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紅燃ゆ  作者: 黒木和久
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第一話 被撃墜王の着任

見渡す限りの青空。眼下に広がる農村風景。発動機は快調。機体各部に異常なし。鏑木天音(かぶらき あまね)は、申しぶんのない空の旅を満喫していた。これまで所属していた九州の航空隊から、伊勢に作られた新戦隊への転属を命じられ、その移動の途上である。


 これから赴く先は少し特殊な部隊であり、陸軍の全戦闘機乗りの憧れの的だ。その名は陸軍航空戦術教導隊、通称「教導」。名前からは教育隊のようだが、実際には、戦況の逼迫から教育隊の教官も順次実戦に投入すべく立案された実戦部隊で、全員が十機以上撃墜という経験豊富な元教官と優秀な若年士官で構成された、四個小隊からなる精鋭戦隊である。一番隊「(イナヅマ)」、二番隊「(ツルギ)」、三番隊「(トドロキ)」、そして四番隊「(クレナイ)」。このうち紅隊は、女性士官で編成された部隊であった。まだまだ男性中心の陸軍にあって、情報部と並んで女性が最も対等に、華々しい活躍を見せている航空隊。教導紅こそが、その最高峰と言ってよい。この栄えある部隊への異動を命じられたのが五日前。この五日間、彼女はこれまでの人生で最高の喜びに浸っていた。


 九州から船と列車を乗り継ぎ、丸三日かけて栃木にある整備本部に到着、新しい愛機の受領手続きを済ませて近くの旅館に一泊したのち、今朝早くに実機を受け取って、整備兵たちの見送りの中、教導隊基地へ向け意気揚々と飛び立ったのであった。今度の機体は、最新鋭の四式戦闘機。本来なら、新たな機種への転換時には短期間の訓練があるのだが、これまで乗っていた一式三型と同一メーカーであり、操作系にも大きな差はないことから、引き渡し時に受けたのは一時間ほどの簡単な説明のみだった。それだけ状況が悪化しているということだろうが、いい加減なものである。もっとも、面倒なことがきらいな天音にとっては、むしろ好都合だった。


 実は、彼女はこれまでに四度撃墜されている。南洋の航空隊に所属していたときに三回、そして部隊ごと九州に移動したあと一回。生還率の高い欧米諸国に比べ、一度の被撃墜がそのまま死につながることの多い日本軍において、事故を含まない純粋な戦闘時の被撃墜から四度も生還したのは、かなり珍しい例である。そのため、彼女には「南海の被撃墜王」という不名誉な通り名がついていた。最後の一回はほんの半月前のことで、沖縄方面への出撃の途上で敵編隊と遭遇し、乱戦の中で敵三機を撃墜したものの自らも被弾、またまた愛機を海の藻屑にしてしまい、本人は鮫に襲われることもなく無事駆逐艦に回収され基地に帰還したのであった。帰隊から一週間ほどは、新たな乗機の補充もなく基地でぶらぶらしていたところ、新しい機体の受領と別部隊への異動を命じられた次第である。基地司令にすれば、良い厄介払いだったかも知れない。


 しかし、天音はこれを気に病むどころか、自らの能力と強運のたまものと喜んでいた。油断せず慢心せず、常にあらゆる可能性を想定し、正しく反応すること。そして、どんな状況に陥っても決してあきらめないこと。それが、自分を死から一番遠い場所に置いてくれるものと心得ていた。これは、幼い頃から山深く厳しい生活の中で身に付けた習性でもあった。穏やかな顔をしていた自然が、それに甘えていると突如豹変して牙を剥く。ぼんやりしていれば長くは生きられないことを、幾人かの友だちが身をもって教えてくれた。その上でなお、いくら注意していても避けられない厄災は訪れる。そんなとき何度も彼女を救ってくれたのが、天の神様だか祖先の霊だか知らないが、持って生まれた運の強さだった。


 今回の辞令も、そうした自分の能力と強運が認められた結果と思えば、自ずと喜びも倍加するというものである。彼女には、用心深さの一面で、気持ちが高揚しやすいという特性もあった。これは、戦意や行動力を高める要素として、天音の生存率と戦果の向上に寄与してきた一方で、調子に乗ると突っ走りやすいという欠点にもつながっていた。結局のところ、四度の被撃墜も、よく考えるとそれが原因である。この日も、少しそうした気持ちの浮つきがあったかも知れない。


             ◇   ◇   ◇


 十時を過ぎ、機体と一緒に受け取った握り飯を食べ終わって、目的地まであと小一時間ほど。ふと、右前方に何か光ったような気がした。目を凝らして確認する。戦闘機乗りの視力はおおむね常人の比ではないが、中でも天音の目は群を抜いていた。間違いない。飛行機だ。けし粒ほどだが、戦闘機らしきもの二機。銀色に輝く機体は、おそらく味方のものではない。敗色濃い当節、こちらの機体には新造時から地味な迷彩塗装が施されている。いや、民間機なら分からないか。無線で基地に問い合わせるか。しかし近頃こちらの無線はすべて傍受されているらしい。となれば、自分からここに居ると知らせるようなものだ。見つからないようやり過ごすべきか。


 いやな胸騒ぎがした。どうやら相手も同じ方向に向かっているようだが、もしかして狙いは教導隊基地ではないか。基地はやつらの存在に気付いているのだろうか。大型の爆撃機であれば、ほぼ確実にレーダーが捕捉してくれるが、少数の戦闘機のみの編隊に低高度で侵入されると、発見できない場合が少なくない。内陸とはいえ、すでに制空権は互角の状況であり、こうしたゲリラ的な攻撃に、味方の航空機も地上施設も、たびたび手痛い損害を被っていた。もしもやつらの狙いが教導隊基地で、基地がそれに気付いていないとしたら、このままでは大変なことになる。知らせないわけにはいかない。そう決めると、天音は操縦桿を引き、上昇態勢に移りながら基地に無線で呼びかけた。


「教導隊基地応答せよ。こちら本日着任予定の鏑木少尉。基地より東北東およそ二百キロメートル、笹原上空にて所属不明機二機を発見。至急確認を請う。教導隊基地応答せよ」


 無線のせいかは分からないが、どうやら相手もこちらを発見したと見え、ゆっくり大きく旋回しながら高度を取り始めた。どうする。このまま基地まで逃げ切ることができるか、それとも一戦交えるしかないか。これまでの戦いと違って、ここは本土上空だという安心感、そして高性能な新しい機体。普段の彼女なら、二対一の不利な勝負は極力避けるところだが、今日はなぜか行けそうな気がした。四式戦の性能を試してみたい。赴任先へのよい手土産にもなる。そもそも、四度の被撃墜とひきかえに撃墜数は二十を超えてるんだから、私だって立派な撃墜王なんだし。


 いったん心が決まると、もう迷いはなかった。敵に向かって回り込むように大きく旋回しながらさらに高度を上げる。同時に、まだ返答のない基地へも、報告だけはしておく。


「教導隊基地、こちら鏑木少尉。所属不明機は敵機と判断、これより交戦に入る。繰り返す。これより交戦に入る」


やがて両者の描く弧がひとつの点で重なり、お互いが相手を真正面に捕えた。頭は冷えているのに体が熱っぽいような、妙な気持ちがする。喉が渇く。空戦の前はいつもそうだ。


 射程距離に入る直前、操縦桿を斜め手前に引きながらラダーを当てる。これによって、機体は目標を頂点とする円錐面に沿うように回転しながら接近する。通常、真正面からの撃ち合いでは、本当に突っ込むつもりで直進しなければ射線に乗らず、それは相手にも同じだけの射撃機会を与えることにつながる。勝つか負けるかは運次第になってしまう。しかし、この方法なら自機を正面から外しつつ、敵機を射線上に捕えることができるのだ。天音の得意とする機動で、これまでの戦闘ではたいてい初手でまず一機を血祭りに上げることに成功していた。そうすれば、あとは一対一の巴戦に持ち込める。必勝の予感に、思わず口元に笑みが浮かんだ。


 ところが、今回はいつもと勝手が違った。こちらが横回転を始めるのとほぼ同時に、相手もまったく同じ機動に入ったのだ。天音は目を見張った。これでは敵を射線に捕えることができない。射撃機会を得ぬまま両機はまたたく間に接近し、交差した。すれ違いざまに相手の機体を見る。側面に描かれた美しいユニコーンのマーキング。そしてずらりと並んだ撃墜マーク。天音の優れた動体視力が、そのすべてを鮮明に捕えた。こんなの初めて見た。こいつは厄介な相手かも。彼女の直感がそう告げていた。


 後続する敵の二番機が撃ってきたが、当たる角度ではない。天音はすぐさま旋回機動に移る。次はどちらが相手の後ろを取るかだ。ここからの数分間で運命が決まる。天音は落ち着いていた。この高度での旋回戦で、日本機の右に出る敵機は存在しない。スロットルを少し戻し、操縦桿を強く引き続ける。空気が固い層をなして機体を押し返してくる。外板が音を立てて震え、空中線がうなりを上げる。


 だが、天音にとって予想外の展開が待っていた。旋回性能はこちらが勝るはずなのに、いくら旋回を繰り返しても後ろを取れないのだ。これは、相手の操縦技術がかなり高いことを意味する。実際の空戦でものを言うのは、単なる機体性能ではない。常にその限界まで性能を引き出し続ける、操縦者の能力なのだ。おまけに、全力であと少しのところまで詰め寄ると、もう一機が邪魔をしてくる。天音は、一式戦の倍近い馬力を誇る新鋭機を生かし切れていない自分に、少し焦りを感じ始めていた。


 そんな彼女に、さらに不幸な事態が襲いかかった。雲間から、新たに二機の敵が現れたのだ。四機小隊だったのか。戦闘の最小単位は二機の分隊だが、作戦の最小単位は複数の分隊で構成される小隊だ。二機だけでここまで乗り込んでくるはずはない。たぶん、何らかの目的で少し離れた位置を飛んでいたのだろう。それが、仲間の会敵に呼応して支援に駆けつけたわけだ。そんな基本的なことも見落としていたなんて。天音は唇を噛んだ。


 ひねり込み、上昇反転からの逆落としなど、格闘戦において天音が得意とする機動はいくつかあった。しかし、どれも相手をやり過ごしたあと攻撃に移るまでの間に隙が生じる。一対一なら問題ないが、今はどの瞬間にも隙を見せれば残りの三機が撃ってくる。強敵と後ろを取り合いながら、常に周囲にも全神経を張り巡らせ、一瞬の隙も作らないようにしなければならない。恐ろしい緊張感が天音の全身を締め上げた。


             ◇   ◇   ◇


 完全に囲まれ、四方八方から突きを入れられる状況の中で、次第に不利な体勢が続くようになり、ついに天音は後ろを取られてしまった。すぐには撃ってこない。こちらの動きを見ているのだ。天音は持てる限りの操縦技術を駆使して機体を上下左右に振り回すが、相手はピタリと食いついて離れない。やはり相当に戦い慣れた強者(つわもの)だ。ああ、敵にもこんなやつがいたんだ。絶体絶命の状況なのに、心のどこかで感動している自分がいた。だがそれも、こちらの機動を見切った相手が射撃を開始するまでの、ほんのわずかな時間だった。


 十二・七ミリの乾いた発射音。一連、二連。曳光弾の光が、機体の左右すれすれをかすめていく。手強い。こちらの進路を完全に読んでいる。それでも天音はあきらめず、ギリギリの回避運動を続けた。そのとき、視界のすみを別の敵機が横切った。そうだ、いちかばちかの右急旋回でこいつを追尾しようか。一機でも手負いにできれば、ずいぶん余裕ができるはず。形勢逆転は無理でも、離脱のチャンスを掴めるかも知れない。しかし、そのためには後ろの敵に絶好の機会を与えることになってしまう。この強敵が、それを見逃すとは思えない。どうする。


 その一瞬の迷いがミスを呼んだ。しまった、切り返しがわずかに甘い。その途端にカンカン!という嫌な音と衝撃。やられた。左を振り返ると、敵弾が主翼を貫通している。燃料が白い霧になって吹き出すが、防漏タンクの効果ですぐに止まった。せっかく受領したばかりの機体なのにもったいない、頭のどこかで他人事のような冷めた声がしているが、その間もラダーペダルと操縦桿の絶妙な連携で左右に不規則な旋回を繰り返す。相手の技量がこちらを上回っていることは、もはや確実だ。どうする。あと数回の攻撃で、おそらくまた命中弾を食らうだろう。次第に高度が低下し、茫漠とした草地の景色が迫ってくる。何かないか。反転しながら地表の様子をうかがう。あきらめるな、必ずどこかに活路があるはず。


 と、そのとき後方で何かが起きた。パラパラと少し間遠い射撃音、虚を突かれて焦るエンジンのうなり声と急旋回の音。振り返ると、追尾していた敵機が左右に分かれ、一機はうすく煙を吐いている。その後上方から突っ込んでくるふたつの機影。援軍か! 天音もすぐに操縦桿を引き、逆に敵を追尾すべく旋回する。その横を追い抜いていく二機の一式戦。尾翼には鮮やかな「紅」の文字。急降下から一撃のあと、過行することなく速度を維持して追撃に入っている。惚れ惚れするような美しい機動だ。


 意外なことに、まだ数では優勢なはずの敵が、態勢の立て直しを図ろうとせず、そのまま離脱を開始した。味方の一機が、遅れた敵の背後に迫ろうとしたが、ユニコーンの機体がすかさずその後上方に占位する。それを察した味方機は、すばやく敵機から離れた。


「深追いはするな」


無線機からノイズ混じりの声が聞こえた。二機の一式戦が、天音の周囲に集まってきた。もう敵機の姿ははるか彼方だ。初めての強敵は、引き際も実に見事だった。さすがだ、と天音は思った。緊張から解き放たれ、気が遠くなりかけたところに、また無線機から声がした。


「鏑木少尉、無事か? 返事をせよ」


無線で歪んではいるが、それは内容とは裏腹に、なんとなく場違いな、とても柔らかな声だった。ああ、天女か観音様が助けに来てくださったのかな。そんなことをぼんやり考えながら、天音は答えた。


「はい、大丈夫です」


自分の声は、なぜかとても遠くで聞こえた。


「基地まで先導する。二番機の位置につけ」


「了解」


そう答えたあと、ひとつ長く息を吐く。目の前を、いつものように一式戦が飛んでいる。いつもと同じ、見慣れた景色。なんだか、栃木の飛行場を飛び立ったのが、ずいぶん昔のような気がする。たった数時間なのに、とても長い旅をしてきたみたいだ。そして、また私はいつもの空に戻ってきた。やがて前方に見えてきた滑走路に、天音はようやく生き延びたことを実感した。


             ◇   ◇   ◇


 最初に着陸させてもらったのに、以後の誘導を後回しにされ、整備兵の待つ格納庫前に着いたのは最後だった。先に運ばれた二機の一式戦が整備を受けている。操縦者はもう立ち去ったあとのようだ。機から降りた天音は、到着の報告に行こうと近くの兵卒に司令室の場所をたずねたが、ここは四隊の独立性が高く、そういうことは隊長室でやるんですと教えられた。よく分からないが、そう言うんならそうなんだろう。それで、その隊長室はどこなのか。結局、整備兵のひとりが紅の隊舎まで案内してくれることになった。


 バラック同然だったこれまでの隊舎に比べて、さすが都会地と言うべきか、赤い片流れ屋根と白い壁の瀟洒な建物は、天音の目にはまるで別世界のように映った。通された隊長室の中では、二人の士官が待っていた。正面の机の向こうが隊長、横に立っている長い黒髪の美形がおそらく副隊長か。飛行服を着ているところを見ると、この二人が先ほど救援に来てくれたのだろう。あんな長髪、ここでは許されるんだろうか、そんな余計な考えを払いのけるように、天音は柔和な顔立ちの隊長に姿勢を正して敬礼し、型通りの報告をする。


「鏑木天音少尉であります。教導紅隊への転属を拝命し、本日本時刻をもって着任いたしました」


続けて、深く頭を下げる。


「先ほどは助けて頂きありがとうございました」


その頭の上から、美しい、しかし少し意地の悪そうな声が降ってきた。


「ごめんなさいね。せっかくの記録を伸ばすお邪魔をしてしまったのではないかしら」


なるほど、やはりそういう噂はちゃんと届いているか。気の利いた返しをしようと声の主の方へ顔を上げたが、先に隊長の穏やかな声が割って入った。


「高坂さん、ご冗談はそのへんにね」


軽くたしなめたあと、にっこりとこちらに向き直って


「隊長の奥沢真琴です。紅へようこそ。一緒にがんばっていきましょう」


これが、さっき目の当たりにした華麗な戦技の持ち主なのか。その深い色の瞳に見つめられ、どこか懐かしい、心に染みるような声を聞いた瞬間、なんだか良く分からない熱いものが、天音の体を脳天まで突き抜けた。やってやる。ここで。この人と。


「はい!よろしくお願いします!」


彼女は、高揚しやすい気質なのである。


                   <続く>

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