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拳客、異世界を行く  作者: Katz
不安
6/13

01-03 月下の舞

前話のまとめ

おばちゃんは引き篭もりだった。

 魂を月に吸い上げられて抜け殻と化した俺は、地面に座り込んで魂の行く先を眺めていた。


 どの位そうしていただろうか。抜け殻のまま、俺はゆっくりと太極拳を始めた。


 一般向けの健康体操である簡化二十四式ではない。武氏太極拳を中心に程派八卦掌と河北派形意拳を融合する形で孫祿堂老師が創始した実戦拳法、孫氏太極拳。その中でも98式と呼ばれる古伝の套路だ。


 無極式。

 孫氏太極拳では足を揃える。そして、

 虚領頂勁・真っ直ぐに立つ、

 含胸抜背・胸を張らずに力を抜いて緩める、

 沈肩垂肘・首や肩の力を抜いて腕の重さで肘を垂らす、

 気沈丹田・呼吸によって気を丹田に沈める、

 等々。


 太極拳の套路はここから始まる。心の動揺を抑えるのは難しいが、体のスイッチが入るのがわかる。


 太極式。

 右踵を軸にして右爪先を左へ動かし左45度を向く。


 起式。

 ゆっくりと両腕を上げて水平にし、

 膝を曲げつつ両手を下に動かす。


 らん(ざつ)()

 重心を右足に残したまま左の踵を前へ出し、

 重心を左足へ移しつつ両腕を前に伸ばして水平にして、

 右足を引いて少し後ろに爪先を下ろし、

 重心は左足のまま足と膝の動きで体全体を右に向けて、

 右踵を前に出して右肘を畳んで右掌を前向きにして、

 右足に重心を移してから左の爪先を引き付ける。


 そう言えば孫氏太極拳を学んで何年になるだろうか。ただひたすらに同じ動きを繰り返し、頭ではなく体に刻み込んだ。


 俺が憧れたのは表演用の踊りじゃない。頭で考えなきゃ動けないようでは、実戦の役には立たない。

 乱戦の中で相手の動きに気を配りつつ先の展開を頭で考えていても、体が正しい動きを勝手にトレースして強大な威力を出す。その実現には同じ動きを何万回も繰り返す反復練習が絶対に必要だ。老師に教わった大量の要訣を全部覚えて、それで漸くスタートラインだった。


 もちろん門派によって向き不向きがある。相手の無力化とか、超接近戦での打撃とか。好奇心に任せて太極拳の他にも幾つか学んだ。次は通備八極拳をやろうか。


 段々と余裕を取り戻してきたな。つらつらとそんな事を考えられるようになってきた。


 太極拳套路の最後の無極還原式を終えた時、庭の端から拍手が響いた。おばちゃんだ。


 秘伝の要訣を見られてしまったかな。まぁ良いか。ここが地球じゃないなら師匠や兄弟子に気を使っても無駄だろう。俺自身については、う~ん、おばちゃんが敵に回るような事があるかな。まぁ対処の方法はあるから、問題無しって事で。


 庭の端に置いてある椅子に向かって歩くと、代わりにおばちゃんが出てきた。


 月を背にしてこちらを向き、カーテシー。

 軽く手を広げる。


「La~~~」


 美しい声が響く。アメリカの奇跡の歌姫を思い出した。


 見た事の無い、不思議なステップ。

 手を上げ、

 月を掴むようにして、

 足をバン!と踏み鳴らし、

 クルリと回る。


 美声が耳をくすぐる。

 月光を浴びてキラキラと光っているように見える。

 体を揺らし、後ろを向く。


 振り返った彼女は、とても美しかった。


 美しい踊りに見入る。

 響く歌声に聞き入る。


 やがてペースがゆっくりとなり、

 余韻を残しながら終わりを迎える。


 一呼吸置いて、カーテシー。

 顔を上げると、

 いつものおばちゃんだった。


「ブラボー!」


 俺は叫んで、拍手をした。


 微笑みながら歩いてくるおばちゃんを見て考えた。


 うん、ここは一つ、俺も何か芸を披露したいな。もしかするとこれは、俺の太極拳を見ての返礼のつもりだったのかも知れない。しかし俺にとってはアレは見世物じゃなかった。俺としては、おばちゃんの見事な歌舞に返礼をしたい。


 葉の付いた枝を拾った。おばちゃんと入れ替わって庭の真ん中に立つ。


 礼をする。

 手を広げて軽く前屈みになる。

 腹の底から唸るように低い声を出す。


「思へば(この)(つね)(すみ)にあらず」


 そう、(こう)(わか)(まい)。その演目である(あつ)(もり)の、織田信長が好んだと言われる一節。

 実は失伝していて、今演じられているのは能の雰囲気を元に再構成された物らしい。


草葉(くさのは)に置く白露、水に宿る月より(なお)あやし」


 整体の御得意様の中に信長好きの年寄りが居て、俺の敦盛はその人達と一緒に作った物だ。

 どうせ正解なんか誰も知らない。だから信長の派手好きという話と、俺の身体運用の技術から、何となくそれっぽいと思った形に仕上げてみた。


(きん)こくに花を(えい)じ、(えい)先立(さきをたっ)て、無常の風に誘はるゝ」


 月の光を浴び、右手に持った木の枝を高く掲げ、足を強く踏み鳴らす。

 ダン、ダン、ダン!

 何かのスイッチが入ったような気がする。


(なん)ろうの月をもてあそぶ(ともがら)も、月に(さき)って、の雲に隠れり」


 誰も居ない筈の背後に強烈な気配を感じる。

 しかし振り返らず、姿勢を維持したまま、視線を正面に向けて舞い続ける。


(じん)かん五十年、()てんの内を比ぶれば、ゆめまぼろしの如くなり」


 体が勝手に動く。俺の知らない動きだ。

 操られている、とは少し違う。背後の気配に、要所で手綱を引かれているような。


(ひと)たびしょうを受け、滅せぬ物のあるべきか」


 動作の起点を手綱に教わる。そこから自然な流れで体を動かす。

 全身に集中する。鼓動が激しくなる。汗が滲む。


「これを()だい(たね)と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」


 これで終わらない。終わらなかった。


「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」

「一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか」


 そう言えば。

 信長は七つの家紋を使ったそうだ。その一つが(ひき)りょう紋、いわゆる丸に二つ引きだったな。


「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」

「一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか」


 背後の気配が引く見えない手綱に従って、俺は舞い続けた。

背後の強烈な気配について、深く考えてはいけません。

考えたら負けです。

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