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「クリス、様?」
カトリーナはひどく落ち込んだような顔で部屋に入ってきたクリストファーを見上げて、ぱちぱちと目を瞬いた。
「ごめん、カトリーナ」
クリストファーは後ろ手で扉を閉ざすと、カトリーナに向かって深く頭を下げる。
カトリーナは驚いて、慌ててベッドから立ち上がると、クリストファーに椅子をすすめた。
「クリス様がどうしてこちらに?」
クリストファーは決まり悪げに視線を彷徨わせたのち、覚悟を決めたように口を開いた。
「僕はここに住んでいるんだ」
「そうなんですか―――え? ここはクリス様のお家なんですか?」
「いや、そうじゃなくて……、わけあって住まわせてもらっているというか」
「それでは……、わたしをこうして連れてこられたのは、クリス様?」
「それは違う!」
カトリーナが不安そうに訊ねると、クリストファーは叫ぶように答えて、ハッと口を押えた。
「すまない、急に大声を出したりして……。ただ信じてほしい。僕じゃない。君が無理やり連れてこられたのを知って、急いできたんだ」
クリストファーが、小さなテーブルの上におかれているカトリーナのほっそりとした手を握りしめる。
クリストファーは真剣な表情を浮かべると、ちらりと扉に視線を投げたあとで、小声で言った。
「カトリーナ……、僕と一緒に逃げてくれないか」
「え? ええ、それは、わたしも逃げられるものなら逃げたいですが」
「そうじゃない」
クリストファーはゆっくりと頭を振ると、握りしめていたカトリーナの手を持ち上げて、両手で包み込み、祈るように額をつけた。
「僕と一緒に国外へ―――、遠くへ逃げてくれないか?」
カトリーナは思わず息を止めた。
クリストファーに告げられたことを反芻し、噛み砕いて、ようやく何を言われたのかを理解する。
(どうして、急に……)
何か理由があるのだろう。しかし、カトリーナには唐突すぎて、何が何だかわからない。
カトリーナは返事をするかわりに、握られていない方の手をそっとクリスの頬に伸ばした。
「どうして、遠くへ行こうと思うんですの?」
クリストファーはカトリーナに頬を撫でられながら、自嘲を浮かべる。
「僕はこの国にいるべきではないんだよ」
「だから―――?」
「ああ」
クリストファーは頷いて、カトリーナの紫色の瞳をまっすぐに見つめた。
「君が好きなんだ、カトリーナ。だから、一緒に逃げてほしい」
カトリーナの心臓が、ドクンと大きな音を立てた。
※ ※ ※
カトリーナはベッドに仰向けに横になり、天井の蔦模様を目で追っていた。
(どうして―――、頷けなかったのかしら?)
クリストファーに逃げてほしいと言われたあと、カトリーナは「考えさせてください」としか言えなかった。
大好きなクリストファーから、夢にまで見た「愛の逃避行」のお誘いを受けたというのに、心臓が激しくバタつくだけで、全然ときめかなかった。
むしろ背中に冷や汗まで伝って、頭の中が真っ白になってしまった。
カトリーナは顔を横むけて、枕元に転がしている黄色の毛糸を手に取る。脳裏に思い描くのは、太陽のように快活に笑うレオンハルトの顔だった。
(変なの……、レオンの顔ばかり浮かんでくるわ)
無性にレオンハルトに会いたかった。会って、クリストファーに一緒に逃げてほしいと言われたことを相談して、どうすればいいのか助言がほしかった。
(レオンは、止めてくれるかしら……)
カトリーナはおそらく、自分はクリストファーと国外へ逃亡することを望んでいないのだと思う。しかし、大好きな彼に誘われて、拒絶できない自分もいた。
「こんな時に好きだって言うのは……、卑怯だと思うの」
クリストファーのことは大好きだ。ずっと告白してほしかった。でも、何かが違う。
(告白されたら―――、感動して泣いてしまうのかと思っていたのに……)
実際は―――困っている。
どうしていいのかわからない。
わたしも好きです―――そう言って、クリストファーの胸に飛び込むところを想像してきたけれど、できなかった。
「レオン……」
声に出すと、レオンハルトが恋しくなった。
どうしてなのかはわからない。けれど。
レオンハルトに、会いたい―――。




