老人に呼ばれる。


「斬るんだ」


 振り返った僕の顔に、老人は真剣な眼差しを注いだ。


「レイ君に足りないものは、自由に生きる意思だ。君はその剣を自由に振ってもいいんだよ。君の力は蒼天一刀流のものではなく、君自身のものだ」


 蒼天一刀流の門下生になった時から、僕が剣を抜いていいのは道場にいる時と、師範の許可が下りた時だけだった。僕にとってはそれだけで十分自由を感じていたけれど、老人にとっては物足りないらしい。


 母を斬る。その考えはとても自然に感じた。逆に、なんで今まで母を斬っていないのか不思議だった。


 僕は母を斬ってもいい立場だと思う。それが許される人生を歩んでいると思う。


 鞘から剣を抜いた。刀身はシュルリと音を奏で、陽光を鈍く反射した。大人の男が怯えた表情で僕を見る。小さな男の子がわんわんと泣き出した。耳障りだった。お前が泣くなよって思った。


 柄を力強く握る。ミシリと音がした。あとはもう片手を振るだけで母を真っ二つにできる。過去の経験から、僕は母の死を鮮明に想像できた。


 その瞬間、僕の身体は固まった。

 僕の、剣ではない人間の部分が何かを訴えている。剣になり損ねた人間の肉が僕を束縛している。

 なんで?


「大丈夫だ、私の娘も乗り越えている」


 母を斬らない僕に、老人は諭すように告げた。


「いいかい? これはね、儀式なんだ。自分は間違っていないという、確固たる自信を手に入れるための儀式だ。私の娘も逃げた母親を殺した。それ以来、娘の心は安定しているよ」


 それってさ。

 自信を手に入れたんじゃなくて、前に進むしかなくなっただけじゃないの?


 僕は馬鹿なので、いつも間違ったことを考えてしまう。でも、今回ばかりは、今度こそは、僕が正しい気がした。

 僕は本当に母を斬ってもいいの? 誰か教えてほしい。


「さあ、斬るんだ!!」


 老人の声が怖くなった。怒られているような気持ちになって、言われた通りにしなきゃって思う。でも母の死を想像した瞬間、やっぱり僕の身体は固まってしまった。


「うーーーーーー」


 頭が痛い。考えることが多すぎる。何が正しいのか全く分からない。僕はどうすればいいんだろう、馬鹿だから必死に考えても分からない。こんなに頭が痛くなるくらい悩んでいるのに全然分からない。


「うーーーーーーーーーーーーーー!!」


 頭が痛い。痛い。痛い! 痛い!!

 誰か教えて。僕はどうすればいいの? 斬ったらいいの? 斬ったら駄目なの? なんでこの身体は動かないの? なんで僕は人間じゃないの? 老人は正しいの? 老人の娘はどうなったの? 僕は母さんをどう思ってるの? 誰か教えてよ!!


「…………レイ?」


 頭痛に苦しんでいると、母の心配する声が聞こえた気がした。

 痛みが酷すぎて涙が出る。ぼやけた視界で地面を見つめていると、頭上から老人の舌打ちが降ってきた。


「駄目か」


 老人は嘆息した。


「こんな親すら斬れないようでは、同門の人間など斬れるはずがない。……君は私たちと一緒に戦ってくれないんだね」


 老人の方からシュルリと音がした。鞘から剣を抜く音だとすぐに分かった。僕はその音を何千、何万と聞いている。


「残念だが、仲間になれないなら、君は最大の敵だ」


 老人は僕を斬ろうとしていた。それでもいいやって思った。

 頭を下げる。老人が僕の首を刎ねやすいように。早く解放してほしい。もうこれ以上、苦しみたくない。僕にとってこの世界は生きているだけで辛いことが多すぎる。


 父も、母も、師範も、アッシュも、ユウも、僕と出会ったことに感謝はしないだろう。

 生まれなきゃよかった。死の間際に僕はそう思った。


 老人が剣を振る。断ち切られた風の音を聞いて、いい太刀筋だなと思った。素人だけど、迷いがない。剣筋には人格が反映される。


 けれど、僕は痛みを感じなかった。

 僕は斬られていなかった。

 不思議になって振り返る。


「え?」


 母が、僕を庇って斬られていた。

 僕の身体に覆い被さった母は、その背中を深々と斬り裂かれていた。


 流れた血が地面を赤く染める。血溜まりの中で僕は温もりを感じた。母の血はとても温かかった。


 頭が真っ白になる。でも何故か迷いはなかった。僕は瞬く間に鞘から剣を抜き、老人を斬る。綺麗に首を刎ねる余裕がなかったので、胸元の辺りを横薙ぎに一閃した。


 老人の上半身が地面に落ちる。少し遅れてから下半身が倒れる。

 息絶える寸前の老人は、恨みがましい目で僕を睨んだ。


「私が、どうやって……お前たちの街に、魔物を送り込んでいると思う……?」


 知らない。考えたこともない。

 母の血溜まりを見下ろす僕に、老人は掠れた声で告げた。


「私が、持ち運んでいるのさ……!! この身体になァ……ッ!!」


 老人の上半身と下半身が、ぶくぶくと膨らんだ。

 僕は動かなくなった母を慌てて背負い、距離を取った。老人の肉体だったものは、あっという間に母が暮らしていた家よりも肥大化し、更に分離して幾つもの魔物に化けた。


 ドラゴン、サイクロプス、ゴーレム、オーガ。他にも色んな魔物が十匹くらいいるけれど、覚えているのはこの四つだけだった。


 母をゆっくり地面に降ろし、剣を振る。

 全部斬った。皆、横に並んでくれていたので斬りやすかった。魔物たちの上半身がズレて地面に落ちる。ズシン、と音を立てて下半身も倒れる。


 全部倒したと思ったけど、一匹だけ変な魔物がいた。その魔物は下半身の断面から触手を出して、地面に落ちた上半身を拾い、胴体にくっつけた。切断面がジュワジュワと音を立てて接合されていく。傷を再生できる魔物なのだろう。


 僕はその魔物を見たことなかったけど、これまで出会ったどの魔物よりも強い種類だと察した。魔物は六つの腕を使って僕に殴りかかる。僕が全部の腕を斬り落とすと、魔物は腕を再生しながら、触手みたいな足で僕を飲み込もうとした。


 触手を細切れにしてみたけど、一秒足らずで再生される。どこかに心臓みたいなものがあるのかなって思い、全身を細切れにしてみたけど、これも一瞬で再生された。再生の速度がどんどん上がっている気がする。このままじゃキリがない。


「無駄だ……!!」


 老人の声が聞こえた。

 びっくりした。もう死んだと思ってたけど、よく見れば首から上だけが残っていて、地面に転がっている。


「その魔物は、私の最高傑作……!! 絶対に倒せない……!!


 倒せないんだったら、閉じ込めればいいんじゃないか?

 そう思って僕は空間を斬った。斬って斬って斬って斬って斬り続けた。


 魔物を中心に空間の歪みが大きくなる。大気が振動して、なんだか嫌な予感がした。多分、本当は空間って斬っちゃいけないんだと思う。この世界を支える大切な柱みたいなものが、崩れかけている予感があった。


 やがて魔物は空間の歪みに引き摺り込まれ、消えていった。少し待っても魔物が歪みから出てくる気配はない。僕は剣を鞘に納めた。


 首から上だけの老人が唖然としていた。僕は無視して母のもとへ向かう。

 母は地面に横たわったまま動いていなかった。僕の心臓は皮肉みたいに激しく動いていた。遠くで、大人の男が子供を抱きかかえながら僕を見つめている。男は僕と目が合った途端、怯えた表情で子供を強く抱きかかえた。その振る舞いが正しいのかどうか僕には分からない。ただ、倒れている母の傍にいるのが僕で、遠くでそれを見つめているのが男であることに、僕は強い怒りを覚えた。


 僕は母を背負った。

 行き先は一つしかない。走り出す直前、地面を濡らしている母の血溜まりが、老人の血溜まりと混ざって一つになろうとしていることに気づいた。僕はそれをとても不愉快に思い、剣を振って地面を抉り、二つの間に溝を作った。

 老人の首から上が、巻き添えになって消し飛んだ。


 僕は走った。今までで一番速く。

 背中から感じる温もりが、次第に冷めていった。その度に僕は加速した。勝手に涙が出た。勝手に汗が出た。勝手に筋肉が千切れて、勝手に骨が砕けた。僕の身体を動かしているのは僕の意思じゃないと思った。


 街に着いた僕は、道場へ向かう。

 入り口を抜けると、すぐに師範が見えた。


「レイ!?」


 師範はすぐ僕に気づいた。


「どこに行ってたんだ、今まで――」


 師範は言葉を失った。

 ボロボロになった僕と、血だらけになった母の姿を見て。


「お母さんを……」


 血と、汗と、息と、涙を流しながら、僕は言葉を吐き出した。

 剣になり損ねた僕の、人間の部分が泣き叫んでいた。


「お母さんを……助けてください……」



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