石をうけとる
西集落での厄除け配りをキリは嫌がらなかった。集落のこども達には熟れたアケビも土産に渡した。
大社のオトシ直会は神島より遅い冬至明けだ。年越しと重なるが、今年は豊作なので有難い。
「星はここに落ちない?」
「落ちないよ。大巫女さまや島神官さまが祓ってくださるよ」
「何処に落ちたことがあるの?」
「西にある大きな湖がそうなんだって。もうずっと昔のことなんだって」
むかし自分達が聞いた話を、いま小さいひと達に話して聴かす。神事が無事にさえ済めば、全部笑い話になる。
爺様の手相観通り、あちこちの集落に実子がいる。
節操なく見えるだろうが、相手は全てキリが決めた。キリは請われる気配を察すると、気に入った者だけを自分に近付け、そうでない者には威嚇をした。
娘たちの事情にも機敏だった。ただ一度だけ、
「ホノは特定な娘だけに決められないのか」
酩酊した若人に詰め寄られたことがあったが、すぐさま周囲の仲介が入った。
みずからは決して望まない。請われたら処方と手当てを、大社からの伝達、各集落間の物流を。狩りでも力仕事でも、人手の要る場に馳せ参じる。
誰もが穏やかに過ごせるように、心から願っている。
そしてキリの従者に徹し、従者として、大社に出向く。
「よこしまと言えなくもないけど、いいべさ。キリが一番に選んだのはサラ様だったしな」
「かえってそれがホノの子を成した者同士をも丸く収めているのさ。ホノもホノなりに大変だろ。こども達に施す分は多く、サラ様は尊いお立場で遠い」
「そうだな。それは骨だな」
絡まれた後、似たような歳の男達にさんざ肴にされて気が楽になった。
「ホノこそちゃんと幸せになれよ」
したり顔の年長者に逆に諭される、そんな立ち位置もキリが作った。
「でもサラ様は絶対ダメなんだよ。神様にお仕えしてるんだから」
実子の言葉は周囲をおおいに笑わせる。膝にスッポリ収まるその子は、いつのまにか赤んぼうから幼児の匂いになった。
頑丈な土の壁と茅の屋根を使つ大きな住居は西集落の長の家だ。囲炉裏のぐるりの板上には鹿や猪の毛皮が厚く敷かれ、家長の席の頭上には、漆喰で飾られた神棚がある。
「ねえねえホノ聞いてる? サラ様はダメなんだってば」
「君はいつの間にそんな文言を覚えて」
「だってみんな言ってるもん」
「……言霊が恐ろしいなあ」
周囲がまた大笑いをし、幼な子は益々訴える。
「ねえホノ、今宵はここにお泊りしてよ。寂しいよ。一緒に住もうよ」
「そうだね、お泊まりは素敵だね」
「ねえ、いいでしょ、ねえねえ」
家長も家の者たちも是非にと後押しをするので、
「ありがとう。じゃあキリが良いって言ったら泊まらせておくれ」
聞くが早いか、幼な子はキリのご機嫌を伺いに行った。キリも心得たもので、幼子たちを邪険にしない。
小さなひとは愛おしい。どの子にも、その兄弟姉妹、産みの母親や育ての衆にも、極力心を配りたい。
彼等は必ず自分の不在を嘆く。男は通い婚が常だしヨイショも過分にあるけれど、男手の欲しい集落は多いだろう。
自分を寂しん坊と称した爺様はずっと独り棲みをしていた。爺様の後を継いだら、思いもよらない繋がりがあちこちに出来た。けれど自身の根が生えることは無く、生家の集落も代替わりが進んだ。
将来は爺様と同じく独りで過ごす生涯とみえる。
キリと共に過ごした爺様も、多分同じだったろう。キリと過ごす前はどうしていただろう。本当にずっと独りで棲みたかったのだろうか。自分はどうだろうか。
寝床は暖かく居心地が良かった。我が子に添い寝をしながら、囲炉裏で大人たちが交わす噂を背中で聞いた。
神島直会で、ハホが島神官の弟君のもとへ嫁ぐ話も聞いた。
「ホノさん、起きてらっしゃる?」
「うん」
「ハホ様は幼馴染みでしたね」
「そう言うには立場が違い過ぎますが。しかし良いお話ですね」
「ハホ様はお優しくて明るくて、大社と私達の間を柔らかく取り持ってくださった。本当はずっと此方に居ていただきたいけれど」
家長は神棚の奥から小指の爪ほどの琥珀を取り出すと、幼な子に添い寝をする自分に見せる。
「ここの守り石のひとつだが、祝いとして、ハホ様にお渡し願えないかな。ハホ様にご加護を」
自分もそっと起き上がると、あらためて正座をし、琥珀を丁寧に受け取った。
「確かに、お預かり致しました」
「ハホ様の瞳の色と同じ、綺麗でしょう?」
幼子の母親もハホを褒め、おめでたいけどさみしいと呟いた。
琥珀をしまいながら、サラに初めて出会った夏の日を思い出す。梅雨明けの清流、従兄弟達と漁猟に興じた昼下がりだ。
従兄弟達は銛で鱒を追い、小さい自分は独りで素潜りをして遊んだ。あたりの水の流れや危険な箇所はもう覚えていたので、深淵の奥も平気だった。
藻や苔が覆う底、佇む大きな岩。日光の反射がやたら眼に入る。見上げれば水面に何かが揺れている。岩の尖った角には、碧色の数珠が掛かっている。
なんだろう。腕を伸ばして掴んでみる。岸に上がり眺めてみれば、こどもにすら判る上物だ。これは粗末にしてはいけない。懐の小袋に納めていると、上流から、今度はひとが流れてくる。
見れば自分より小さいこどもじゃないか。仰向けで、顔だけ水面に出して、気を失っているのか。見たことがない子だ。この上流に集落は無い。旅のものが沢に落ちたのか。
再び川に飛び込んだ。その子を抱き抱え、流れに沿って岸辺まで泳いだ。
着物がおそろしく上等な白だ。髪の色が漆黒だ。日に当たった事がない赤子のような白い肌だ。声を掛けても起きやしない。
頬を軽く叩いていると薄目を開けたので、大丈夫かと声を掛けて気付いた。この子の瞳はさっき拾った数珠玉と同じ色だ。怪我が無いのは多分、河底の藻のおかげだ。
その子は黙って自分を見た。自分も黙ってその子を見た。
蝉の鳴き声と河の音だけが響いた。鼓動が煩い。
もう一度話しかけようかと思った途端、後ろの藪が派手に動く。振り返ると、今度は小柄な老いた女性が立っている。その子と同じ碧眼だ。弓と槍を携えた屈強な大男もひとり。こちらの瞳は自分達と同じ濃茶だ。
「お前はこの子に触れたか」
耳が拾うは清流の水の音、蝉の音、おのが鼓動。
「この子に触れたのかと聞いている」
やっと問いに気付く。細いが鋭く響く言葉。発したのは女性か。
「助けた」
女性の胸の内まで見透かす厳しい眼差しに身震いする。
「うん、嘘は言ってはいないな。命を助けたならば不問にしよう」
言うが早いが、女性は大男に子どもを背負わせると、
「この事は速やかに忘れる様」
厳しい言葉を発した。有無を言わさぬ力だ。碧眼がこちらを捉える。
(まずいぞ、このひとは何でも見通すぞ)
慌てて黙って頷いた。再び藪の中に入る彼女等を、ただ呆然と見送った。
後にその女性が、大巫女の大ばあさまだったと知る。流されていたのがサラだったと知る。大男が十三どのだったと知る。
藪の向こうの獣道の先に、霊山に抜ける険しい岩場がある。そこを抜け頂上付近の手前を峰つたいに渡った所に、神に仕える者しか行けない、古い祭祀場が有るという。
その夏の日の前年から、自分は薬師の爺様の後をついていた。大社の出入りも何度かあったが、あんな子がいるなんて知らなかった。
晴れて弟子入りしたのちは、大社に出向く度に、注力してサラを探した。見掛けると遠巻きに眺め、サラもこちらに気付いて、お互いの覚えから目配せになったのは、既に霜の降りる時期だったか。
今はもう大ばあさまは恐くない。あの岩場の先、霊山にだって薬草採取でしょっちゅう登る。祭祀場までは行かないけれど、行けない場所など、もう少ない。
泊まった集落、家屋、鶏の声。居間の囲炉裏の煙の匂い。
添い寝をした我が子と一緒に目を覚ます。
(今のは……夢?)
それとも昔の記憶に戻っていたか。
夏の日差しを思い出した。数珠玉は誰にも見せたことがなく、いまだ懐の、皮小袋の中に有る。