10
アッシュは頭を下げたまま、ピクリとも動かなかった。
僕が誰かに剣を教えるのは無理だと思った。だって既に一度失敗している。僕はユウのことを思い出した。僕にとって、最初で最後の弟子だった彼は蒼天一刀流を後にした。弟子を取った僕は、アッシュの形見を壊し、師範を巻き添えにして後ろめたい未来を歩む羽目となった。
そんなの、アッシュはもう理解しているはずなのに。なんで僕に頭を下げるんだろう?
「いいの?」
アッシュの形見を奪ったのは僕だ。
でもアッシュは、頭を下げたまま「いい」と答えた。
「今は、なんでもいいから強くなりたい」
微塵も考えを変えるつもりがないアッシュの様子に、僕は溜息を吐いた。アッシュの意思は、形見の剣と違って、とても折れそうになかった。その意思をへし折るために形見のことを告白したのに、まだ僕に声をかけるなんて信じられない。
「教え方が分からない」
素直に白状すると、アッシュがようやく顔を上げた。「なんでもいいから」と告げただけあって、アッシュの顔は酷く強張っており、何かに突き動かされているようだった。理由は分からないけど、切羽詰まっているのだろう。
「ユウの時はどうやって教えてたんだ?」
「普通に打ち合いをしてた」
「じゃあ俺にもそれをやってくれ」
アッシュは持参していた剣をシュルリと抜く。僕は壁に立てかけていた新しい剣を手に取り、鞘から抜いた。
街の皆や、道場の門下生は、アッシュのことを天才と呼んでいる。でも僕は一度もそう思ったことがない。アッシュが道場に入門した当時、多くの人が彼の素質を持て囃したけど、僕だけはその空気に馴染むことができなかった。不思議だったので、師範にこっそり「アッシュってそんなに才能ないですよね?」と訊いたら、師範は顰めっ面で「自分の中にだけ仕舞っておけ」と僕に言った。なのでそれ以来、僕はずっとアッシュに対する評価を心の中に仕舞っている。
開始の合図はなかった。アッシュは本当に焦っているらしく、僕が剣を構えた瞬間、あまりにも剣を振りたそうにしていたので軽く距離を詰めてあげた。アッシュは我慢できないと言わんばかりに肉薄してきて、袈裟斬りを繰り出してくる。
袈裟斬り、からの斬り返し。半歩下がりながらの斬り払いで、距離を取った直後に二連突き。全部躱すと、今度はフェイントを織り交ぜてきた。上段からの振り下ろしに見せかけて、身体を横に流しながらの左薙ぎ。なんでこんな、ややこしいことをするんだろう。普通に斬った方が早いと思う。
もう斬ってもいいかな。よく考えたら僕がアッシュに付き合うメリットってない気がする。形見を壊したことは申し訳ないと思っているけど、その復讐で僕を殺しに来たわけじゃなさそうだ。復讐のためなら死んでもいいかなって思ったのに。違うようなので僕はアッシュの剣を刀身で受け止め、手首を巻きながら横に払った。
アッシュの握っていた剣が、大きな音と共に床へ叩き付けられる。
動かなくなったアッシュの顔面に剣を突きつけた。
「まだやる?」
素振りの方が剣に没頭できるので、僕はもう打ち合いをやめたかった。でもアッシュは床に落ちた剣を拾い、「もう一度」とギラついた目で言ってくる。仕方ないのでそのまま打ち合いを続けた。
でも結局、流れは変わらなかった。アッシュの剣は僕に掠りもしない。居たたまれなくなってきた辺りで、僕がアッシュの剣を床に叩き付ける。これを三度繰り返した。
三度目の打ち合いが終わった後、アッシュは床に落ちた剣を拾おうとして、その直前で動きを止めた。剣に伸ばした手を引っ込めたアッシュは、静かに壁際まで移動する。
「ここで、レイの鍛錬を見てていいか?」
嫌だったけど、打ち合いよりはマシだったので僕は頷いた。今日はそんなに暑くないと思うけど、アッシュはいつの間にか全身から汗を流している。床を掃除するのが面倒臭いなって思った。よく見たら床がボコボコに凹んでいる。アッシュが無駄に力んで動いたせいだ。僕も速く走る時は床を傷つけることがあるけど、アッシュは普通に動いているだけでも傷つける。修繕は誰に頼めばいいんだろう。師範とは最近会ってないし。面倒臭くなってきたので僕はいつも通り剣を振った。床の凹みも、アッシュの視線も、剣を振っていればそのうち気にならなくなる。
「交流会の時」
無心になって剣を振っていると、アッシュが声をかけてきた。そういえば「黙って見る」とは言ってなかったな、と僕はげんなりする。
「レイも最後は工夫して斬ってたよな。どうやったんだ?」
突っ立っているアッシュをしばらく見つめた。どうしてそんな真剣な顔で僕を睨むのか、全然分からなかった。
「血を出さない斬り方のこと?」
「ああ」
「太い血管を斬らないよう注意しただけだよ」
アッシュの顔が歪む。歪みの理由が、僕には理解できない。
見たら分かることをなんで質問するんだろうって思った。でもきっと、僕が馬鹿だから気づいていないだけで、本当は今のやり取りにも隠された本音みたいなものがあるんだろうな。
「今思うと、回りくどいことをしたね」
交流会で魔物を斬った時のことを思い出す。あの時は冷静じゃなった。カッとしていた。だからこんな簡単なことにも気づかなかった。
「傷口から血が出るんだから、傷口を残さずに斬ればよかった」
アッシュは更に顔を歪ませた。
「……そんなこと、できるのか?」
「やったことないけど、できると思う。いつもより速く斬って、いつもより速く引き抜けばいいだけだし」
僕がそう言うと、アッシュは大きく目を見開いた。わなわなと震えるアッシュは、拳を握り締め、何かに耐えている。
僕はどうすればいいのか分からず黙ってアッシュを見つめた。目が合ったと思ったら、次の瞬間アッシュは静かに涙を流す。うっ、うっ、と嗚咽を漏らすアッシュに、僕はやっぱりどうすればいいのか分からず唇を引き結んだ。
「…………また明日来る」
拒否権はなさそうだった。せめてもの抵抗の意思として無言を貫いたけど、アッシュはお構いなしに涙を流しながら部屋を出て行った。
アッシュは今のところ僕を殺す気がないみたいだ。或いは、こうして僕と関わり続けることがアッシュなりの復讐なのかもしれない。効果的だと思った。