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紅燃ゆ  作者: 黒木和久
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第三話 緋色の死神

今を去ること十有余年、各国の優秀な若手操縦者を集め、相互親睦と技術研鑽を図ることを目的に、米国で国際戦技研修が開催されることになった。その日本代表に選ばれたのが、まだ航空学校の教官に就任して日が浅いにも関わらず、その卓越した技能と深い理論的考察で注目を集めていた奥沢真琴(おくさわ まこと)だった。


 当時はまだ太平洋を横断する民間の空路はなく、米国との往来はもっぱら船によっていた。しかし、政府も軍も航空の強化に全力を挙げていた時節柄、国威発揚の意味もあって、専用に輸送機が手配されることになった。真琴は、他人の操縦する飛行機に乗るのはあまり好きではなかったが、まさかこの機会に国産戦闘機による太平洋無着陸横断に挑戦すると言い出すわけにもいかず、おとなしく機上の人となった。途中、ハワイに立ち寄ったあと、輸送機は無事シアトルに到着し、真琴は初めて異国の地を踏んだ。


           ◇   ◇   ◇


 研修初日、滑走路の真ん中に集められた研修生の前で、教官が大声を張り上げる。


「本日は、研修生諸君の自己紹介代わりに、各自の実力を把握するための模擬空戦を行う。あくまでも顔合わせの意味であるから、決して無理をせず、くれぐれも事故のないよう注意してもらいたい。調子に乗って機体を傷付けでもしたら、大使館経由で莫大な請求が行くから覚悟しておくように」


 研修生の間に笑い声が起きた。いきなりか。さすがは実力主義の国だな。そんなことを考えながら、真琴は黙って搭乗の準備を始めた。演習に使用される機体には、日本でも何度か乗ったことがある。いかにもアメリカ的な、無骨だが頑丈な作りで、初心者にも扱いやすい。そうこうするうちに、演習が開始された。周囲では、アルファとブラボーの二班に分けられた研修生の名前が順に呼ばれ、それぞれ五分ほど空中を飛び回って降りてくる。待っている間は緊張気味だった顔が、終わるとどれも明るく輝いているのが微笑ましい。


「次!アルファ、マコト・オグズワ!ブラボー、スカーレット・ミード!」


真琴の番が来た。先に離陸して飛行場の上を周回し始める。すぐに相手の機体も離陸してきた。滑らかな操作だな。真琴は値踏みするように相手の動きを観察した。たしか、地元米国の代表だったはず。だから場慣れしてるのかな。そんなことを考えていると、相手も同じ高度に達し、主翼を左右にバンクさせて合図を送ってきた。よし。機体を左に傾けながら操縦桿を引き、相手に向かって旋回していく。向こうも同じように旋回しながらこちらに向かってきた。すれ違いざま、左半回転ひねりからの切り返しで相手の後ろを取る。はい終わり。いつものパターンだ。そう思った真琴の前に、相手の姿はなかった。


 急いで周囲を確認すると、さっきまで自分がいた場所に、ちょうどこちらと対称の姿勢で旋回してる機体が見えた。なるほど、まったく同じ機動で後ろを取ろうとして、お互いに位置を入れ替える結果になったのか。これはあなどれない相手のようだ。真琴は改めて気を引締め、次の行動に移った。上昇からの横滑りで機を急速に反転させる。しかしこれも、すばやいロールから下降半宙返りに移った相手の後ろには届かなかった。


 それからも、何度か別の技を使って回り込もうとするが、いっこうに後ろを取れない。それどころか、少しでも気を抜くと一気にこちらが不利な態勢に持ち込まれる。驚いた。これまで日本では誰を相手にしても外したことのない真琴の得意技を、あっさりかわして次の攻撃をしかけてくる。まるで夢を見ているようで、現実感がなかった。互いに繰り出す戦技の応酬にすっかり心を奪われ、真琴は時の経つのを忘れていた。


「ミード!オグズワ!何をしている!演習終了だ!直ちに着陸しろ!」


無線機を壊しそうな教官の怒声で、真琴は我に返った。全身、汗でびっしょりだった。


 先に着陸した真琴が機体から降りようとしていると、もう一機がまっすぐこちらに向かって降りてくる。今戦ったばかりの相手、スカーレット・ミード研修生だ。着地後もそのまま滑走してきて、真琴の乗っていた練習機のギリギリに駐機した。危ないなぁ、と思いながら見ていると、パイロットが急いでベルトを外しながら、真琴の方を向いて何か叫んでいる。そして勢いよく機体から飛び降りたかと思うと、まっすぐこちらに向かって歩いてきた。何か文句を言われるのだろうか。気付かないうちに、怒らせるようなことをしてしまっただろうか。不安げな顔の真琴の前で仁王立ちになると、スカーレットは両手を広げ、満面の笑みでこう言った。


「私、あんなゾクゾクしたの生まれて初めてよ。あなた最高ね!」


           ◇   ◇   ◇


 すっかりスカーレットに気に入られた真琴は、それから常に彼女とペアで演習をすることになった。座学のときは、真琴が英文の理解に苦労している部分をスカーレットがわかりやすく説明してくれた。模擬戦のたびに、二人は教官も舌を巻くほどの巧みな操縦技術を披露し、互いに一歩も引かない白熱の戦いぶりを見せた。実力はほとんど互角で、勝敗はそのたびに逆転した。最初は少しとまどっていた真琴も、スカーレットと競ううちに、その戦技にすっかり魅せられてしまった。本気でぶつかり合うのが楽しくて仕方なかった。次の実技演習が待ち切れなかった。


 演習以外の時間も、スカーレットは頻繁に真琴の宿舎を訪ねてきた。休みの日には、彼女の車でドライブに誘ってくれた。道すがらのダイナーで食事を取り、大きな駐車場で車に乗ったまま映画を見た。飛行場の周辺しか歩き回ったことのなかった真琴は、初めて触れるこの国の風物に、すっかり夢中になった。なにより、スカーレットと話すのが楽しかった。真琴のたどたどしい英語を、スカーレットはしっかり口元を見ながらちゃんと理解してくれた。何かに言いよどむと、先回りして表現を教えてくれた。言いたいことが伝わったとき、自分と同じくらい嬉しそうな顔をする彼女が、とても頼もしかった。


 真琴は、誰にでも明るく接する半面、本当に深く心を開くということがなかった。小さいときから、皆に可愛がられる「良い子」だったが、愛されているという実感を持ったことがなかった。与えられた役割は何でもしっかりこなす優等生だが、本当の自分を理解してくれる人はいないと思っていた。いや、本当の自分なんて、自分でもよくわからなかった。なのにスカーレットの前では、そうした作り物の自分がどこかに消えてしまったような気がした。外国語という条件も影響したのかも知れないが、スカーレットになら何でも抵抗を感じずに話すことができた。聞いてもらえた。日本に親友と呼べる友だちがいないことも素直に話した。真琴は「でもやっとベストフレンドができた」と言って、照れくさそうに笑った。そのときのスカーレットの笑顔が少し憂いを含んでいたことに、真琴はまったく気付かなかった。


           ◇   ◇   ◇


 研修も大詰めを迎え、参加者の到達度評価を兼ねた競技会が開かれた。結果はスカーレットが優勝、一点差で真琴が準優勝だった。開催国の代表が優勝したことをとやかく言う人間もいたが、スカーレットはまったく意に介する様子がなかった。その夜、二人は近くのパブで、お互いの健闘をたたえる小さな祝勝会を開いた。グラスをぶつけて乾杯しながら、スカーレットは満足そうに言う。


「マコは間違いなく日本で最強ね」


真琴はおかしそうに笑いながら、


「それならレティはアメリカ最強でしょ?」


と返す。するとスカーレットは、顎に人差し指をあてて少し考えるふうに、


「どうかな。この国は広いよ。たぶん私より強い人がたくさんいる」


「え~。そんな国と戦争になったら大変だ」


「そうだよ。アメリカと戦争しようなんてやつがいたら、どうかしてるよ」


そう言って、スカーレットは愉快そうに笑った。真琴は、改めてこの国のスケールの大きさを思った。人も、国土も、産業も。日本に帰ったら、自分の人生がまた元の大きさに戻ってしまうような気がして、真琴は一抹の寂しさを覚えるのだった。


           ◇   ◇   ◇


 やがて研修も全期間つつがなく終了し、真琴が帰国する日が近づいてきた。スカーレットはだんだん無口になり、二人の間にぎこちない空気が流れることが多くなった。


 ある夜、出立準備もだいたい終わり、ガランと片付いた部屋で真琴が窓から外を見ていると、ドアにノックの音がした。開けると、スカーレットが立っていた。


「ハイ」


片手をあげて、いつもの挨拶をするスカーレット。真琴もいつものように「ハイ」と応えて身をずらせ、彼女を部屋に招き入れた。スカーレットは室内を見回して、独り言のように言う。


「すっかり片付いちゃったね」


「うん」


二人の間に沈黙が訪れた。


「そうだ」


思い出したように、スカーレットはバッグから一枚の写真を取り出して、サイドテーブルの上に置いた。競技会の日に、二人で撮った写真だった。


「これ、渡すの忘れてたから」


「なんだか、懐かしいね」


そう言いながら、写真のふちを真琴の指がなぞる。その指を、突然スカーレットが掴んだ。真琴はびっくりしたが、手をふりほどこうとはせず、尋ねるような目でスカーレットの顔を見上げた。握りしめた指を引き寄せるようにして、スカーレットは正面から真琴の顔を覗き込む。


「マコ…」


スカーレットの瞳を見ながら、真琴は初めて気付いた自分の本心を口にした。


「レティ、私、あなたがとても怖い…」


スカーレットは少し驚いた顔をしたが、すぐに何かを悟った様子で、真琴の目を見つめてこう言った。


「私も自分が怖い。でも仕方ないじゃない。だって…」


スカーレットの瞳に映った真琴の瞳がゆっくりと大きくなる。


「あなたのことがこんなに好きなんだもの…」


           ◇   ◇   ◇


 その数日後、真琴はシアトルの空港からホノルル経由で日本に向け旅立った。スカーレットは見送りに来なかった。それでいい。真琴は思った。もう一度あなたの顔を見たら、私は日本に帰れなくなってしまう。輸送機の窓から見下ろすアメリカは、やはり何もかもが大きくて、真琴は自分が世界で一番ちっぽけな存在になった気がした。


 帰国した真琴は、それまで以上に空戦理論の研究と自らの技術研鑽に没頭した。彼女の戦技にはますます磨きがかかり、いつしか「空戦の達人」の異名で呼ばれるようになったが、心はいつも満たされなかった。スカーレットと交えた、あの心ときめくようなつばぜり合いは、もう二度と味わうことができないんだろう。そう考えると耐えきれない焦燥感に胸が張り裂けそうだったが、彼女はその思いを塗り潰すように、ひたすら仕事に打ち込んだ。


 ほどなくして、欧州全土に広がっていた戦争に米国が参戦した。ある日、真琴は教官室に置いてある英字新聞の『緋色の死神 欧州の空を席巻』という見出しと、その下の大きな写真に目を奪われた。そこには、美しいユニコーンのマークをあしらった愛機の前に立つ、白い制服姿のスカーレットが写っていた。サングラスの彼女は、あの日と同じ顔で笑っていた。


                 <続く>


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