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思わぬ場所で

 一日中倉庫作業のような仕事をして、ぐったりとした体を引きずりながら、スプリングコートを引っ掛けて外へ出た。本当なら葛木さんを夕食に誘いたかったが。残念ながら保育園のお迎えがあるということで、実現しなかった。


 何となくまっすぐ帰りたくなくて、駅近の商業施設で服や雑貨を見て回っていたが。ギラギラと輝く照明や無限に湧いてくる人波に酔って、自然と足が駅のホームへ向かう。一日パソコンの画面を見ていたので、もう少し落ち着いた、開放感のある場所でゆっくりと過ごしたい。


(あ、そういえば。山崎さんが、代々木上原に素敵なお店があるっていっていたっけ)


 山崎さんは、オリエンの合間にいろいろ雑談を振ってくれた。彼が話しやすい雰囲気の人物だったこともあり、葛木さんも私も、自分の趣味や好きなお酒の話などもしていた。


 私がドイツビール好きというのを知って、彼は私と葛木さんに、代々木上原のおすすめのお店の割引券をくれていたのだ。


 財布から取り出してみると、何と使用期限が明日までだった。


 ちらり、と腕時計を見る。


(七時前か。夕食がてら、一杯だけ飲んじゃおうかな)


 少し軽やかになった足取りで、私は代々木上原駅で電車を降り、スマホで出したお店の地図と睨めっこしながら、駅前の通りを歩いて行く。


 ごく稀に友人と訪れることもあるが、一人で代々木上原に来るのは初めてだった。この辺りは閑静な住宅街だが、美味しい個人店も多い。値段は少々お高めな店が多いが、総じてはずれが少ないのだ。


 目的の店は駅から降りて五分ほど歩いた先の裏路地にあった。年季の入った木製の扉を開くと、そこには温かな電灯のオレンジの光に包まれた、ログハウス調の内装のアットホームな空間が広がっている。


 思ったより店は広く、テーブル席は十席ほどはあるだろうか。緑色のエプロンをかけた店員の女性が、私に気づいてカウンター席へ案内してくれる。


(さてさて、何にしようかしら。手始めにソーセージと、ザワークラウトをつまみつつ、ビールはうーん、悩むなあ)


 豊富なメニューを前にワクワクしていると、カランカラン、と来店を告げる鐘の音が鳴った。


 何気なく視線を上げたその先には––––杉原尚史が立っていた。

 きっと今私は、側から見たらとてつもなく滑稽な顔をしているだろう。突然の杉原さんの登場に、完全にパニックになっていた。


 別れ方が別れ方だったために大変気まずい。ただ、彼にはツレがいるらしく、店に入ってすぐ私の存在には気づいた様子を見せたものの、そのままこちらには背を向けて、ドアを押さえていた。


 あとから入ってきたのは、細身で小柄な、高級そうなスーツを着た年配の女性だった。


「あら、素敵なお店じゃない。さすが杉原くん」


「いやいや、知人で詳しい人がいまして」


 そう彼女の言葉に答えながら、店内に再び顔を向けた彼は、私に向かって軽く会釈をした。


 正直もう関わり合いになりたくなかったが、無視をするのも感じが悪いし、とりあえずの会釈を返し、私はメニューに視線を戻す。


(誰かと一緒なら、こちらに来ることもないでしょ。お店の人には悪いけど、今日はこのまま家に帰ろうかな……残念だけど)


 目の前でバーテンダーが、手慣れた手つきでビールを注いでいるのをみながら、私は無念さを思い切り込めた深いため息をついた。


 だが、私の目論見は外れた。彼のツレは、私が最も関わり合いになりたくないタイプの女性だったのだ。


「あらあら、まあまあ。何、お知り合い? なあんだ、杉原くん、女性のお友達いるんじゃないの」


「あ、いえ、彼女とは先日知り合ったばかりで」


 杉原さんも明らかに動揺している。それはそうだ、何てったって、攻勢をかけた瞬間に逃げられた相手だもの。二人の会話に対して完全スルーを決め込んでいたのだが、小さく、だが遠慮のない女性の手が、私の肩をバシバシと叩いた。


「ねえ、あなた。一人ならこっちきなさいよ。どうせ飲むなら、楽しいほうがいいじゃない? お代は私が払うから。カバン持ってくわね」


 そう彼女は言うと、言葉を発する隙も与えずに、私の荷物をさっさと四人がけのテーブル席に運んで行ってしまった。


(え、ちょっと、待って! なんて強引なの!)


 だが、親に「目上の人には礼儀正しく」と厳しく躾けられてきた私は、どう見ても自分より一回りは上であろう彼女に対して、反抗する術は持ち合わせていない。しばし唖然としていたが、「早くいらっしゃい!」と言う彼女の声に、逆らえぬまま、渋々重い腰を上げた。


 杉原さんは、楽しそうに手招きをする女性の横で、「ごめん」のポーズを作っている。あんなふうに彼を残してきてしまったのに、比較的に穏やかに応対してくれる彼の様子に、なんだか逆に申し訳なくなってしまう。


「すみません、では、お邪魔します。山並と申します。私、全くの部外者でご迷惑じゃないですか?」


 小さな抵抗でそう聞いてみたのだが。猫のようなアーモンドアイを楽しそうに細めながら、彼女はあっけらかんとした様子で答える。


「いいのよいいのよ! 私はね、代々木の方で弁護士事務所を経営している、笹嶋って言います」


 笹嶋さんは、明るい栗色のパーマヘアで、年のわりにと言っては失礼だが、華やかなメイクをしていた。ただ、顔の造形が整っているので、派手なメイクが全く嫌味でなく、ローズピンクの口紅も、彼女の美しさをうまく引き立てていた。若い頃はさぞ美しかっただろう。


「笹嶋さんはね、僕の会社の法務部をたまに手伝ってくれていて。今日は打ち合わせ後に、飲みにきたんだよ」


 困った顔をしながらそう言った彼は、私に席に座るよう促した。笹嶋さんが私の椅子を引いてくれたので、恐縮しながらもそこに収まる。

 ちょっと飲んで帰るつもりが、えらいことになってしまった。「若い人が二人もいるから」と、ガンガンおつまみを頼む彼女に押されて、目の前には山盛りの食事が並んでいく。


「私ね、心配してたのよ。杉原くん女っ気ないから。こんなに綺麗な顔してるのに、奥手なのかしらねえ」


 頼むから今その話題はやめてほしいと、私は心の中で懇願した。……なぜなら、その先がなんとなく読めるから。


「ちょっと、笹嶋さん」


 杉原さんも話の行く先を察してか、必死に話題を逸らそうとしている。そう、だいたいこういうタイプの女性は、「あなた、この人なんかどう?」と、頼みもしないのに仲人役を買って出てくるのだ。私の叔母もまさにこのタイプで、結婚願望のない私は、できるだけこういうタイプの人間とは、関わり合いを避けている。


 だが、彼女の次の一手は、思わぬところに突き刺さった。


「しかもね、聞いてよ。この人、こないだカバンに『ナンパ研修』なんていう怪しげなテキストを忍ばせててね。私も一回テレビで見たことあるんだけど、あんな研修所に入って、本当に成果があるのかしらね。最近はいろいろなビジネスがあるみたいだけど、ああいう人の弱みにつけ込むようなのはいただけないわ」


「えっナンパ研修ですか?」


 咄嗟に聞き返してしまった。この間の唐突な距離の詰め方は、そういうこと?


「イケメンも拗らせると大変なのね。きっと自分の容姿に自信があって、楽して女の子引っ掛けてきちゃってるから。本命が出てきた時に、どうやって落としたらいいかわかんなくなるのね。哀れだわ。まあそれが、ナンパ研修とやらで改善されるとは到底思えないけど」


 彼の方にチラリと目をやると、顔を真っ赤にしながら両手で顔を覆っている。


「笹嶋さん、名誉毀損で訴えますよ……」


 彼女は、「あら、ごめんなさい」と、舌を出してコミカルな表情を作ったあと、手元にあったミードを煽った。かなりのハイペースで飲んでいる様子だったので、いろいろなタガが外れてきているのかもしれない。


 悪びれる様子もなく楽しそうに飲み続ける彼女と、必死に取り繕おうとする彼とを見比べていたら、なんだかおかしくなってきた。


「ふは……」


 気づくと、私は笑っていた。


 あんなに隙なく完璧な男を装っていたのに、ここへ来て特大級のネタバレをかまされて、もはやこちらを見られなくなるくらいにしどろもどろになっているのがおかしかった。おかげで、ちょっとだけ彼に対する心のハードルが下がった気がする。


 そのあとも、人には聞かれたくないであろう失敗談の引き出しを、笹嶋さんに手当たり次第開けられた杉原さんは、どんどん小さくなって行った。


「ねえねえ、せっかくだからさ、美冬ちゃん私と連絡先交換しようよ! ね? また飲も!」


「はい、ぜひ」


 彼女とお酒を飲んでいたのは、正味二時間といったところだが。なんだかすっかり仲良くなってしまった。人懐っこくて自由奔放で、陽気なこの人のことといると、なんだか気持ちが楽になった。


 私と連絡先を交換すると、彼女は中腰に立ち上がって、今度は大きな図体の杉原さんをバンバン叩く。


「ほらっ、杉原くんも! 交換さしてもらいなさい。あなたたちの雰囲気を見るに、連絡先も交換してないんでしょ」


 最終的にはやっぱりそうくるのか、と、私は眉毛をハの字にする。だが、彼女のオープンな雰囲気に流されて、もはやどうとでもなれという気持ちになっていた。


「いいですよ。はい、杉原さん携帯出してください。これ私のQRコードなんで」


「なんか……ほんと……すみません……」


 それなりに彼も飲んでいるはずなのだが、すっかり酔いは覚めてしまったようだった。


(まあ、当然か。イケメンがけちょんけちょんにやられて萎れている姿って貴重かも。顔がいいってだけで斜に構えてみてたけど、この人も普通の人間なんだな)


 少しだけ湧いた杉原への親近感は心の内に隠したまま、手早く連絡先の登録を済ませたあと、私は先に失礼することにした。


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