きりかえる時
日の出が正面にあった。草木の先が霜で光った。
二度目の小休止の谷川で、懐にあった干柿をキリと分けあう。千切った半分をキリの口元に運びながら、翡翠色に輝くキリの瞳を改めて眺めた。
「綺麗な目だな」と褒めてみる。干し柿だけを催促される。
今さら武者震いがする。
湖の竜巻はしばらく続いた。大きくうねりたかぶり、それこそ天を貫いてゆくのが、遠く離れてからでも見えた。
(キリはサラの気を迎えに出向いたんだ)
従者ゆえに祭祀場への同行を許された自分。キリに従う十三どの。そもそもサラの祭祀衣の、全面に刺繍されたキリの銀糸。
この生き物は、結構な大ごとの渦中にいるじゃないか。
しつこく眺め過ぎて、キリの目元が吊り上がった。慌てて背に乗り、頭を低くして疾走に備える。
今のキリはいつものキリだが、所作は霊獣そのものだ。
駆け上がる時にかかる力の重さ。日が登ってみて改めて、度肝を抜かれた空の高さ。
眼下に広がる景色は、山から観るとはまた違う。山脈から降りる川のさま。清水が湧き出でる崖。葉を落とし終えた巨木の縦横無尽に伸びる枝。重ならぬように生える木々。各集落への道。手前には昔の土砂崩れで堰き止められて出来た池。まだ若い木々の雑木林。
道を行く誰かが気付いてキリを指差したのが遠目にみえた。大きな鳥だと思っただろう。
額をいまいちど、たてがみの奥に当てる。
キリに溶けたサラの気配は、なくなった爺様の気配よりも随分大きくて、まるでサラが新しく宿ったかのような。
(新しく宿った、だって?)
湧き出た発想に肝が冷えた。
縁起でもない。キリのなかに何かの宿りを強く感じたのは、確かに爺様が召された時……召された時だけだ。いま現在、サラ自身が詰めているのは祭祀場だ。キリへの宿りは神事の為だ。
けれど、オトシの神事は非常に厳しく、稀に命を落とすとも。
ひとは早くいってしまうものだから。
また何を憂うんだ。昔の悪い思いつきを慌てて祓う。
サラの気がキリに混じっているだけだ。それにいつもキリは、サラに従順だったじゃないか。
(だけどキリはサラにじゃない、次代というお役目に対して従順だ)
嫌な焦りに襲われる。
キリが選ぶと誰もが言う。全ての事柄はキリが決めると。
再びたてがみの奥に向かい、額を眉間を、まさぐるように押し付ける。
南集落の大ばあちゃんが言っていた。キリは六十年前の先のオトシで神島から来たのだと。
今、キリがオトシを回している。
駆ける速度が増す。背にあたる風はますます鋭く、全身が冷えて酷く痛む。意識はますます冴え渡る。
キリに選ばれると、他の選択肢がなくなる。けれど選べないなりに、自分が出来ることはなんだろう。
語りかけたら答えてくれないか。
いま一度「サラ」と呼んでみる。風が払う。構わず語ってみる。風が千切る。勝手に話しかける。
「あんなに小さな翡翠から、竜巻、」
風がつぶす。
「竜巻、まで、なんて、大仰、」
当然ながら反応は無く、キリの速度はますます伸びる。
(オトシの為にキリのなかに居るんだな)
風に口が封じられ、心の声だけが雄弁になる。
こんなに遠くまで来なきゃいけなくて、成る程、オトシは大仕事だな。
(でもいつからキリに入れるようになったんだよ)
もっと早くから入れば良かったのに。そうしたら今までにだって、時々抜け出せて楽しめたのに。共に出かけることも出来たのに。
「大社に忍び込むの、いつも大変だったんだぞ」
自分でも驚いた。ひどい風圧なのに、今だけ、声がちゃんと出たじゃないか。
すると笑うような気が胸元で弾けた。キリのなかから発した振動だ。
『だって、やっと綺麗に出られたから』
発信に目が冴える。なんだって? 今なにが飛んできた? 出られたって何処から? 綺麗にってなんだ? 曖昧過ぎて掴めない。
「出られたって、どこから?」
『いれものから』
「いれもの? あの祭祀場の中のこと?」
『あそこに有るのは骸だけだ。十三が片付けてくれる』
いれものって身体のことか。それはまさか、そういうことか。
途端に、脳裏にあの暗闇が、祭祀場のなかが浮かんだ。燈明が消え、空気孔から一筋だけ日の光が差し込む寒い坑。近くに控える十三どの。酷く痩せた、背だけが伸びた、透き通るような白い肌の、白い衣を羽織るサラ。
サラは昔からいつも白だった。そういうものだと思ってみていた。白は特別。神さまに仕える、神さまの近くにいるものの色。
神さまの近くに行くものの色。
(こういうことだったのか)
絶望に似た寒さが襲った。すると、キリのなかから
『少し違う。わたしの形が変わっただけだ。これからは此処にいる。いつも』
それまでに感じたことのない、あつい熱が届いた。どう返していいか判らなかった。
『それから、あれは竜巻じゃなくてあくまでも霧』
今度は頭の中に直接、言葉とは違う種類の、映像や色のような意識が入る。脳裏に湖の上昇する水滴が浮かぶ。でもそれは、先ほど湖で聞かされた威厳のある命令とは種類が違う。
「あんな凶暴な霧があるもんか」
ゆるさに釣られて反論すると、再び何かがパンと返る。くだけた波動。笑って花が咲いたよう。
「随分なイタズラに見えなくもないけど」
『イタズラ。それは良い』
不敬な物言いを、その気はとても喜んだ。とても気楽そうに、ほころんだ。
気楽ならば自分も嬉しい。嬉しいけれど。
「サラは、今が楽かい?」
この方が楽なのかい? 今のほうが。苦しくないのかい?
誰もが綺麗な次代さまだと褒めていたけれど、いつどきからか、自分はあの姿が不憫だった。何処か悪いのではないか、堪えが苦行ではないかと案じた。
伝わったのか、草原の満開の花たちが、風に揺れる景色が視えた。一輪ごとに花が笑う。とても楽だと風で揺れる。
じゃあもうずっと、このままでいるがいいさ。楽にするが良いさ。
もうずっと入ってる、とも聞こえた様な気がしたけれど、心得違いじゃないといい。
伝わる気はひたすらに温かかった。自分のなかには安穏が膨れ、同時に多少の混乱も出た。
見方を変えないといけない。
浮かびあがる思考を整理しながら、ふと閃く。六十年前の爺様は、キリに溶けた誰かの心と共に、山に来たのではなかろうか。
そうだ、きっと、爺様もそうだ。幼い頃は勝手に案じていた。爺様はひとりで、山ん中で、寂しくはないのかと。
寂しくなかったのだ。だから爺様は自分にキリを譲った。「ホノはさびしんぼうだから」と、キリの近くに居させてくれた。
(なんてお役目だ)
キリの首に回した腕を組み直す。何事も全てキリが選ぶ。けれど、たまたま自分が選んでいたものを、キリが選んでいたとすれば。
港まであと僅かなのに、今度は急に眠気が襲う。まどろんで振り落とされそうになり、慌てて首にしがみつく。
この世は何のためにあるんだろうと憂いていた幼い日々を、夢うつつに思い出した。
何かを面白がる為かもしれない。