そらにあがる
満天の星空がゆっくり動く。気温は容赦なく落ちる。吐息で湿った肩布の口元が薄く凍る。意識は益々冴えてくる。
松明の火種があるうちに獣避けの薬草を燻しておいた。か細い煙だが、悪い気配にも効くだろう。
夜の祓い場はたちが悪く、キリが居なくなった途端、周囲には良くないものが跋扈した。取り込まれぬよう周りに塩も撒き、なかのサラ達に意識を向けた。
土壁や木扉の向こうから、騒がしい気配だけが伝わる闇。
堪えていたら扉が動いた。灯りがひと筋こぼれた途端、内から光が漏れ出す。
見慣れた生き物が現れる。魑魅魍魎が逃げ出した。
「キリ? 用事は済んだかい?」
ホッとして顔を上げて不可思議さに気付く。どうして頭から出てきたんだ。
横穴の構造とキリの体躯を鑑みて、キリの退出は後ろから引っ張るつもりだった。坑内は方向転換出来る広さがあったのか。それに今更だけど、あの木蓋の扉だって、キリの身体よりずっと小さい作りじゃないか。
戸惑っていると、奥から十三どのの声がする。
「此処は済んだ。これから西に向かわれる。貴殿は支度を」
(貴殿だって? 誰が!?)(まさか自分のことか)(キリ、何があったんだよ)
小声で聞こうにも、キリは「さっさと乗れ」と言わんばかりに首を振り、今にも駆け出しそうな素振りをする。慌ててキリにまたがりながら、
「燻しの火種が残っているやもしれません。恐れ入りますが始末を」
十三どのに叫んだが、返事は返ってこなかった。
それでもあのお方はきっと、自分なぞに言われる前に、火種に気付いて片付ける。念のために振り返ってみれば、火の気配は微塵もなく、あたりは闇に戻っていた。
キリの背に乗った途端、別の状況にも気付く。
いつになく星が近い。所々に集落の影が有り、家屋から流れる暖の余韻があり、それがぐんぐん下になり、気付けば宙に浮かんでいるじゃないか。空を掛けている!
今までにも無謀な跳躍には散々度肝を抜かれてきたが、この高度こそ初めてだ。
キリは風を斬る。谷も峠も一足飛びに吹き抜ける。
手甲当てを指先まで下げておいてよかった。風圧がいよいよ強くなる。中腰の体勢を低く保ち、キリへの負担も極力減らす。
行先はクニ境から南の山脈を越えた先、対岸が見えない程の大きな湖だ。昔の星が墜ちた跡と謂れをもつ場。風を切り裂いて進むさまは。吹雪の真っ只中とまるで同じだ。
乱暴な走りに気圧されながらも、自分はキリの奥にも戸惑った。腕を回す首筋から、またがる背から受ける気の流れ。この正体が最も大きな違和感だ。
この内にあるのはなんだ、何が入ってる?
今までにもキリを通して、見聞をひろげさせられた。あらゆる思念も感じてきた。
大社の命を受けて動く時、キリのなかに、大巫女の気が込められるのが見えた。あの世に旅立つもの、例えば親しいクニ衆や可愛がっていた家畜の心なども、一瞬入り込むことがあった。爺様がなくなったときにも……しかし爺様の気は実は、まだキリのなかにかなりある。
キリは多くの気を受け入れ保ち、全てを良いものとして貯める。逆に邪なものはキリを避ける。キリが喰って消してしまう。
今なかにある気も良いものだ。でも、自分にとっては不可解だ。
(おかしいぞ、どうして、ここに)
たてがみの奥に額を当てる。抱えるキリの背から溢れる質。抱える首元にまとう熱。
覚えのある実、よく知る情だ。
何故ここに、こんなに強く、サラの心があるんだろう。
今のキリはサラに仕えているからか。それにしても強すぎる。キリ自体、いつものキリと全然違う。
サラだろ。キリとサラが一緒になって、混じり合っているだろ。ふたりで溶けているんだろ。
湖が近づくにつれキリのスピードが徐々に緩み、周囲に静寂さが降りてくる。
辛抱出来ず問うてみる。
「サラ」「ここに居るんだろ、サラ」
当然だが返事はない。声に出すのは辞め、代わりに心の中で呟いた。
(……俺にはバレてんぞ)
通じただろうが返事はない。東の山嶺が少しずつ白みだし、闇が星と共に西に流れる。森を抜けると一面に葦の原が広がり、山脈から下りる空っ風が、薄茶の茎をザザザと鳴らす。
聞くのは辞めよう。今は大仕事の最中だ。キリは葦の中にある獣道に降りた。
ほとりは歩いてすぐだ。波の音、風に煽られた小波だけが、岸辺いっぱいに響き渡る。霜柱を踏む音が雑に鳴る。一番暗い時刻は過ぎた。東の空の山筋が薄く浮かぶ。じきに日が昇る。
さて此処で何をすればいいんだろう。
キリの顔を覗き込むと、見るが早いが、キリは自分の掌に口元をこすりつけてきた。これはキリ自身がよくする所作だ。口のなかを見ろ、という意味だ。
「どうした? 何処か悪いのかい」
まさぐると小さな石がひと粒。指先でつまんで出して目を凝らせば、サラに渡すように頼んだ、あの数珠玉の翡翠じゃないか。
「ひと粒だけ咥えているということは、何処かで糸が切れた? 他にも咥えてる?」
もっと見ようとして、思い切り嫌がられ凄まれた。違うのか。
「持ってきたのはこれだけなんだ」
キリはそうだと言わんばかりに耳を揺らし、今度は湖に向かってしきりに顎を向けた。
「これを?」フウ。「投げるのかい?」フウ。「湖に?」
フウフウ。鼻息が膨らむ。さっさとやれよと叱られる。
「ああ、うん、はい」
我儘な生き物だ。軽い小さな石、上手く飛ぶだろうか。投石は得手だが、軽さが空気圧に負けぬように、慎重に遠投する。
思った以上に綺麗に飛ばせたと思ったら、遠くで落ちる音がした。しかも大きな重い音だった。
あんなに小さくて軽い粒が、随分遠くまで、あんなに重そうに。
間の加減がおかしい。
水音がおさまると、今度は波紋の広がりすら掴めそうな程の静寂さが降りてくる。枯れた葦の葉音に畏れを誘う。
不自然な静けさだ。何か来る。
戸惑っていたら、妙な緊張感を蹴り倒すかのように、キリは再び騒ぎ出した。早く背に戻れ、グズグズするな。
やっぱり何か来るのか。それに、ああそうだ、今朝は島に行くんだった。
遅れたら大巫女に大目玉をくらう。帰りの道中がかなりある。キリは自分を乗せるやいなや、大袈裟に飛び跳ね、また全速力で駆け出した。
直後、背後から地響きが聞こえた。みるみる近付き、空気が揺れる。背中に酷い水飛沫が襲う。
(地震?! それとも津波?)
まさか、もう星が堕ちたのか。
肩越しに振り返り、目を見張る。湖の水面全体から、濃い霧が一気に湧き出でる。湧いた霧が渦を巻き、空へ空へと舞い上がる。水霧は滝となって周囲を濡らす。
竜巻が起きているじゃないか。
違う、ひょっとして、いま起こしたのではないだろうか。さっきの遠投は祭祀にあたる所作で、サラの気が強くあったのはそのせいで。
混乱のさなか、今度は頭のなかに声が届く。
『翡翠によって、龍神からこの霧を譲り受けた。霧は星を迎えに行く。これにて星は柔らかく、穏やかにこの地に降りられる』
何の声だ。何処から聴こえた? 周辺は濃霧と爆音だ。何処から聞こえた?
葦の原を越えた付近で湖を振り返ると、水面からは大きな滝が生えている。偶然でも見たひとはきっと、神の御姿とみるだろう。
譲られた霧だなんて優しい表現じゃ追いつかないと、不敬にも思ってしまった。ほとりに集落が無いのは幸いだった。湖がどのクニからも遠くて良かった。厄除も配布しておいて良かった。
あの声の主は誰だろう。そろそろ教えて貰わないと。
走りに走って、南の山脈も越えた後、ようやくひと心地着いた。
「さあ、話してもらおうか」
あらためてキリの顔を覗き込む。そこで初めて気付く。キリの瞳が、奥底が碧眼だ。いつの間に。
「キリ?」「サラ?」「どっちだ?」「どうなってるんだ?」「何があったんだ?」
キリと内に向かって再び問うたが、やはり返事はなかった。キリは背中の従者に構うことなく、また全速力で駆け出すので、慌ててしがみついた。よくわからないけれど、そこにはサラがいる事だけは理解した。サラ自身がいる事は。
朝日が昇り出した。港に行かねばならない。