柵で囲まれた空地の話
とある空地が柵で囲われていた。
その空地は、表通りと裏通りの両方に接している土地だった。
本来なら表通りから裏通りへ、あるいは反対に裏通りから表通りへ抜けるためには相当な大回りをしなければならないのだが、空地の囲いは低い木の杭にロープを一本張ってあるだけの簡易的なものだったため、人々は容易にその空地を通り抜けることができた。
実際、この空地は地元の人々にとって格好の近道になっていた。
彼らはそこを自由に行き来することで快適に暮らしていたのだ。
ところがこの光景を見て、Aさんがこんな疑問を抱いた。
「みんながこの空地を自由に行き来してるけど、柵で囲われている土地なんだし、本当はここを自由に通り抜けたらダメなんじゃないの?」
Aさんが確認したところ、そこは市が所有している土地だということが分かった。
そこでAさんは、市役所へ行って質問してみることにした。
「あそこの空地をみんなが通っているけど、それって問題無いんですか?」
と。
対応にあたったのは市役所に勤めているBさんだ。
本音を言うと、これはBさんから見ればどうでもいい問題だったが、改めて「問題は無いのか」と聞かれてしまったら、職務上、何らかの回答をしない訳にはいかない。
個人的には、「別にどこからも苦情が来ていないし、各自で融通を利かせて上手いこと立ち回ってくれれば問題ない」と思ってはいるが、それはあくまでも個人的な見解であって、役所に務めている立場上、Bさんの口から「問題無い」とは言えない。
仮にそこで何かトラブルが発生して揉めた場合、
「以前、役所へ行って確認したんですが、Bさんからここを通り抜けても問題無いとの回答がありました」
なんてAさんに言われてしまったら、何もかも自分の責任になってしまう。
いいかダメかと聞かれれば、ダメと答えざるを得ない。
「問題ありますね」
仕方なくBさんは、Aさんにそう答えた。
そこでAさんは、改めて市にこんなクレームを入れた。
「あんなにいい加減に空地を囲っているから、みんなが通り抜けちゃうんじゃないですか。市が所有してる土地なんだったら、簡単には通り抜けられないように空地をがっちり囲ったらどうですか。ちゃんと管理して下さいよ」
と。
それからしばらく経ち、ある日突然、作業員がやってきて、その空地を金網のフェンスで囲い始めた。
「面倒くせーな。なんでこんなところにフェンスなんか作ってんだ、俺たち。別に要らねーだろ」
「無駄口を叩くなよ。これは仕事なんだからな」
「へいへい」
作業員もボヤいている。
やがてその空地は、誰も通り抜けることができないような、がっちりとしたフェンスで囲われた。
今日もそのフェンスを見て、地元の人がボヤいている。
「なんでここをフェンスで囲ったのかねぇ。毎日毎日大回りをさせられて、こっちはいい迷惑だよ」
一方、その場に居合わせていたAさんは、満足げにフェンスを見つめてこう呟いた。
「前々から、みんなが自由にこの空地を通り抜けるのはおかしいと思ってたんだよなー。ここは自由に通り抜けをしていい土地じゃないからな。俺が市にクレームを入れたおかげで誰も通れなくなってよかった。だって、これがあるべき姿なんだから」
……以上が『柵で囲まれた空地の話』である。
さて、これを読んだ皆さんはどう思われただろうか。
一応補足しておくと、これは僕の作り話であって、どこかにそのような事実があった訳ではない。
だが、これと似たような事例を個人的に幾つか知っており、いろいろと考えさせられる話じゃないかと思う。
では、ここで今の話を振り返ってみることにしよう。
結局のところ、この話では誰も得をしておらず、フェンスで囲ったことが誰の役にも立っていない。
強いて言えば、Aさんの正義感が満たされたという程度であろう。
あと、フェンスで囲った会社は儲けたかも知れない。
でもまぁ、その程度である。
むしろ損をした人の方が多いと言っていい。
具体的には、この空地を自由に行き来していた地元の人々とか、納めた税金をこのような形で使われた市民の皆さん、という感じになるだろうか。
これをトータルで見た場合、
「この空地をフェンスで囲うという対策は、およそ不利益しかもたらしていない」
という結果になったと言わざるを得ない。
では僕は、この作り話でいったい何を伝えようとしたかったのか。
この話から得られる教訓とは何か。
答えは、たった一言。
「余計な事は聞くな」
これに尽きる。
その最たる例が、規則についての質問である。
僕らは、規則についての質問は、なるべく避けるべきなのだ。
(無論、誰かの規則違反によって自分が困っていて、実際に何らかの被害を受けているという状況なら話は別だ)
なぜなら、そこから得られる回答は、結果的に自分を含め、多くの人たちの首を絞めることに繋がるケースがほとんどだからである。
理由はさっき見たとおり。
聞かれる側には常に、
「聞かれたからには答えない訳にはいかず、答えるからには安全サイド(自分に責任が及んでこない方向)に倒して答えざるを得ない」
という事情がある。
人は何であれ、禁止する方が楽なのだ。
許可にはリスクが伴うから。
許可したことに対して問題が起きたら、「なぜ許可したのか」と責任を問われてしまう。
それなら、ひとまず禁止しておけば何も起きようが無いし、仮に何かが起きたとしても、それは禁止事項を破った側の責任にできるから、その方が禁止する側から見て都合がいいのである。
つまり余計な事を聞くと、大体はこうなる。
『余計な事を聞くと、聞いた内容が追加で禁止される』
いわゆる、藪蛇というやつだ。
だから僕は「余計な事は聞くな」と言っているのである。
それでなくても、規則というものは禁止する方へ禁止する方へと倒れていくものだ。
例えば、校則なんかがいい例だ。
「学校で授業を受けるのに髪を染める必要はありませんよね」
「確かに。じゃあ茶髪とか金髪とか、髪を染めるのは禁止ですね」
「下着や靴下の色は白じゃないと学生らしくないですよね。学校へ行くのにカラフルな下着や靴下が必要ですか?」
「必要ありませんね。じゃあ下着と靴下の色は、白以外は禁止にしましょう」
「廊下で生徒同士が勢いよくぶつかって怪我をしたら、怪我をした生徒の親からクレームが来ませんか?」
「じゃあ校則に『廊下は走らないこと』って書いときますか。それならクレームが来ても『校則に「廊下は走らないこと」ってちゃんと書いてありますよ。悪いのはそれを守らない生徒で、学校に責任はありませんよ』って言えますからね」
……みたいな流れで、どんどんヘンテコな校則が決められていってしまう。
他には、例えば公園で。
「公園で球技をしていて、誰かがボールに当たって怪我をしたら、市が裁判で訴えられるかも知れませんよ?」
「じゃあ公園での球技は禁止ですな」
「公園で花火をして、火傷や火事が起きてもマズいでしょ」
「それなら公園での花火も禁止にしましょう」
「この遊具、子供たちが怪我をする可能性がありますよ?」
「じゃあ撤去しちゃいますか」
「ゴミが増えるのも困りものですよね」
「じゃあ飲食禁止で」
……なんつって、何でもかんでも規則で禁止されてしまう。
それでなくても、世の中には無駄な規則が多すぎるのだ。
これ以上、余計な規則を増やして欲しくはない。
特に次の二つは、前提として知っておいた方がいい。
①規則はだいたい禁止事項で成り立っている。
②禁止事項は禁止する側の都合で一方的に決められる
そしてさらに、もう一つこれに付け加えておこう。
③バカが規則を増やす
例えば、バカが一人で何かをやらかす。
一人だけの作業は禁止され、常に二人でダブルチェックするよう規則が追加される。
例えば、バカがUSBメモリを失くす。
USBメモリを使用禁止にする規則が追加される。
例えば、バカが余計な事を聞く。
聞いた内容が追加で禁止される。
……
このように、どんどん余計な規則が増えていく。
まったく迷惑な話だ。
特に最後の例については、『余計な質問はしない』という意識を強く持つことが肝要だと思う。
小学生が遠足へ行く準備をする際、先生に対して出される有名な質問に、
「バナナはおやつに入りますか?」
というのがある。
だが、たとえ小学生であっても、こんな質問をしてはならない。
バナナがおやつに入ろうが入るまいが、そのような質問は自らの選択肢を狭め、自らの不自由をもたらすだけだからである。
質問さえしなければ、自分でどちらにも解釈できたはずなのに。
このような質問が出るということは、「バナナがおやつに入るか入らないかが明確になっていない」ということだ。
だったら選択権は自分にある。
バナナをおやつに入れたければそうすればいいし、バナナをおやつに入れたくなければそうすればいい。
仮に、バナナをおやつに入れて文句を言われたら、こう答えればよい。
「バナナはおやつに入らないなんて、どこにも書いてませんよね」
逆に、バナナをおやつに入れずに文句を言われたら、こう答えるだけだ。
「バナナはおやつに入るなんて、どこにも書いてませんよね」
と。
決まり事が明確ではないのだから、何も聞かなければ自分の好きなように解釈することができる。
なのに、どうして余計な事を聞いて、その自由を狭めてしまうのか。
しかも聞いた結果は、聞いた本人だけではなく、全体に返ってくるのである。
余計な事を聞いたばかりに、みんなが不自由になり、みんなが迷惑する。
世の中には白か黒かをハッキリさせないと気が済まない人がいるが、実は、『白か黒かが曖昧な場面で白か黒かを自分で選べる』ところにこそ、『僕らの判断に任された自由』が存在するのである。
この「小説家になろう」においても、運営が決めたルールについて、わざわざ質問をする人がいる。
ここでも僕の言いたい事は同じである。
「余計な事は聞くな」
余計な事を聞かなければ、自分で選択できるのだ。
何か文句を言われたら、
「そんな事、どこにも明記してませんよね」
と答えておけばいい。
それなのに、「きっとみんなも疑問に思っているだろうから、私が代表して質問してあげる」くらいの勢いで、あたかも自分がみんなの疑問を代弁しているかのごとく、嬉々として質問をし始める人が出てくるのは困ったものだ。
それは、みんなの疑問を代弁しているというよりは、みんなの首を絞めているのと同じことである。
大事なことだから、しつこく繰り返す。
「余計な事は聞くな」
昨日、僕は『最近、YouTubeがやたらと搾乳動画を勧めてくるんだが(嬉)』という作品を投稿した。
この作品には、どこぞの記者が『再生回数の多い2本の搾乳動画を例示して、Googleに「規約違反には当たらないのか」と問い合わせたところ……ヌードや性的なコンテンツに関するポリシー違反で削除しました』との回答があった、という話が出てくる。
「余計な事を聞いてくれたものだ」と、つくづく思う。
冒頭に書いた『柵で囲まれた空地の話』は、そうやって余計な事を聞く人に対して、皮肉を込めて書いた僕からの寓話である。
読んで頂き、ありがとうございました。