第2話
この状況で2人の関係性は難しいと思います。
花穂とて幸四郎の記憶を戻すにあたって何もしなかったわけではない。かつての思い出の場所に行ったり、2人で熱中したドラマを見たりと一般的に思いつきそうなものは試していった。しかし結果は箸にも棒にも掛からぬで、昔の彼氏と懐かしさを味わうだけ。そのうち、花穂も彼の記憶が取り戻すことの難しさをより実感し、憂いを抱きつつも半ば諦めていった。
その一方で、幸四郎は彼女に感謝し心が惹かれていた。彼からすれば知り合いがいない中で、自分のために粉骨砕身手を尽くしてくれる上に、今の記憶で女性とデートするという新鮮な感覚を味わわせてくれた相手なのだから。気が付けば、出会って2か月程度で彼は花穂に告白したのだ。
「その…記憶は無いんですけど、もう一度俺と付き合ってくれませんか?」
この言葉に、花穂は当惑した。恋の熱が完全に冷めていたわけでは無いが、結婚を考えていた時期や別れて間もなくの頃のような渇望も無い。このどっちつかずの感情に純粋な好意を直面されることに、受け入れる心の準備というものがまったく無かった。それでも昔は惚れた男だ。好意を無下にすることなどできなかったし、一緒にいることで何か思い出せることもあるかもしれない。そんな同情的な思いで、花穂は再び幸四郎と付き合うことになった。
それに彼女にはひとつ気がかりなこともあった。彼が自殺しようとした原因だ。ただ興味本位でそれを解き明かそうとするほど、彼女は残酷ではない。記憶を取り戻そうとするのも善意と哀れみからなのだ。しかしこの自殺の原因だけはどうにも腑に落ちない。大原がそこまで追い詰められていた理由が検討もつかないのだ。もちろん彼女が知らない面があったのだろう。しかし幼い頃に身内の死を経験している彼からすれば、命を粗末に扱うことが信じられなかった。
こういったことで真っ先の思いついたのは金絡みだ。借金が重なって首が回らなくなった話など、映画などでよく見る展開だ。しかし借金があるのならば、どこかで取り立てがあってもいいものだ。特に幼い頃から孤独の身である彼ならば、彼女である花穂や世話になっている勤め先の社長なんかに話が飛び火してもおかしくないが、催促状ひとつすら現れない。以前住んでいたアパートにも、怖いお兄さんが訪ねてきたとか郵便受けにその類の書類が入っていたといったことは確認されなかった。生活も恵まれたものでは無かったが、元より若い頃から親なしで働いていた彼は切り詰める性格であったため、計画性はきっちりしていた。その点でもお金の管理について、借金するような人間でないことの証明となっていた。
もうひとつ考えられたのは、痴情のもつれというやつだ。花穂と別れたことでショックを受けたか、はたまたその間に他の女性と交際していたが破局になってその悲しみからこのような凶行に至ったのも考えた。しかしこれもまた可能性は薄かった。幸四郎はガサツで不器用だが変に真面目で、女性にはそれなりに丁寧に対応できる男であったからだ。浮気などしようものなら、ボロが出るだろうし、仮にそういうものが無かったとしても別れるだけで思いつめるほど悪感情がひしめく状態にはならないと、花穂は踏んでいた。
つまるところ、幸四郎が自殺しようとした理由を探ろうにも、そこに繋がると思われるネタは無く、彼女の持つ哀れみと共にその興味にブレーキをかけるのであった。
誕生日から数日経っても雨は降った。梅雨の時期でもないのにこの頻度は気分をも湿らせる。実際のところは時折晴れるのだが、夜中であったりと花穂が外で活動しない時に晴れるものだから、天気に弄ばれているようで気分が悪かった。
この日の帰りも雨に見舞われた花穂はレンタルDVD店へと足を運ぶ。さすがにここまで雨が降られると家にこもるしかなく、そのための暇つぶしが欲しかった。幸四郎のように本でも良いのだが、彼女としては動きある映像の方が好みであった。以前は幸四郎も本は10ページも読んだら休憩を挟み、短い本でも半月近くはかけて読む程度の集中しかできなかった。しかし今は一心不乱に読み漁り、自信を持って読書家と言えるほどの数を読破している。記憶の有無で人間は大きく変わるものだ。
幸四郎とは待ち合わせをしてそこで合流、一緒に選びそのまま食事をして一緒に帰る。そんな予定を立てていた。花穂にとっては憂さ晴らしのデートであった。環境がよどむとどうにもネガティブな方向に思考が傾いてしまうのは、彼女自身も理解する欠点であった。
「でも俺、雨も嫌いじゃないよ」
「ふーん…前はきっぱり嫌いだって言っていたよ。外出れないし、湿っぽいのが肌に合わないとか」
「そんなに外出ていたんだ、俺」
「まあ、お金無かったから車も買えなくて古い自転車でいろんな所を巡っていたしね」
「今とは想像つかないアウトドアだな。金無いのは変わらないけど」
「趣味は変わるのかもね」
棚に並ぶ作品から目をそらさずに、花穂は答える。記憶喪失の話は避けているわけでは無い。今の幸四郎と付き合っているのは事実だし、花穂が記憶を取り戻すのに強く協力していたことも彼は知っているからだ。それでも気分が落ち込んでいる時は、無意識に話を逸らしたりしているのにはお互い気づいていない。
花穂が借りる作品を選ぶ中で、すでに幸四郎の腕にはシリーズもののスパイアクション映画2作を手に持っている。そのジャンルに興味のない人でも聞いたことのあるほどの往年の名作だ。花穂はちらりと彼の選んだ作品を確認すると、再び棚の作品に目を移した。趣味は変わっても、好みはなかなか変わらないものなのを改めて気づかされるものだ。
「花穂は何借りる?」
「ホラー…はちょっと季節外れだな。話題の最新作とかっていうのも見る気起きないんだよね」
「借りたいものがあると思ったから、誘ってくれたんだと思ったよ」
「選ぶのも楽しいの。それに暇つぶしだって欲しかったし…でもお腹すいたな。ここら辺でいいや」
そう言って、花穂はミステリー映画を2本ほど手に取る。かなり昔に映画館の予告で気になったものであったが、結局は見るにまでは至らなかった作品だ。こんな時だからこそ暇の埋め合わせにはちょうどいいものだろう。ちょうど空腹を感じた際に、目に留まるような場所に置いてあることにはちょっとした幸運を感じた。
会計を終わらせて、2人は外に出る。空はかげり、雨が視界を曇らせる。空腹の花穂は食事に向かうことすら遮られているような気がして、空を見ながら露骨に目を細めて口をへの字にする。相変わらずの天気に対して、せめて不満をぶつけたいのだ。
「まだ降っているね」
「週末には止むみたいだから、諦めよう。ほらご飯食べに行こう?」
軽く背中を叩きながら、幸四郎は傘をさして一歩踏み出す。こんな暗い天気にも臆せず進んでいこうとする彼には、記憶があった頃の面影を花穂は感じてしまう。同時に彼が今の人生を謳歌していることに確信を持ってしまうのだ。それを目の当たりにするのはこれが初めてではない。前向きな言動、デートで見える笑顔、花穂との生活…その多くが幸四郎の人生を豊かにしているものなのは誰が見ても明らかであった。
知れば知るほど、花穂の想いは揺れ動く。このままでいいじゃないか、彼が幸せなのだからと言い聞かせて今日まで一緒に過ごしてきた。それでも彼への哀れみは消えなかったし、いつまで経っても彼が記憶を失った原因への興味という興奮が納まることはなかった。
天気同様に湿っぽい雰囲気になりやすい…。
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