はるの仕舞い
靴の仕上げの途中、裏庭の騒がしさに胸がおどっていた。おどっていたけれど、気持ちは手元に集中させた。
長く過ごした工房の片隅。銀糸での刺繍は特に骨が折れるので、手元が明るいように、作業台は窓際に寄せてある。
壁側のついたてには、既に上がった覆い布を掛けている。薄白布に銀糸で全面にちらした模様は、オトシ神事のまじない柄だ。
白に白に白を重ねる。全ての衣に携われた充足感。大社でのお役目の成就、わたしのひと区切り。この靴の余白もあと少し。ひとさしひとさし、指先の力を均等に入れる。
これまでの大社での出来事も、ひとつひとつ浮かび出す。
辛いことばかりじゃなかった。むしろ幸せだった。小さなわたしの満足。充足で良し、だよね。
気を鎮めていると裏庭の喧騒の大元が現れて、また胸がおどった。
「ハホ、居るかい?」
ホノさんが満面の笑顔で立っている。大社の何処へでも、キリと共に堂々出入りする薬術さん。勝手に棟に忍び込び、勝手に御簾先まで上がり込み、勝手に次代と話し込む不遜な殿方。
「祝いを預かってきたんだ。此度はおめでとう」
凛々しく敏捷でおおらかでやんちゃな、全く憎めない可愛らしいお方。
ホノさんは掛かる祭祀衣に目をまるくした。少年のような表情をされる。
「見事な細工だなあ。全部ハホが?」
無言で頷いたのは、集中していたせいで声が出にくかったから。心からの賛辞がこそばゆいから。
「銀白の糸、キリのたてがみだ。何重にも重ねて刺してあるから輝くんだね。汚さぬようにするの、大変だったろう?」
「わきまえておりますから汚しませんよ」
「うん、そうだ、ハホなら万全だ」
かすれ声での軽口は上滑りしたのに、ホノさんの受け止めはいつも柔らかだ。
「良く仕えていたハホだからこその豊潤の証なんだな」
「豊潤、ですか、私が?」
「さっき、見事な花嫁衣を拝見したよ。琥珀粒も。ハホは祝言の朱が誰よりも似合うよ」
心清ければ声もかんばしいものだけど、どうしてホノさんはいつも真っ直ぐなんだろう。
黙っている私の前に、ホノさんは丁寧に両膝をついて頭を垂れた。
「本日は、西集落の長からお祝いを言付かって参りました」
正式な挨拶の姿勢をとるので、私は急いで針山に針を納める。立ち上がり、背筋を伸ばす。
ホノさんの頭が私の真下にある。こんなに近くに。濃茶の豊かな髪が薬師マゲに結ってあるのを、真上から眺める。
ホノさんのつむじはこんな風なのね。サラ様はご覧になったことがあるかしら。
「此度は誠に御目出とう御座います。こちらは西集落護りの琥珀で御座います。いく久しくお納めくださいますよう」
差し出す大きな掌。愛らしい琥珀がひと粒。心が煩くて動けない。
「ほら、早く受け取って」
いつものホノさんの口調に、慌ててギクシャク動く。琥珀を両手で押しいただいて、静まれ鼓動、掌の琥珀がコロコロ笑う。
「良い守り石だろ。皆がハホの多幸を祈っているよ。愛されているね。良かったね」
琥珀から「貴女のはるが過ぎますね」と聞こえた。目元が潤みそう。
「どうかした?」
「……今日は小春日和だなあと」
「ああ、そうだね。暖かいね」
日が差してよかったと呟くのは、お山を心配していらっしゃるからでしょう?
「俺は島の出入りが多いから、どうかこれからも頼りにしておくれ。ハホの力になるからね」
ああ、そうだ。嫁ぎ先でもホノさんには会える機会が有るのかも。
「島にもホノさんのお子さまが」
「一番最初の子が七つになったよ。俺の跡を継ぎたいって、島薬師の家に出向いてる」
「頼もしい。安泰ですね」
「まだ遊びだ。先方に迷惑かけてる」
表情を観るのが楽しい。親の顔をするんだな。
「ん、何? どうかした?」
「……感じ入りました。小さいひとの成長は嬉しいです。此処を離れるのは寂しいけれど、私も勤めを果たします。今後とも宜しくお願い致します」
祈りのこもった琥珀をキュッと握ると、
「大きく温かな御心、確かに頂戴致しました。ありがとうございます。西集落の方々にも宜しくお伝えくださいませ」
先まで石が包まれた掌の温もりをも確かめる術を、誰も知るまい、知られてはいけない。
挨拶を受け止めたホノさんが笑う。なんて柔らかな目元でしょう。このクニには琥珀の瞳が多うございますね。
「お付きは冬至明けまで仰せ使っているから、なんでも遠慮なく言っておくれ。何しろ大ばあさまときたら、俺がサラの邪魔をすると思い込んでおいでだ。そんな無礼をする訳ないのに、信用ないんだな」
「そんな憮然となさって」
「だってさ、大ばあさまはいつまでも自分を子供扱いなのだよ?」
なんとも言えず笑って返した。この方はやはり大社外のお方だ。ご存知無いとは、そういうことだ。
私たち内のものは、まつげの先に掛かる迷いを、瞬きで振り払う。
御簾を、壁を、薄い衣に隔てられた中、向こうに居る存在に向け、独り言を放ち合うおふたりを、私はずっと観ていた。
違う話をしよう。せっかくの今だ。このひとときだ。
「そうだ、私、ホノさんにひとつ所望を」
里の娘のように、束の間の自分を楽しもう。
「島へのお付きが決まった今なら、キリは今度こそ私に触らせてくれるかしら」
「そういやハホは触ったことがなかったかい。何でだろ」
「私だけじゃなく、大社に集う者は誰も触れておりませんよ。大ばあさまだって」
「サラ以外は触れてなかったのか。じゃあ試してみるかい? 庭で大人しくしてる筈だ」
大事な花嫁さまに何かあったら困るけど、と、ホノさんは思案しながら、
「そういやキリが婿さまを見てきたよ」
とも小声で言った。
その意味を私は察する。黙って言葉を待っていると、
「良い導きをみたよ」
私はその言霊を、その表現してくださったホノさんの思いやりを、そのまま受け取ることとした。
「……次のお役目も私、がんばりますね」
「ひとりでがんばることではないよ。ちゃんと御夫婦でこなしてゆかれるよ」
私を迎えたキリの反応はへっぴり腰だった。
「キリが後退りするの、初めて見ました」
ようやくたてがみを触らせてもらい、「糸が生えておりますね」と笑った。キリの神妙な顔がまた可笑しかった。