眺めた思い出
気付いていたのに御免ねと心のなかで謝りながら大社を後にした。
霊山峰伝いに歴代の祈り場が並ぶ。
木扉が朽ちた横穴、苔草が覆い茂った土壁、既に埋もれて跡形もない塁。大社でも限られた者しか足を運ばぬ禁忌地は、決して楽しい場所ではない。
白の衣を身に付けて、わたしは裸足で持ち場に篭る。西の並びの隅。蓋と見まごう木扉の奥は、一辺が一間程度の空間で、赤く塗られた壁に白で紋を施す他には、石の台座があるのみだ。
隙間から絶えず寒気が入る。オトシ神事を始めると同時に身体の先々が強張る。小さな明かりとりから入るひと筋の日の光は、暗闇に過ぎる時刻を告げる。
今宵が新月。祝詞は古語の、落ちる星に向けた敬いだ。祈っては休み祈っては休み、わたしはなかを空にする。揺れて素に戻る度に、科された役目を思い出す。
わたしはとうの昔に和を尊ぶと決めた。決めたのに、ときおり外れる性根を闇が見抜く。今までも散々揺れたのに、この期に及んでまた揺れる。
その都度わたしは組み直す。手指の印。台座に、壁に刻まれた印。先達が公に徹した積み重ね。わたしはお役に立つだろうか。
幼い頃の記憶は御簾の中と裏庭の景色がほとんどだが、意識の分水嶺は数えて五つめの雪解けの時期だ。お役目の支度があると連れて行かれた、北の海岸に設えた、簡易な藁の仮小屋の記憶だ。
薄暗闇で嗅がされた煙。怖い大人達に四肢を押さえつけられ、目を塞がれ縄を噛まされ、酷いことをされた痛み。
見知らぬ老人に毎日妙な茶を飲まされた苦味。しかし舌に残る風味はほのかに甘く、
「甘く感じられるならお身体に合っています」
あれが薬師の爺だった。飲むたびに身体が楽になった黒い煎じ水。
泣き止まないわたしに大巫女である大ばあさまは「神仕えの支度が整った」と諭した。周囲も口々に「御目出度う御座います」と挨拶をした。
何が神支えか、何が御目出たいのか、誰もはっきり答えない。何より大巫女として接する大ばあさまの恐ろしいこと。いつもの大ばあさまとまるで違う。あの眼で見透かされると震え上がった。
ひとりだけ、若い女官が心を砕いて接してくれたけれど、彼女も碧眼だったから、近い血縁のものとみえる。
ようやく歩けるようになった夏の朝、霊山の祭祀場にわたしの持ち場が出来たと知った。これからすぐ出向くとも。
着替えの最中、件の女官がそっと、懐に小さな竹皮包みを滑らせる。
「お帰りを待っておりますからね、お気をつけて行ってらっしゃいませね」
なかには大好きな胡桃の蜜掛けが入っていた。
突き抜ける青空の下、岩に似た大男が竹籠を背負って現れた。
「十三とお呼びください、次代さま」
竹籠を地べたにおろし、蓋を上げながら、
「道中は厳しゅう御座います。里のものにお姿を見られませぬよう、どうぞこの中へ」
低い声で丁寧に挨拶をした。
「今後生涯掛けて、あなた様を御守り致します」
恐ろしい風貌だが、わたしを見る濃い茶の瞳は、皆が可愛がる番犬のように柔らかだ。
十三は優しかった。歩行の振動で悪心に苦しむわたしに気づくと、先を急ぐ大ばあさまにことわり籠を下ろした。蓋を半分ずらし、籠の隅に掴み紐を付け、
「どうぞ捕まり立ちをなさってください。見苦しくて恐縮ですが、お顔を人から判らぬよう、こちらをお被りあそばして」
被っていた墨色の頭巾を取ると、無骨にわたしの頭にのせた。大き過ぎる頭巾の前側を少し折って、目元が明るいようにした。
掴み紐を握って立ち上がり、景色をぐるりと垣間見る。見たことのない深い森。覆い被る厚い葉。木漏れ日の眩しさ。隙間から青い空が覗く。東から西へ白い雲が流れる。
ひとつも見落とさぬよう、瞬きを忘れて終始見た。
殆ど垂直の岩壁の細道を行くとき、頭上を行く大きな鳥に呼ばれた気がした。
「十三、あれは何」「鷹でございますよ」
なんて大きな命だろう。
すると何の合図か、鷹は垂直に急降下を始める。大きく軽い生き物がヒラヒラと舞い降りる。くるくる回って風に乗る。
わたしは夢中になる。視線は後ろを下を、鳥の行先を追いかける。真下は谷川、深い碧の淵。深い碧の。うっかり覗いた途端、魂が入ってしまった。
頭から真っ逆さまに落ちる。
油断を悟った。どうしよう、気をとられてしまった。落ちながら、けれど瞬間、自分も鷹になれた気がした。これも天命か。これが天命か。ならばそれでも、私は宜しいのではないでしょうか。
あの時初めて、私に返ってしまう咎を学んだのだった。落ちる速度を加減されたのはそれ故だ。
空の青さ、雲の流れ、木々一本いっぽんの形、葉の作る影。興味の出るもの全てをじっくり眺めることが出来る時の隙間。上から見る木の形はこんなだったのか。沢山の色々な形の植物が、まるで花のように、一斉に空に向け、何かを掴むかの如く懸命に立っている。川も磨いた碧の水面が細く長く、すうっと遠くまで光る。纏う空気の粒が一斉に流れる。そうか。風は空気の移動だ。上にも下にも何処へでも。
私も連れていってと風に頼んだ途端、「否」とばかりに落ちる速度が増した。岩が間近になり、水面に頭の天辺に衝撃がくる。身体の隅まで振動が走る。
気をなくした中、皮膚に伝わるのは下から上に溢れる無数の空気の泡。川の天辺に光る日の光。岩にびっしりと根を張る緑の苔。今度は空気より重い水の粒が身体を纏う。上に下に右に左に、流れを作って私を運ぶ。
次に目を開けたときに見たのは少年の顔だ。その少年に見覚えがあった。
御簾の奥から何度か見かけた。苦い薬を作る薬師の爺の後ろについて、大社に出向いていた。黒髪を束ねた濃い茶色の瞳の、利発そうな日焼けしたこども。
この子はこういう声をしていたのか。こういう顔をしていたのか。
言葉を出そうと思ったのに、恐ろしい顔をした大ばあさまが来てしまった。あの後に、あの祭祀場に連れて行かれた。神仕えの始まりだった。
少年がわたしの元に忍び込み、其々が勝手に独り言を放つようになったのは、それから季節がひと巡り、ふた巡りもした頃か。
とにかくキリが譲られてからだ。大社に出向く度にキリのたてがみを持ってくるので、誰も彼を邪険に扱えない。
誰かが彼を「次のキリの従者」と噂していた。
けれどわたしにとっては、十三とも女官達とも違う相手。ただ目配せしたり、各々の勝手な言葉の暴投を面白がる相手。決して直に会わない、ある時は御簾を、ある時は重い木の扉を、または夜の闇などを間に挟み、各々の気配を読み合う相手。
誰からも不問とされたのは、キリがいたから。
定刻ごとに十三は少しの水を持って、重い扉を静かに開ける。そして燭台に火を灯す。十三の真の名を、結局わたしは知らぬままだ。
今宵はあの白の靴と覆い布も届けられる。ハホが間に合わせた筈だ。忙しかったろうに。
ハホは良い娘。わたしとは違う。ハホは誰もが愛さずにはいられない、この上なく良い娘。
ああいう娘が実を紡ぐ。わたしとは違う役目。それぞれがそれぞれにもたらされた役目をこなす仕組み。
でもハホも寂しいものを抱えていたね。好いたようにはいかないものだね。けれど何が幸せかだなんてまだ判らないから。今を幸せにすれば良いのだから。あのこは出来るこだから。
わたしは役に立てているだろうかと、いつも不安だ。わたしの知る世界は狭いから。
でもひとつだけは、役に立てたと自負している。
ホノにだけは。ホノには、役に立てたと思う。
垣間見た周囲のあの気配。多方から寄せられる好奇好機好意。全て受け止めていたら身が持つまいが、ホノはわたしを程の良い逃げ場に出来た筈だ。大社の次代を逃げ場にする事によって、周りと平らかに過ごせた筈だ。
それには充足感があった。私が光栄と感じた。すこぶる満足だ。