それぞれの道
遠距離恋愛中の彼女から「どうしても会いたい」というメールが入った。普段そんなことは言わないのに何事だろう――男は急いで電車を三本乗り継ぎ彼女のいるN町までやって来た。
大通りをまっすぐ歩き脇の小道を進んでいくと彼女との待ち合わせ場所である橋に差し掛かる。そう言えば彼女との交際をスタートさせたのも橋の上だった、と男は思い出した。
あの時彼女は母親を失い、ひどく落ち込んでいた。泣きながら母親との思い出を語る彼女を見て絶対に守ってやりたいと交際を申し込んだのだ。有り得ないタイミングだったが、何も言わず首を縦に振った彼女は何か救いが欲しかったのかも知れない、と今は思う。
やがて辿り着いた橋の向こうには高い山々、そのふもとに街の灯りが見える。遠くは見えるのに橋の先の道は見えない。そう言えばあの時も橋のその先はよく見えなかった、とまた思い出す。
目を細めて向こう岸を見ると、橋の対岸に立っている彼女がいることに気づいた。彼女もこちらに気づいたのか、小さく手招きをしている。こちら側に来れば良いのに、と疑問に思いながら男は橋を渡る。
気づけば他にも何組かの人たちが橋を渡っていたり待ち合わせをしたりしている。彼女のように向こう岸でずっと待っている人もいた。短いのによく賑わっている橋だ、と何となく思った。
「お待たせ」
対岸まで辿り着き声をかける。彼女はどこか物悲しそうにして、首を横に振った。
「どうしたの、今日は突然呼び出して」
何の気なしに尋ねると、彼女は目を伏せた。
「わたしたち、別れた方が良いと思って」
あまりにも突然だった。昨日も電話だが楽しい会話をしたばかりだった。遠距離ながらも上手くやっていたつもりだった。
「どうして。一体何がいけなかったの」
「いけなくない」
「ならなんで別れるなんて言うの」
「良いからお願い」
「急に言われても、困る」
「良いでしょ別に」
彼女は身を震わせ、両手で顔を覆った。
「例え僕のせいだって良い。ただ、どうしても訳を知りたいんだ」
本心をそのまま伝えるも、彼女は泣き出してしまってしばらく止まなかった。
「ごめんね、嫌な思いをさせて」
「ううん、悪いのはわたしだもの」
彼女は途切れ途切れの声でそう言った。やがて顔を上げ、真っ赤な目でこちらを見る。
「実は、お父さんの仕事がなくなっちゃって、わたしも働いてるんだけどとても生活が回らないの。そんな状況で交際なんて出来ない」
彼女はゆっくりと、まるで懺悔でもするかのように話した。肩を震わせているが、声はそれ以上に震えていた。
「今まで楽しかった。せめてお別れはこの場所で言いたかったの。じゃあね」
ぶっきらぼうにそれだけを言って彼女は橋の向こうへ行こうとする。
その時、彼女の足がなぜか薄くなるのが見えた。嫌な予感がしてすぐにその腕を掴み、彼女の足を止めた。
「離して」
「いやだ」
胸騒ぎがした。行かせてしまったら終わってしまう気がしたのだ。ここは、彼女を引き留める最高の土産話を出すしかない。
「聞いてよ。実は、就職が決まったんだ。大企業さ。絶対に生活に不自由はさせない」
彼女は伏せていた顔を上げた。きょとんとした顔でこちらを見ている。
「それって、どういう意味……?」
涙声の彼女を見て、ああしまった、前と同じ、こっちの気持ちばかりを一方的に伝えてしまっていると心の中で反省した。でも、言わなければならない。これが偽りのない本心だから。
「だから一緒に暮らそう。橋を渡って僕のところへ行こう」
彼女の想いに自分の想いをぶつける。何が何でも橋の向こうに行かせたくないと思った。
「……また、助けてくれるんだ」
ぐしゃぐしゃの顔で、彼女は少しだけ笑った。それから「ありがとう」と、それだけ言って彼女は力を抜いた。そのまま彼女の手を強く握り、来た道を引き返す。良かった。心からそう思った。
ふと辺りを見回すと、先ほどいた何組かのグループは眼下の川を眺めたり橋にもたれ掛かったりしながら話をしていた。彼らは話が終わったというように、それぞれ違うタイミングで橋の向こう側へと歩いて行き、消えた。後には霧のようなもやが掛かり、やがて初めから誰もいなかったかのように白で遮られる。「振り返っちゃ、だめ」不意に彼女が呟いた。