ままならぬ実
残照に追われながら南集落に急いだ。
厄除けを渡すと誰もが緩んだ表情になり、大ばあちゃんの家では黍粥のねぎらいを受けた。
「あんたら明日から島か。帰るのは冬至過ぎか。ならもう会えんかもしれんなあ」
帰り際には大ばあちゃんに泣かれたので、
「向こうで塩と昆布と、鰊も手にいれて参りましょう。ご息災でいらしてくださいね」
両手を包んで握り、お待ちくださいねと重ねて言った。ひとは思いがけず行ってしまう。自分だって、わかりはしない。
島への土産にと干し柿をいちわ分けてもらった。キリが寄越せとうるさくして、
「キリって幼子みたいだね」
皆が大笑いするなか、大ばあちゃんの娘から一欠片を口に入れてもらっていた。
「あら、ここにも大きな子がいた」
自分の袂にもひとつ入れられた。
外に出ると思いのほか明るいのは、大粒小粒の星たちのおかげだ。雲のない銀河は山並を墨黒に浮かばせ、北風は手先と鼻先を冷やす。肩掛けを目元まで引き上げ、首にもきつく巻き込む。先を行くキリの銀色の身体が、薄明かりとなって夜道をしるす。
キリはいつも先を歩く。薬師のお役目はともかく、難所の経路、向かう先の時期、子を授かる手筈さえも、有無を言わさず事を進める。
第一子の授かりは、成人の儀を過ぎて直ぐの来島時だった。
港に着くや否や、キリはとある娘のひとりに鼻面を押し付け、その後も延々と彼女を突いた。
いつも遠巻きに自分達を見ている集団、そのなかにいたふくよかな娘だ。当然名も知らず、言葉を交わしたこともない。
自分は焦り困り、当の彼女は萎縮し怯えた。周囲も騒然とした。人だかりだけが膨らんだ。
まる一日、娘はキリに付き纏われた。自分はキリに引き摺られた。その様子を見た娘の家族に酒宴に誘われしこたま飲まされ、意識が戻ったのは早朝。酒宴のあった家の別棟、娘の床のなか。
ことの次第に呆然としていたら、
「なんだ二日酔いか。だらしないな」
訪ねて来た島薬師から、キリの本懐を知らされた。
「先代から聞いてなかったのか。これこそキリの従者なのに」
待ってくれ、これが? 何故これが?
「俺の役目は薬師じゃないのか、キリの毎日の世話じゃないのか」
「だから、キリの選んだ事柄の世話をするんだ。昨日キリが選んでいたろ、あの娘を」
「だけど」
確かにキリが自分以外の者に付き纏った姿を初めて見た、サラを除いて。だけど。
「とにかく落ち着け。幾ら知らない聞いていないと喚いたところで、日にちは元には戻らぬ。大声を出せば恥をかくのはあの娘だぞ」
「だけど、俺は、俺は薬師を継いだんだろ!?」
「そうだ。だがキリを継いだのだろう?」
「キリを」
「そう、そちらのお役目が先なのだよ。キリが我等の行く末を選ぶんだ。繁栄と安寧を」
幼かったあの日、キリを譲ろうと言った爺様は、自分を「寂しん坊」と称した。
「でも俺は。薬師は遠出が多いから……キリと一緒に回るんだと」
そうだ、そういう意味だと思っていた。どんな天候だってどんな悪路だって、キリが一緒だから、何処へも迷わず行けたんだ。
「勿論その通りさ。薬師は皆の命を助ける。だからもっと広く観ればいい。子を成すのは大切だ。キリは繁栄の源だ。キリと関われる時点でお前さんは、選ばれた漢だよ」
子を成すだって。キリが選ぶだって。
「あの娘は愛らしいじゃないか」
「待ってくれ、そうじゃなくて」
聞きたいことはそういう事じゃなくて。
「……では前の爺様もそうだったのか」
「そうだよ。多くの子を成したよ」
島で爺様と関わりのあった衆を紹介すると言われた。何代かの血筋も聞いた。
「ただ知っての通り、幾ら産まれても、赤子が全員おとなになれるとは限らない。悲しい想いをする覚悟もいる。これは命をつなぐお役目だ。いつも誠実に。決して奢り昂ってはならんよ。最初の娘が良いひとで良かった。健康だし、港の集落も頼りになる。無事にこどもが授かれば、うんと慈しんでくれるだろう」
島薬師は切々と諭す。
「何よりキリは、お前を好く娘、お前自身も受け入れられる娘しか決して選ばぬよ。不安は極力消しなさい」
「でも、でもあの娘を好いている誰かが居たかもしれないじゃないか」
「ああ、居ただろう。愛らしい娘だから間違いなく居るさ。これから関わる事もあるだろうさ。だが今あの娘はお前を好いているし、キリはあの娘を選んでいる。授かりものには時期がある」
だけどひとが集まれば諍いも増えるじゃないか。諍いの元を、己が撒き散らしているかもしれないじゃないか。
爺様。なんて役目を、俺にさせてくれたんだ。
あの時、憂いが振り返してしまった。自身が心中の落とし所を作るのに、時を要した。
「こういうことは嫌じゃない?」
相手にはいつも必ず聞いた。
「花は咲いたの。実をつけたいの」
わかり易く答えた者もいた。
長く引き摺る。いだく想念をこねくり回す。
キリを、薬師の役目を通して眺める、人びとの生き様。それは役目の数でもある。諍いは何処にでもあり、不安や不満も限りなく見える。
けれど受け止め方も、ひとの数だけあるのが見えてくる。燻るものに焦点をあてると、そこにはいつまでも曇りが掛かる。反対に、すぐに明るく戻る時も。
例えばとある事柄に対し気に病むものもいれば、一切気付かぬものもいる。のたうち回るものもいれば、あっさり引き下がるもの、明るく笑い飛ばすもの。誰ひとりとして同じはない。
それはその者の気質だったり、その時の状況に寄ったりもする。おやまの天気とよく似ている。
自分と同じものも見当たらない。自分に対しても、ひとによって見方や接し方がまるで変わる。
ならば苦にしない方がいいのかな。いずれにせよキリが先を歩む。その後を付いてゆくしかない自分。特別過ぎる立場に付随する自分。
諦めるとは理解すること。腑に落とすこと。鎮めること。認めること。お役目をただ粛々とこなすこと。
大巫女の言うように、キリは神島オトシでは察しが良いだろう。
北の海に浮かぶ島はとても小さいが出入りが多い。
周りを囲む海は良い流れで、昔から南や北、時々西大陸からも舟が着く。北からは金の髪と白い肌、青い瞳のひとが来るし、遠い南から来たひとは、全身が美しい黒だった。
そのまま住まう者も多く、島の土地は狭くとも、髪や肌、瞳の色は、山麓界隈よりずっと多彩で、珍しい品々も多く見る。
オトシを通じて、自分の知りたい何かが判るかもしれない。爺様も結局はキリに選ばれた訳で、キリとこちらに来ていた訳で。キリも遠い何処かから来た不思議なヤツで。
針のように細い月を眺めた。すぐ下の墨黒の山並にも目を落とした。すると、山の中腹に小さな炎がチラチラと光る。
(あの光は)
あれはひとの持つ灯りだ。葉の落ちた木々の隙間から小さく瞬きながら、南方面に消えていく。
(松明だ。先にあるのは、霊山)
大社で十三どのが握っていた、真新しい松明だ。