01-01 胡蝶の夢
前話のまとめ
ちっちっち。
「うぐううぅぅッ」
目覚めと同時に全身に激痛が走った。いや激痛で目が覚めたのか。どっちでもいいよ!俺は今、猛烈に悶絶しているッ!
痛みを感じるって事は、俺は生きてるんだな。昨日まで続いた命が今日も紡がれる奇跡に感謝。なんて出来るか馬鹿野郎!
猛烈な痛みにのたうち回りたいが、体にちょっと力を入れただけで激痛に響く。
しょうがねぇ。こういう時はアレだ。仰臥禅。
ベッドの中で仰向けのまま姿勢を整える。
痛みで硬直する筋肉に意識を通し、気合いで全身の力を抜く。脱力。
腹式呼吸よりも更に深い位置、臍の下を使い、12秒掛けてゆっくりと息を吐き、6秒で息を吸う。丹田呼吸。
ついでに丹田で気を練り、チェーンソーの刃の様に体表面を縦に回す。小周天。
これで痛みをやり過ごす。
とは言え今回はそれでやり過ごせるような痛みじゃない。しかし俺も必死だ。マッチョなベトナム帰還兵が大暴れするハリウッド映画の名言、苦痛は無視しろ!を思い出して頑張った。
「うぐううぅぅッ」
無視できるか弩阿呆!
無我の境地にでも至っちまえば何とかなるのかも知れないが、こんな激痛の中でどうにか出来るほど悟ってねぇ。
とにかくこの苦痛から逃れたくて、爺ちゃんの葬式の時に供養のつもりで覚えた般若心経を唱えてみた。少しでも気が紛れれば御の字だ。
………
…照見五蘊皆空…
…度一切苦厄…
…色不異空…
…色即是空…
多少はマシになった、ような気はしない、でもない、とは言えない、訳じゃない。
何はともあれ診断だ。激痛で異常を主張する箇所を意識で探ってみた。
「うぐううぅぅッ」
ここは忍の一字だ!頑張れ俺!
うん、やっぱり結構やっちまったな。
取り敢えず骨はどこも折れていないようだ。運が良かった。
しかし両足首と両膝は捻挫、恐らく中度だな。
胴のあちこちの打ち身、いわゆる全身打撲だ。
この分じゃ恐らく足首と腰は骨が少しズレただろう。飛び降りからの着地じゃ良くあるからな。でも激痛に紛れちまって違和感を感じ取れない。
そして必死に守った甲斐あって内臓と首と頭は無事。だと思う。が。
ダメだ!何しろ満身創痍、あっちこっちの激痛でこれ以上はわからん!
取り敢えず一ヶ月半の安静。それで捻挫は、ひとまず動ける程度になるだろう。
それからリハビリを始める。
同時に身体の動きの違和感から骨格の歪みを診断してセルフ整体。
手足の痺れや内臓や、思考力や感情の違和感に注意して、後日改めて首と内臓と頭の診断。
そうこうしてる間に打撲が治る事を期待って所か。
こんなもんで済んだのは正に奇跡だったぜ。
今はここまでわかれば十分だろう。よし!敢えて痛みに意識を向ける苦行は終了!
「うぐううぅぅッ」
一つ唸ってから、今度は周りの様子を伺った。
知らない天井だ。
まさか俺があの台詞を呟くとは。いや本当に知らない天井なんだよ。自宅や道場の天井でもなければ、病院の白一色の天井でもない。塗装も何も無い、剝き出しの木の板だ。
首を動かす。うぐッ、いててて。
壁も剥き出しの木だ。というか丸太小屋?
窓が開いている。外は良い天気だ。中は少し薄暗い。そういえば照明はついてない。点いてないのではなく、付いてない。明かりは窓から入る日の光だけ。
何かがおかしい。電気も通ってないようなレトロな雰囲気を再現した丸太小屋なんか、少なくとも近所には無かった筈だが。
それにこれ。激痛の衝撃が酷くて今迄気付かなかったが、これ、この匂い。そしてベッドの感触。普通の、木綿のシーツにマットレスの感触じゃない。亜麻布の感触と干し草の匂いだ。
体は亜麻布の包帯でぐるぐる巻き。どうやらペースト状の何かを当てられているらしい。湿布か?一応は手当をしてもらえてると考えていいのか?
しかしこんな激痛の中でも木綿と亜麻の感触の違いがわかるなんて、我ながらどうなんだろうなぁ。金と暇が有り余ってる年寄り連中に揉まれたせいで、高級生地にちょっと詳しくなっちまったんだよなぁ。こんな所で役立つとは思わなかったよ。
むう、思考が飛ぶ。現実逃避してる場合じゃない。
とにかく疑問が多過ぎて現状をどう考えればいいのか困った時、部屋の戸が軋む音を立てた。
入ってきたのは知らないおばちゃん。
いやちょっと待て。知らないにも程がある。なぜに金髪碧眼?そしてその服。なんのコスプレだ?いやコスプレならそんな地味な恰好じゃなくて、もっと派手で見栄えのする装いを選ぶよな?
しかし驚くのはまだ早かった。
「*#^% $:% @$&# &@&$?」
日本語じゃない?いきなりで全く聞き取れなかった。英語でも無さそうだ。思わず聞き返してしまった。
「え?何だって?」
俺の言葉に、今度はおばちゃんが驚いた顔をする。
「*#^% $:% @$&# &@&$?」
「βζηχδ κλζπ ο μφυμ?」
「∑<∞ ÷⇒⊿¬√ ⊥∵ ∃ ≒∮± ×∴∋?」
「йвющ уопй кллшцэы ъёё?」
「dagt fredli dfour qom?」
「ヽ ̄ヾ \~ゞ 々 ―‐/ゝ ゞ〆_仝∥ ∥?」
驚いた顔のまま次々と捲し立ててきた。しかし。
「ごめんなさい、さっぱりわからないのですが。あ~、 I cannot understand your words.」
おばちゃんは目を大きく見開いて、そして首を振った。
諦め顔になったおばちゃんは、持ってきた吸い飲みを黙って俺の口に付けた。これを飲めって事か?
飲まされたのはとても苦い飲み物だった。薬なのかも知れない。良くわからんが、手当してくれたんだ、今更毒でもないだろう。
飲み終わると、おばちゃんは俺の額に手を当てて、そして黙って部屋から出て行った。うん、ちょっと熱も出てるかもな。
ふぅ。いててて。
独りになった俺は仰臥禅を続けて般若心経を唱え、激痛に耐えた。おばちゃんは何やら歌を歌っているようだ。歌声が聞こえる。歌詞はさっぱりわからない。
暫くしたら楽になった。飲まされたのは鎮痛剤の類だったのだろう。
すぅぅぅ、はぁぁぁぁぁぁ。大きく深呼吸を一つ。
俺は状況を振り返ってみた。
全く見覚えの無い、道場の近所でもなければ町の病院でもない建物。
全く見覚えの無い、そもそも日本人なのかも怪しいコスプレおばちゃん。
全く聞き覚えの無い、意味不明でチンプンカンプンな言葉。
何が何やらさっぱりわからない。
少なくとも助けてくれる意志がありそうなのが唯一の救いか。
何がどうなって俺はここに寝ているのだろう。
それとも激痛で意識が飛んで、変な夢を見ているのだろうか。
夢。そう考えるのが一番しっくりくるのだが。
目が覚めたら病院の白い天井を見上げていて、点滴を受けているのだろうか。
しかし俺の五感はこれが現実だと主張して憚らない。
何が何やらさっぱりわからない。
道場の皆に連絡は行っただろうか。
俺はこれからどうなるのだろうか。
身動き出来ない大怪我の中で状況が全く見えない不安を無理矢理押し殺し、次は「見慣れた天井だ」と呟ける事を期待して、俺は目を閉じた。
異世界転移ボーナスのチートスキルで初心者パックという優遇措置はありません。
もし優遇されるなら、少なくとも可能性は全員平等に。出来る事なら結果も平等に。