その子供は「おやすみなさい」と言った。
私はそれを探していた。
ずっと傍にあったはずなのに。
突然にそれは無くなってしまった。
僕はそれを求めていた。
しっかりと掴んでいたはずなのに。
気づけばそれは腕の中からすり抜けて落ちていた。
俺はそれを忘れようとしていた。
絶対に叶えると誓っていたはずなのに。
いつの間にか自分でそれを捨てていた。
私は。
僕は。
俺は。
ある日、夢を見た。
その場所のことを知らなかった。
けれど、不思議と自分がこの場所にずっと繋がっていたのだという確信があった。
奇妙な高揚感が自分の胸に満ちていた。
探していたものがここにある気がした。
求めていたものがここにある気がした。
忘れようとしたものがここにある気がした。
そんな気持ちのまま自分の心の向くままに歩き続ける。
歩くたびに喜びを感じた。
けれど、前へ進むたびに言いようのない息苦しさを感じた。
試しに一歩下がってみると苦しみを覚えた。
けれど、同じ量だけ言いようのない安らぎを感じていた。
前へ進みたいのか、それとも後ろへ戻りたいのか、自分でも分からなかった。
しかし、それでも。
私は。
僕は。
俺は。
前に進み続けることにした。
きっと、自分がそうすることを望んでいるのだろうと思ったから。
景色が移り変わる。
それを見ている内に悟った。
このまま前へ進み続けることの意味を。
けれど、もう自分でも足は止められなかった。
止めたくなかった。
最奥に辿り着く。
そこに空を見上げた子供がいた。
私は緊張から。
僕は恐れから。
俺は後悔から。
自分で声をかけるのが憚られた。
何を言えば良いのだろう。
どう言い訳をすれば良いのだろう。
そう悩んでいる自分の気持ちを見透かしたようにして子供はこちらを見て微笑んだ。
「久しぶり」
その言葉が胸に刺さった。
どう返事をして良いか分からない。
だからこそ。
私は。
僕は。
俺は。
子供の名前を呼んだ。
「夢」
子供は微笑む。
「会いに来てくれたんだ」
その言葉を受けて自分の内に気持ちを告げようとした。
あぁ、確かに探しに来ていたのかもしれない。
いや、挫折に耐え切れずに改めて求めて来たのかもしれない。
それとも、完全に忘れ去るために自らこの場所に来たのかもしれない。
けれど、自分の内にある心は既に知っていた。
「ごめんね。君が一番分かっているだろうけど。もう手遅れなんだ」
その言葉が突き刺さる。
あぁ、その通り。
私は知っていた。
僕は分かっていた。
俺は忘れようとしていた。
「けどさ」
こちらへ来ると小さな体で抱きしめてくれた。
「知っているよ。君がどれだけ努力をしているか」
その言葉に自分の心から涙が落ちるのを感じた。
「知っているよ。君がどれだけ苦しんだか」
抱きしめ返そうかと迷う自分の腕は遂に動くことがなかった。
「君は頑張り屋さんだ。誇らしいよ、とても」
そう言って何度か頭を撫でた後、それは優しい声で囁いた。
「思い出してくれてありがとう。それだけで嬉しかったよ」
その言葉に思わず顔を上げようとした。
しかし、それが出来なかった。
自分が夢から覚めようとしていることに気づく。
覚めたくない。
このままずっとここに居たい。
焦燥する自分の気持ちとは裏腹に世界と自分が剥離していく。
「いってらっしゃい」
その言葉が最後だった。
私は目覚めた。
何故か目が濡れていた。
その理由を思い出せないまま、私は起き上がり会社へ向かった。
僕は目覚めた。
何故か強い喪失感があった。
その理由を思い出せないまま、僕は妻に呼ばれてリビングへ向かった。
俺は目覚めた。
何故か気持ちが安堵していた。
その理由を思い出せないまま、俺は兵士達が待つ広間へと向かった。
思い出されないまま忘れられていく。
それが不思議と嬉しかった。
あの人は頑張り屋さんだから。
これでいいんだと思った。
静かに広がる世界の中。
もう二度と顧みられることのない場所で。
夢は決して返ってこないと分かりながらも口に出して呟いていた。
「おやすみなさい」