閑話 宿屋の主人の場合
ロンドンに住んでいる兄夫婦が亡くなったようだ。何が原因かまではわからない。まあ、大体予想はつく。ロンドンの空気は腐っていて瘴気が満ちていると聞いた。それにやられたんだろう。
だが子供もおらず、一人で畑をやりくり生活もいい加減疲れる。今年で三十になるが、まだそこまで老いたつもりもない。
妻がわけのわからない病気で亡くなって十年。
妻が生きている間に別の妻と交換すればよかった。(※この時代に妻を市場で売って別の妻を買うのは割と普通のことだった)
兄夫妻は子供を何回か持ったが全員亡くなった。彼は宿舎を運営していて、その所有権は俺のところへ来た。労働者が寝泊まりする宿舎なんぞ管理する気になれないのでさっさと処分して、そのお金で新大陸にでも行こうと思っていた。その日はいろいろ手続きがあった。中心街は宿屋の値段も高いので、俺みたいな庶民が泊まるのは難しい。
港が近くにある旧市街まで戻って、宿屋がないか歩いていたらそこそこ雰囲気のいい宿屋を発見した。老夫婦が経営しているところだった。出された食事を食べる。俺以外に客は見えなかった。なので少し話を交わしてみるとここを処分して田舎へ引っ越したいと言う話をしていて、俺も丁度まとまったお金が転がってきたところだと言ったら、その次の日に買うことになった。
これでいいのかと迷う。詐欺ではないだろう、しかし値段もそこそこした。ロビーはそこそこ広く、台所ではそれなりに食材を保管する空間もあった。
次の朝、教会へ行って祈りをした。神様、俺が宿屋をすることに問題はないのでしょうか。
何となく問題ないと言われた気がして、購入を決定した。だけど立地があまりよくない。俺もそれは考えていた。だけどもう取引は終わり、宿屋は俺のものとなった。宿舎を処分したお金は宿屋を買っても少しは残っていたし、田舎の家も畑も売ればお金になる。
まだ手続きをするために田舎に戻らないといけないが…、別に残したって誰のものになることもないだろう、従妹のウェンディがたまに来て掃除をしてくれるはずだ。
瘴気にあふれるロンドンへ住まうことを成り行きで決めてしまった。いつ病気にかかって死んでもおかしくないと思う。しかし何となく、田舎でくすぶってただ死ぬことを待ちながら年々と空しく過ごすよりこっちの方が性に合う。
食事は少しだけまずくなったが、その分実際に働くこともない。半月ほど経って、その間に宿屋で泊まった客は二人ほど。ロビーはお酒を出すように改造するべきか。
酒屋だとどうしても喧嘩が起きたらいろいろ壊れてしまうことを考えてしまう。このまま時間だけ潰していいのか。何かできることがあるのではないか。
その日は気まぐれに宿屋を閉めて出かけてみた。ロンドンへ来たまではいいがまだあまり回っていないので道がわからない。慣れるためにも時間がかかるだろう。
水は臭くて飲めたものじゃないと代わりにお酒を飲んでいるのは俺だけじゃないようだ。
あっちこっちを歩いていたら浮浪者や労働者がやたらと目につく。
いったいどこからこれほどの貧民が現れるのか。産み過ぎたんじゃないのか。
戻る途中、見目のいい女性が路地裏でうずくまって寝ているのを見た。顔はいい。あれでいいのか。気まぐれに声をかけてみた。他意はない。お酒を飲みすぎたせいかもしれない。
「嬢ちゃん、こんなところで寝てると悪い奴に殺されるぞ」
ロンドンのことは新聞や噂でよく聞いたので知っている。浮浪者はよく殺される。一人でいる女性とか格好の獲物だ。
女性は目を開けてからこっちを見た。
何も言わないのでもしかして話が通じないかと思ったが。
「コインをめぐんでくれませんか」
「物乞いか?」
「いいえ、日雇いであっちこっちで働いてますけど、スリにお金を取られてしまって、今日は寝る場所がないんです」
そうか。俺はこの時、次に何をするかを考えたわけではなかった。ただ、そう。これも神の導きであると、彼女を宿屋へ泊ることを提案した。俺が経営している宿屋があると。
その日の夜、俺は彼女を抱いた。そして考えた。考えて、考えて。
彼女に売春をさせてみることにした。
いや、別に彼女を搾取したいわけではない。
見目もいいし、別に俺は女性を抱きたいわけではない。性欲はあるが、妻の死体を見てからあまり積極的にやりたいとは思わなくなった。
売春を大々的に宣伝するのは違法だ。それくらいは何となくわかる。だがこっちは寝床を提供するだけだ。その場所に先客がいて、先客と何をするかまでは法律でどうこうできる部分じゃない。グレーゾーンってやつである。
それがうまくいくとは思わなかったものだ。彼女は一人目となった。
俺が寝泊まりをする部屋と念のため部屋を二つだけあけて、それ以外は全員、所々で見かける女性労働者を勧誘して住まわせ、売春を斡旋した。俺は相場の宿代だけもらう。それ以上の金額は彼女たちの懐に入る。
こんなビジネスをしたのは初めてだった。いや、畑を耕していた時だって作物の相場を気にしながら取引はしていたが。神様も許してくれるだろう、俺は別に悪いことはしていない。
パン屋で働いている女性労働者なんかは汗まみれになって毎日疲れ果てるまで腕を動かしている。それに比べれば彼女たちはいい環境にあるというべきだろう。
雑用をして客が娼婦を殴らないようにする従業員も雇った。
順調に二年の月日が過ぎた。ロンドンの瘴気にはいまだにうんざりするが、それ以外は概ね満足な生活を送っている。
いろいろ決まり事もできた。病気にかかるとどうするか、客が娼婦を執拗に指名する場合はどうするか。
そして妊娠をしたらどうするか。
これは少し迷った。追い出すことだってできた。だがそうしないことにした。そんなことをしたら地獄に落ちるだろう。
一人が瘴気にやられて死んだ。浮浪者の火葬が行われる大きな火葬場がある。彼女には家族も友人もいなかったので、そこへ送った。いや、家族がいたらうちには来ないか。
それで昨年、亡くなった女性の代わりに入った二十歳ほどの女の子。彼女はかなりの美人だ。金髪で目鼻立ちが整っている。歯並びは悪いが、それは別に気にすることでもないだろう、下層民はみんなそんな感じだから。
彼女が幼馴染という男との間で子供を欲しがったのは前例がなかったのでどうしたらいいかわからなかった。
だがまあ、彼女一人が抜けたところで劇的に収入が減るわけでもない。
しかし彼女の生活をすべてただで賄ってあげることはできない。なので働かずに過ごす間には彼女が今まで貯めていたお金を使うことになる。
それもなくなったらいよいよ追い出すしかないだろう、無償で泊めてあげるのはさすがに無理だ。
この決定が俺と俺を含む多くの人間の運命を変えることをこの時はまだ知らなかった。
生まれたのは彼女そっくりの女の子だった。5歳になってから母親に言われたのか宿屋で下働きをするようになったが、とにかく口数の少ない子だった。聞かないと話さないので、何をさせる前にもこっちが最初から説明をしないといけない。
それでまた二年の年月が過ぎた。大して変わったことはない。いつも通りの日常だった。それが急に変わった。その少女、アンナはよく喋るようになった。俺からいろいろ聞くようになった。
聞かれて困ることもないので答える。それは俺じゃなくてもみんなそうするだろう、愛らしい少女だからじゃない、イギリス人なら知識を持ってない人間が持ってる人間に何かを聞いた時、それを答えないという選択肢は存在しない。
少なくとも俺が知っている人間はみんなそうだった。
彼女は色んなことを始めた。宿屋の汚れを取り、娼婦たちの体を綺麗にし、美味しい料理を作った。
まるで童話で聞く妖精のようだった。どこからか現れ、問題を解決してくれる。
それで終わりじゃなかったし、すべてがいい方向へ進んだわけでもなかったが。
アンナという少女がこの宿に生まれたのはきっと天使がなせた業だったんだろうと思わずにはいられなかったのである。