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一夜判官  作者: 山中 洸
1/7

其の壱

「おりん、お前、本当にこんな所で生まれたのか?」

 トオルの差し出したペットボトルの水を一口飲んでから、首をがくりと折るようにして「ウマ」が言った。

 背の低い木が伸ばした枝が頭の上を覆っている。

 まだ浅い春の軽くて明るい緑も折り重なると暗く、トンネルのようだ。

 クマザサがはるか谷底まで続いていて、少しの風も見逃さない。

 所々にガードレールが設置されているのだが、そのガードレールにやけに新しい部分があると、妙に不安になったりもする。

 小型の自動車一台がようやく通れるほどの幅の道で、その車も車高のあるジープに限られるほどに起伏に富んでいる。

 山道を歩き始めてすでに一時間は経っている。

 途中からウマは、石でも倒木でも座れそうな場所を見つけるとそのつどへたり込むようにして、「おりん」に文句を言われている。

 おりんは高校生で柔道の全日本選手権を制し注目を集めたが、卒業と同時に旅芝居の一座に入ってしまった変わり種だ。

「何をしているんですか、だらしない。私は毎日学校まで通っていたんですよ」

 まだ汗をかく季節ではなかったが、おりんの白い顔がうっすらと上気している。よく発達した二の腕を手の平で叩くような素振りをしながら、不満げに唇を突き出してみせた。

 トオルもそれはすごいことだと思う。

 おりんが五輪の強化選手に選ばれるようになる素地は、この急な坂道を毎日登り下りすることで育まれたものに違いない。

 幼い頃に船を漕いでいた大投手、港の荷揚げを手伝っていた大横綱、それに近いものがあると本気で考えていた。

「もうすぐですよ」

 田舎では道が続いている限り「すぐ」なのだ。

「おりん、もうすぐって、何回言った?」

 ウマの語気には怒りさえ感じられる。おりんに怒っているのではない。自分自身の不甲斐無さに腹を立てているのだ。

 口にこそ出さなかったもののトオルもその点は同じだった。

 日頃から元気が服を着たようなおりんだが、故郷が近づくにつれて、ますます活きが良くなってきている。

 ウマを無視して、坂道を早足のペンギンのような動きで一気に駆け上がると、ゆっくりと前方を指差した。トオルとウマがその場所までようやくたどりついた。

 急な斜面に幅の広い石垣が接着剤で張り付けたようになっている。

 その上に家々の屋根が見えるが、戸数はさほど多くはないようだ。

 日本的な風景ではない。もし日本だとしてもはるか昔の歴史映画の一シーンを観ているようだ。

 美しく荘厳な佇まいを見せているが、同時に目的の場所までまだ十分に距離があることもわかる。

 ウマは、また道端の草むらに倒れ込むようにした。

 三時間前には浜松の駅に着いていた。そこから先のバスが日に三本しかないという。うなぎパイの試食だけで潰せる時間ではない。

 ようやく来たバスに乗り込んだものの、畑の真ん中のバス停で降ろされた。ここからは徒歩で行くのだという。

「山の中だからバスが行けないんです。大丈夫すぐですから」

 それが、おりんの最初の「すぐ」だった。

 おりんが旅芝居の鶴田亀之助一座に入って一年が経とうとしていた。

 かつて、まだトオルの父親の先代・橘雪之丞が座長をしていた頃は、少ない人数ながら年に一回、おりんの村で小さな芝居をしていたが、雪之丞が死んでからはそれも途絶えていて、家出同然に転がり込んで来たおりんの両親に誰もまだ会ったことがなかった。

 いずれ正式に挨拶をすることが必要だと考えていた座長の亀之助が、村への訪問を言い出したのは先月のことで、日を決めていたが数日前から体調を崩して寝込んでいる。サバ鮨での食あたりが原因だった。

 急遽代理が立てられた。それがウマだった。

 座長の名代と言えば聞こえは良いが、一座で一番暇な人間が選ばれただけで、心もとないからと東京の大学に通っているトオルが付き合わされることになって、東京駅で待ち合わせをして列車に乗り込んだのだ。

「ここが白旗村です」

 村の入口の小さな道祖神に手を合わせてから、おりんが言った。

 長年の風雨で削られているが、男女一対が彫られていることがわかる。道の方を向かずに横を向いている。

「へそ曲がりな神様だな」

 ウマの精一杯の嫌味だ。

 遠目で見た時はわからなかったが、村の石垣は、城郭や寺社のように隙間無く組み上げられたものではなく、角張った石や丸い石など様々な形の石が積み上げられたものだった。

 石と石との間のわずかな土を見つけて草が生えている。小さな白い花火のよような花を付けているものある。

 石垣には、しゃれた軽音楽の旋律のような美しさがあり、何より長い時と風と雨に耐えて来た自負のような強さが感じられた。

 石垣は坂道を縁どるように続いている。

 反対側は急な斜面で、小さな畑が段々に作ってある。

 家も畑も狭い場所にしがみつくようにしてあって、坂を上りつめた一番高い場所に、おりんの家はあった。

 現代の建築材料を使っているが、歴史を感じさせる構えの家だ。

 広く長い縁側がある。

 軒先に水平に吊り下げられた竹には季節には柿や大根がぶら下がるのだろう。

 横開きの戸を開けると、一度大きく深く息を吸ってから、

「ただいまあ」

 と、学校から帰ってきた小学生のような調子でおりんが声にした。

「お帰りぃ、待ってたよ」

 奥からおりんを少し小さくしたような女が現れた。

「本当に、連絡もよこさないんだから。でも元気そうだね」

 言いながら来客用のスリッパを揃えている。トオルとウマは視界に入っているらしい。

 ひとしきり一人で懐かしがってから、

「ようこそ、いらっしゃいました」

 と、三つ指をついて挨拶した。聞くまでもなくおりんの母親だった。

「ご迷惑をかけてるでしょうねえ」

 光があふれる茶の間で座布団を勧めながら言う。

 トオルとウマが座ったのを確認してから、

「母でございます」

 と、改めて深々と座礼をした。

「営業部長の新井です。こちらは宣伝部の橘です」

 ウマが、座長が来られなくなった理由を説明してから自己紹介をした。

 この日のために散髪してくる律儀さはある。刈り上げられた短髪とよく陽に焼けた顔は精悍というよりある種の凄みを含んでいる。

 『営業部長』は、おりんの親に心配をさせないためにも、しっかりとした組織の方が良い。そのためには肩書が必要だろうと座長の亀之助がこの日のためだけに付けたものだ。

 もともと役職などはないから、どのように付けようが嘘ではなのだが、なにも聞かされていなかったトオルは『営業部長』の横顔を見詰めながら、口が半開きになっていた。

「お母さん、お父さんは?」

 おりんに言われて、母親はその存在を思い出したようだ。

「犬養さんの所よ。夜ごはんの材料をもらいに行ってるよ」

「なんだ、駄目だったんだ」

「そうなの、張り切って朝から行ったのにね」

「ふうん、そうなんだ」

「駄目って何が?」

 母子の会話の内容がわからないトオルが、おりんに聞いた。

「ワナを掛けておいたけど駄目だったようです。それで猟師の犬養のおじさん所に肉を分けてもらいに行っているんだそうです」

「肉?何の?」

「さあ、イノシシは禁猟だし、何かなあ」

「たぶん牛肉ですよ」

「えっ、ワナで牛を獲るんですか?」

「まさかあ、犬養さんは昨日町に行って来たから、たぶん、スーパーで買って来たと思います。昔ですよ、獲れた生き物の肉を食べていたのは。今は普通に買ってます。ねえ、すず」

「すずって誰?」

「私の名前です。鈴木鈴」

「知らなかったぁ」

「学校ではリンリンって呼ばれてました」

 おりんというのは一座での渾名だ。

 オリンピックの強化選手だったことから付けられたものだが、初めて本名を聞いて、偶然にしては出来過ぎだとトオルは妙な感心をしていた。

「ランランもいたか?」

 ウマが中年男の質問を投げかけた。

「いませんよ。お母さんは涼子。普通の名前です」

「お父さんは?」

「悦男」

「おっちょこちょいで困ってます」

「夫婦ともにね」

「何言ってるの、この子は、まったく」

 ばらばらの、どちらが何を言ったのかわからなくなるような母子の会話がしばらく続いた。

 早くに両親を亡くしたトオルの知らない、楽しげな家族の会話だ。

「おばあちゃんは?」

「奥で寝ているわよ。すずが帰って来たら起こせって言ってたわ」

「そ、じゃあ、私行ってくる」

 おりんが長い廊下を家の奥へと小走りに向かった。

「こら、家の中を走っちゃだめでしょ。壊れるわ。本当にあの通りです。ご迷惑ばかりかけてるんでしようね」

「はい、もう……、痛ッ」

 言いかけたウマの尻をトオルがボールペンの先で突いた。

 おりんが老女と一緒に奥から戻って来た。

 老女は三つ指をついて深々と頭を下げた。

 少し腰は曲がっているようだが、しっかりとした口調で、

「祖母でございます。すずの素質を心配ばかりしております」

 と、核心を鋭く突く言葉をさり気なく挨拶に滑り込ませた。

「慣れない山道でお疲れでしょう。少し休んでください」

 母親の涼子が、トオルとウマを奥の座敷に案内した。

 長押なげしに先祖代々の顔写真が飾られている。古いものは似顔絵だ。仏間ではないから客を迎えるための部屋であるらしい。

 ウマは写真に小さく一礼した。ウマもまた古い人間だ。

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