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姫君と仮面の男  作者: 橘 永佳
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Ⅲ.10月20日


 マリアの目にまず写ったのは、見るからにくたびれた天井だった。

「あ! お姉ちゃんが起きたよー!」

 枕元から子供の声が上がる。向けた顔のすぐ先に、7、8歳ぐらいの子供の笑顔が三つ仲良く並んでいた。

 何が起きているのかを考え始める前に、その顔の向こう側にある朽ちかけた木の扉が開いて、人影が続けて入ってきた。小さいものと、大きいもの。

「お、起きたかい姉ちゃん」

 先に入ってきた小さい方が威勢良く声をかけてくる。他の子よりも少し年長っぽい、13、4歳ぐらいの少年だった。

「……え?」

 いきなり話しかけられて、マリアは面食らってしまった。見覚えのない子だ。大体ここはどこ? 私何をしてるんだっけ?

「目を覚ましましたか?」

 目をしばたくマリアに、大きい方が屈み込みながら問いかけてくる。こっちは見知った顔だ。いや、昨日知り合ったばかりだけど。どんなときも平然としていて、無表情で、そうそう、そこそこ男前で……って、私の好みじゃないけどっ! ってそうじゃなくて! すっごい大砲とか機関銃から守ってくれた、エストラルドまで連れてってくれる……あ。

「……マーク?」

「はい」

 マリアの素っ頓狂な声に、にこやかに答えるマーク。その刹那、マリアの脳裏にこれまでの情景が一気にフラッシュバックした。

「あーっ! 大砲は? ボートが岸につっこんで、あの娘はどうなったの? 吹っ飛ばされて、死んだかと思って! あれ? ボードの上? じゃない? ここドコ? 私どうしたの?」

 ひとしきり錯乱して、ようやく聞きたいことが出てきた。その様子に微笑みながら、マークが軽やかに答える。

「アリアドネの郊外のスラムです。エストラルドとの国境の街ですよ。ずっと眠られていたんです」

「明け方からずっと、な」

 マークの語尾を少年が拾って続けた。

「アリアドネ……国境の街……ってことは、もう目の前なの?」

 事態を把握してきたマリアが驚いた声を上げる。

「ええ。着くのは着いたのですが、お嬢様の容態が悪かったので、休んでいただいていました」

 呼び方が変わっていることに引っかかった。何も考えずに問い返そうとしたところで、先に顔をつきだしてきた少年に順番を横取りされる。

「お前、いいとこのお嬢様なんだってな? でもひでえ扱いされてて、そこから逃げてきたそうじゃん。安心しなよ、ちゃんとエストラルドに密入国させてやっからよ。マークには恩義もあっからなっ」

 勢いに押されながらも、マークの方を盗み見る。ちょっと笑いながら目配せされた。

 ふぅん、ここはそれで通すのね。

「そうなの。ありがとう、ええっと?」

「ケンツってんだ。よろしくな」

 少年が差し出した手を握り返した。

「私は……」

 名乗ろうとした鼻先に、さっとケンツの手がはばかるように広がる。

「おっと、それは無しだ。お互いのために、な」

「え?」

 虚を突かれたようにきょとんとするマリア。マークは無言でうなずいている。

 ぐぅぅぅぅ。

 紹介が終わるのを待っていたかのように、マリアの腹の虫が自己主張する。正直かつ盛大な音に、思わず顔が赤くなってしまう。

「待ってな、ちょうど出来上がるところだったんだ」

 そう言って踵を返すケンツの後を、「僕も!」「あたしも!」と小さい子供たちが追いかけていく。

「マーク?」

 二人残されたところで、マリアが問いかけた。

「明け方には着いたのですが、姫の具合がよくなかったので、顔なじみの彼を頼りました。ああ見えて薬に強く、小さい子の面倒を見ながら、したたかに生きている少年です」

 さらさらと状況を説明し始めるマーク。

「ここは実質的に治外法権ですから潜伏するにはもってこいですが、安全は保証されない地ですからくれぐれもご注意ください。迂闊に名乗ったりしないように。囚われていた良家の子女をエストラルドへ送り届ける任務、と彼には説明していますので、この地のことを知らなくても世間知らずだからということで押し通せます」

「で、これからどうするの?」

 マークが一息着く間に、マリアは続きを促した。

「はい。半日は過ぎましたので、新たな追跡部隊が来ていると考えられます。しかし、このスラムに紛れた人を捜すのは一苦労ですから、落ち着いて、少々変装でもしてくぐり抜けようかと」

 そこで言葉を切ってから、マリアへ向けてマークが微笑む。

「姫の調子が戻られているようならば、ですが」

「もう大丈夫よ」

 マリアが即答する。マークが見たところ、確かに顔色も良くなり覇気も戻っている。これなら大丈夫そうだった。

 木戸の向こうに人の気配が近づき、ケンツが器を持って入ってきた。

「ほら、メシだぞ姉ちゃん。食いなよ」

「あ、ありがとう、ケンツくん」

「ケンツでいいよ。ほれ」

 屈託なく笑うケンツの手から器を受け取ろうとする。

 と、すっと伸びたマークの手が横から取り上げ、さも当然のようにスプーンですくって一口食べた。

「ちょ、ちょっと! 何すんのよっ!」

 あまりにも自然な一連の動きに面食らいながらも、獲物を横取りされた腹の虫に突き動かされたマリアが猛然と抗議した。

「お嬢様は猫舌でしょう?」

 マークに事もなく受け流されて、さらに面食らう。

 な、何でそんなこと知ってるのよっ? 言ってないわよ?

 その様子を見たケンツが、笑いながらマリアの肩を叩いた。

「ははっ、気を悪くしちゃダメだぜ姉ちゃん。アレはアンタの身のためなんだからさ」

「何がよ?」

「毒味だよ、毒味」

 思いがけない一言に、マリアの表情がこわばる。

「……え?」

「いいかい、ここは小綺麗な街じゃないんだ。ここで生きるヤツはいつも奪い合ってるんだよ、メシも服も家も命もな。自分の身を守るのは自分だけだ、誰も信じちゃいけないんだよ。オレ相手でも同じさ」

 世間話を楽しげに話すように言うが、中身は決して明るいものではない。

「そんな……。でも、さっき安心しろって、マークには恩義があるって」

「ああ、言ったさ。もちろんオレはそのつもりだし、そうするさ。でも、それをアンタが信じるかは別の話なんだよ。でなきゃ死ぬよ?」

 当然のように最後の一言を笑って言うケンツの姿で、マリアの現状認識が急速に改められる。“くれぐれもご注意ください”の言葉が冷たい現実感を持ってよみがえってきた。

「『必要なら殺して生きろ』だよな? マーク。たとえ命を救ってもらった恩があるアンタでも」

「そうだ。とにかく生きろ。そのためなら俺相手でも躊躇うな」

「分かってらい」

 その、仲の良い兄弟のように無慈悲な話を繰り広げる二人の姿は、マリアの目には異様に写った。

 様子と話の内容とのギャップに、ではない。二人が本心から、平然として本気で話していることが分かるからだ。二人の間には緊張感も牽制もさぐり合いも何もない。至って普通の、素のやりとりなのだ。

 ここは別世界なんだ。

 マリアも安穏とした世界に生きていた訳ではない。常に相手の隙をうかがう謀略の渦に身をさらされ続けてきた。だがここはより直接的に“死”がその身に突き刺さる世界だった。それが至極当然の、常識の。

「って、おい、マーク冷めちまうぞ?」

「おっと、いかん。どうぞお嬢様」

 思い出したかのように、マークが器を差し出す。「あ、うん」と曖昧な返事をして受け取り、しかしマリアはまだ呆然と器を見ていた。

「安心しなよ、毒味済みじゃんか」

「う、うん」

 ケンツの“普通”に未だ気圧されたまま、マリアはぼんやりとスープをすくって口元へ運ぶ。そう、これは大丈夫よ。だって目の前でマークが毒味したもの……。

 はっとして、マリアが硬直する。

“マークが口を付けたスプーン”だ。

 ちょっと、これ、間接キ……いや、違うもんっ、スープの中に一度戻ってるんだからチャラよ、洗ったようなもんよっ! あ、でもそうしたらこのスープ全体が……違う違うっ! ちょっとだもん、薄まってるもんっ! 全然関係無くなってるわよっ。

 口を開けたまま固まったマリアの中で脈絡並びに根拠及び論理の無い叫びがぐるぐると回る。先ほどまでとは180度違う緊張で全身が強ばり思考は千々に乱れた。

 要するに、テンパった。

「? どうしましたお嬢様?」

「な、何でもないわよっ」

 不思議そうにのぞき込むマークに、慌てて噛みつくマリア。

 ……コイツ、わざとやってんじゃないでしょうね?

 目元をつり上げてにらみ返したというのに、相手は全く平静のまま、ただ不思議そうにしているだけだ。

 うん、まあぁっっったく気にしてないわ、コイツ。

 それはそれで腹が立った。その勢いでスープを口へ放り込む。口にしたそのスープの温かさに、マリアは一気に空腹を思い出して、後はひたすら食べ続けた。

「おお、いい食いっぷりだな」

 ケンツが無邪気に感心するのも、横でマークが胸をなで下ろしているのも気にならない。というより、気にする余裕がないほど腹が減っていたのだ。味すら気に留まらなかった。

 一息に器を空にして、ようやく人心地つく。心地よい満足感に浸っていると、マークが替わりにカップと小さな紙包みを手渡してきた。

「こちらもお飲みください。念のために」

 包みの中身は粉、どうやら薬のようだ。

「朝に飲んでいただいたものと同じです。よく効いたようで良かった」

「当ったり前だ、ロイが送ってくれた貴重品に混ざりもんナシなんだぞ?」

 マークの語尾を拾ってケンツが胸を張る。

 自慢の双子の弟の名を誇らしげに出す姿に、マークは微笑んだ。

 ロイはマークの紹介でタルキスの施設で暮らしていた。利発で勤勉、おまけに品行方正とそろっていたので、物は試しでツテをたどってみたのだ。ケンツには、自分の裏の任務絡みで用事を依頼することも度々あり、その都度それに見合った対価を支払ってはいたが、それまでの謝意とねぎらいのつもりだった。

 これが瓢箪から駒で、若干14歳でもう医学をかじる俊才になった。特に薬学に強いらしく、定期的に兄の元へと何かしら送っている。その中のとっておきだったらしい。

 しかしなあ、お前も相当のもんだぞ、とマークは胸の内で呟いた。

 薬があるからといっても、症状を正しく診ることが出来なければ使えるわけがない。ケンツ自身にも医学の才はあるのだ。届けられるものを経験と独学で使いこなせるあたり、実は弟以上のものが彼にはあった。

 それだけではない。ロイからの物資に頼らず、今や自分でアリアドネからの横流しで薬を仕入れて飯の種にするという商才まで兼ね備えている。妙薬から毒薬まで、取り扱い品も多種多様という充実ぶりだ。昏倒するマリアをここに連れてきた理由はそこにあった。

 そのおかげでたった一眠りでマリアの調子も元に戻った……のだが、彼女は手渡された薬をにらんだまま動かない。

「? お嬢様?」

 マークは首を傾げた。さっき、スープを食べる直前も何やら様子がおかしかった。まだ気持ちが落ち着いていないのだろうか?

「……“朝に飲んでいただいた”って、私飲んだ覚えは無いんだけど」

 妙にじとっとした目で見られている。そりゃあ意識が朦朧としていたんだから覚えているわけがない。それで当たり前なのだが、マリアは何か引っかかっているようだった。

 まだダメか? と気にして見たが、マークの目には具合が悪いようにはもう見えない。青ざめていた肌色も良く、むしろ頬のあたりなど血色が良くなり過ぎているぐらいだ。

 マークは、マリアが“どう飲ませたのか”を気にしていることに気付いていないのだ。

「はあ? まあ何とか、グラスの水に溶いて」

 マークの答えに数秒遅れてマリアの肩が落ちる。一息吐いてから、マークからそっぽを向いてマリアはさっさと薬を飲んだ。

 うん、エライ、私っ。

 常識的に、普通にグラスで薬を飲んでいた自分を、心の中でマリアは誉めていた。この無頓着な“鈍感男”のことだ、飲めないと判断したら口移しででも飲ませたことだろう。

 口移しというフレーズで浮かび上がりかけるイメージを、マリアは速攻で撲滅した。

 そのとき、木戸の向こうから新たな人影が現れた。

「おーいケンツ、頼まれたもん仕入れてきたぞー」

 ぶっきらぼうな声とともに入ってきたのは黒髪の少女だった。マリアより少し年上、肩口で髪を束ねていて中性的な面立ちで格好はラフ、というよりくたびれたというか痛んだというか、つまりはボロい。

 そこでようやくケンツや子供たちの格好も大差ないことにマリアは気付き、ここがスラムであることを改めて思い知らされた。

「お、待ってたぜカナ。注文通りだよな?」

「ああ。市内の奴らが普通に着てるぐらいのを見繕ってるよ。ちゃんとな」

 ケンツに応えながらカナは荷物を目の高さに掲げる。そして「銀15枚」と掌を広げ、「高ぇっ!」と呻くケンツに「たりめーだろ、小綺麗なのが安値で手に入ると思ってなかっただろーがよ」とにやりと笑いかける。ケンツが渋々取り出した銀貨をひったくって、カナはマークへと顔を向けて「よ、お久しぶりアーハートの兄貴」と手で挨拶してから、最後にマリアに気付いて、そして口を開けて固まった。

「……はあー、こりゃあ上玉だわ。確かにこのままのナリじゃあ目立ってしかたがねーやね」

「はい?」

 まじまじと自分を凝視するカナから身を引きながら、マリアが応える。

「じゃあ頼む、カナ」

「あいよー。あ、こっちはアーハートの兄貴の分な」

 荷物から引っ張りだした包みをマークは受け取り、そのままケンツを連れて行こうとする。

「ちょ、ちょっとマーク?」

「大丈夫、外に居ますから」

 慌てるマリアに微笑んで返すマーク。一歩踏み出したところで、カナが「あ、そうそうケンツ、これお前にってさー」と思い出したように便せんをケンツへ差し出した。受け取るケンツの表情から柔らかさが一瞬消えるのを、マークは見逃さなかった。

「……ケンツ」

 部屋から出たところでマークは小さく問いかける。

「ん、仕事だよ、仕事」

 元通りはつらつと答えて、家の入り口の戸を開けてケンツは歩いていった。

 マークには深く追及する気は無かった。ここで生きる以上、手を染めずにいられるわけがない。かく言う自分自身、公に出来ない任務の手伝いをさせているのだ。別口の“取引先”が複数あってしかるべきで、身よりのない子供たちを食わせるためにここに残ったケンツにかける言葉など無いことは重々承知していた。

「うおっ、肌キレーだなー、おい。触らせれ触らせれ♪」

「ちょ、ちょっとっ」

「おー、しっとりスベスベじゃー、気持ちいーのー♪」

「ちょっと、やっ、あっ」

 朽ちかけた木戸の向こうからしばしの物思いをぶちこわす会話が伝わってきて、マークは思わず額を押さえた。

 ……そうだった。男も女もイケるクチだったな、あいつは。

 このスラムで娼婦をやっているカナは相手が男もで女でもお構いなしで、その上に手が早いときてる。おかげで顔が広くて重宝するのだが、今回のような場合はマズい。飢えた餓鬼の目の前に宮廷料理をぶら下げるようなものだ。

「んー? ココはまだかわいらしーのー♪ どりゃ、おねーさんがおっきくしてあげよーかぁ?」

「ちょっ、何揉んでっ、って、あっ、やんっ」

 まるっきりのエロ親父口調に、自然と大きなため息が出た。カナが上手くやろうが下手を打とうが、とばっちりを食らうのは間違いなくマーク自身だ。

 社会勉強……では済まんよな、やっぱり。

「……カナ」

 一際低い声で木戸の向こうへと声を飛ばす。

「ひゃいっ!」

 カナの声が裏返った。

「遊ぶのも程々にしろ」

「ひゃ、ひゃいです!」

 木戸の向こうに鬼の姿を見たらしく、カナの声が半分悲鳴になった。妙に盛り上がっていた気配が一気に冷める。その感じをしばらく確かめて、マークはカナから渡された荷物を開いた。中には注文通りの外套と仮面がちゃんと入っている。

「お、終わったよー、アーハートの兄貴」

 肝を冷やした余韻ありありのカナの声が呼んだ。

「おっと」

 中に戻ったマークに、さっとマリアが身を寄せる。犯行未遂ですっかり警戒されたカナが引きつった笑みを浮かべた。

「ふむ。よくお似合いですよ、お嬢様」

 マークの影へと身を潜めようとするマリアへと声をかける。マリアはすっかり着替えていた。

 木綿の薄黄色のブラウスの上に色とりどりの刺繍で飾られた赤いベスト。ロングスカートの上にも、同様に刺繍された赤いベールがエプロンのように被さっている。手首と首もとの綿が動物の毛を連想させた。

「そ、そう?」

「ええ」

 やや恥ずかしそうに訊くマリアに微笑みかける。実際のところは、素材の上等さに服が負けているのだが、似合っていることに間違いはなかった。

 マリアの口元が緩む。少しは機嫌が直ったようだ。

「ねえ、これって……」

「ご存じでしたか。そう、『日曜日の猫』ですよ。それは“火曜日の猫”ですね」

 自分の姿を見ながら問いかけるマリアに、マークはうなずいて見せた。

 『日曜日の猫』はリーツで昔から親しまれている童話だ。月曜日から土曜日までを冠する猫たちが、日曜日の猫に会いに行く話。猫たちは人生の時期の象徴でもあり、マリアの年齢なら赤色で描かれる火曜日の猫が当てはまる。リーツでは、収穫祭でよくこの仮装が行われるのだ。

「収穫祭は明日の月曜からですが、リーツ西方では前夜祭も行われるんです。ちょうど今頃はアリアドネ市内で祭が始まっているでしょう。その中に紛れ込みます」

「ふうん」

 カナが差し出す仮面を受け取りながら、マリアは曖昧な相づちを打った。そして仮面をつけて、

「どう?」

と、マークから一歩離れてくるりと回ってみせる。「いいですね」と笑うマークに、マリアも機嫌良く微笑んで見せた。

 目元が隠れるだけだが、まあ効果はあるだろう。

 マークが変装としての効果に満足しているとは思わず、マリアは上機嫌になった。そこで、カナがマークにも荷物を渡していたことを思い出す。

「で、アンタのは?」

 問いかけられたマークが、荷物の中から白い外套と白い面を取り出した。

「私のはこれです。“土曜日の猫”ですね」

 マスクを外して、仮装道具をまじまじと見るマリア。自分の着た火曜日の扮装に比べれば随分と地味、というより味気ない。くすんだ白一色のマントには何の飾りもなく刺繍もなく、口元以外は顔をすっぽり覆ってしまう白い面にも表情がない。いや、猫を模したところが微塵も無い、ただののっぺらな面だった。

「……何か、気味が悪い」

「土曜日の猫は“死”の象徴ですからね」

 マリアの感想に、マークが苦笑する。

「あれ? そうだったっけ? 一週間で一生を表しているんじゃなかったの?」

 首を傾げるマリアに、マークは少し感心していた。“文化交流”という建前の人質生活だったが、どうやら本当に学んではいたようだ。

「お嬢様のおっしゃる“一生”は六日間で表されているんです。月曜の“誕生”から土曜の“死”までで。“日曜日の猫”は生と死の間にあるもの、根源とか真理とか、まあそう言った得体の知れない物を象徴しているんです。それが何色とも表されていない、ただの人見知りな猫なんですけれどね」

「へー。じゃあ日曜日の子が彫っている紫水晶の若木がそれを意味しているのね。何でもない子が持っていることにも意味があるのかしら?」

 思った以上に理解があり、また話についてくるマリアに、マークは本格的に感心し始めていた。やはり、この姫様はなかなかに利発だ。

「暗喩、でしょうかね。まあ、“死”は土曜日が象徴しているわけです。それに、土曜日の仮装は、祭で羽目を外しすぎる者をたしなめる役割の人間、まあたいていは教会の神官あたりがするものですから、絡まれる可能性も低くなりますので、都合がいいんですよ」

 ちょっと楽しくなってきた自分もたしなめながら、マークが話を元に戻した。

 そのとき、軽快な足音とともに木戸が開いた。

「どうだ……って、おー、よく似合ってるじゃんか」

 戻ってきたケンツがマリアの格好を見て口笛を吹く。自慢げなマリアに何故か併せて胸を張るカナへ「やるじゃん」とケンツが笑い、カナが「ふふん、当然よー」と応えた。

「よし、良いもの見た礼に、こっちも良いもの見せてやるよ」

 威勢良く言って「付いて来なっ」と手招きして外へと飛び出すケンツ。その後を追うと、家の横のがれきの山の上へと登るケンツの姿があった。

「ちょっと、危ないわよっ!」

「いいから見てろって」

 心配げに声をかけるマリアにかまわず、ケンツは身軽に頂まで駆け登り、くたびれたシートに座り込む。そうすると、彼の目の前にはいくつかのレバーやハンドルが並んでいる格好になった。

 あの感じは、操縦席、か?

「昨日出来立てのホヤホヤだ。よっく見てろよぉっ!」

 マークの直感に応えるように、ケンツがレバーの一つを勢いよく引き倒す。一斉に、がれきのあちこちから加斥岩を叩く音が響き始めた。

「おー!」

「わあっ!」

「おおっ!」

 三人が驚きの声を上げる。

 がれきの塊が立ち上がったのだ。いや、それはがれきではなかった。それは4本の足で体を持ち上げ、随分ふらつきながらも、一歩、一歩と進んでくる。

「何、何コレ!」

「わー、兄ちゃんカッコいいーっ!」

「乗せて乗せてー!」

 マリアの声が小さい子供たちの歓声に巻き込まれた。

 マークも驚愕に震えていた。動力はおそらく、いやこの特徴的な音からして間違いなく加斥岩系の原動機だろう。しかし、一方向への力を垂直へ向けて本体を浮かせるにしても、足を4本自在に動かす複雑な制御となると、そう単純な話ではない。電気発動機、電力モーターも組み込まれている、いや、むしろそれが主動力だろう。だが、現代の技術では、電力モーターではこの足を動かすほどのトルクを発生させることは不可能なはずだ。

「ケンツ! お前どうやって!」

「へへっ! お偉い学者さんたちは何か勘違いしてるんだよ! モーターのロータとステータは近い方がパワーが出るんだぜ! 何であんなに隙間あける設計にしてるのか、俺ぁ理解に苦しむってもんよっ!」

 マークの怒鳴り声にケンツが笑いながら大声で返す。そして「そらよっ!」と別のレバーを引き倒すと、今度は背後からショベルの付いたアームまで持ち上がってきた。

 次から次へとレバーを操りハンドルを回して、ケンツは大忙しだ。

 よちよち歩きで進む世紀の大発明に、マークはただただ唖然としていた。世界中の学者や技術者がこの10年ぶち当たっている壁を越え、ガラクタを繋ぎ合わせて実用化し、4本あるとはいえ足で重心を何とか制御してみせる天才の姿が、そこにはあった。そう、ケンツの真の才能は理工学にあったのだ。それも半端なものではない、10年、いや100年に一人と言って良い程の。

 世界から見放された場所で、世界の未来が証明される。次世代の光は、ガラクタの頂のオンボロシートに君臨して、ただ無邪気に笑っていた。

 マークはあのとき、チェスをしながらの講義の時に口にしなかった言葉を、心の中で中将へ投げかけた。

 ……ほらね、発電効率の問題でしかないんですよ。世界はいつまでも足踏みしてはいないんだ、中将!

 歓声の中、その後数歩進んだところで、急に左後ろ足の動きが怪しくなった。

 ゴキンッ!

「わわわっ!!」

 分かりやすい音を立てて足が折れた途端、ケンツの声と先を競うかのように、一気にバランスを崩してガラクタは崩れ落ちた。

「きゃあっ!」

「ケンツ!」

「兄ちゃぁん!」

 地響きの中で一同の悲鳴が上がった。マークが飛び出し、土煙をかき分けて玉座へと駆けつける。

「いちち……」

「全く、無茶をする」

 ひっくり返って顔をしかめるケンツの姿を見つけて、マークは苦笑しながら手を差し伸べる。

「へへへ。どうよ?」

「凄いな、お前」

 手を取りながら自慢げに訊くケンツに、マークは掛け値無しの賞賛を贈った。立ち上がったケンツはマークの助けを必要とせず、軽い足取りで地上へと戻る。

「兄ちゃぁぁぁん」 

「ははっ、大丈夫大丈夫」

 すがりついてくる子供たちにケンツは笑顔をして見せた。

「すっげーなーお前、こんなもん作ってさー。でも何でロボットなんだ?」

「何言ってんだよ。ロマンだろ、男のロマン。な、マーク」

 カナのツッコミに対して同意を求めてくるケンツ。マークは苦笑して軽く肩をすくめた。

「……でも、壊れちゃったね」

 改めてガラクタの塊となった残骸にマリアが目を馳せる。夜空の下、それはもう本当にがれきの山だった。

「んー、ボルトの締め付けが甘かったかなぁ」

 軽く首を捻るケンツ。その顔にはあまり無念さが感じられず、「ま、いいさ。ちゃんと見てもらえたしな」とあっさり言った。それから、

「見てくれてありがとうな」

ともう一度繰り返した。誰に向けるともなく、呟くように。

「……ケンツ?」

「それより、行くんじゃないのかよ? のんびりしてる時間ねえんだろ?」

 マリアの訝しがる声を払うかのように、ケンツはマークへと振り返った。

 うなずくマーク。夜も段々更けて来つつある。アリアドネ市街でももう前夜祭は始まっている頃だ。

「そろそろ出発しましょう、お嬢様。ケンツ、頼んでいいな?」

「おおよ、ロイの面倒を見てくれた“とっておきの借り”を返すチャンスだからな。“お嬢様を市内へ連れていく”ってのは必ず守るぜ」

 親指を立てて返すケンツ。再びうなずいて見せて、次にマークが「カナ」と呼びかけると「ほーい」とカナが別の荷物を投げて寄越した。

 受け取って中身を取り出す。粗末でくたびれた薄手のフード付き外套のうち、小さめの方をマークはマリアへ手渡した。

「市街に着くまではこれを羽織ってください。スラムの中ではかえって目立ちますので。私も羽織りますから」

「う、うん」

 出発を目前にして、マリアに緊張が走る。「お前等、マークたちを送ってくから、家に戻ってろ」と子供たちへ言ってから「じゃ、行くか」とケンツが振り向いた。

「おー。しゅっぱーつ」

 カナが朗々と音頭をとった。

「って、お前来んのかよ?」

「んー、スラムの住人1人とよそ者2人より、住人2人の方がいいと思うんだなー。怪しまれないようにやり過ごせばいいんだろ? 余計なことは訊かないさ、そん代わり役に立ったらお気持ちを、ね」

 ケンツに応えながら、最後はマークに向けて軽く瞬きしてみせるカナ。「でもなあ……」とケンツが寄越す視線を受けて、マークは少し思案する。

 ……“余計なこと”が何かあると感づかれたまま捨て置くよりは口を封じた方が良いか。ただの小遣い稼ぎのつもりかもしれんが……。

「銀10枚。後は出来高だ」

「商談成立、まいどありー」

 マークの提示にカナがにやりと笑う。“対価”が相手を拘束するのは何処でも変わらない。これで軽い口止めぐらいにはなるだろう。

 マークが外套を羽織る。それに倣ってマリアも羽織り、フードを目深に被った。

「行くぞ」

 マークの一言に合わせて、一行の歩みが始まった。

 ケンツを前衛、カナを後衛としてスラムの中心へ向かって進み、大通りに入って人の間を縫って行く。通りの両端には露店が続けて並んでおり、そこここの取引で掛け合いが繰り広げられ、怒号が飛び交い、置き引きが走り抜け、その内の幾らかが叩き伏せられたりした。しばしば鳴り響く銃声にも誰も動じない。

 人の熱気、奪い合い、怒号、乱闘、銃声、全てが融合して生まれる荒々しい生命の活気に、マリアは圧倒されていた。ケンツの家の辺りは廃墟然としていたが、それはスラムの外れにあったからなのだ。

「物流で栄えるアリアドネのおこぼれに与るために、近隣からも多くの人が流れ込んでいるのです。ここで手に入らぬ物は無いとさえ言われる闇市、リーツ共和国西方でも屈指の無法地帯です。お気を確かに」

 熱気に当てられて呆としかかっているマリアに、マークが小声で注意する。その事務的な口調に、水をかけられたようにマリアが「わ、分かってるわよっ」とやり返す様を見て、マークは少し安堵した。

 下手に人気の少ないところを行くよりも、この方が紛れ込めて見つかりにくいんだが、刺激が強すぎたか……。

 気が散漫になっているところに絡まれたりしてボロが出ることを避けなければならない。現在、それが最も警戒しなければならない項目だった。

 が、思ったよりも順調に進めていた。後衛のカナが、マリアのフード姿に注意を向け始めそうになる奴を見つけては、片っ端から先に声をかけて適当にあしらっていくのだ。気が利いた働きで、銀10枚は安い買い物だった。

「こっちだ」

 アリアドネ市街にかなり近づいたところで、ケンツが横道へと入っていく。市街との境に平行するように細い道を進んでいくと、林の前に広がる小さな空き地へと出た。

 そこで歩みを止めて、ケンツが振り返る。

「この林の向こう側にちょっとした入り口があるんだ。えっと、区画整理?とかいうやつか? とにかくそん時に作った通用門が放置されてるのさ。開けるついでに様子も見てくるから、ちょっと待ってな」

 言うが早いか森へと飛び込むケンツに、マークは軽くため息を吐いた。そしてマリアへと向き直って、

「大丈夫ですか? 一休みして下さい」

と声をかける。「う、うん」と応えて、マリアは手近ながれきの上に腰掛けた。

「……凄い人混みだった。あんなに大勢……」

 マリアが呟く。ちょっとしたカルチャーショックだったようだ。

「今日は市内の前夜祭に触発されているせいですが。実際、このスラムはアリアドネの半分に匹敵する規模でしょうね」

「でも、どうして? リーツは世界の覇権を争う大国なんでしょ?」

 淡々と応えたマークに問いかけるマリア。荒々しい熱気に興奮した感じもあったが、今まで大都市タルキスでも上流階級の居留地しか経験の無かった彼女には、驚くと共に異質で不可思議な光景だったらしい。

 社会勉強だな。必要な類の。

 マークはマリアへと真っ直ぐ向いて続けた。

「確かにリーツは大国です。しかし、国内全てが満たされている訳ではありません。特に、リーツは軍が実権を握る軍事国家であり、クルセクスを筆頭とする三国連合と対立している現状では、物資はどうしても軍へと優先的に集められます。元々寒冷な森林地帯が大半を占める国でもありますから、農地も国の規模と比較すれば乏しい。貧民街が生まれるのは必然、むしろこれが今のリーツの本当の姿とも言えるのです」

 やや下を向いて聞いていたマリアが、マークへと真っ直ぐ目を向けた。

「……それでいいの?」

 肌を指す気配が生まれる。カナの目つきがやや険しくなってきた。

「良い悪いではなく、これが現実なのです」

 マークの答えはあくまで淡々としたものだった。表情にもそれは変わりなく、マリアには彼が特に感慨を持たずに客観的なことを言っているのが分かった。

 マークの言っていることは理解出来た。そして、マリアはその全てを拒絶しているわけでもなかった。先ほどの闇市の喧噪は、善悪とは別の“力”を感じさせた。実のところ、マリアはその剥き出しになった人間の営みにある種の感動すら覚えていたのだ。

 でも……。

 それは絶対的な飢えと表裏一体のものだ。あそこであふれている命の奔流は、同時に死の渦も示している。それでいいのだろうか。

 微かな物音がした、ような気がした。

 自問自答から戻ったマリアの目に映ったのは、マークの暗い目だった。

 悲しそうな……。

「仕方がないのか」

 マークが呟く。「え?」とマリアが口を開く前に、銃声が轟いた。

 ガォンッ!

「きゃあっ!」

 グリズリーの轟音に、マリアが悲鳴を上げる。マークの背後で何かが崩れ落ちる音がした。マリアと向かい合ったままで後ろを撃ったのだ。何を撃ったのかは、マークが壁になっていて窺えない。

 マークが静かに踵を返す。その後ろへと続くマリア。

 がれきの陰にあったのは、血にまみれた少年の姿だった。

「ケンツ!」

 駆け寄ろうとするマリアを片手で制するマーク。「何でよっ!」と叫ぶ彼女にかまわず、マークは少年の傍らに膝を突いた。

「……頭、撃ちゃ、良かっ……たのに、よ」

 息も絶え絶えに声を絞り出すケンツ。傍らにはライフルが落ちている。答えず、代わりにマークは一言尋ねた。

「何処だ?」

「こ……の林の、先の……廃、倉庫。すまね、え、な。兄貴」

 末尾の一言が胸を刺す。命を救った後、つき合い始めて間もない頃、自分を慕ってケンツが呼んだ呼び方。自分に近づきすぎないように禁じた、親愛が込められた呼称。

「何故、毒を使わなかった」

 お前の得意分野だろうが、と毒づく。それなら自分を殺れたかもしれないというのに。

「へへ、や……っぱ、出来な、かっ……たさ。“殺してでも生きろ”って、約束……だった、の、にな」

 焦点の合わない目でマークを捜し当てて、ケンツは笑顔を作ろうとした。

「兄貴、ずっ、と、あ……り、がと……」

 それきり、少年は動かなくなった。

「ちょっとっ! どういうことよマークっ!」

 くってかかるマリア。マークは目を閉じたまま答えない。

「旦那を撃とうとしていたからさ」

 横から答えがあった。

 マリアが振り向く。カナが腕組みしながらこちらを見ていた。口調がさっきまでとまるで違う。無慈悲で冷徹、しかし中性的な容貌や雰囲気にはこちらの方がしっくりと馴染んでいた。つまり、こちらが彼女の地なのだ。

 冷たい目で冷たく続ける。

「旦那が避ければあんたに当たっていた。だから撃った。それだけだよ」

 ケンツが持っていたのはラインメイルPV36マスターモデル。雇い主はリーツ陸軍の手の者。

「どうして……」

「ケンツの取引先が旦那一人なわけがないだろ? 生きてくための得意先は当然いくつかあるさ。その一つからの依頼だよ。旦那を殺れってさ」

 大使館への偽装襲撃が失敗して、穏健派が勢いを盛り返したか。強硬派も建前以上のことはし難くなったらしい。暴走して姫を誘拐した一士官の処分、という建前。

「何で、そんな依頼を」

「とりわけ物騒な連中でね。ケンツに拒否権は無いんだよ。ロイの命をたてに取られちゃあね」

 表に立つ捜索隊は、公に動く以上、自分が投降でもしようものなら殺すことは出来ない。拘束が関の山だ。色々知りすぎた一士官は存在そのものが疎ましい。出来れば、今回の件は丸ごと闇に葬りたいところだろう。

「そんな……」

「この子もバカだね。毒でも仕込めば殺れたかもしれないのに。旦那も殺せない、弟も見殺しに出来ない、で結局こんな道になっちまったわけさ」

 ま、今回の件をうやむやにしたいのは穏健派も同じだろうが。

「何でこんなことに、他に……」

「無かったろうね。ま、そういうもんさ、ここで生きるってことは」

 分かってはいた。

「おかしい、そんなのおかしいわ、何でこの国はこんなのをほっといてるのよっ」

「何言ってるのさ。世界中何処行ったって同じようなもんよ。あんたの国だって何も変わりゃしない」

 でも、お前はとばっちりだよなあ、ケンツ。

「そ、そんなこと無いわっ」

「良いとこのお嬢さんの耳には入らないか。いや、貴族でも“蜂光”止まりならそこまで世間知らずじゃないね。ってことは“天輝”以上、あんたもしかして“始聖祖十家”のどれかのお嬢さんかい?」

 いや、元を正せば俺に関わらせたからだ。俺に関わればこんなことになるのも、始めから分かっていた。

「な、何でアンタそんなこととか知ってるのよっ」

「従民の出なもんでね。あたしはエストラルドから逃げてきた口なんだよ。ちなみにケンツもそうさ」

 だから、俺が文句を言う筋合いじゃない。死因の一つが俺なんだしな。そんな権利は無い。

「従民って、貴族に所属してる……」

「ハッ! 『所属』ね、『所有』の間違いだっての。キレーな王都ミネアでは違うんだろうけどね。地方じゃただの奴隷だよ。ケンツの“持ち主”は珍しく人間が出来てたみたいで、没落するときに全員解放して逃がしたらしいけどね、あたしの“持ち主”は典型的なタイプだった。どんな扱いされたか、詳しく話してあげようか?」

 が、せめて後の掃除を少ししていくぐらいは良いだろう? 自分のやった汚れを拭く真似事ぐらいは。今更落としようが無くても、さ。

「旦那が逃がしてくれなかったら、あたしはまだあの地獄の中だったろうね。正直、あんた見てると虫酸が走るよ」

「そんな……」

 それじゃあ行くわ。教えてくれて、ありがとうな。

「それじゃ、あたしはズラかるわ。旦那からの仕事とは別に、“ケンツの働きを見届ける”ことも請けてあたしはここにいるんだけど、旦那がケンツから聞き出したんで、後の仕事は『報告する必要無くなっちゃった』からね」

「え?」

「カナ」

 ずっと黙っていたマークがカナを呼び止めた。「何? 旦那。街の中の仕込みもちゃんとやっといたよ?」と、立ち去ろうとしかけていた彼女が振り返るところへ、マークが懐から小袋を取り出して放る。

「それであの子供達のことを頼む。俺からの『お願い』だ」

 金貨の詰まった袋を受け取ったカナは、数秒黙り込んだ。それから、立ち上がったマークへとゆっくり近づく。

「……あの国から逃がしてもらった借りを返せ、ってことね。旦那からそれを言われる日が来たか……」

 マークに相対しながら、うつむいて呟くカナ。「分かったよ。引き受けた」と続けたその顔は、マリアには寂しげに映った。

「行っちまうんだね」

「ああ」

 顔を上げて見つめるカナに、マークは短く答える。

 ちらりとマリアを見るカナ。口元が意地悪く笑う。

 マークの頬にそっと手を添えて、カナはマークに唇を重ねた。

「なっ! ちょっ!」

 事態についていけず狼狽するマリアを気にも留めず、カナはゆっくりと身を引いて、静かに微笑んだ。

「さようなら、マーク」

 優しく、切ない声だった。その一言を残して、カナは踵を返して夜の中へと姿を消した。

「な、ななな何を……」

「あいつは顔が広い。残された子供達も何とかしてくれるでしょう」

 慌てふためくマリアの様子を意にも介さぬように、カナの消えた先へと目を向けながら、マークは事務的に淡々と言った。その口調のおかげで、マリアはケンツの元にいた子供達の姿を思い出した。

「失礼ながら、私は少しお時間をいただきます。少し後片付けをしてきますので。一時間経っても戻らなければ、その林を突っ切ってアリアドネ市内へと逃げて下さい」

「え? 何、どういうこと……?」

 相変わらず目も向けないでさらりと言うマークへマリアが尋ねる。口調も佇まいも至って平静。あんなことがあったとは思えない程の。

 マークは外套を脱いで、ケンツへと掛けた。

 マリアは違和感を感じた。

「マーク?」

 呼びかけるマリアへ振り向くマーク。その顔も至って平静、窺えるのは少し困った程度の表情だった。

 が、マークと目が合ったとたんに、マリアの顔から血の気が引いた。か細く「ひっ!」と呟いて小刻みに震え出す。目は見開いたまま固まり、瞳孔まで開いていた。

「いいですね?」

 穏やかに念を押すマークに、口を押さえながらうなずくマリア。恐怖で声が出ない。

 そのまま身を翻して、マークは闇を疾走した。林に沿ってその先へ、影のように音も無く、燕のように地上を飛翔する。

 間もなくして、ケンツの言った廃工場に到着した。物陰を伝いながら周囲の様子を確認するが、外に人影はなかった。誘うためにわざわざ“制式”のライフルを持たせたのだ。中で手ぐすね引いて待っているのだろう。

 薄い手袋を付け、マークは、無頓着に正面から倉庫へと踏み入った。

 闇の中に気配がたむろしていた。気配を殺しているつもりらしい、ありありとしたその数46。正面奥と左右、扇状に展開している。

 かまわず歩むマーク。中に進むまで気配に動きはなかった。

 倉庫の真ん中近くまで進んだところで、正面に光が灯る。左右でも次々と続いた。

「お待ちしていましたよ、アーハート中尉」

 数多くのランプで照らされた倉庫の中、正面中央に陣取るリック・サンダース軍曹が不愉快に丁重な物言いで出迎えた。

「お前か」

 何の感慨もない顔で平たく応えるマーク。自分を中心として前方に半径約10m程の半円、といった布陣だった。

「いやあ、あんな小僧に貴方がどうこう出来るとは思いませんでしたが、無事お越しいただけて嬉しいですよ」

 兵たちの武装は基本的にラインメイル、ただし前方のサンダースと他4名は別物だ。

「無力な者をぶつけてきたのか」

「いえいえ、当てが外れたんですよ。毒薬の在庫が無いとか言うものでしてねぇ。それなら、顔見知りなら隙もあるかな、と。ま、少なくとも招待状代わりぐらいにはなると思いまして」

 にやにやと笑いながら答えるサンダース。自分たちの獲物によほどの自信があるのだろう、舌も非常に滑らかだった。

「とはいえ軍命は銃殺ですからなぁ。やはり命令通りでないといけませんよね? せっかく配備されたコイツらが無駄にならなくて良かったですよ」

 己が身丈程もある獲物をかざして笑うサンダース。

「貴方を仕留められなかった旧式とは違いますよ? 使い手を選ばないように調整された“タンク”、汎用型UWPS-2改です。4人の部下のも“ガトリング”の汎用型UWPS-1、銃身を3本にして反動を抑えてこいつらでも十分に使えるよう改良された新型ですよ」

 汎用型ガトリングを手にし4人が自慢げに笑った。

「いやあ、あまりにハンデが酷いかと思いまして、ささやかながらラインメイルを一丁運ばせたんですが、持ってこられなかったようですね。良かったんですかねぇ?」

 周囲の兵たちからも笑い声が漏れる。せいぜい拳銃二丁しか携帯していない相手に負けるわけがないとタカをくくっているのだ。確かに、見た目だけは昨夜の追跡部隊にクロード小尉とリナが4人加わった形。それなら1個中隊に匹敵する戦力だっただろう。

 無表情だったマークの口元が動いた。狂喜の笑みが浮かぶ。

 馬鹿どもが。

 マークの左手が左翼の兵の首をえぐり抜いた。

「は?」

 サンダースを始め、兵たちが呆然とする。

 首を貫かれた兵本人にも、何が起きているのか分からなかった。今の今までマークの姿は10m程先にあった。その姿が“点滅”した。刹那5m程のところに姿が瞬き、次の瞬間には自分の目の前。自然体で立つマークの手が自分の喉を突き抜けている。

 気配ゼロ予備動作ゼロ、そして2歩で10mの距離を詰めたのだ。

 マークが左手を捻る。自身に起きたことを理解することなく、兵は首を引きちぎられた。皮一枚でつながった頭がぶら下がり、切断面から血が吹き昇る。

 血しぶきの向こうに浮かぶ笑顔。

「う、うわあああっ!」

 恐慌をきたした兵がラインメイルを乱射し始める。だがその前に、マークの姿は陣中央の汎用型ガトリングの前へと移っていた。

 銃口の真正面。

「ひいいっ」

 腰が引けながらも引き金を引く兵。ドラム状に束ねられた銃身が回転し始める。

 ガトリング式の銃は、その構造上引き金を引いてから銃弾が射出されるまで一瞬のタイムラグがある。マークの狙いはそこだった。

 引き金を引かせた直後、汎用型ガトリングの銃身の下部にあるフローターを軽く叩き、銃自体を45度程回転させる。

 フローターは重力を遮断しているわけではない。単に、一方向に発生する力を垂直に向けることで重量を支えているだけだ。その方向が傾けば、当然。

 ドガガガガガガガッ!!!

「わわわわっ!?」

 斜めにズレたフローターの力に押され、半端にカットされた重力に泳がされ、汎用型ガトリングの銃口が火を噴きながら弧を描く。

「ぎゃあああっ!」

 引き金から指が離れるまでの一斉射で、陣左翼の兵が一気になぎ払われた。

 ランプが一つ二つ砕かれて火種が散らばる。

 射手は己が手で仲間を虐殺した罪悪感に囚われずに済んだ。何か思う前にマークに首をえぐり抜かれて。

「う、うわあっ!」

「ひいっ!」

 残った汎用型ガトリングの銃口がマークへと向かおうとする。が、元が重銃火器だけに機敏さがあるわけがない。瞬く間に残り3人とも喉を貫かれて沈黙した。

 散った火種が廃材に引火する。火の手が上がり始める。

「畜生っ!」

「っの野郎!」

 ダタタッ! ダタタタッ!

 至近距離の相手に体勢を立て直してラインメイルを撃つ。が、同士討ちを避けるために思うように狙いが定められない。

 それ以前に、兵たちはマークの姿を捉えられなかった。

 正確には、マークの動きについていけないのだ。マークの体が左に傾き、そして跳んだと思ったらその姿勢のまま右へ移動している。後ろへ跳躍した姿勢で前へと詰めてくる。全く同じ姿勢でいきなり隣に現れる。

 そしてその度に誰かの喉がえぐられた。それも出鱈目な姿勢のままで。格闘訓練で習う型など完全に無視した、あり得ない突きだった。コーヒーカップを手渡すように、煙草の火をもみ消すように、担いだ荷物の中身を探るように、マークの両手は次々と首を刺し貫いていく。

 その姿は、奇怪な舞を演ずる道化師のようだった。

 左翼の火の手が徐々に大きくなっていく。

「う、う、うわああああああっ!!」

 兵は完全に恐慌状態に陥った。

「落ち着け、落ち着かんか貴様等あっ!」

 何とか指揮官らしく叫びながらも、サンダースも不可解な異様さに畏れおののいていた。

 力の使い方を身につけた後の10年でマークが極めたのは、力の“分解”だった。

 人間の動作、格闘技の型といったものは非常に精巧かつ合理的な、理想的な一連の動きで成り立っている。それ故に無駄なく効率よく最大の効果を発揮する。

 マークは、その“一連”を徹底的に分解したのだ。一つ一つの動作を全て“単体”で習熟し、必要であれば単体でも一連でも自在に組み合わせられるように修練した。その上で、どんな動作でも姿勢でも最大の力を発揮できるように己が技を極めた。要は力のベクトルの始点・終点を完成させれば、力の筋さえ一本通ればそれで良いのだ。どんな動作であっても、どんな姿勢であっても。

 結果、体全体を右へと動かしながらも膝下のみで左へと跳躍し、後ろへ体を運びながらも足首だけで前へと進む。例え片足立ちで後ろ手でも、触れた指先までロス無く力を通して最大の破壊力を発揮する。

 マークは“人間の動き”を極めたのだ。

 それ故にマークの動きは予測不可能だった。どんな人間であっても、相手の始動を見たときにはその先の動きを予測する、いや無意識に予測してしまうのだ。これは至極当然のこと、特に格闘技などではその予測、“読む”ことが勝敗を分かつために訓練され、一方読まれないために無駄を排除した一連の動作が磨きあげられる。その根本前提を完全に無視するマークの攻撃など、防ぎようがない。

 それに、どれほどの重火器であろうとも、懐に入られれば同士討ちを避けるために使えなくなってしまう。もちろん百も承知のマークは、兵の間を縫うように、きっちり計算しながら間引くように一人一人喉をえぐっていた。与えられた火力に舞い上がり、そんな基本をすっかり失念していたサンダースがあまりにも愚かなのだ。昨夜の精鋭部隊とクロード、リナならそんな愚は決して犯さない。

 マークを苦しめたのは、銃器ではない。人なのだ。

 火の手が回り勢いを増していく。それを背景として、黒衣の道化師が踊るように、遊ぶように兵の首をえぐり抜いていく。転がる惨殺死体、吹き上がり飛び散る血しぶき。

 ……悪夢だ。

 サンダースの目に広がるのは、まさしく悪夢だった。“悪夢”はマークの名前の語呂遊びで生まれた蔑称などではなく、眼前の光景を表したものだということを、彼は始めて知った。

「お、お、おおおおっ!」

 狂気に耐えられなくなったサンダースが汎用型タンクを構える。残った兵ごと吹き飛ばすつもりで照準を合わせる。

 マークの姿が消えた。

 次の瞬間、担ぐ汎用型タンクの弾倉が急激に重くなる。崩れたバランスを何とか持ち直しながら見上げた先に、マークの姿があった。

 汎用型タンクの上に乗り、屈みながら自分を覗き込む相手の手は、すでにグリズリーを抜き放ち自分の頭へと突きつけている。

 撃鉄を引き起こす動きが、妙にゆっくりと感じた。

 マークの顔に視点が定まる。

 怒れる鬼の面に浮かぶ悪魔の笑み。

「あ、悪魔」

 轟音と共に脳髄まで吹き飛ばされて、彼の悪夢はようやく終わった。

「ひいいいっ!」

「に、逃げろおぉっ!」

 狂気の道化師が指揮官の頭を刈り取った様を目の当たりにして、残った数名の戦意は完全に消失した。我先にと逃げだそうとする。

 悪魔が宙を舞う。

 閉ざされた悪夢からは出られない。悪魔がその手で終わらせないまでは。

 誰も。


 その悪夢をマークの瞳の中に見ていたマリアは、マークの姿を見送った後で、その場に崩れ落ち座り込んでいた。

 ……こ、怖い……。

 彼女はあれほどの憤怒と狂気を見たのは初めてだった。妙に感情を出さない男だと思っていたが、無感情などとんでもない。奥底には激烈なものが渦巻いている。

 でも、とマリアは思った。

 それはおそらく彼自身も気づいていないのではないだろうか。いや、多分、彼の意識と心がつながっていないのだ。彼の中で心は分離され、幾重にも囲まれて、淵の底まで沈められている。だから、彼は自分の感情を認識できない、又は全くの別物としてしか認識できていないのではないだろうか。

 でなければ、マリアの目に映らないはずがない。どんなに顔の表情を取り繕っても、相手が何を感じているのか、その瞳を覗けばマリアには一目瞭然だった。瞳の中まで表情が無い人間はマークが初めてなのだ。

 奈落の底に沈められた感情。気持ち。彼の本当の心。

 イメージに浮かぶその姿は、いつも目にする飄々として泰然自若としたものではなく、儚げで、寂しげで、そして孤独な姿だった。

 まるで、一人膝を抱えて泣く幼い子供のように。

 何かに突き動かされた。体の震えがぴたりと止まる。様々なショックを受けてエラーを起こしまくっていた頭が一気に冴え渡った。

 ダメよ!

 直感が訴えていた。あのままではダメだ、あのままでは自分に気づかないまま、怒りや憎しみだけしか分からなくなって、狂気に塗り潰されていつしか本当にそれ以外のものが消え失せてしまう。

 彼が壊れる。あのままでは。

 四肢に力がみなぎった。

“こ……の林の、先の……廃、倉庫”

“報告する必要無くなっちゃった”

“少し後片付けをしてきます”

 会話の一部が次々と脳裏に蘇る。立ち上がろうとして、地面に転がるラインメイルが目に入った。

 ライフルを手に取る。そのあまりの重さに一瞬迷うが、渾身の力を込めて抱えあげた。行く場所が場所だ。丸腰よりはまだ心の支えになる。

 ……撃ち方知らないけど。

 少し落ち込んだが、頭を振って気持ちを持ち直す。

“さようなら、マーク”

 させないっ!

 カナの残した声に胸の内で叫び返して、マリアは駆け出した。


 マリアが息を切らせて着いたときには、倉庫はあちこちから黒い煙を噴きだしていた。

 全てを片づけたマークが周囲を確認する。火は勢いを増しているが、内装や廃材はそう多くなく、倉庫の壁自体は石材だ。放っておいても延焼することは無いだろう。

 むしろちょうどよく焼き払ってくれる、か。

 血にまみれた手袋を外して炎の中へと放り投げる。それから、足下に転がる死体の衣服から汚れていないところをはぎ取って顔を拭いてみた。

 かなりの血糊が付く。困り顔になってから、マークは他の死体からまた服をはぎ取って顔を拭きなおした。今度はほとんど付かない。念のためにもう一度繰り返して、拭ける分は拭いたことを確認する。

 ま、こんなもんか。

 この一日間ほどで姫も戦闘を垣間見ているとしても、さすがに血塗れの姿で彼女の前に現れるわけにはいくまい。まあ少しは配慮すべきだろう、とマークは考えていた。服に浴びた返り血は、黒服だからそう目立たないと割り切った。

 一息吐いて立ち上がる。全身の節々が小さく悲鳴を上げた。

 マークの裏技“舞踏”は、予測不能な動きと不条理な攻撃を可能にする代わりに、関節や筋に理不尽な負担を強いる。合理的で理想的な一連の動きというものは、最大の効率効果のためだけではなく、己が体にかかる負荷を最小に留める働きもあるのだ。

 苦情を細々と訴えかける体を軽くほぐして、自分の表情を意識する。狂喜の笑みはもう欠片も浮かんではいない。

 ……さっきは随分と怖がらせたみたいだからな。

 林の前に残してきたマリアの顔が浮かぶ。その表情は、そこここで転がっている死体と同じく恐怖に震えていた。

 確かに、あの時には既に、暗い自分がもう心の奥底から起き上がっていたが、それでも表情は平静のままだったはずだった。それなのに、その顔の裏にあるものをマリアはちゃんと見ていた。

 心を読めるとでもいうのか? あの娘は。

 今までにない不思議な相手に、マークは首を捻った。とにかく、まだ十代半ばの少女を恐れさせる趣味は無い。殺戮の余韻でまだくすぶっている闇に、丁重にお引き取りいただくようにした。

 諸々それなりに整えたところで、倉庫の外へと出る。

「姫!?」

 倉庫の前にいるマリアを見たマークが驚く。息を切らせるその姿に唖然とした。胸元にはラインメイルを抱えている。

「何をしているんです!? 待っているように言ったでしょう!」

 思わず声が荒くなる。まさか追ってくるとは思っていなかったのだ。使えもしないはずの自動小銃など抱えてきても何の役にも立たない。利発な娘だと見積もっていたのに、こんな無謀をするとは思わなかった。

 お転婆にも程がある!

 内心マークは頭を抱えた。もしかしたら、この一日間の体験の悪影響か? 護衛対象に暴走させるような影響を与えてどうする?

 自分の不注意かと自問自答しながら、マークは足早にマリアへと歩み寄った。

「姫、危険であることを重々ご承知ください。貴女は戦闘訓練など受けていない。私に至らぬところがあったのは心よりお詫び申し上げますが……」

 ラインメイルが落ちて重い音をたてる。マークの小言などまるで耳に入っていない様子で、マリアはマークの目をじっと覗き込んできた。

 トパーズとエメラルドの濃密な輝き。

 何となくたじろぐマーク。何かが見透かされそうな気がした。そもそも、真っ直ぐな目は苦手だというのに。

 輝きが揺れる。その端から、涙が流れ落ちた。

「……姫?」

 マリアの心中を計りかねたマークが困惑する。

 マークの懐へと身を預けるマリア。そのまま手を彼の背中へと回し、強く抱きしめた。

「姫?」

 ますます困惑するマークにかまわず、マリアは両腕に力を込める。その腕は優しくマークを抱きとめていた。何かを失わないように、何かをつなぎ止めようとするかのように。

 何かを伝えようとするように。

「悲しいときは泣いていいんだよ。ねえ、気付いて、マーク。大切な“弟”を亡くして悲しいんだよ。お願い、気付いて、マーク」

 胸元からマリアの声がこぼれる。それは切なく、悲しく、そして優しい声だった。

 マークの中で、何かが小さく揺れた。

 いつも狂気が立ち上ってくる闇の淵から、得体の知れないものが沸き上がる。弱々しく、しかし熱いそれは、一瞬だが彼の中に染み渡った。

 その知らない何かがマークの外へも溢れる。

 滴が、頬を伝って落ちた。

「あ……」

 自分の涙に、マークは気付いた。それでも彼はただ呆然としていた。

 季節外れの雪でも見ているかのように。

 月が随分と頭上まで近づいていた。


 それから小一時間ほどでアリアドネ市内の前夜祭も最高潮を通り越し、終盤へと向かいつつあった。

 その人混みの中を進む、白い外套の“土曜日の猫”と若い“火曜日の猫”の姿。

「こちらへ、姫」

「う、うん」

 密かに周囲へ目を走らせながら頻繁に道を変えるマークに、マリアはややぎこちなく応えた。

 ……何か、やりすぎた? かも。

 倉庫の前での場面を思い出しては、歩きながら赤面するマリア。例え何かでイッパイイッパイだったとしても、男性に抱きつくのはどうだろう? ちょっとはしたないんじゃないかしら?

 マークの後ろ姿に目を馳せる。悶々としているマリアと違って、白面を被ってよく分からないけれど、彼はもう全く平静なように見えた。そのあまりの変化の無さに釈然としないぐらいだ。

 ほんの少し、寂しそうかもしれないけど……。

 一方で、意識を任務に戻したマークには、そのあたりの機微が計れなかった。

 いや、計らなかった。先ほど自分の淵から顔を出したものはもう跡形もないが、それを悠長に考察する時間は、現状では無い。アリアドネへ先行したアドバンテージは、街中のそこここに見かけるリーツ陸軍兵の姿が示しているように、もう帳消しになっている。

 数が多すぎる。こんな祭の真っ直中にこれだけの兵士が動いているわけがない。明らかに自分たちを探している追跡の者たちだ。

 この調子では、元々警備が配属されている駅や水門は相当なものだろう。タルキス川上の国境である水門などは、密入出国が最も懸念される故に、平時から身元不明の人物や船舶に対しては問答無用で発砲、撃沈が認められている。今なら、近づくだけで一斉掃射を浴びそうだ。

 迂闊な真似は出来ない。しかし、機をうかがう時間はない。

 街中を一通り観察したところ、追跡部隊の動きはまだ統率がとれきってはいない。とりあえず、要所への配備を優先するために、街の、祭の様子を確認しているように見える。まだ着いたところなのだ。

 つまり、これから本格的な包囲網が布かれていく、その直前。下調べが終われば、後は陣を布き虱潰しにしていくだけ、袋の鼠になってしまう。

 今この瞬間が、まさに分水嶺なのだ。

 マークの想定通りの。

 街中の兵士の動きは、軍人であるマークにはある程度予想がつく。それを超えるような兆候は見られなかった。川辺に指示しておいたカナの仕込みも確認した。

 問題は無い。博打であることに変わりはないが。

 時計を見る。前夜祭ももう終盤、クライマックスが始まる頃合い。

 そう、頃合いだ。

 目だけ素早くマリアへ向けてその様子を確かめ、そこで一瞬、マークは思案した。のんきに色々考えている時間は無いが、ちょっとだけ頭を巡らせる。

 取り急ぎで良いので、傍らの少女のために出来ることがあるか?

 これまでに無かったであろう恐怖にさらされ、マークにとっては不可解な先ほどの行動へ至る心情が何かあり、そしてそれ故にぎこちなく動揺している、この少女のために。何か。

 ……無いなぁ。

 微かにため息が漏れた。自分に呆れたのだ。軍人としてしか生きていない自分には、年頃の少女は別次元の生き物だ。はっきり言って、皆目見当がつかない。ろくなことが思いつかなかった。が、しかし。

 まあ、しないよりはマシか。

 ろくでもない選択肢から、元々のプランに最も影響の低いものを採用する。と、思わず苦笑してしまった。

 何を考えてるんだか、俺は。

「マーク?」

 マークの苦笑に気づいたマリアが不思議そうに、心配そうにささやきかける。

「何でもありません、姫。ところで、ダンスは嗜まれますか?」

「へ? えっと、少しぐらいなら何とか? だけど?」

 唐突で場違いな話題に、面白いぐらいにマリアが戸惑う。その様子に微笑んで、マークはうなずいた。

「結構。適当に流れに乗って下されば大丈夫ですので。では行きましょう」

「え? あ! ちょっとマーク!?」

 仮面を取られて慌てるマリアにかまわず、自身も素顔をさらして、マリアの手を引いて人混みの中を直進する。そして目的の、リーツ陸軍兵へとわざとらしくぶつかった。

「おっと失礼。人探しご苦労様だね、君」

「おい! 気をつけ……って、え?」

 ぶつかられた若い兵士が、眼前に突き出された顔に呆気にとられる。

 意味もなく殴りたくなるような、爽やかな笑顔。

 お尋ね者の。

「は? いや、しかし……あれ?」

 よもや逃走中の、捜索中の相手が自ら姿をさらすとは思ってもいなかった兵士は目を白黒させている。その前で、マークは大げさに、手振りも加えて、肩をすくめて見せた。

「ん? お探しではなかったのかな?」

「ちょ、ちょっと何してんのよマーク!」

 マークの煽りとマリアの声で、パニックが解けた。

「あーーーーっ! いたーーーー!」

 状況にそぐわない、妙に明るい叫び声が轟いた。まるで、隠れ鬼で遊んでいて相手を見つけた子供のように。邪気のない声のよく通ること通ること、周囲の人たちは何事かと振り向き、そこここから聞きつけた兵士たちが駆けつけてくる。

 あっという間に人だかりの中にスペースが空き、5、6人の兵士に囲まれた。

 マークたちの露骨な登場に戸惑いながら、少しだけ距離を置いて警戒する兵士たち。その様子を興味津々といった様子で見守る人垣。

 よしよし。良い子たちだ、うん。

 狙った通りの状態になって、マークの機嫌は上々になる。経験の浅そうな若い連中が集まっているところを、わざわざ見繕ったのだ。

 下士官あたりが登場する前に始めなければならない。

「ちょ、ちょっとマーク……」

 隠密行動のはずがこれ以上は無いほどに目立ちまくっている状況に不安を隠せないマリアへ、マークは居住まいを正して向き直り、やりすぎなほどに優雅な身振りで、その手を差し伸べた。

「では、私と踊っていただけませんか? 姫」

「……はあ?」

 涼やかでよく通るマークの声に、マリアと兵士たちの素っ頓狂な合唱が応える。

「失礼」

 にこやかに笑いながら、マークは、呆気にとられるマリアの手を取って、軽々と引き寄せる。

「きゃっ!?」

 突然のことに何も出来ず、されるがままのマリア。流される方へ足を出しているだけなのに、しかし、それは端から見てそれなりのダンスになっていた。

 唐突に始まる、男女二人だけのダンスパーティー。即席ぶっつけ本番だが、マークの絶妙なリードによって、軽妙で明るく、それでいて優雅な、見ていて楽しくなるようなダンス。

「えっと……」

 展開についていけない兵士たちは、ただただ唖然としている。その一人の目前へと舞い降り、優雅に踊りながら、マークは悪ふざけをするように手招きした。

「ほらほら、見てるだけかい?」

 誘われ、もとい挑発されて、兵士がようやく我に返る。

「こ、このぉおっ!」

 目の前から突進してくる兵士を、マリアを抱き寄せるステップのついでにかわす。「きゃあっ!」というマリアの軽い悲鳴と交差するように突き抜けて、彼は向かい側の兵士へとぶつかった。

「き、貴っ様あっ!」

「捕まえろ!」

 コケにされていることをようやく理解できた兵士たちが激高する。一斉に、闇雲に、二人へと突っ込んできた。

「わわわっ」

 おろおろとするマリア。ただし、首から上だけだ。体は完全にマークのリードに乗ってしまっていて、軽やかに舞い続けている。

 一番先に近づいてきた兵士の手を、マークは素早く取って、一瞬強く引き、すかさず逆に押す。反射神経を利用された彼は「お!?」とあっさりと体勢を崩し、そのままいいように回転させられ、隣の兵士へとぶつけられた。

「わあっ!?」

「ぐおっ!」

 短い悲鳴とともに倒れる二人。その上をマークとマリアがサイドステップ、いやジャンプで飛び越える。その後ろで、目標を失った残りの者たちが、勢いを殺しきれずにまともに衝突しあった。

「痛えっ!」

「じゃ、邪魔だ!」

「お前が退けよ!」

 団子になった中で言い争う声。その横で軽やかに踊る二人。

 強面の連中が美男美少女にあしらわれる図に、周囲の人垣から含み笑いが漏れ始めた。

「え? あれ?」

 あまりにも和やかなその雰囲気に困惑するマリア。だが、その和やかさ故に、マリアの表情からも萎縮が解けた。

 ここぞとばかりに、マークはとびっきり優雅に、マリアの腰へと手を添えて、彼女を支えながら大きく仰け反らせる。

 折り重なる兵士たちの前へと、逆さまに降りてくるマリアの顔。

「あ」

 ばっちりと目があった。

「えーっと……ごめんなさ、い?」

 マリアの一言に、周囲から爆笑がわき起こった。

「わははははっ!」

「いいぞぉ姉ちゃん!」

 拍手喝采を浴びて目を白黒させるマリア。その彼女を引き起こして、マークは観衆へとうやうやしく頭を下げた。周囲がさらに盛り上がる。

「ちょっと、あの二人すっごーい!」

「おいおい、いいのかよ兵隊さんよー?」

 二人への賞賛と兵士たちへの冷やかしが飛び交う。祭の雰囲気に完全に乗って、緊迫する逃走劇から、もはや催し物の一つのようだ。

「くっそおっ!」

 見せ物にさせられた兵士たちが起きあがり、頭に血を上らせてまた突撃する。マークも滑らかにマリアの手を引いた。

 舞台が再演し、また繰り広げられる、麗しきダンスと振り回される男たちのドタバタ劇。人垣は完全に観客と化して、挙げ句の果てに手拍子まで出始めた。

「うふふ、鬼さんこちら!」

 調子に乗ったマリアにまで煽られる始末の兵士たち。しかし、彼らはものの見事に、滑稽なほどに翻弄されていた。

 それもそのはず、マークは単に踊っている訳ではない。五感を総動員し、全身の筋肉と関節に理不尽な負荷を強いて、通常の人間には予測できない動きを混ぜ込んでいるのだ。決してダンスとしての優雅さを損なわないようにしながらも。

 試作軍用装具“ラビット”を使いこなす超人すら及ばなかった裏技“舞踏”を、並の兵士が捕らえられるわけがない。

 とはいうものの。

 マークは最大限の警戒を強いていた。目前の追っ手だけでなく、最高潮に盛り上がっている観客の、その向こう側へ。

 6人程度ならば大丈夫だが、さすがに10人20人となればお手上げになってしまう。しかし、可能な限り大勢に追ってきてもらわなければならない。人数が増える、その瞬間を見極める必要がある。

 タイミングが要なのだ。

 そのとき、マークの耳が、歓声に呑まれて聞き取れないはずの音を鋭く拾った。

 複数の声。聞きなれた足音。軍人の。

 ここだ!

 マリアを抱えて、突進してくる兵士の肩へ飛び乗り、カタパルト代わりにして跳躍する。同時に、轟音とともに夜空に咲き誇る赤い花。影は、通りに面する建物へ向かって宙を舞い、壁を靴底で捕らえて、そのまま勢いを利用して駆け上る。

 次々と打ち上げられ咲き誇る花火を背景に、壁を疾走する影。

 沸き上がる歓声の中で屋根の上に到着したマークは、マリアを降ろして赤い仮面をつけさせ、自身も白面を被った。

「それでは、皆様ごきげんよう」

 前夜祭のクライマックスである花火が夜空を彩る中、またもうやうやしく一礼するマーク。マリアも調子を合わせて見せた。

「はははっ、すごかったぞぉ!」

「いいぞいいぞ、お二人さん!」

「おい! 待て貴様らあっ!」

「逃がすな、追えっ!」

 眼下から沸き上がる、群衆からの喝采と、到着した援軍で膨れ上がった兵士たちの罵声とを後に、マークはマリアの手を引いて走り始める。

「待てっ、逃げるなあっ!」

「退けぇっ!」

 喝采はすぐに遠のいたが、罵声はしつこかった。追っ手の一団が続いてくるのだ。ただし、人混みをかき分けながらとなるため、追いつくには少々速度が足りない。声ばかりが威勢がよい。

 が、その効果は徐々に出てきたらしい。何事かと注目した人々が、頭に血が上った兵士の一団に驚いて飛び退くため、彼らの足かせが段々と軽くなるようだった。

 このままでは追いつかれるな。

 速度を上げながら迫ってくる罵声と足音。マークはマリアへと目を向ける。

「あーー、すっきりしたぁ!」

 頬をやや紅潮させて笑うマリア。屈託のない笑顔。この過酷な旅路のストレスも若干晴れたように見える。その顔につられて、マークの口元も少しほころんだ。

「それは何より。では、少々急ぎますよ」

「え? きゃっ!」

 素早く抱き上げられて短く叫ぶマリアを腕に納めて、マークが屋根と屋根の間を跳躍していく。次から次へと。中には3メートル近く離れているところもあったのだが、水たまりを軽く避けるかのように無造作に、あっさりと、危なげなく。

 しかも、速い。マリアが共に走っているよりも。

 マリアは、少々腹が立ってきた。

「……すごいのね、アンタ」

「姫は軽いですから」

 むくれるマリアに、白面の下でマークがさらりと笑い返す。そこだけ露わになっているマークの口元にどきりとして、マリアはとっさに顔を逸らした。

 マークに抱えられて、花火に彩られる夜空の下を飛翔する。

 眼下を吹き抜けていく、祭に華やぐ街並み。

 続けざまに夜空に打ち上げられる大輪。

 赤、青、黄色と重なって咲き誇る。

 白面からのぞく、凛々しい唇。

 何が自分の顔を火照らせ、動悸を速くさせるのか。

 マリアには、その原因に心当たりは、あった。

 が、認めないことにした。

 そんなマリアとは裏腹に、マークの注意は眼下の様子、後方の様子に注がれていた。

 追ってくる兵士たちとの距離は、つかず離れずを保てている。下手に本気を出してしまうと、彼らを置き去りにしてしまいかねない。せっかく証人に仕立てようと集めたのに、それでは意味がないのだ。

 この後の囮に食いついてもらわないと、意味がない。

 追っ手が自分たちを見失わないように速度を調整しながら、彼らを誘導していく。思いの外、気を使う作業だった。

 さらに2つ3つと屋根を飛び移ったところで、マークが飛び降りる。マリアに衝撃とならないよう、ふわりと舞い降りたのは川辺の通り。街灯も薄暗い、人気の無い川沿いの道で、目の前に黒い川面が広がっている。

 タルキス川だ。

「ここは?」

「タルキス川です。川下に国境となる水門があります。ほら、あの灯りがそうですよ」

 マリアを降ろしながら、問われることに答えるマーク。マリアが目を向けると、確かに、川の上に灯りが一列に並んでいる。ここから少し先のところに。

「あそこを抜けるの?」

 続けざまの問いかけに、今度はマークは肩をすくめて応えた。

「まさか。今は、誰であろうと蜂の巣にされるでしょうね」

 「じゃあ」と口にしかけるマリアを制するマーク。その耳は追っ手の怒鳴り声と足音を捕らえていた。

「我々が川を使って逃げると勘違いしてもらうんです。手早くいきます。ご無礼お許しを、姫」

「ちょっと何を、きゃあ!」

 言うが早いか、マークの懐から光の筋が閃いた。文字通り目にも留まらぬ速さで、小さなナイフがマリアの服の縫い目を裁ち、赤いベストと赤いベールをはぎ取る。そして、「何すんのよ!」と食ってかかるマリアへと黄色の仮面を差し出した。

「こちらへ代えて下さい。それで、もう“月曜日の猫”です」

 仮面を手に取りながら、マリアは自分の服を確かめてみた。なるほど、元々が薄黄色の木綿のブラウスなのだから、赤い飾りを外せば、黄色で描かれる月曜日の猫の扮装になるわけだ。

 目を上げると、マークは川岸にある何かの塊へ駆け寄って、被せてあったボロ布を取り払っていた。

 現れたのは、ボートだった。二人乗り程度の小型で、これまたボロい。

 もっとも、ボートにはすでに先客が2人居た。いや、人ではない。畑で使われる案山子らしきものだ。というのも、もう現役ではないことは間違いのない崩れた有様で、ボードにうずくまったような形になっている。

 片方は、赤いベストと赤いベールを付けたブラウスを着ている。先ほどまでのマリアの服と同じだ。そしてもう片方に、マークは自分が羽織っていた白い外套を被せる。

 2人の囮の出来上がりだ。

 続けざまにボートのエンジンに何かをして、船底あたりからローブみたいなものを引っ張りだして、マークは手早く羽織る。月明かりに現れたのは、教会の神官服を着た“土曜日の猫”だった。

「ではこちらへ、姫」

「う、うん」

 手招きに応じてマリアが駆け寄る。マリアを身に添わせて、マークは片手でボロ布を、片手でエンジンから伸びる紐を持ち、通りへと目を馳せる。

 罵声と足音が膨れ上がるその瞬間、紐を引き抜き、ボロ布を引き寄せた。

「伏せて!」

 マークのその声に合わせて伏せるのと、ボートがうなりながら川面を走り出すのが同時だった。川下へと向かうボート。一呼吸おいて、追っ手の兵士たちの叫び声が続く。

「あ! あそこだ、ボートの上!」

「まさか、水門を越えるつもりか? バカな、自殺行為だ!」

「おいおい、捕まえろって命令だぞ! 水門へ至急連絡、撃たせるな!」

「待て、お前等! 止まれ!!」

 困惑した怒号が響く。誰も、マークとマリアが息を潜めるボロ布の塊に気付かない。

「おぉい、行くなーー、止ま……って、あれ?」

 ボートの行方を見守る兵士の声に戸惑いが表れる。ボートが舵を切って反転、今度は川上へと進路を取ったのだ。

「聞こえた、のか?」

「良かった……って、違う! 追え、逃がすなっ!」

「本部へ連絡! 奴らは川を昇って逃走中だと!」

 一瞬だけ安堵し、彼らはバタバタと走り去っていく。その足音が遠のいたところで、マークは頭上のボロ布を取り払った。

「もう大丈夫ですよ、姫」

 マークに手を引かれながらマリアが立ち上がる。

「何がどうなったの?」

「追っ手の方々にそれらしく見えるようにボートを走らせたんです。舵に少々細工をしまして。上手く食いついてくれましたから、これでしばらくはあちらを追いかけてくれるでしょう」

 マリアの問いに説明するマーク。「しばらく?」と首を傾げるマリアに「ボートが沈むまでは」と答え、「そのためのボロ船ですから。川底をさらうところまでするかは、まあ彼ら次第ですね」とマークは肩をすくめてみせた。

「私たちが乗っているはずの船が沈めば、放っておくことも出来ない?」

「そういうことです」

 マリアの指摘に、マークは苦笑いする。おまけではあるが、確かに期待していることではあった。

 頭のキレも戻っているようだ。なら話は早い。

「では、参りましょう、姫。今のうちに街を抜けます」

「ええ」

 機敏に応えるマリアの手を引いて、マークが走り出す。大通りに入るまでは小走りに、それからは早足で雑踏の中をすり抜けていく。

「……大丈夫みたいね」

 マリアがささやく。

「ええ」

 口元で笑いながら、マークが応える。

 しかし、とマークは胸の内で続けた。

 この程度の策で万全とは、彼は思ってはいなかった。賭には勝ったと言っていいが、そもそも引っかかってくれそうもない相手は、陸軍の中で何人も思い当たる。

 内一名は、まず間違いなく引っかからない。そしておそらくはその一名が指揮をとっているはず。

 “紅騎士”には通じまい。

 彼女なら、すぐに見抜くだろうな。

 だからこそ、今が最後のチャンスだった。追跡部隊本部へと情報が届き、そして適切な、マークとマリアには致命的な指示が戻ってくる前に、一気に国境を越えてしまわなければならない。

 急がなければ。

「こちらへ」

 マークが横道へと入っていく。大きな壁を沿って進む形になった。

「これは?」

「これが国境です。この街はこの国境の壁で二分されているんです」

 足早に進みながらマリアにマークが答える。見上げた壁は三階分以上の高さがありそうで、まさしく砦の城壁だった。

「この先の、市の外れにある上水道跡を通ります。今ではもう使われてなく、地図にも載っていませんが、昔はリーツ側もエストラルド側も共用していたので、水路はたどればつながっているんです」

 そこで一度区切る。軽く振り向いた白面から覗く口元が笑みを作った。

「もうすぐですよ」

「うん」

 マリアも笑顔で応えた。

 ゴール目前と聞かされて、マリアの中に安堵が生まれる。しかし一方で、そのことを寂しく感じる自分に気付いた。

 いや、寂しいのではない。何となくイヤなのだ。

 あれ? 私……何で?

 戸惑って自分の中を見つめ直す。イヤ、というよりも何かが引っかかっている感じだった。心の端っこが小さな警告を発しているような。

 ? 何だろ?

 それを探る前に、目の前の姿が急に止まる。つんのめったマリアが「な、何!?」と訊いてもマークは答えなかった。

「……どうしたのよ?」

 小さく尋ねてもやはり黙ったままだ。

 前方から目を離さず固まっている。

 ……甘かったか。

 間もなくマークはまた歩み始めた。ただし、先ほどまでと違ってゆっくりとした歩調で。

 ガシャッ、ガシャッ、ガシャッ。

 路地を抜けたところで二人を出迎えたのは、ラインメイルを構える一群だった。

「そこまでです、アーハート中尉」

 中央の女性軍人が声を発した。将校らしい服装で深く美しい紅髪が印象的な女性。よく通る、毅然とした声。

「フォスター小佐」

 マークが足を止めて応えた。白面を取る。マリアもマスクを外した。

「軍命により身柄を拘束します。そちらがマリア・リムバート様ですね? リーツ共和国陸軍西方軍団第1師団所属のアリシア・フォスターと申します。大使館までお送りいたしますので、こちらへお越し下さい」

 有無を言わせぬ、とも聞こえる口調だった。ただ、不思議と敵意は感じない。

 マリアはマークへと目を向けた。

「マーク……」

 軽く微笑み返してから、マークはフォスター小佐へと向き直った。

「マリア・エストラルド皇女だよ、小佐」

「……は?」

 唐突に言われたフォスター小佐が面食らう。反応を確かめるようにしながら、マークは続けた。

「皇国のカイル・エストラルド国王はつい先日崩御された。近日中に姫の母君のエルザ殿が即位されてエストラルド姓に戻られるだろうから、姫はエストラルド皇女なんですよ」

「何ですってっ!?」

 フォスター小佐が驚愕する。その様子に作ったものは感じられなかった。

「そんな……」

「本当のことです。貴女ならこれが何を意味するか分かるでしょう?」

 マークが投げかけた言葉に返答は無かった。

 聞かされていない事実を知ったアリシアは、驚きと同時に腑に落ちるものを感じていた。無茶苦茶な指令、政治の臭い、単独で動くアーハート。バラバラのピースが一点に収束して、事の全体を描き出す。その結果が意味することまでにも至り、アリシアは愕然とした。

「分かっていただけたようですね」

 様子を見計っていたマークが声をかける。マリアの目にも、フォスター小佐が何かに気付いたように見えていた。

「では、ここを通して下さい、小佐。貴女たちはここに居なかった。貴女たちは別のポイントで張っていた。いいですね?」

 言いながら再びゆっくりと進み始めるマーク。マリアもその背に隠れるようにして付いていった。

「しかし、それでは……」

「大使館で失敗した以上、姫の身の危険は低くなりましたが、それでもリーツ国内の政争次第ではどうなるか分かりません。少なくとも元の人質生活に戻らされる。強硬派にとっての機を逸した今、後は両国の関係を損なわぬように落としどころへ落とすべきでしょう。姫に無理矢理留まっていただいても、火種の可能性が残るだけです」

「でも!」

「身勝手な戦争を避けるためですよ、小佐」

 マークとフォスター小佐の押し問答の形になった。だが、事態を理解したフォスター小佐は具体的な反論が出来ないようだった。

「……マリア様に一度戻っていただいて、正式に帰国していただければ問題ありません。今ならそちらへ形勢を持っていくことも出来るはずです! アーハート中尉、貴方が全てを被る必要はありません!」

「それは“出来るかもしれない”でしょう? 政争の形勢などすぐにひっくり返ってしまう。事が事です。最善を尽くすべきなんですよ」

 フォスター小佐との距離が近づく。マークの影からでも、前の兵士たちの困惑が分かるところまで来ていた。

「お二人の安全は私が保証します!」

「それは不可能だ」

 フォスター小佐の声は、もう訴えになっていた。それをマークは淡々と否定する。

 向かい合うところまで近づいた。

「してみせますからぁっ!!」

 フォスター小佐の叫び。それはもう悲痛な懇願のようだった。

 マリアは彼女の瞳の中を見た。何の混じり気も無い、綺麗な瞳。悲しい目。

「無理だよ。もう分かっているだろう?」

 柔らかな声が懇願を切り捨てる。瞳を絶望に染めて、フォスター小佐が歯を食いしばった。

 肩を震わせる彼女の側を、マークが静かに通り過ぎる。続いたマリアが数歩進んだところで、背後のフォスター小佐が叫んだ。

「アーハートぉっ!」

 追いすがる悲しい声。

 しかし、マークの足を止めることは出来なかった。


 上水道跡に入ってから、マークが用意してきた灯りを頼りに蛇行する水路跡を進みながら、マリアは言いしれぬ不安に襲われていた。

 フォスター小佐の瞳が脳裏に蘇る。そこにあったのは深い悲しみと絶望だった。しかし何故? それに彼女の提案には一理ある。身の危険が無いのなら、戻ってから堂々とエストラルドへ帰ればいい。それなのにどうしてマークと彼女はそれを不可能だと認めていたんだろう?

 あの表情、あの瞳、あの声。どれをとっても軍人らしい姿ではなかった。

 あれは“女”の姿だ。

 あんな綺麗な人までこの男は……と一瞬イラついたが、そう気付くと何かが分かる気がした。女が想いを寄せる相手に訴えること。不可能だと分かっていてもそれにすがろうとする理由。してみせると叫んだ彼女。無理だと言い聞かせた彼。二人の安全の保証。自分の身の危険は低くなったはず。安全の保証。護るべき皇族。想いを寄せる男性。

「出ますよ」

 解答が爪の先に引っかかったところで、マークの声に遮られる。「う、うん」と慌てて応えたマリアの視線の先、水路の向こうに光があった。

 二人が光の門をくぐる。

「壮観ですね」

 マークの声には感嘆が混じっていた。

 豊富な加斥岩とリーツよりも進んだ技術で、荷車が宙に浮かび移動していく。安全柵のついた小さな舞台のようなものが人を乗せて飛び交う。動力源の物量にものを言わせた発電機のおかげで輝く街並みは、まるで昼のように明るい。それは、エストラルドの豊かさを象徴する光景だった。

 だが、マリアの応えは小さな呟き声だった。

「……そうね」

 ケンツの横たわる姿と、カナの顔が浮かんでいた。

 今のマリアには、この繁栄はその象徴に見えていた。

「さあ、行きましょう、姫」

 市街をにらむマリアへマークが手を差し伸べる。

「ええ」

 その手を取って、マリアは足を踏み出した。

 アリアドネを分断する壁に沿って降りていく。市街に入ってすぐ、エストラルド皇国軍の国境警備隊庁舎の裏手に、出迎えの影が居並んでいた。

 その真ん中から、聞き馴染みのあるユルい声がかけられる。

「いやあ、お疲れさまでしたなぁ。ご無事で何より何より」

「中将?」

「シュミット中将!」

 マークとマリアが同時に声を上げる。しかしマークの声にはやや驚きと困惑が表れていた。

 シュミット中将が居るとは、マークは思っていなかった……?

「姫様、よくぞご無事で。さぞ大変な思いをされたことでしょう。しかしもう安心ですぞ、皇宮へ行かれて今日はゆっくりお休み下さい。明日には母君とのご対面ですなぁ」

 マリアに浮かんだ小さな疑惑など知る由もなく、シュミット中将はのうのうと言ってのけた。相変わらず飄々と調子のよい口振りだったが、瞳の中は笑うどころか冷徹そのものだ。

 その獲物を吟味するかのような瞳から、マリアは思わず目を背ける。

「マークもお疲れさまだったねぇ。いやあ、この無茶な任務をよく完遂してくれたよ、ホント。助かったよ、いやホントにね」

 上機嫌にマークの肩を叩くシュミット中将。マークは「はっ」とだけ応えた。

 とにかくこれでもう大丈夫と思うと、どっと疲れがふきだしてくる。これでもう安全が保証されたのだ。

『安全の保証』

 電気が走ったように神経が張り直される。自分の思ったその言葉で、中断されていた疑問が蘇った。ついさっき、解答の端っこを掴みかけた疑問。言いしれぬ不安の正体。

「じゃあ、行こっかマーク」

 シュミット中将がマークを促した。マークはうなずく。

「ちょ、ちょっと、何処へ行くのよ? 今日はもう遅いんだから休んでいけばいいじゃないの」

 歩み去ろうとする二人をマリアは慌てて引き留めた。何かがマズい。このまま帰してはいけない。

 いや、この場から離してはいけない。

「いやいや、そうはいきませんよ姫様。ここに我々はいてはいけない、いや我々はいなかったんです。姫様を連れて帰ったのはそこにおられるエストラルド皇国軍の方々です。そういうお話なんですよ、これは」

 ひらひらと掌を振りながらシュミット中将が笑って答える。

「『そういうお話』?」

「はい、それが一番平和的なお話なんですよ」

 マリアの声にシュミット中将が肩をすくめる。

 きな臭い言い回しにマリアの神経が張りつめる。心の端っこにあった警告は、今や警報となって鳴り響いていた。

「ね、ねえ、また会えるわよね? ほら、タルキスには置いて来ちゃった物もあるし、ご挨拶したかった人もいるの。色々落ち着いたらさ、あっちにちょっと顔を出すぐらいは出来るでしょ? だから」

 しどろもどろに言葉を続けるマリア。言いしれぬ不安がいつの間にか恐怖へと育っている。

「マークっ!」

 マークは無言だった。代わりにシュミット中将が首を捻って応える。

「うーん、彼も忙しいからなあ。ま、もしタルキスに来られることがあったら、『ブルックス通』へどうぞ。そこで会えますから。いつでもね」

「『ブルックス通』……?」

 その言葉が意味することは、マリアはもちろん知らない。しかし、シュミット中将が言ってる内容がおかしいことには気付けた。“忙しい”相手が“いつでも”会えるはずがない。

 裏がある。それを隠そうとしていない。

 必死になって頭を巡らそうとするマリアへ、マークが足を向けた。そして向かい合って笑顔を作る。

「マーク……?」

「よくぞここまで頑張って下さいました。無事生きて帰っていただき、ありがとうございます」

「え?」

 頭を下げるマークにマリアは目を白黒させた。護り届けてくれたのはマークなのだ。自分がお礼を言う立場なのに。

「誰かを護る任務は初めてだったんですよ。それを無事遂行出来た。しかも貴女のような方を。自分は嬉しいんです。満足いく結果でした」

 ぞっとした。確かに、マークの瞳にあるのは安堵と、満たされた達成感だった。

 その“満たされた感じ”が、とてつもなく不吉に見える。

「マ、マーク?」

「お体にお気をつけて」

 マークの微笑みは優しかった。だが、その瞳の中に見えるものが満足感だけではないことに、マリアは気が付いた。以前に見たことがある、謀略に破れた誰かの目にも浮かんでいた表情。

 これは諦観だ。自分の末路を知っている者の。

「さようなら、姫」

 その一言が、マリアの中で全てをつなげた。

“ここに我々はいてはいけない、いや我々はいなかったんです”

“その一つからの依頼だよ。『旦那』を殺れってさ”

“アーハート中尉、貴方が全てを被る必要はありません!”

“『お二人』の安全は私が保証します!”

“『それ』は不可能だ”

 想い人を失うことを知った女の絶望の瞳。

 自分の行く末を知っている男の諦観の瞳。

「ダメっ!!」

 マリアの口から叫び声がほとばしる。

「ダメよ! 何処にも行っちゃダメっ! アンタはここにいるの! ここにいるのよっ!」

 マークの襟元を掴んでマリアは食い下がる。

 その必死の訴えに、マークはただ困った顔をして見せただけだった。

 この逃避行は、成功しても失敗してもマークの結末に変わりはなかったのだ。失敗は元より、成功した場合は、よりにもよって他国の動乱に強引につけ込む真似をしようとしたリーツ側はそのもみ消しを図り、実質的に弱小国であるエストラルドは大国を刺激しないように、某かの交換条件の上でもみ消しに合意するだろう。現に、マークは“いない”ことになっている。

 そして、事の真相を全て知っているマークは、リーツの強硬派にとっても穏健派にとっても疎ましい存在だ。いつ暴発するか分からない不発弾を抱える心境なのだろう。そんなものはさっさと処分するに限る。

 マークの死は確定事項だったのだ。最初から。出会ったときから。

「何処にも行っちゃダメっ! アンタはここに、エストラルドに残るのっ! 何処にも行かさないっ! 絶対行かせないんだからあっ!」

 マークを揺さぶりながら、マリアは叫び続けた。深紅の美しい女と同じように、叶わぬ願いを。

 マークが手をマリアの手に優しく添える。

「無理ですよ、姫」

 願いは、やはり届かなかった。同じように柔らかい声。

 マリアの目から涙が溢れる。

 マークは、自分の襟元からマリアの手をそっと引きはがした。

 傍観していたシュミット中将が歩み寄ってマークの肩に手を置く。

「行こうか」

「はい」

 二人は背を向けて歩き始めた。

「マークぅっ!!」

 マリアの絶叫が夜空に空しく響く。

 二人の背中は振り返ることなく、夜の向こうへと消えていった。

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