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残雪の意識  作者: 市田気鈴
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第1話

これまで連載で書いていたSFとは違う毛色の作品となっています。最後までお付き合いしていただければ幸いです。

 二葉花穂の27歳になる誕生日は、あいにくの雨であった。窓を閉め切っても聞こえる道路を打ち付ける雨音、視界をすっかり遮る豪雨、少しでも外に出ればずぶ濡れになることは間違いない。おまけにまだ2月なものだから、雨と相まってかなり冷え込むような状態だ。おかげでコタツから出る気力がどんどん奪われていく。年を重ねることには前向きな気持ちを持つ彼女ですら、これには不満であった。せっかく27歳という年の始めにこんな不透明な天気では、未来への期待感が薄まるというものだ。

 そんな花穂の不満を見透かしたのか、一緒にコタツに入って本を読む男性は口を開く。


「こんな時は外に出ない方が良いな」

「でもケーキがぁ…」

「昨日、俺がスーパーで買ってきたのがあるじゃん」

「せっかくの誕生日だからLALAのチョコレートケーキ食べたかった…」

「それどこのケーキ屋?」

「何年か前に…あー、そうだった。えっと、車で30分くらい行ったところ。ほら、小学校の近くにある古い床屋さん。あそこの裏手のパン屋だよ」

「あそこってケーキも売っていたの!?」

「そうなの。私はあそこのケーキが好きでさ…」


 驚く男性を尻目に、彼女は下半身をコタツに入れた状態で横になりながら、懐かしそうに天井を見る。あのチョコレートケーキは絶品だ。とろけるように甘さは口に入れた瞬間に、容赦なく流れ込んでくる。甘いものが大好きな彼女としては、せっかくの誕生日には大好物にありつきたかったが、この天気では車で行っても濡れるだろう。仕方ないので、また次回にしようとは思うが、誕生日ケーキとして食べられないのはやはり残念だ。特に思い入れのあるケーキとくれば尚更…。


「俺が買ってこようか?」

「そういうのはいいよ。行くとしても一緒に行きたい。そして私は今日は出歩く気がない」

「つまり行かないってことだな」

「そうだよ。…ねえ、その本面白い?」

「うーん、あんまり。でもあと少しだから読んじゃおうと思って」


 花穂の問いに、男性は本から目を離さずに答える。彼の名前は大原幸四郎。花穂と付き合っている男性であった。

 彼と出会ってから2年経っていた。以前付き合っていた男と別れてから約1年後、あるきっかけからこの男性と付き合っていた。同棲することになって半年は経つものの、いまだに慣れない不自然さが彼女の心を包み込む。


「…お昼なに?」

「うーん…夜は鍋やるって決めているし、余っていたパスタあったよね。あれ使うよ。たしかニンニク余っていたし、ペペロンチーノっぽく作ろう」

「出来たら教えて。ちょっとだけ寝る」


 花穂は幸四郎に任せると、横になって目を閉じる。実際はそこまで眠いわけでは無いのだが、この豪雨に気持ちはふさぎ込み、それがきっかけとなり現状へのネガティブな感情が次から次へと湧いてくる。

 目を閉じていると、コタツの中に一瞬冷たい空気が流れるのを感じる。どうやら読書に区切りのついた幸四郎が台所へと向かったようだ。鍋に水を入れる音、余ったパスタを探す音、材料を刻んで包丁とまな板がぶつかり合う音、これら全てが大原の出している音とは信じがたいものであった。彼が本来は料理が点でダメなことを知っているからだ。

 花穂が彼氏である幸四郎に違和感を持つのは当然である。今の幸四郎とかつての幸四郎は同じ人物で別の人間であった。大原幸四郎は花穂が以前付き合っていた男と同一人物であった。いや完全に同じ人間と言われると、少し語弊がある。幸四郎は一時期の記憶を完全に失っていた。

 約3年前、花穂は幸四郎と別れた。互いに仕事が上手くいかず、プライベートでも小さな不運が重なってしまったため、ある日をきっかけに些細なことで大喧嘩をして別れてしまった。頭に血が上って感情的な口論であったため、花穂にとっては不本意な決断であった。落ち着いてから何度も連絡を取ろうと考えたが、下手に出るのも癪であったため彼女から連絡はしなかった。それでも3か月もすれば次第にその考えも落ち着いていき、ふらっとメールを送った。やり直すとかそういった面倒な話は抜きにして、あの時はただ話し相手が欲しかったのだった。しかし返事は来なかった。3か月も経っていれば、まあおかしくは無いだろう。しかし実際のところは、返事をする余裕が無かったのだと思う。

 花穂と別れてから約半年後、花穂が連絡してから3か月後だが、幸四郎は自殺しようとしていた。自分の部屋で天井に吊り下げた紐を使って首をくくろうとしていたのだ。幸い、紐が古く脆かったようで、彼の意識が途切れてから紐が切れて床に大きく倒れた。その音が気になって様子を見に来た下の部屋の大家が発見したことで命に別状は無かった。

 病院に担ぎ込まれた彼だがこれがなかなか厄介であった。まず意識は戻ったものの記憶喪失の状態となっていた。全ての記憶が無いわけではない。成人してからの記憶、約10年近くの記憶が覚えていなかった。

 この話を後で知った時、花穂は彼に関わった人達に心底同情した。というのも、この男の記憶を戻そうとすると一筋縄ではいかないと思ったからだ。生まれて間もなく両親が亡くなって、祖父母に育てられた幸四郎だ。その祖父母も中学が卒業する間際に亡くなり、高校卒業まで親戚をたらいまわしにされて、それからは地元を離れて住み込みで働いていたのだ。それすらも転々としており、花穂と出会って間もない頃(だいたい25、6歳の辺りだろうか)にようやく信頼できる人を見つけて、その人の下で水道管理の仕事をしていた。知り合いが少ない彼から記憶を取り戻すのは、取り付く島もない状態だっただろう。もっともショックによる記憶喪失なのだ。無理して取り戻そうとした方が危険かもしれない。それこそ何をやらかすか分かったものでは無いのだから。

 幸四郎が記憶喪失になったことを花穂が知ったのも、この会社からであった。花穂の職場で水場の整備のためにこの水道管理会社に依頼したところ、幸四郎が現れたのだ。


「うわっ!幸四郎、あんたなんでいるの?」

「あの…どこかでお会いしました?」


 再会した時の会話は覚えている。あまりにも覇気のない彼の声に、花穂は面食らった。そこで問い詰めてみると記憶喪失であることを知り、そこから付き合いが増えていった。彼の職場から記憶喪失の経緯を教えてもらい、知り合いということで会う機会が増えていく。気が付けば、再び付き合うまでの仲になっていた。


「花穂。花穂、起きて。出来たよ」

「…んえ?あっ、うん」


 体を揺さぶられて、花穂は目を覚ましたかのように演技をして体を起こす。テーブルには湯気の立ったパスタとインスタントのスープが置かれていた。


「冷めないうちに食べよう。いただきます」

「…いただきます」


 彼の後を追うように花穂は手を合わせてから食事を始める。ニンニクの風味とかにかまの絶妙な塩加減が彼女の舌を満足させる。有り合わせの材料でよくここまで作れたものだ。

 記憶を失う前の幸四郎は不器用であった。特に料理は点でダメだった。包丁は慣れない、調味料は間違う、根本的に料理に向いていなかった。だが記憶を失ってからは驚くほど料理が上手くなった。家事も当然のようにこなし、本当に同一人物かが疑わしい程にだ。

 料理はできる、手先は器用になる、細かい気づかいは増える、付き合っていた頃に何度も願ったことだ。それでも…それでも生きてきた積み重ねを失っている彼を見るのは辛かった。ましてや愛していた男となれば尚更だ。そんな嘆きと裏腹に花穂のフォークを動かす手が止まらなかった。


実際、こんな状況なら周りが落ち着かないことも多いと思います。

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