1話 テムズ川がやばい
酔っぱらって線路に落ちて起きたら産業革命頃のロンドンだった。新聞を見るに1840年代。少しだけ昔の英語だけど発音は現代とそこまで変わらない。使ってる単語とイントネーションに少しだけ差があるくらいか。同じ単語でも発音の仕方が違ったりしているので慣れるまで少しだけ時間がかかった。
んで私は金髪の女の子になっていた。七歳。名前はアンナ。
アリスじゃない。アリスなら不思議な国に迷い込むフラグが立ったかもしれないのに。残念。
アンナは結構ありふれた名前で、誰でも使っているという。
母は私の名前を新聞で見て決めたようだ。新聞を読んでも半分ほどしか理解できないようだったけど。教育なんて受けられないからね。
下層民なので。
このご時世のイギリスは階級区分がはっきりとしていて、上の階級と下の階級はコミュニケーションすらろくにとっていなかった。それはイギリスだけではなく、欧州は全体的にそんな感じだったようである。貴族も普通にいるし。
使っている英語にも違いがあるので言葉を聞いてしまったらこの人がどの階層の人間かわかる。
つまり私がどう頑張っても、例えば未来の科学技術とかを発表しようとしても、そもそもこの時代は性差別も半端ないので、多分無理。
いや、やりようはあるとは思うし、現代の上流階級の英語は少しは知っているけど、それを頼るなんてことはリスクが大きすぎるので。上流階級の人間に、私はこんなに話せますよ、だからあなたたちの仲間に入れてくださいなんて、怪しすぎるし下手したら刑務所へ送られるんじゃないかな。
それに今の年齢で、性差別がすごいことになっていることもあるので、女性の私だと何をやるにもそれなりにハードルが高い。
そんな私の母親は可愛い娼婦さんで、父親は毎日あくせく働いている港の労働者。
絵にかいたような下層民である。
空気が徐々に悪くなるロンドンで意味もなくはしゃいだ。
町が臭いのでそんなに嬉しくないかもしれない。外へでて、転生したぞ!なんて叫んでもね。臭いだけだから。
町全体が臭すぎるのである。下水道の匂いがするのである。いや、下水道とは少し違うかもしれない。どこへ行っても腐った死体と焼け焦げた有機物の独特な臭さに糞尿の匂いが混ざった、何とも言えない悪臭が漂う。しかも悪臭のもととなっているのが川なのだ。そう。あのテムズ川。ロンドン橋のある、国会議事堂の裏に流れるあのテムズ川。
嬉しくもなければ顔とかすぐに汚くなりそうである。というか父親が年齢的には全然若いのに動くのも厳しいとかで死にそう。母親もなんか病気でやばい。
顔は綺麗だけど石鹸とか売ってないから買えないしどうしたらいいの。
いや、石鹸がないわけではない。あるけど結構高いか洗濯に使えるようなものしかない。
なので仕方なくみんな香水…が使えるなんてできやしない。下層民は黙って臭いところで放置されるしかないと。
手洗いなんて水が綺麗じゃないからしないし。平均寿命が短いわけにはこういった理由もあったんだろう。劣悪な衛生状態。みんなしてかなり臭い。私も臭い。綺麗な水がないから洗えないので。それでも客商売でもあるわけだから、体はお酒に浸った布で拭いたりしている。これが意外と効くのである。そりゃアルコール成分があるんだから、そうもなるんだろうけど。
体を拭いて、洗濯はあのくそみたいな水でやるわけではない、雨の日に雨でやる。
それかそもそもしないか。
ひどすぎる。よくこんな環境で生きられるものだと感心する。
私もこれはいけないと、雨をためる貯水槽を作った。一人で?一人で。工具も材料も近くで結構簡単に手に入れられるので、暇な時間に。建物の後ろに隙間がある。そこに作っておいた。それを使ってみんな体を洗うようにと。
チート能力なのかどうか、年齢にしたら筋力がある。
テムズ川は本当に使えない。
流れているテムズ川は絶対に入ったら死ぬんじゃないかって思わずにはいられない。
そこで捕まったお魚とか普通に食べてるけどそれってどうよ。いや、私も食べてる。それ以外食べられるものがない。しかも飲料水がなくて、水の代わりにお酒を飲んでいる。ただのお酒から度数の高い蒸留酒まで結構安値で出回ってる。
お茶には殺菌効果もあって水を一度沸騰させることもあってか、ある程度収入があるならお茶の方を選ぶらしい。
時期的にはエンクロージャーが加速して、農村から都会に大規模の移動が起きている。母も小作農の家で生まれたようで、そこで働くのが法律で禁止されて都心部に追いやられたようである。
なんてことをするのかと。産業化ってこんなものかと。知ってはいたけど直接聞くと結構衝撃的。
町は浮浪者であふれていて、住宅街は入ることすらままならず、外側に素人たちが集まって廃材などを使って屋根と壁があるだけの家というか、ただ住んでいるだけの場所に住んでる人が万単位でいる。
その辺は治安も悪く、まさにスラム街のような様子。こっちはスラム街にまではいかない、旧市街地。ロンドンは二千年以上の歴史を持つ古い都市なので、都市開発も頻繁に行われ、取り壊しと新しい町を作ることもそれこそずっと昔からやっていた。
私が住んでいるのはその中でも古い場所で、お金が回らず16世紀の街並みからあまり変わってない場所のようであった。グリニッジやブリクストンなどの中心部とは離れている。町に名称はなく、ただ港町と呼ばれていた。これが何か変容して正式名称になるのかなと思うも、考えてもそんな名称の町はなかったので、もしかするとここは地球のロンドンとは少し違うのかもしれない。どこがどう違うのかはわからないが。
そりゃ、未来人の意識だけが送り込まれるとか、それが本当に私が体験した前世であるにせよただの記憶の塊であるにせよ、そんな人物がいたらその時点で歴史が変わるのは確定的な気がするけど。
例えば私は古い石畳みの道に落書きで何かを残すことだってできるわけだ。やらないけど。
やらないと変わらないから結局私が知っている歴史とつながった、ただの過去ということになるのかな?そうはならない気がうっすらとしていた。それはあとで確定的なことになるのでここが平行世界なのは否定の余地のない事実になってしまうけど。その話は後々。