細い月のした
幼い頃に山津波に遭い、大社に引き取られて育った。十三と呼ばれるようになったのは、数えの十三となった初春だ。縁のある数となった。
警備の合間に行じた。先達に恵まれ、周囲の雑音を聞かずにきたのは、ひとえに強く大きく産まれたお陰だ。
気の散る事象も無くはなかった。特に麓のならわし、山での獣避けを兼ねた声出しには、幼い心が絶えず揺れた。
おういおうい。私は此処に居ます。ここでしごとをしています。
すると、他所で作業をしているものも応える。
ほういほうい。私はここにいます。とおとおとお。私はここです。
深い森のなかでも声を聞けば互いに誰が何処に居るのか判る。合いの手や節回しで意思疎通をはかる。仲の良い者同士で掛け合えば即興の唄になり、更にこだまで膨れて伸びる。
恋を奏でる者もいる。若い男女の色艶のある掛け声が少しずつ近付いて、ふと静寂に戻るさま。山中にあつらえる、狩りや山菜摘みの為の簡易小屋。
気配を消して研鑽する我等とは、まるで逆の動作なのだ。
「心しずめるのも修行だぞ」
先達に諭され黙りこくった。が、決して指摘に恥じた訳では無い。
早々に気付いてもいたのだ。賑やかな交わりには散々心惹かれたが、ふと我にかえり我が身に置き換えてみれば、果たしてアレは心躍る事象なのか。
我にとっては、伴う煩わしさの方が勝るだろうと思った。大社のなかでも、ひとの隙間を泳ぎ損なう者がいる。麓にはもっと居るだろう。
果たして我は、あの山の声を、上手く興じることは出来るのか。
否。華やかさよりも面倒が浮かぶ時点で不向きを悟る。第いち何故あんなに誰かに向かって、こころ詳らかにせねばならぬのか。
羨ましさが一瞬なのは我にとって不要ゆえだ。大社の方が気が楽だ。ひたすら行じるだけだから。
「十三は役目への理解が強いな」
初めて褒められたのは代替りの冬。先代から役目と真の名を継いだが、大巫女以外には決して知らされぬ名と聞いた。知らしめてはならぬとも。
幼い次代さまを背負ったあの夏の日からは、既に十と余年になる。
五合目付近で麓の集落を振り返る。里の幼子たちは眠りについただろうか。囲炉裏の火種が目に浮かんだ。怖がってむずかる子等はいないだろうか。
厄除けを配れて良かったやもしれぬな。
松明はいい塩梅で、替えもある。背負う桐箱の中には、もっとも尊い覆い布、白い靴。明朝は大巫女たちが来島されて、晩より本祭。
いよいよ通しだ。問題ない。万事慎重に支度した。次代さまの集大成は、そのまま我の締めである。
そう、締めである。思い残すことは無かろうか。
大社の裏をひたすら支えた。次代さまのお付きとして、常に共に祭祀場に詰めた。
初めて次代さまの祝詞を聴いた時、クニ衆の山の掛け声を思い出した。
か細い感情に溢れた声。それが少しずつ遠くに届くようになり、深く低く響くようになり。我の護るべき掛け声、などと、恥ずべき思い違いもした。
クニ衆は仲間に、日々の常に向けて唄うが、次代さまは光に闇に、清らかな祈りを届けていらっしゃる。いつもお独りで向かってゆかれる。
こんなにご丈夫ではなくていらっしゃるのに。
しかし案じた所で何も出来ず、こと心中に至っては、触れる事すら憚れる。
立場を弁えよう。お察し致しております。月は痩せ星が動く。流れに寄り添いあそばして、御心鎮めてくださいませ。
ご成長に合わせ、祝詞は強く共鳴する。声色と周囲が溶け込むさまは気流を作り、畝り昇る。
クニ衆の掛け合い唄とは断じて違う。幼い日に試された鷹よりもうんと高く、遠くまで届く尊いお声。
霊山の祈り場、次代さまの持ち場が、数えて十三代目な事を、縁と自惚れ、また恥じる。
しかし、我のお役目は、たいへんな誉でございます。
その立場からして彼奴を好まない訳だが、キリの従者故に大目に見ていた。次代さまにも気休めは要るだろう。致し方ないと丸くおさめた。
だのに何故この若造は山にも足を向けたのか。我が前に立ちはだかるとはどういった了見か。
枯木を踏む生き物の気配に振り向けば、白銀のたてがみが光る。松明で照らせば、奥の闇から声がする。
「お勤めご苦労様で御座います。キリが参りました」「無礼な!」
即座の反応におのが激昂を恥じる。
「キリはともかく何故貴様が居るのだ。この時期の入山は禁忌ぞ」
急ぎ呼吸を整えたが、逆鱗を見越されたか、良く通る声の詫びが入る。
「申し訳ありません。重々承知しておりました」
返答しそびれる。
「南集落に厄除を届けた帰り、山間に灯る松明を見たキリが、真っ直ぐこの場に向かいました」
あいだの冷たい沈黙を彼奴も察していよう。
「私はあくまでも従者として仕えております。明朝は来島予定の身、他意は一切ございません」
闇の中、丁寧に頭を下げるのは情であろう。
伝わる気配に大社で見掛ける大仰さは微塵も無い。道理だ。此奴はキリの付属、我で動いてはならぬ者。そもそも、神事に関わる次代にいっさい触れてはならぬ者。
「キリに仕えて、だな」
「はい」
「ならば致し方ない。だがここは大社とは違う。全て神妙にしていただく」
松明をキリに向ける。我はキリに従わねばならぬ。
「その様子、キリは上の祭祀場まで向かうのか」
「恐れながら、私にはわかりかねます」
「さすれば一切を他言無用で、キリの動く所までとする。特に今宵は既に大社オトシである。貴様をヒトではない。従者というモノである」
「承知致しました」と聞こえたので背を向ければ、キリは担ぐ箱にめがけ、頭を押しつけ、突つき、あろうことか角まで齧りだした。
「こらッ、何をする!」
「よせキリ! 辞めろ!」
同時に制したが、木箱への執着は凄まじいものがある。箱を奪おうと、背負い紐を引っ張る。足蹴の素振りも見せる。
「キリ、落ち着けったら!」
彼奴はキリの手綱を引くが、キリはいうことを聞かなかった。逆らうなと言った。
そうだ、逆らってはいけない。嘆息し、木箱を肩から下ろす。
キリは箱に鼻先を押し付ける。自分のモノだと言っているのか。
「まさか破損はしないだろうな」
「無いとは思いますが……申し訳ありません、中には何が」
「オトシの覆い布だ」
ああ白の、と聞こえた。
「合点がいきました、キリは刺繍、自分のたてがみに反応したと思います」
合点がいくか。そうだな、貴様が銀糸を運んでいたものな、大社の何処にでも。
「この様子だとキリは暫く執着するかと」
「困る。急ぐのだ」
「許されますならば、気が済みますまで、キリに運ばせては如何でしょう」
呼吸を整える。従わねばならぬ。星の位置から時刻を計る。
「……構わんが、路を外れるようなことがあれば即刻返していただく」
松明を持たない片手で箱の縄を直しながら、
「最も此処に来た時点で、キリは祭祀に携わると受け取るべきだな」
諦めにも似た呟きに、彼奴は暗闇で深く頭を下げ、丁寧にキリの背に箱を括りつけると、
「ご承諾ありがとうございます。全て仰せに従います」
我に先を促した。
致し方なかろう。この生き物は未来を見越す、かみごとは未来に向かう。己に言い聞かせつつ、初めておのが役目を不憫に思う。
自我を出してはならんのだが、今世はこのようにまとまるか。
この十数年間のあいだ、大社の者以外で祭祀場まで来た者を知らぬ。若輩者の滞在を、歴代の魂はお許しになるだろうか。
再び言い聞かせる。我心を棄てよ。キリが祭祀場に行くだけだ。お役目に沿って進むのだ。