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別れのピアノ

作者: 雨音多一

      一


 少しずつ夕闇が迫ってきた。その時間は夏を経て、成熟した果実のように、甘くせつない香りを漂わせる。人生の秋を迎えるには少し早い青年が、紅葉のはじまった山道を歩いている。


「どうも、こんばんは」 ひなびた旅館「秋島」に戻る道すがら、僕は初老の男性と言葉を交わした。僕は米山尚次、デザイナーである。十一月の休みに、妻とふたりで旅に出たのだ。

 一泊の旅は、上山温泉に決めた。夕食が楽しみである。妻の未来みくは二度目の露天風呂につかっている。僕は湯上りの肌を涼ませに旅館の裏の山道に来たのだった。

「秋島旅館にお泊りの方ですか」「ええ」

「紅葉の季節が、一番いいですなぁ。この山道が美術館になる」

「全く」

 僕は、初老の男性と連れだって旅館へと戻りはじめた。

「この山の頂きに、『幸福の鐘』があるそうですよ。もう行きましたか?」

「いえ、まだです」僕は頭を振った。

「鐘を鳴らした者が、幸福になれるそうですな」

「そうなんですか」

「私もその恩恵を受けて参りました」


 僕らはそんな会話を交わしているうちに、旅館のラウンジへと到着した。旅館は、昭和初期の趣きを残した古風なつくりで、所々洋風のテイストを取り入れていた。

「では、これにて」初老の男性はそう言い残して、自室へと帰っていった。

 夕食はなかなか豪勢だった。未来と共に食事を済ませた僕は、ラウンジ近くの土産物屋へと向かった。


「さて、どれにするかな」

 僕があれこれ品定めしていると、先ほどの老人が入ってきた。

「やあ、また会いましたな」

「お土産ですか?」

「そうなんです。孫娘が遊びに来るもので」

「それは楽しみですね」

「来春、東京の大学を卒業して、実家へ戻ってくるんです」老人はそう言うと、面相をくずした。

「僕たち夫婦の間には、子どもがまだなんです。きっと孫は可愛いのでしょうね」

「それは、もう」

「子どもが出来たら、仕事どころではなくなってしまうのかと、少し心配しているのです」

 僕はそういうと苦笑いをした。

「失礼ですが、どんなお仕事を?」

「グラフィック・デザイナーを。妻はイラストを描いています」

「そうでしたか」

 老人が思いつめたように、僕の顔をうかがった。

「実は、……その」

 老人は口ごもりながら言葉を続ける。

「孫の、卒業記念コンサートの、印刷物を作っては、いただけないでしょうか」

「印刷物? まあ、そちらに掛けてお話ししましょう」

 僕はそう言うと、ラウンジの木の椅子を指さした。

「ありがとう」

「コーヒーでいいですか?」

 僕はボーイを呼ぶと、コーヒーを二つ頼んだ。

「どんな印刷物なんですか?」

「コンサートの演目、曲目リストです」

「コンサート?」

「はい。孫娘は音大でピアノをしていて、その卒業コンサートを、来春にするのですよ」

「そういう事ですか」

 僕は財布の中から、少し折れた名刺を一枚取り出して、老人に渡した。

「改めまして。デザイナーの米山尚次です」

「玉川と申します。玉川直人」

「どうかよろしく」

「こちらこそ」

「卒業コンサートは記念になりそうですね」

「はい。もう、これでピアノを辞めるんだと言っておりました」

「それは、もったいない」

「どうしてもピアノだけでは生活できないんだとか。別れのピアノにしたいんだ、と」

 僕は俯く玉川さんを見ていた。


      二


 玉川さんから、ピアノコンサートの原稿が届いたのは、年の瀬のことだった。


「拝啓 米山様。山形市は雪の便りも少しずつ届いて参りました。今日同封したのは、卒業コンサートの曲目リストです。これを格好良く仕上げて頂けますか。もう一つは、孫娘の写真です。これをデッサンのような絵で描いて貰えますでしょうか。宜しくお願いします。敬具」


「未来、ちょっと来てくれる?」

 僕は妻を呼ぶと、写真を手渡した。

「この写真から、デッサンタッチのイラストをおこして欲しいんだ」

「あら、素敵な写真ね」

「大丈夫?」

「勿論」

 未来は頷くと、左手に持っていた葉書を見せた。

「今度、ギャラリーで展示があるの。行ってみない?」

「どれどれ」

 展示は日用品の焼き物である。「小山焼」という窯で焼かれたもので、陶工の名は、林泉といった。

「割といいね。これ幾ら位するのかな」

「ホームページにでてるかしら」

「まあ、現物を見てのお楽しみだね」

「それもそうね」


 僕らは年末に迫った陶芸家の個展を、見に行くことを決めた。 次の日曜日のことだった。僕ら夫婦は、行きつけの『ギャラリー瞳』に行くことになった。

「こんにちは」

「ああ、どうも。遂に降りましたね」

「ホワイトクリスマスだね」

「全く」

 ギャラリーのオーナーの江戸川明さんは、雪の粉を上着からはたく僕らを温かく迎え入れてくれた。

「今日を楽しみにしておりましたの」

 江戸川ひさきちゃんだ。僕は、時々ひさきちゃんの若いエネルギーに気おされる時すらある。

「こんにちは。ひさきちゃん」未来が声を掛けた。

「未来さん、もう雪まみれね」

 僕が笑うと、笑いごとじゃないわよ、と未来が少しむくれた。

「年賀状は、もう書きましたか」

 ひさきちゃんが僕に尋ねた。

「昨日、ようやく書き上げたよ」

「私のイラストを使ったの」と未来。

「私、全部手で書いたんです」

 ひさきちゃんが柔らかに告げた。

「凄いね。僕は全部パソコンだよ」

「素敵だわ」未来が頷いた。

 江戸川明さんがゆっくりと口を開いた。

「手がきなんて、大変なだけだ、と何度言ってもきかないのです」

 ひさきちゃんが苦笑いをする。

「いいの、お爺様。枚数も少ないし」


 そんな会話を交わしながら、僕らはギャラリーの奥へと入っていった。


「これが今日の展示のメインか」

 僕ら夫婦を出迎えたのは、大皿の焼き物だった。

「いい景色ね」

 未来が大皿に見とれながら呟いた。

「結構値が張るな」

「そうね」


 僕らは三十分程かけて、展示を満喫した。その後、江戸川さん達とテーブルを囲んで、コーヒーを楽しんだ。

「それじゃ、また」

「有難うございました」

 未来は、陶製のスプーンを二本買った。僕らはほくほくして、暖かいギャラリーを後にした。


「雪ね」

 未来が空を見上げた。

「この雪が雨になる頃に、玉川さんのお孫さんは、ピアノを卒業するんだな」

「少し淋しいわね」

「うん」

 僕らは積もりはじめた雪を、踏みしめながら歩き出した。


      三


 人生に迷いや間違いがあるように、デザインにも迷いや間違いはある。それを正すのが「校正」という作業だ。自分で見ただけでは分からないかった誤字脱字や、日付の間違い。それを別の人がチェックすることで間違いを減らすのだ。


 玉川さんからのデザインの依頼も、校正の段階を迎えていた。僕は初校と呼ばれる最初の校正用紙を封書で送った。メールで済ます場合もあるが、モニタ画面によって見える色が異なる場合も多いので、僕はよく校正用紙を郵送している。

 その玉川さんからの返事が来たのは、一月中旬のことだった。


「デザイン、どうなったの?」

 未来が封筒を見ながら尋ねた。

「うん、こんな感じかな」

 僕は玉川さんからの封筒を開いて見せた。

「ふぅん、なかなかね」と未来。

「でしょ」と僕。


 未来がこのデザインを見るのは初めてである。別案のデザインの時に、文章の校正を未来に頼んだから、それは見ていたのだ。


「拝啓 米山様

 この度は、素晴らしいデザインを作って頂き、ありがとうございました。孫娘もいたく気に入った様子でした。大筋はこのデザインでお願いします。

 それから当日のチケットを二枚同封しました。宜しければ、奥様と二人で当日おいで下さい。それでは、また。敬具」「やったな、未来。チケットだって」

「コンサートなんて何年ぶりかしら」

「クラシックやピアノのコンサートは初めてだな」

「楽しみね」


 僕らは微笑みを交わすと、手のひらの小さなチケットを見つめた。


      四


 今年の雪は例年より少ないためか、雪融けも早かった。三月下旬の雪はほとんど無くなり、春らしい天気が続いていた。

 僕ら夫婦は、コンサート会場に入っていった。会場は玉川さんの地元の山形市で、比較的大きな文化ホールだった。


「見て、あの印刷物」

 未来が会場の一角を指さした。

 そこには、僕らの創ったパンフレットが重ねられていた。入口で貰っただけでなく、こんなところにも置いてあるなんて。


 開演するまでの間、会場の人々が僕らの創ったパンフレットを、おもいおもいに眺めている。その光景に、僕は胸が熱くなった。こみ上げてくるものを感じながら、僕は涙をこらえていた。隣で未来が心配そうに僕を見ている。

「もうすぐ、始まるわよ」

「ああ」


 開演のアナウンスが響いた。しばらくして演奏がはじまった。

 圧巻のピアノだった。前の席のためか、音が腹に響いた。テクニック云々よりも、ピアノの感情表現の力が全身を揺さぶった。音は耳で聴くのではなく、全身で聴くものだという事が初めて分かった。


 演奏は三十五分ほど続いた。玉川さんの孫娘が、最後に立ち上がって挨拶をした。


「今日まで、私は十数年間ピアノを続けてまいりました。でもこれでピアノとはお別れです。今で応援してくれた皆さん、本当にありがとうございました」


 幕が下りた。

「あなた、控室にいってみない?」

 未来が誘いの言葉を掛けてくれた。

「そうだね」

 僕らは、控室にいる玉川さんの孫娘のもとへと向かった。


 控室に入ると、玉川さんが居て、僕らを迎えてくれた。控室には、親子連れがいて、玉川の孫娘と話をしていた。


「あの、娘のピアノの先生になってくれないでしょうか」

「でも、私はもう……」

「あなたのような人に、先生になって貰いたいんです」

「ピアノを辞めないで……」未来が思わず口を挟んだ。

「私に出来るかしら……」

「大丈夫、みんなで応援するよ」

 玉川さんの言葉は力強かった。


 ピアノの先生の依頼はその親子だけではなく、他に二組あったという。


 僕と未来は、家に帰り着くと、お紅茶を飲みながら話をした。

「本当の音とは何か」、「本当の美とは何か」……。答えは出なかった。

 ただ、リアルに感じるのは、「ピアノ曲は体を震わす音である」という点だけは一致した。


 後日玉川さんの孫娘さんから、お礼状が届いた。結局、土日の休みを利用して、ピアノの先生になったそうである。「ピアノを辞めなくて、本当に良かった」という言葉が胸にしみた。そして「別れは、アマチュアの私との訣別だったのです」という一文に全てが込められていた。


 春はもうそこまで、やって来ていたのである。


(結)

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