Ⅳ.10月27日
「マリア!」
「お母様」
宮廷の一室、駆け寄って抱きしめてくる母の胸の中で、マリアは小さく応えた。
「もう、この子は……。せっかく帰ってこれたというのに、部屋からちっとも出てきてくれないんだから」
頬を膨らませる母。その表情はあどけなく、とても既婚女性には見えない。しかしこのおっとりとした、少女のような人がエルザ・リムバート、明日の即位式でエルザ・エストラルド女王となるその人なのである。
「こっちに着いてから一週間よ? もう。年に一度は里帰りしてたけど、今回は意味がまるで違うでしょうに」
その通りだった。今回は年に一度の一時帰国ではない。完全な帰国、人質生活からの解放を意味している。本来なら舞い上がって喜ぶところだった。
だが、マリアの顔に浮かぶのは曇った笑顔だった。
「ごめんなさい、お母様」
マリアはこの一週間、無力感と喪失感にただ打ちひしがれていた。こと切れたケンツの姿、去りゆくマークの後ろ姿が、今でも瞼に焼き付いている。今回、マリアは今まで知らなかったこと、今まで通りなら知り得なかった様々なことにさらされ、それらは楔のように彼女の心に突き刺さった。自分の知らなかった世界の闇も、命を護ってくれた人に何も出来なかった無力な自分も、大切な人を失った喪失感も、等しく。
いや、正直なところ、最も深くえぐっているものがあった。
マーク……。
思い出しただけでまた泣きそうになる。そんなマリアの様子を少し訝しみながらも、エルザは満面の笑みを娘へと向けた。
「とにかく、明日からは貴女は歴としたエストラルド皇国皇女様なんですからね、それなりになってもらわないといけません。そこで、今日から護衛を兼ねた教育係をつけます」
「はあ」
高らかに宣言する母に、曖昧に相づちを打つマリア。
「じゃあ、入ってきて」
手を叩いてエルザが奥の扉へ声をかけた。扉が開かれ、向こうから歩みを進めてくる。
現れたその姿に、マリアが硬直する。
エルザの横で立ち止まった。
エストラルド皇国軍の礼服姿の黒髪の長身は、くすんだ白いマントをまとい、同じく白い面を着けていた。面はのっぺらで表情も何もなく、口元以外の顔全てを覆っている。
「護衛兼教育係の、えっと……グレイ卿、ってところでいいかしら?」
見覚えのある苦笑が、その口元に浮かんだ。
「“土曜日の猫”は白なんですが……」
「あら、だってその面って灰色っぽいわよ? それとも猫男爵とかにしましょうか?」
「いえ、仰せのままに女王陛下」
「エルザでいいわよ、エルザで」
気の抜けた掛け合いの締めくくりに肩をすくめてみせる白面に向かって、マリアが唇を震わせる。
「……マーク?」
面が静かに外される。
「たった今、グレイと命名されましたが」
微笑むマークの顔が、そこにあった。
一瞬の間の後、マリアがその胸へと飛び込む。そして肩が震え、埋めた顔から低い嗚咽がこぼれてきた。
「あらあら」
「姫……」
エルザのコロコロとした声に、マークの優しい声が続く。
が、そのうち段々とマリアの震えが大きくなってきた。
「……姫?」
マークが言うが早いか、また襟元を掴んで大きく揺さぶり始めるマリア。キッと見上げる目には涙が溢れたままだ。
「ちょっと何! 何よコレ! どういうことよアンタぁあっ!」
「ちょ、ちょっと姫っ、落ち着いてっ」
「落ち着いていられるかあああっ!!」
怒濤の剣幕で詰め寄るマリア。胸元を振り回されてマークはまともに応えられない。
「あらあら、失敗だったかしら? 感動の再会を演出しようと思ったんだけど」
能天気な物言いの母へ向かって、マリアがもの凄い形相で振り返る。
「ちょおっとお母様っ、コレ一体どういうことなのよ!?」
娘の剣幕など意にも介さず、エルザはにこにこと応える。
「えっとね、貴女がこっちに着く前の晩、貴女の誕生パーティーの日の夜遅くにね、リーツ共和国のシュミット中将が急遽お越しになったのよ。でね、貴女にこの国へお帰りいただこうと思います、ついては貴女を呼び戻す要請書を至急リーツへお送りくださいって」
あのパーティーを中座した後、シュミット中将は軍用列車を最速で飛ばしてエストラルドまでかけつけていた。あのとき“急ぎの用”と言っていたのは、マリアの帰国のための根回しだったのだ。
「で、貴女を連れ帰ったのは皇国の方たちということにして欲しいって言うの。変でしょう? だって連れてきてくれるのはリーツでも最高の兵士だって言うのよ? そんな方が貴女を送ってくれるっていうのにねえ」
首を傾げて見せるエルザ。分かっているのかいないのか、一見では判じきれない。
「でも、両国のためにそうして欲しいって言われるものだから、じゃあ無かったことにしたいなら、その方に一度会わせていただきたいって答えたの。娘のナイト様に是非お礼がしたいから、って」
「お、お母様!?」
マリアが慌てて狼狽えた。エルザは楽しそうにその様子を見ている。
「だってだって、貴女が一緒にいてもいいって思える人な訳でしょ? でなきゃ人嫌いの貴女が側にいられる訳がないもの。貴女ってば相手の目の表情が読めすぎるせいでめっきり人嫌いになっちゃって。見えるといっても表情だけ、相手が何を感じているかが分かるだけで、その人のことが分かる訳じゃないってのにねえ」
ため息混じりのエルザの話で、ようやくマークは納得がいった。なるほど、目は口ほどに物を言うとはいうが、それを普通よりも鋭く見抜けるというわけだ。かえって人間不信になることも理解できる。
「それでもね、それは致し方が無く貴女が我慢しているだけだからってシュミット中将がしぶるものだから、なら貴女がその方に心を開いているようなら連れてきて欲しいってことにしたのよ。そしたら貴女、泣いて引き留めようとしたっていうじゃないの」
「お母様ぁっ!?」
マリアが今度はエルザに食ってかかる。顔は真っ赤、目はぐるぐると回っている。触れられたくないところに直球だったらしい。
「これはもう逃す手は無いわと思ったのよねえ、私。貴女が慕う殿方が現れるなんて、もう嬉しくって嬉しくって。だから、全部おっしゃられる通りで結構ですから、その代わりにこの方をこちらに下さいな、って言ったの。それが交換条件です、って」
どこまで本心かマークには分からないが、結局エルザはその条件で押し切った。しかしそれは、リーツ側にとって処分したい不発弾が相手の手札の一つになることを意味する。従って、リーツ側からも条件が付いた。
「ただし、公式には私は死亡したことにされました。リーツ共和国陸軍中尉マーク・アーハートはもうこの世には存在しません。私はこれからはグレイ卿として、この面で一生顔を隠して生きていくことになります」
エルザの後を引き取って、マークが自身の立場を説明した。
「ごめんなさいね。不便よねえ、そんなの」
「拾っていただいて不満などあるはずがございません」
命を拾われたのだ。何の不満があろうか。
「んでうちに来てもらったのよね。それで早く会わせてあげたかったのに、貴女ったら引きこもっちゃうんだもの。アーハートさん、じゃなかったグレイ卿にも随分待ってもらっちゃったわ」
ため息混じりで申し訳なさげに言う母の言葉に反応して、マリアがじとっとした目を二人へ向ける。
「……待ったって、何時から?」
「え? だから貴女がこっちに着いた日からずっとよ?」
マリアの肩がまた震え出す。「……ってことは一週間も……私……一体何を悩ん……」と呟くマリアに、エルザが「だから、貴女ちっとも部屋から出てきてくれないんだもの」と重ね掛けをした。
あ、こりゃイカン。
マークの頭に、直後の予測が浮かんだ。
「ぬわああああああああっ!!」
頭を抱えて絶叫してから、マリアがまたマークの胸元を掴んで引きずり回し始めた。
「もーアタマきたっ! 許さないっ、もぉ絶っ対許さないからねっ! 何よアンタ、あんっだけもったい付けといてコレ何なのよ!? ふっざけんじゃないわよコラァアっ! なーにが護衛よ、なーにが教育係よっ、アンタなんか下僕よ下僕っ! 一生こき使ってやる! 一生こき使ってやるからねっ! 覚悟しなさいよおっ!」
沸点を越えて、いや吹き飛ばしてマリアが叫ぶ。その様子に「あらあら」とエルザはコロコロと笑う。
「はい、一生お側にお仕えします」
マークのさらりとした一言で、マリアの手がぴたりと止まった。
「……は?」
「ですから、一生お側にお仕えします」
にこやかに微笑むマークと目が合って、マリアの顔がまた赤くなる。
「あああ、当たり前よっ! 覚えてなさいよっ!」
「はい」
それが、エストラルド皇国に語り継がれることになる“白面の宰将”が誕生した瞬間だった。
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