4話 野菜のために
厨房は私担当になった。テムズ川からの悪臭で鼻が曲がりそうになっても実際に中で生活していると、できるだけ空気が入らないようにしていることもあって生活する分には問題ない。私は七歳でも背は少しだけ高い方で、力もあるので厨房で重くて扱いにくい鉄の調理器具も使える。
バターを使えるとよかったけど、この時代のバターなんて新鮮な牛乳を買って家で作るものである。今では機械に入れて牛乳を回せるとそこまで難しくもないけど、昔は専用の中をかき回せる取っ手のついた桶に入れて、数時間も手動でかき回して作ったんだから、よほど余裕があるか農家でしか手に入らない。
バターを贅沢に入れたお菓子とか、夢のまた夢である。間違っても下層民が口にできる類のものではない。
なので調理の油はラードを使う。結構安値で売ってるのだ。それをフライパンに入れて、刻んだ玉ねぎを炒め、ニンニクとパセリで香りをつけてからベーコンと豆を入れ、食べごろになったら完成。
みんなに配る。誰もやらないので私がやる。
母が一口食べてからお皿を凝視した。
「どう?」
「アンナちゃん、なんて言ったっけ」
言葉が思いつかなかったみたいだ。
「美味しいってこと?」
「うん」
大満足である。子供が生まれると一般的には放置されるのだ。下層民だけではなく一般的に。子供は口に何もかも入れたがるので、どこかの時点で口に入れてはまずいものを口にしては死んでしまうことはかなりの頻度で起きていた。
それでも何とか生き延びることができたら下層民ならほぼ例外なく過酷な労働環境に追いやられるという。
しかし母はそうはしなかった。自分で仕事を探してやってはいるけど、別に必ずそうしないといけないということはないのに。毎晩一緒のベッドで寝てるし。母の病気は肺炎だと思う。結核ではないようで。だったらやばかった。追い出されたんじゃないかな。たまにひどく咳をするくらいで。それに血が混ざっているのである。
年齢的には死んでもおかしくないのかな。
「ママっていくつ?」
「二十七だったか二十八歳だったか。多分その辺」
「正確な年齢はわからないの?」
「わかるものなの?」
逆に聞かれた。
いや、まあ。カレンダーとかあると気にするかもしれないけど。
「田舎に戻ることはできない?都会の空気って悪いと思うんだけど」
「行っても住む場所なんてないもの」
うーん…。
確かにその通りだとは思うけど、できれば健康でいて欲しいので。
多分だけど、ビタミン摂取が足りないように見える。生で野菜なんて食べないので。キュウリ以外は…。なぜロンドンにキュウリがあふれているのかわからない。前世はみんな河童だったのかな。
ちょっと笑えるかも。
ビート、テンサイは市場で安価で出回っている。毎朝出かけることはしていないけど。面倒というより馬の糞という地雷を避けるのがちょっと精神的に疲れる。
大通りを通ることになるので、馬車がたくさん通っているのだ。それはもうたくさんである。
この時代の車だから、車を馬車に変えた道路のようなもの。そして馬車は馬が引くものだから馬糞で道路がいっぱいだ。
それも労働者たちが集まって、朝になる前の夜明けのころに回収しているようだけど。あれをテムズ川に投擲するとか言わないでよ。普通に農家に行くんだよね?ね?
別に質問していたわけでもないので誰も答えてはくれない。
馬車は人を待っていたりしてくれないので、突っ切って歩くしかない。子供はそれで事故になって死んだりするので、私も命がけ、とかにはならない。馬車ってめちゃくちゃ遅い。車を知っているので、車のスピードに比べたら全然遅いから怖くない。怖くないけどぶつからないようには気を付けてるけど。
土とほぼ同化している馬糞は仕方ない。それまで気にしたらきりがない。問題は出来立てほやほやの奴である。
靴なんて一足しかないんだから、足でも突っ込んだら大惨事。前に一回やったことがあって、そのまま叫びそうになった。しなかったけど。馬が驚くから、叫んで馬車が事故を起こして、その原因として私が指名されたら子供でも許されず投獄されるだろう、下手したらそのまま死ぬ。死刑になるかもしれないし、死刑にならなくても刑務所は子供が長く生存できるような環境ではないようなので。
それでその靴なんだけど、乾くまで素足で待ってから木の棒で軽く叩いて落とした。壊れないように気を付けながら。サイズもあってないけど、これがないと素足で歩くしかない。さすがに都会で素足は色んな意味でやばい。
スリをやっている少年たちもいる。
宿屋で使う食材を購入するためのお金を持ち歩くことは結構早いうちに少年ギャング団に目をつけられたようで。
そう、大人ギャングではなく、少年ギャング。
やんちゃ坊主とか、生易しいものではない。
彼らはスリをして生きる。生きるためにスリをする。必死なのである。工場で働くことが嫌で逃げた奴らがほとんどで、親の片方か両方もおらず、働くのをやめたらそのまま食べることがなくなって死んでしまう。
だけど兄弟姉妹がいるという責任感で働いているのだけど、彼らには兄弟姉妹すらいない。何かしらの原因で幼少期を超えられずに死んでしまったか、それとも一人だけ生んでそのまま親を亡くしたか。
中にはヒエラルキーもあるようで、比較的新人が盗んだお金から上前をはねて少しだけ豪遊をしているようだ。少しだけというのは、精肉店で高いソーセージを買って食べるとか、一泊4ペンス、体感で四千円ほどする棺桶みたいなところで寝泊まりするとか。
世知辛い。
それで一回盗まれて、焦った。だけど何となくわかるというか、すれ違ってから急にポケットが軽くなったんだから疑わないわけがない。走って逃げたので私も走って追って捕まえたらほかの少年たちに囲まれた。
全員ボコボコにした。神様特製のチートボディを舐めるんじゃないよ。いや、神様なんて会ったことないから知らんけど。
それからは顔見知りとなって、手を出されなくなったとさ。
なので彼らは脅威度からしたらかなり下。たまに野菜の使わない葉っぱの部分とかあげると馬のように食べる。食べない子もいるけど、食べる子もいる。野菜は体にいいからね。
そんな、ある意味サバイバルをしながらも新鮮な野菜を確保して、キュウリももちろん中に入ってる、酢漬けにしてから食べるようにしたのだ。それで全員が顔色も肌もよくなった。前からやってればよかったのに。
母も三か月ほどで症状が軽減して、半年たつと咳をしても血が出ることはなくなった。よかった、がんではなかったみたいだ。
料理はここに住んでいるほかの人たち、ほとんど娼婦さんだけど、評判が良く、みんなして食事を楽しみにしていた。それでも仏頂面で、笑顔で美味しいなんて言われることはなかったけど。
あまり褒める文化がない。ただ私が料理を出すと、黙々と食べてから、お代わりはないの?と聞くくらいで。
うん。美味しいんだね。物欲しそうな目で見られると何となくわかるんだ。