第六話 乙女の純情
遊佐薫は悩んでいた。昨日の出撃で、久しぶりに敵を二機撃墜したのはいいのだが、分隊を組んでいた親友の綾野晴香が、結局ひとつも戦果をあげられずじまいだったのだ。おまけに、そのせいで薫の撃墜数が晴香を追い抜いてしまった。もちろん晴香はそんなことをまったく気にせず、薫の活躍に大喜びだったが、新人の鏑木天音の快挙に刺激され、私も続くぞと意気込む姿をとなりで見ていただけに、薫は自分を責めずにいられなかった。晴香ちゃん、天音さんのこともすごく喜んでたけど、出撃前あんなに張り切ってたし、きっと自分でも星を稼ぎたかったに決まってる。ああ私なんであそこで二機とも撃っちゃったんだろう、片方残しておけば、ぜったい晴香ちゃんが落としたのに。ああ私のバカバカバカ。そんなやくたいもないことを、夕べからずっと考えていたのである。
◇ ◇ ◇
薫が食堂に入ると、先に座って話をしていた晴香と天音がこちらを向き、声を揃えて「おはよ!」と笑顔で手を振ってきた。志乃はまだ菜園にいるのだろう。
「おはよう」
いつもと変わらぬ晴香のようすに、薫は少し胸をなで下ろして、晴香のとなりの椅子に腰をかける。二人は、正式に決まった第三分隊の序列の話をしていたようだ。
「そっかあ、天音が前で志乃さんが後ろかあ。普通は分隊長が頭なのに、志乃さんよっぽど天音のことが気に入ったんだね。私たちのときはぜんぜん頼りにしてくれなかったのに、あったま来ちゃうなぁ」
「いや、晴香を前にしたらどこ飛んでくかわからないでしょ。晴香についてけるのは薫だけだよ」
「ひっど~い!」
笑いながら怒ってみせる晴香の横で、薫は嬉しそうな顔をした。
「志乃さんも航空学校の教官だったの?」
「ううん、志乃さんはずっと前線勤務らしいよ。たたき上げって言ってた」
「志乃さんは高坂せ…高坂さんと同じ部隊にいらしたんですって」
「こっちに来た先生が、いの一番に引き抜いたんだってさ。すごいよね」
晴香と薫は透子のことを「高坂先生」と呼ぶくせがあり、やめるように本人から注意されていた。薫は気をつけているが、晴香はまったくお構いなしに先生呼びしている。透子も、もうあきらめていた。
「そうかあ。晴香と薫も高坂さんの教え子だし、そう考えるとこの部隊って、私以外みんな高坂さんの関係者なんだね」
「高坂一家だね」
晴香の言葉に、天音も薫も吹き出した。晴香も一緒に笑いながら言う。
「隊長は、空戦のこと以外はあんまり興味ないみたいで、隊の細かいことはだいたい先生がやってるらしいよ」
「あ~」
わかる気がした。
◇ ◇ ◇
今日は、晴香と薫の第二分隊、志乃と天音の第三分隊が、一緒に出撃することになった。四人で飛ぶのは初めてなので、皆うきうきと楽しそうだったが、志乃だけは出発前から色々と心配そうに細かな注意を与えていた。格納庫に向かう途中の滑走路手前に、ちょうど出動直前の第三小隊『轟』がいた。教導戦隊の中で、『轟』だけは一式戦ではなく二式戦を使用している。格闘戦を最重視した設計の一式戦に対し、二式戦は速度と火力に重きを置いた機体で、重戦と呼ばれている。薫は、無骨な風貌の二式戦が好きだった。
隊員たちの輪の中に、薫は見覚えのある顔を認めた。副長の檜山と並んで立っているその若者は、どこかの映画俳優のような精悍な顔立ちで、不思議と目が合うことが多くて印象に残っているのだが、『轟』とは作戦行動も隊舎も独立しているため、これまで個々の隊員と話すような機会はなかった。若いのに副長の列機を任されてるなんて、けっこう実力あるんだな。そんなことを考えながら見ていると、話が終わったらしく、「オーッ!」という声とともに隊員たちが各自の乗機に向かって駆け出した。そのとき、顔を上げた青年が薫の視線に気付いた。彼は驚いた目をして急に歩速を緩めた。とぼとぼと数歩進みながら、何かを必死で考えているような表情をしている。そして、完全に立ち止まると、ものすごい決意の形相で顔をあげ、こちらに向かってきそうな様子を見せた。
(な、なんだろう)
薫は身構えた。そこへ、
「沢田、なにしてる!」
先に自機の横に立ち、振り返った檜山から怒声が飛んだ。
「すいません!」
そう叫んで、青年はまた駆け出す。よくわからないが、薫はほっとした。やがて発動機の回転音が上昇し、滑走路に向かって動き出す二式戦の群れ。その後ろ姿を見送りながら、薫は先ほどの檜山の声を思い出していた。
(沢田さんって言うんだ…)
いつもの精悍な顔が、さっきは少し子供っぽく見えたような気がした。
◇ ◇ ◇
ここ数日、教導戦隊は空母から飛来する敵海軍機に対し大きな戦果を上げており、『紅』だけでも十二機を撃墜している。おそらく、しばらく空母はおとなしくしているのではないか。となれば、次に戦うことになる相手は陸上機の可能性が高い。さっき志乃さんはそう言っていた。その中には、『緋色の死神』がいるかもしれない。『緋色の死神』。恐ろしい相手なのは確かだと思うが、天音さんは実際に遭遇して無事だったし、なによりこっちには志乃さんがいる。この四人なら、たとえ相手が『緋色の死神』でも引けは取らないんじゃないか。薫はそんなふうに考えていた。
前方で、天音が小さく機体をゆすっている。いち早く敵機を発見したようだ。
(さすがは天音さんだ)
薫は、頼もしい戦友の存在を、ありがたく、また誇らしく感じた。空戦においては、先に相手を発見すること、相手より上空に位置すること、この二つが決定的に重要となる。高度はすなわち位置エネルギーであり、それを速度に変換することで、飛行機はさまざまな機動による戦闘を行うことができる。そしてもちろん、こちらだけが相手を発見した状態で戦闘に突入することの有利さは言うまでもない。その意味で、優れた索敵能力を有する天音を得たことは、『紅』にとって大いなる僥倖だった。
天音の指さす方向に、銀色に輝く四つの機体が見えた。やはりか。一同の間に緊張が走る。それと同時に、この有利な状況で強敵と遭遇できたことに、天の助けを感じた。志乃の合図で、天音を先頭に四機は敵の後上方へと大きく回り込むための旋回を開始する。太陽の位置も、こちらにとって好都合だ。敵の美しい流線型の機体が次第に大きく見えてきた。行ける。薫は確信した。
すっ、と天音が降下を開始した。それにぴたりと続く志乃。二人と並行するように、晴香の機体も突っ込んでいく。いつものように、「行くよ、薫!」という声が心の中に響き、薫も「うん!」と答える。敵はもう目の前だ。操縦席の中のパイロットが、こちらを振り返って何か叫ぶのがはっきり見えたとき、天音と晴香の機銃が火を噴いた。一瞬で先行する二機を失ったそれぞれの二番機は急旋回で逃走を図ったが、それを許す志乃と薫ではなかった。
あっけなく終わった戦いに、拍子抜けしたように集まる四人。どうやら、相手は『緋色の死神』ではなかったらしい。確認するように機体を近づけた志乃に、天音は首を横に振っている。薫も晴香のとなりに機を並べる。操縦席で、晴香がこちらを向いて何か言いながら力いっぱい手を振っている。
「やったね、晴香ちゃん」
戦いのあとの解放感に加えて、夕べからの心のもやもやが一気に晴れ、薫は固い座席にぐったりと体を委ねて少しの間だけ目を閉じた。
◇ ◇ ◇
意気揚々と帰投し、大はしゃぎで今日の戦果を語りあう晴香と天音のあとについて隊舎に向かっていると、先に帰投した『轟』の隊員たちが滑走路わきで輪になっているのが見えた。
(あれ?数が少ない…)
副長の檜山も、ひとりで立っている。うつむいて地面をにらみつけている姿に、薫は悪い事態を予感した。
食堂に集まった隊員の前で、隊長の真琴が口を開いた。
「残念なお知らせがあります。本日『轟』が『緋色の死神』を含む敵編隊と遭遇、交戦に至り、三機を喪失しました」
声にならない驚きがその場を満たす。皆、黙って隊長を見ている。戦いの中で戦友を失うことは日常であるが、内地で編成され、その実力に加えて、高い注目度ゆえの様々な優遇を受けてきた教導戦隊は、これまで喪失機を出していなかった。
「『轟』も奮戦しましたが、残念ながら戦果を上げるには至らなかったそうです。言うまでもなく、『轟』は溝口隊長、檜山副長を筆頭とする歴戦の強者揃いです。我々も、改めて『緋色の死神』に対する備えを強化する必要があります」
機材・人員とも充足し、中隊への改組も検討されている『雷』と『剣』に対して、『轟』と『紅』はかろうじて一個小隊での運用が可能な少人数の部隊である。それが一度に三機も失った痛手は計り知れなかった。強いて言えば、落とされたのがすべて二番機で、各分隊長が無事だったことが『轟』にとっては不幸中の幸いかもしれない。そうでなければ、おそらく直ちに解隊され、『雷』と『剣』に併合されていたはずだ。その方が隊員の生存率は上がるが、それを喜ぶ人間は『轟』にはいないだろう。
二番機は、一番機に比べはるかに損耗率が高い。前を飛ぶ一番機の動きに常に合わせる必要があり、反応が遅れる上に、後ろからの攻撃にも真っ先に晒される。特に、有名な撃墜王や高位の上官の列機には、自らの命よりも分隊長の戦果を優先することが求められた。中には、列機をおとりや弾よけ扱いするような、ひどい分隊長もいると聞く。分隊長を守って死ぬこと、それが列機の使命とも言われるほどだった。薫は、となりに座っている晴香の方にちらりと目をやった。いつになく真剣な晴香の横顔に、薫は強く思う。
(私はぜったい落とされない。晴香ちゃんを守る人がいなくなるもの)
そんな薫の心に、ふと出撃前の情景がよみがえった。あの人も、命を賭して檜山さんを守ったのだろうか。
(そう言えば、あの人、なんて名前だっけ)
少し考えたが思い出せないので、薫はまた隊長の話に意識を集中させた。
<続く>