昔ばなしから
爺様に弟子入りして二年目の冬だったか。夜なべをしながら前の大社オトシの話を聞いた。
「大吉の神事じゃったよ。祓いは通じ、星はクニより遠くの海に堕ちた。大地の揺れも大きな波も殆ど無かった。ただ」
「ただ?」
「祭祀場から戻った山巫女の黒髪が、一夜で白銀に変わり果てていた」
「山巫女は何日か床に伏せられた。しかし明朝からの直会の華やかさと言ったら、数年分の豊作を束ねたようじゃったよ。普段は静寂な社内に、大きな生木が井形に組まれ、炎は空を燃やし、笛や太鼓が鳴り響く。喉自慢がうたい、おどり自慢が踊る。海のもの山のものがずらりと並び、遠くから集った若いもの同士の間で、小さく柔らかな交流が始まる……」
「嫁入りは島神官の妹君だった。目も覚めんばかりに美しく愛らしい姫君に、山巫女の甥にあたる婿さまも凛々しく、誰もが幸福に酔い、宴が延々と続いた。集落にも干し餅と酒が振る舞われ、賑やかさで眠る暇もなく……」
とうとうと述べる内容に見当がつかなかった。まるで夢ものがたりだ。
「じゃあ次のオトシは、誰が何処でお祈りするんだろう」
「次の本祭は島になるから、大巫女さまが御存命ならば、神島オトシには大巫女さまが出向きなさる。お山での大社オトシは次代さまになるな」
「サラがオトシをするの? サラの髪も銀色になってしまうの? 具合が悪くなってしまうの?」
あの時の自分の問いへの爺様の答えを、どうにも覚えていない。
幼い自分はやっぱり呑気だったのだ。
白銀の髪にもなったとしても、キリのたてがみは銀色で綺麗だ。だからサラはもっと綺麗になる。それに髪の色が変わったところで、サラ自身は変わらない。
でもサラの具合が悪くならなければいいと、それだけ心配だった。そうだ。あの話を聞いてから、薬草や薬石の話にますますのめり込んだのだ。
あの頃から、気に病まなくなった気がする。ひとはどうして生きているんだとか、何の為にここに居るのかとか。目の前にある生活に夢中になったから。
訪ねた南集落で話を聞いてくれた初老の女性は、昔の女官の長女どのだそうだ。
「私は孫が七人、曾孫も十人いる『ばあちゃん』で、母はもう『大ばあちゃん』になってるよ。すっかり目も耳も遠くなってね、昼間もすぐ眠ってしまうんだけど」
介された元女官は、小柄でたいそうなお年寄りだ。茅葺き屋根の家の入り口の前で、低い切株の上に藁の座布団を置き、ちんまりと座っている。足下には老いた薄茶の犬が寝ている。
「大ばあちゃんはこの時間は日に当たるのがお好きでね。大ばあちゃん、ホノさんが来たよ、大ばあちゃん!」
長女どのは耳元で大きく叫ぶ。
「大ばあちゃん、ホノさんだよ。薬師さんの! キリの使い手さん!」
「こんにちは、ホノです。キリと、一緒に、来ました」
自分も耳元で、言葉を短く、はっきり話す。
年寄り衆は誰でも自分をキリの使い手とみる。彼等にとって、自分はいつまでも薬師の爺様の弟子で、キリが主役で正客だ。
「今日のキリは、機嫌が良いです。さっき水浴びしたので、綺麗です。ご覧になりますか。今、向こうの畑で、野菜を貰っています。直ぐに、連れて参ります」
大ばあちゃんは、キリが来ていると聞いて顔を上げた。白濁した目に光が宿り、口元が綻ぶ所作は、幼子達の笑顔とそっくりだ。
「ご息災で、何よりです。キリを、連れて参りますね」
「キリはもう帰るのかね」
「まだ、帰りませんよ。私はいま、一緒に来ています」
「そうではのうて、キリは島に帰るのかね」
島に帰る。どういう意味だろう。
「島には、参りますよ。今度の、島オトシで、私達は、大巫女さま達の、お付きを、致します」
「そうか、山オトシからもう六十年経ったのか。では向こうに行くのか」
「はい、向こうでオトシです」
「そうか、行くか。キリは前の時に薬師さまと御山に来たから、今度は帰るんだな」
薬師さまと御山に来た、だって。今度は帰る、だって?
自分は大ばあちゃんの長女どのと、顔を見合わせた。
「それは、知りませんでした。キリは、霊山のヌシだと、言われているので、てっきり、山の、霊獣かと」
「そうだよ、私もそんな話は初めて聞いたよ。大ばあちゃんったら、今まで内緒にしてたのかい?」
誰よりも大きな長女どのの声に、大ばあちゃんは口をへの字にさせた。
その後、何を聞いても話を聞こうとせず、キリを触らせてもらえるのか、としか言わなくなってしまった。
「もう、大ばあちゃんはいつもこうだ。聞きたい言葉しか届きやしない」
呆れる長女どのに断りを入れ、自分はキリを迎えに畑に出向いた。
歩きながら、今聞いた言葉を胸の内で繰り返した。
爺様はキリを先代の薬師から引き継いだと言っていた。爺様もキリも、島から来ていたのか。六十年前に。
その日のキリは未だかつてない大盤振る舞いで、集落の全てのこどもに背中やたてがみを触らせた。
「ここではホノさんの御子が授かってないからね、ついでに種も落とすようにも仕向けておくれよ」
口さがない中年女性たちに囲まれワイワイ言われて目をそらすキリを見るのは愉快だったし、自分は
「アタシがもう十年若かったらねえ」と揶揄われ、小声で「粗末な身ゆえ申し訳なく」と詫びたらもっと揶揄われ、もて遊ばれた。
「ああ、幸せだね、楽しいね、だって」
大ばあちゃんがモゴモゴと呟くのを、長女どのが皆に通訳する。
西集落に災厄札が配られた話を、集った誰もが気にしていた。
「これから南にも配布ですか? ホノさんは明朝に島へ渡るお立場ですよ。大社オトシだってもう始まっているのに」
夕焼けで照らされたキリが朱色に染まる時刻、古株の女官長は渋い顔をした。
「そうは言っても、南集落の不安も取り除いてやらねば気の毒ではないですか。略式でも厄除けの支度は無理でしょうか。あれば自分が直ぐに届けに参ります。キリは夜目もきくので」
「略式だなんて気楽におっしゃらないで。厄除けは何なり支度がいるものですよ。大巫女様も潔斎中であらせられますのに」
やり取りしているところに大きな影が横切った。
「騒がしいぞ。何用だ」
振り返ると十三どのだ。厳しい物言いは自分に対してだ。大きな桐の箱を背負い、竹の水筒を肩に掛け、手には真新しい松明を持っている。間近で見るのは久方ぶりだが、相変わらず背丈は高く、隆々とした体躯の幅も自分の倍は軽くある。
女官長は自分の裾を引っ張って道を開けた。
「ごめんなさい、お役目ご苦労様です」
十三どのは行先は言わず、今度は女官長に「何を揉めていました」と聞いた。空気が冷える。
「南集落への厄除配布を迷っているのです。ホノさんが出向いてくださるそうだけど、大巫女さまに相談しようにも既に潔斎中で」
十三どのは黙って自分をひと睨みすると、女官長に榊の木を指差した。
「お榊を? 私達が勝手をしていいかしら」
「今日明日のことです。構わんでしょう。暮れの時刻だから下がりの神酒もいただける。それでどうです?」
「ああ、そうだ、ではそう致しましょう。十三どのの御手間をお掛けして申し訳なかったですわね。今宵もどうぞお気を付けて」
十三どのはジロリとこちらを睨むと、大股で大社を出ていった。
女官長は小刀を支度し、溜息をつきながら榊の元へ向かう。
「やれやれ。あのお方はいつも迫力だわ」
「昔からサラに付いておいでですよね。松明も持ってたけど、これから祭祀場まで行くのかな」
「不問です」
女官長の声は有無を言わさず、榊の枝を誂えた。
「ホノさんはご自身の言葉に従って、急いで配布に向かってくださいね。急なので各戸ひと枝ずつ。お神酒は小さいのを一壺、下賜致します。各戸に少しずつ注いでお配りくださいと首長にお伝えしてね。以上です」
ホノさんだってこれから配っていたら帰りは真っ暗ですよ。気をつけていただかないと困ります。明日の出港には決して遅れないでくださいね。と、何やら違う感情も混じっていた。