3話 料理と歯ブラシ
安価で出回るお酒を使って宿屋をピカピカになるまで綺麗にして一息。週に一回掃除をするけど、前よりずっと綺麗になっているのである。これも一人でやってる。好きにすれば、みたいな雰囲気。なんだろう、あのなんかよくわからない傍観者目線。みんなの宿屋なんでしょう?興味ない?だめだこりゃ。みんなして目が死んでる。こいつ何やってるんだろうという目がやばい。別に邪魔する気もないけど、積極的に参加する気もないということね。わかるよ。私も文化祭とかそんな目で頑張ってる子とか見てたし。自分でやれる分だけやればいいのに、一人でそれより多くの分をしようとしている子とかね。
いやまあ、宿屋ではなく娼館だからそういう目になるのも当然かもしれないけど、私が寝泊まりしているから宿屋なのである。そういうことにしておきたい。
別に娼館だから悪いってことはない…、うるさいけど、そんなに悪いことはないと思う。スラムじゃないんだし。ただの下層民だし。服とかすごいからね。何がすごいって、お金持ちが捨てる服を着るのよね。だから案外綺麗で、フリルもついててフリフリ。
下層民は自分では服を買わないというね。こんなことで経済が回るわけがないと思うけど、その辺はどうしているのかな。値段が高すぎて買えそうにないのはわかってるけど、自国の主力産業なんでしょう?綿花を使っての洋服産業って。
まあ、もともと安定的な収入のある中産階級以上の人たちだけがお金を回しているだけな気はしているけどね。こっちはだから戦場でも使い捨てにできるという。
ただイギリスでは、雰囲気的に。みんなしてひどいことを体験しましょう、みたいな空気が流れるのである。
テムズ川の匂いとかね。貴族でも国会議員でもブルジョアでもあの匂いからは逃れられない。臭さの前ではみんな平等なのだ。というか、新聞で、新聞もまたお金を持ってる人が買ってから読み終わって捨てたものを拾って読むようにしているけど、結構やばい話とか聞く。あのパニエ。女性がスカートを膨らませるパニエ。あれ、火が付きやすく、燃えやすいので女性が火だるまになって死亡する事件とか割と普通に記事で書かれている。
やばすぎない?大英帝国の貴婦人が火だるまとか。ジャンヌの復讐か何かか。いや本当に。
やばいと言ったら女性のオーガズムのこともある。何がやばいって、この時代は女性のオーガズム自体信じられていない。
母に聞いても、うん?とすっとぼけるのか本当に何も感じてないのかわからない。実際にやってるはずなのにあんあんとか言ってる人が誰もいない。
試しに自分で確かめてみたら普通に感じたので、それを感じると表現するコミュニケーションの方法自体が存在しないのではないかという結論にたどり着いた。呪いか何かじゃなかった。それとも病気?
避妊はしている。客に支払われるのである。性病に対しての認識もあって、割と気を付けているようだ。それなら定期的に医者さんでも呼んで、ここで働いている女性を見てあげたらいいのに、それはしないんだね。ここを使うのはほぼ港で働いている人たちで、労働者ではなく中間管理職の人。
なのでそれなりに収入があるし本人のリスクも少しは気にしているみたい。
それでもたまに病気にかかっている人が出るのを見るに、どうにかしたほうがいいと思ったけど。聞くにコンドームのような避妊具の使い心地があまりよくないと使おうとしない客がたまに出るらしい。しかしその場合は性交でも直接挿入することは控えるようにしている。客が従順に聞いてくれるかって話だけど。割とそこまでの問題にはならないようで。
女性のオーガズムすら信じてないし、キリスト教の文化的に大っぴらにできないってことなんだろうか。ただそのせいであまり客からたくさんお金を取るようなことはできなくて。全体的に安い。
母だってあんなに美人で、持ってるお金なんてたまにシチューではない塊で出る肉料理を買える程度。
イギリス料理はまずいという認識があるけど、実際はただ単純なだけである。
キャベツと玉ねぎ、ベーコンと豆を入れたシチューとか、単純だけどおいしい。何が単純かって、ただ入れて煮込むだけなので。
ずっと煮込む。足りなくなったらまた入れて煮込む。最後は形状もわからないほどまで溶けた材料とすぐ前に入れた材料が交わって、得体のしれないゲル状のスープになっていたりする。
やばい。
普通に食べれるけどね。
イギリス料理がなぜまずいのかなんて聞いてはいけない。イギリス料理がまずいのではない。料理自体を簡略化しすぎて、気にしていないだけなのだ。
これがもっと単純になって、21世紀になるとみんな料理自体やらなくなって、レトルト食品を買うようになるという…。
まあ、上流階級とかはいろいろ美味しいものを食べてるって話だけど。私とは無縁な話ですな。
ただこれにも雰囲気というか、食事行為自体を栄養を取るためにするものとしか思っていなくて。さすがに酢につけただけのキュウリとか、味気なさ過ぎて改良せずにはいられなかった。
厨房では料理人なんていない。この娼館で雑務をしている人たちが代わる代わる面倒くさそうにやってる。いや本当そこからどうかしている。
考え方では、料理=作業で、作業=労働で、労働はお金になるもので、食べたらなくなることに労働力を投入するなんて正気か、みたいな。正気だよ。なぜその価値観になってしまったのか。
仕方なく私がやることに。せっかくだから市場で安値で売られるハーブとかがあったらいいと、出かける準備をしてたら母が怪訝そうな顔で私に質問した。
「こんな朝早くからどこへ行くの?」
「市場」
「なんで?」
「美味しいお料理を作りたいんだけど、材料が足りないの」
「料理?毎日食べてるでしょう?」
んん?話が噛み合わない気がするんだけど。
「毎日食べるのを美味しくするの」
「美味しい?美味しいってどんな感じ?」
え、美味しいのがわからないってこと?
「美味しいものは美味しいものなの」
「そう…。また変なことを始める気なのね」
「変なことって…」
確かにいくつか心当たりはあるけど。
「気を付けてね」
それで市場へ行ったらハーブを束で売ってるところがあった。結構安値で。あまり食べないので安いんだって。高いハーブは香辛料ではなくお茶と海外から輸入したもので、香辛料として使える一般的なハーブは安いと。国内…、本土であるブリテン島内で自生するハーブはたくさん取れて輸送料もあまりかからないようで。
じゃあ何のハーブなのか聞いてみたら。
パセリとローリエ(月桂樹の葉)とニンニク…。ニンニク!
ニンニクあったんかい!厨房で見たことがない。免疫力上げてくれるんだから…。あ、口の匂いとか気にしてるのかな。パセリとローリエだけ買って聞いてみよう。
いやあまり気にしてなさそうだけど。体臭とかやばかったんだし。今はまあ、私が体を綺麗にすることは大事です、病気にもかからなくなりますよと言っても…、みんなしてどうでもよさそうな雰囲気だったけど、私が寝泊まってる宿屋に病気が蔓延したら大変なので、毎晩毎晩、水を入れた桶をえっちらおっちらと運んで、これで洗って、なんて言ったら面倒くさそうにしていたので、仕方なく灰を使ってごしごしとスポンジを使って洗ってやったのだ。スポンジは私が宿屋で働いてもらったお金で買ったもの。いや、この時代って、お金があっても下層民の子供だとおやつくらいしか買うことがないんだけど、おやつってあれだよ。バターを入れたお高いクッキーでも、果物でもなく、キュウリとか固いパンとかだよ。
そこで使うくらいなら生活必需品を買った方がいいと思ったのである。歯ブラシとかね。問題はこれもめちゃくちゃ高いという…。何とか買えたけど、なんかいろいろ失った気分。ただの歯ブラシなのに、令和の日本円価値で換算すると1万円くらい?
三か月働いて歯ブラシ一つって…。それまでは歯ブラシすらもなくて大変だった。
雨の日に外に出て口の中を指でごしごしとすることしかできなかったので。それでも虫歯とかもなくて、鏡で見てもずっと白いままだったんだよね。
やっぱこれチートボディなのかな。