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兄上の部屋に招かれ、酒を頂いた。先程の父上の話のせいで兄上はすっかりご機嫌斜めだ。当主になるべく沢山勉強をしてきて、しかし実態は王家ではなく弟の家臣と来たら、荒れる気持ちは理解出来る。兄上は優秀だし野心もお有りだ。受け入れ難いことだろう。眉間に皺をこれでもかと作りながら考え込んでいる兄上を視界に入れつつ、ぼんやりと空を見ていた。下限の月は今日も綺麗だ。しかし、瞬きの間に月が消えた。強く目を瞑って、もう一度開ける。それでもさっきまでそこにあった筈の月はもうなかった。
代わりに真っ黒な少女がソファに1人増えている。
「誰だ?」
「夜の娘です。ナハトのお兄様達、御機嫌よう。良い月ですね」
黒い肌に黒い巻き髪、瞳だけが金色の、容姿は美しい少女。しかし名乗り通り、人非ざる異質な雰囲気を醸し出していた。まるでそこだけ切って貼ったかのように空気に混じらず、混じらせず、存在している。
「御機嫌よう、夜の娘さん。確かに良い月夜だったが、態々空から一体何の用だい?」
全てが黒いせいで表情は判別し難かったが、微かに笑ったように見えた。
「ナハトのことで、納得しかねているようだったから、説得に」
兄上が嫌そうに微かに顔を歪めている。貴族だから表面上はそうとは見えない。一緒に育ち長い時間を共に過ごした私は些細な変化に気付けるが。夜の娘は分かるのだろうか。自然の者は、人間程度のことなど全て見通してしまえるのか? それとも、人間なんて矮小な存在といって気にもしないのか? 目の前の少女は変わらずうっすらと笑んでいるように見える。
「ナハトは首都には行かないわ。騎士団には入らない。私と共に暮らすの」
「君と共に?」
「ええ。私とナハトはいつも一緒。ずっと一緒にいるの」
「ナハトは領地に残り、家令になると言っている。家令の仕事は多い。君と共にいるのは難しいのでは?」
「何も難しいことはないわ。ナハトに家令の仕事は難しくない」
「何故か聞いても?」
「ナハトは既に自然を従えているわ。為すべきことは全て彼らが教えてくれる。行うべきことは全て彼らがしてくれる。人の世のことでナハトが出るべき事象など、ないわ」
兄上も私も、はっきりと眉を顰めた。父上はナハトは既に人から離れたと言った。後に自然になるとも。もう既にナハトな自然になっているのか? 自然になるとは何なのか? なったところで、どうだというのだ?
「君は、……君達は、ナハトに何をさせる気なんだ」
窓も戸も締め切っている筈なのに、風が吹いた。部屋がじんわりと暖かくなり、じわりと水滴が肌に張り付く。終いに部屋が一度大きく揺れた。同じ部屋にいるにも関わらず、揺れなどなかったかのように微動だにしなかった夜の娘が言う。
「ナハトはナハト。それだけよ」
それだけ残し、夜の娘は消えた。窓の外を見上げてみても、もう月は見えなかった。