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姫君と仮面の男  作者: 橘 永佳
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Ⅱ.10月19日


 夜の訪れを告げる鐘の音が遠くで鳴り響く。この屋敷は小高い丘の上にあるから、遮る物がなく伝わりやすいのかもしれない。

 それでも聞き取れたのはマークだけだったろう。それなりに広いホールだったが、少なくとも200名近くは集まっている参加者の数には少々器が足りなかったようで、人の熱気と騒音を散らしきれていない。

 いや、これが理想通りの状態か。

 仮にも一国の皇族の姫の誕生日を祝う宴だ。ある程度の盛況さを演出しなければ顔が立つまい。必要な人数を集めて、華々しい宴となるために人数に最適な場所を選んだのだろう。正装をまとう紳士に、華々しく着飾った良家の子女が、それこそ見本市のように集まっていた。

 高い天井、質の良い大理石に木目の美しい木材の細工が調和する内装、美しい織物をふんだんに用いた飾り付け、年代ものの品のある調度品、共和国政府の迎賓館にも劣らない意趣を凝らした電灯。エストラルド皇国大使館の誇る大ホール兼迎賓の間である。

「そろそろ、のはずだよねえ」

 並んで立つシュミット中将が顎にふれながら首を傾げる。中将も今日は礼服で決めているため、居住まいだけは飲み屋の客ではなくなっている。が、表情と雰囲気は普段通りなので、残念ながら凛々しさまでは手が届いていなかった。

 もっとも、礼服といっても軍の礼服だからそもそも華麗さはない。黒地に陸軍を示す緑のラインが入っているだけだから、階級章やらの装飾を除けば、そこここで走り回る接待役の大使館職員と大差なかった。

「ええ。今、外で7時の鐘も鳴ってましたから」

 同じく軍の礼服で固めたマークが応える。

「え? それって街外れに近い教会の鐘? ホントに耳が良いねえ、マーク」

 驚いた風に目を丸くしてから、中将は軽く笑った。それから、マークとは目を合わさず音量を一気に落として囁く。

「仕込みは?」

「午前中には」

 同じく正面を向いたまま、マークも囁き返した。中将がわずかに頷く。それから、調子を戻してマークに笑いかけた。

「そういえば、マークは姫君とは面識がなかったっけ? 僕は何度かあるんだけど、なかなか可愛い子だよお。紹介してあげるから、ちゃんと顔を覚えて粗相の無いようにしてね」

「分かっていますよ、『顔を覚えて』間違えないように『粗相の無いようにします』よ」

 同じような笑顔を作りながら、マークは淡々と返した。それを見た中将は笑顔のままマークの肩を軽くたたき、マークは肩をすくめて返す。

「実のところ、君と姫君は意外と相性が良いんじゃないかなあ、とか思ってたりするんだよ? 僕は」

「はあ?」

 唐突に脈絡のないことを言われて、マークは思わず生返事を返してしまった。中将の意図を計りかねて小さく首を傾げる。そのことに意識を向ける前に、司会役のエストラルド大使館第一外交官が壇上に現れた。

「皆様、本日はお忙しい中にご臨席を賜りましたことを、まずはお礼申し上げます。

 理想的な日々が続いた今年は大地からの恵みも豊かに実り、まもなく開かれる収穫祭はさぞ大変な賑わいになることでしょう。

 その恵みも祝福するかのように、我がミネア・エストラルド皇国王家の姫様が、16歳の誕生日を迎えられました。

 この喜ばしい日を、我が国にとって掛け替えのない盟友、そして政治的にも経済的にも世界を代表するリーツ共和国の親愛なる皆様と迎えられることを光栄に存じます」

 マークはかすかに肩をすくめた。

 その盟友とやらを維持するために実質人質にされた本人は素直に祝う気になどなれまい。

 ま、いずれにしてもそれも今日までだが。

 内心でそう呟きながら、マークは目を光らせていた。正面奥にある大階段を上ったところに扉がある。そこから件の姫が現れるはずだった。マークのいるホール中央辺りからでは少々距離がある。

「それでは、皆様、早速本日の主役にご登場いただきましょう。マリア・リムバート様です」

 第一外交官が言いながら階段の上へと手をかざす。合わせて扉が開き、会場から歓声と拍手が巻き起こった。マークも手のひらを打ち合わせながら、鋭い視線をとばした。

 人形みたいだな。

 対象を捕らえたマークの瞳に映った姿は、精巧に作られた人形のようだった。

 腰まで真っ直ぐ伸びた髪は質感のあるライトブラウンで、手入れがよいのか艶がある。肌は白磁のように白く、理想的と言って良い目鼻立ちだ。温暖な気候のエストラルドらしい薄手の流麗なドレスをまとった姿はすらりと伸びていて、年齢にしては長身に感じられる。そして……。

「……オッドアイ、ですか?」

「って、おいおい、この距離でそれが分かるの? 一体どういう目をしてるんだよ、君は」

 マークの問いに、中将が驚きを通り越して呆れた。

 はっきりと分かるわけではないが、マークには姫の目の色が左右で異なるように見えた。右は黒か濃い茶だが、左は青か碧か、とにかく同じには見えない。

「右がブラウンで左がグリーンだ。これが両方とも輝いてて綺麗でね、まるでトパーズとエメラルドみたいだって評判なんだよ。ま、宝石みたく透明ってわけじゃないけどね」

 中将が面白そうに解説する。それから、

「なかなか怖い目だよ。見透かされている気分になる」

と付け加えた。

 その言葉はマークの意識に引っかかった。元々含みのある言い方をする、というより含みのある言い方ばかりの男なのだが、声の調子に本気がほんの少し混じっている。

 拍手の中、姫の体が前へと進んだ。優雅、といって良い足取りで、ゆっくりと階段を降りてくる。そして、演台に降り立ち、静かに礼をして顔を上げた。

 拍手が止み、場が静まる。

「皆様、本日はお忙しい中、私、マリア・リムバートの誕生をお祝いいただく席にご参席下さり、まことにありがとうございます。

 世界を導く大役を担うこのリーツ共和国に来てから早10年の月日が流れ、私も16歳を迎えることとなりました。今日この日を、親愛なる皆様にお祝いいただけることを光栄に思います。

 リーツ共和国は、政治経済で私の国を超える大国であるだけでなく、その文化においても秀でたところが数多くあり、興味と敬意を感じない日はありません。これからも多くを学んで参りたいと思っています。皆様とも今後さらなる親交をと願っています。

 ご参席いただいた皆様に、そして、これまで私を育み多くを教えていただいた貴国に改めて感謝申し上げますとともに、貴国とこれからも永く手を取り合っていけることを心より願っています」

 朗々とした挨拶を終えて、マリアが深くお辞儀をする。それに合わせて会場から拍手が沸き起こった。

 堂々たるものだな。

 マークは素直に感心していた。一言一言を自分の言葉として、聴衆へと意識をしっかり向けて、淀みなくお手本のような内容を語りかける。皇族らしい優美さと毅然とした雰囲気が風格を作り上げていて、まず16歳には見えまい。国を象徴する者の一人としても、まずは合格点だろう。

 ……だが。

「くくくっ、まあまあ、突っ張っちゃって可愛いねぇ。ガラでもないだろうに、いやいや、エラいエラい」

 横の中将が笑いを噛み潰している。

「ですね」

 マークは軽く相づちを打った。

 風格がありすぎるのだ。正確には、毅然とした態度が表に出過ぎている。人を束ねる立場となると、威厳だけでなく懐の大きさも感じさせなければなるまいが、それを十代半ばの少女に求めるのは無理がある。とどのつまりは、余裕がないわけだ。

 マリアが壇上から降りて、参加者への挨拶周りを始めるのに合わせて、給仕係による料理出しと控えていた楽団の演奏も始まった。場の雰囲気が砕けて一気にざわめき出す。

「さあて、僕たちも行こうか、マーク。お仕事お仕事」

「はっ」

 中将ののんきな声に、マークが短く答える。人混みの間を縫っていくために蛇行しながら、二人はマリアの前まで進み出た。

「こんばんは、マリア姫。この喜ばしい日にお招きに預かり光栄です」

「ご機嫌麗しゅう、シュミット中将」

 にこにこと笑顔を浮かべながら挨拶する中将に、マリアも笑顔でそつなく応える。が、満面笑顔の中将に対して、マリアの表情はやや硬い。

「いやあ、立派なご挨拶でしたなあ。エストラルド皇国を代表する方としても遜色のない立ち居振る舞いでしたぞ。姫様も成長されていると思うと感慨深いものがありますな」

 中将は表情豊かに話し続ける。それは緊張感などまるでない、気の抜けた雑談そのものの雰囲気だった。

 にもかかわらずマリアの笑顔はやや硬いまま、それどころか微かに口元がひきつりかけている。

「過分なお言葉ですわね。まだまだ未熟なのは心得ていますから、心にもない世辞はおっしゃらなくても結構ですよ?」

 マリアの目が力を帯びる。

 ……?

 マークは内心首を傾げた。中将の態度は終始和やかで、接する人が険を感じるようなところは微塵もない。それなのに、マリアの雰囲気は徐々に硬くなっている。マリアの変化は今のところマークしか感じ取っていないが、このままいけば雲行きが怪しいと感じる者も出てくるだろう。

「変わらず、気の強いお方だ」

 少しだけ顔を前に出して中将が笑う。

「貴方こそ、怖い人ね、“氷の宰将”」

 笑顔を崩さずにマリアが応える。しかし、ほんのわずかながらマリアが身を引いたのを、マークは見逃さなかった。

 ……怯えている?

「そうそう、今日は部下も連れてきているんですよ。こういった華やかな席にも慣れさせたくてね」

 空気に険悪さが滲み始めるのを遮るように、中将が話題を変える。そして隣のマークを手で示した。

「マーク・アーハート中尉。どうです? なかなかの男前でしょう?」

 我が子を自慢する親のように中将が胸を張るので、マークは苦笑してからマリアの前に進んだ。

「マーク・アーハート中尉であります。本日はこのような晴れがましい席に同席させていただき光栄です」

 初対面の貴人用の、爽やかで礼儀正しくかつ出過ぎず一線を引いた笑顔を使って、マークは敬礼した。

「初めまして、アーハート中尉。ようこそお越し下さいました」

 流れが変わって人心地ついたか、マリアのまとう雰囲気がリセットされる。空気をもう少し柔らかく出来るか、マークは少し試してみることにした。

 ほんの少し崩した、含みのある笑顔を作って続ける。

「何しろ礼儀作法に疎い無粋な輩ですが、寛大なお心でお目こぼしいただければ幸いです」

「おいおい、“輩”ってそれは僕のこと言ってるの?」

 察しのいい中将が乗っておどけてみせる。マリアの付き人が思わず吹き出した。

「まったく、愛想のいい奴でしょう? こんな優男ですが有能な軍人でしてね、軍では“黒騎士”と呼ばれてるんですよ」

 が、マリアはやや不思議そうに首を傾げて、マークの目をじっとのぞき込んだ。

 トパーズとエメラルドがマークを捕らえる。確かに、宝石のような透明さはないが、濃密な二つはそれに劣らない輝きを誇っている。強い瞳だった。

 ぞっとした。

「……よくわかりません。貴方みたいに無表情な方は初めて」

 一瞬、狐につままれてたような空気になった。マークの今の振る舞いは、こういった場で部下にギリギリ許されるであろうフランクさを完璧に演出していたはずだ。少なくとも、無表情からはほど遠い。

 と、唐突に中将がマークの背中を叩いて笑いだした。

「はっはっは、やはり姫様は勘が鋭い。こう見えてこいつは非常にシャイでね、なかなか本心は出さんのですよ。人付き合いばかり上手くて困っとるんです」

 迅速な中将のフォローで、余計な間が空かずに雰囲気は和やかなままでつながった。そして、

「さて、僕たちばかり姫様を独占しているわけにはいきませんな。我々はご用意いただいた豪勢な料理をいただくことにしよう、中尉」

と言いながら付き人へと視線を送る。察した付き人が姫を促した。

「それでは失礼します」

 軽く礼をしてからその場を離れるマリアを見送ってから、中将はマークへと顔を向けた。

「どうだい? なかなか怖い目だろう?」

 マークは応えなかった。

 図星だったのだ。初対面で、しかもああも当然のごとく作り笑顔を看破されたことは無い。それに、自分以上に愛想の良いはずの中将をあれほど恐れるあたり、“氷”と評される中将の冷酷非情さをちゃんと見抜いていることが察せられる。

 恐ろしく勘の鋭い娘だ。“なかなかに扱いづらい”だろうな、確かに。

 無言のマークの肩に手をおきながら、中将は何気なく続ける。

「それじゃ、僕は急ぎの用があるからこれで失礼するね。後は『よろしく頼む』よ、マーク」

「了解しました」

 マークの答えにうなずいてから、中将は人混みへと消えていった。

 マークは周囲へと目を馳せる。

 時間はそうは無い。皇国を装った特殊部隊が突入してくる前に、マークはマリアをこの場から連れ出さなければならない。

 挨拶周り中のマリアを目の端で捕らえながら、頭の中でタイムスケジュールと屋敷の間取りを呼び出す。

 さて、と。

 マークは極力気配を消した。そして、人混みの間を、人の意識の死角を縫うようにして、影のように静かに、そよ風のように移動していく。

 影がマリアの後ろに沿った。

「姫様」

 影がマリアの耳にだけ届くように囁く。マリアの身が一瞬硬くなる。

「貴女の皇国への帰国に関して内密にお話があります。貴女の自室へお越し下さい」

 それだけ手早く告げて、影は通り抜けるように離れた。そして人一人挟んで耳を立てる。

「ねえ、私ちょっと疲れたかも。少し気分が良くないから部屋で一度休んできていいかしら?」

 マリアが付き人にそう告げるのを確認してから、影はまた音もなく人の間を流れ抜ける。そのままホールを後にして、目立たないところに用意しておいた荷物を背負い三階へ。無人の通路をつなぎ合わせてマリアの部屋へと忍びこんだ。

 一国の皇族の自室だけあって広い。調度品も上品なもので固められている。手入れも行き届いている。

 マークは窓からの月明かりを避けて、家具の影に潜む。

 間もなくして、ドアの前に人の気配がした。

「大丈夫よ、ちょっと一息入れるだけ。すぐに戻るから」

 マリアの声が聞こえる。それからドアが開き、すぐに閉じられた。

 少しの間、物音無く静まりかえる。空気が硬い。ややあって、マリアが部屋の奥へと足を進めるのが伝わった。

「マリア姫様」

 マリアの体がびくりとして固まる。そして呼びかけられた方へと恐る恐る振り返った。

 暗い影の中から、マークが現れる。

「戸の外に人は?」

 落とした声で、マークが尋ねる。

「……シャルが居るわ」

 マリアが答える。小さいながらも、声は震えてはいない。

「ではあまり大きな声を出さないようにしましょう」

 その声には答えず、マリアは侵入者を睨みつける。

「貴方は、先ほどお会いした中将の……えっと、中尉でしたかしら?」

 この状況下で気丈なものだ、とマークは感心していた。さっきの第一印象でこれで行けると彼は踏んだのだが、読みは正しかったらしい。

 適度に頭が良く、機転が利き、そして適度に自我が強い。

「マーク・アーハート中尉です。貴女の今後についてお話があります」

 改めて名乗りつつ、マークは話しを切り出した。

「どんなお話かしら?」

「手短に申し上げます。まず、残念なお知らせですが、つい先日、貴女の伯父上であるエストラルド皇国国王カイル・エストラルド殿が亡くなられました」

「何ですって!?」

 思わず叫ぶマリアに、マークは口に指を当てて示す。マリアが慌てて口に手を当てると同時に、ドアの外から「姫様?」と怪しむ声が伝わってきた。

「な、何でもないわシャル。あんな席でストレス溜まったから発散してるの」

 とっさの言い訳だが、外からは「そうですか」と妙に納得した様子が返ってきた。マリアの挨拶のとき中将が“ガラでもない”と笑っていたのは、どうやら本当のようだ。

「……どうして?」

 無言で咳払いをしてから、マリアは声を潜めて訊いてきた。自我が強いだけでなく、肝も据わっている。

「事故、とだけ聞いています。お悔やみ申し上げます」

 マリアは応えなかった。

「それをお伝えした上で、今後のマリア姫様についてですが……」

「カイル伯父様が亡くなったのなら、王位はお母様が継ぐことになるわね。私はリムバート家のマリアではなくてエストラルド王家のマリア。そうなると、私は今までよりも王位に近くなるわけだ。次の次の国王候補、それも第一候補ね?」

 マークを遮ってマリアがさらりと言ってのけて、確認するかのように視線を寄越した。

 ほう。

 思っていたよりも利発な相手に、マークは少々驚いていた。評価を改めるとともに、それが今後にどう影響するかを思案する。

「エストラルドとしては、直系になった王位継承候補を国外に置いておくことはできない。私の帰国に関してって、そういうことかしら? でもリーツだって私という人質をそうそう手放せない、いや、今まで以上に利用価値が出てきそうね」

 お、これはこれは。

 これから説明しようとしていたことを次から次へと並べ立てていくマリアに、マークは舌を巻いていた。これは間違いなく扱いにくい。軍上層部が疎むわけだ。

「で、このことを軍が内密に言ってくる。誰よりも早く……。穏やかな話ではなさそうね? アーハート中尉」

「降参ですね」

 思わず苦笑して手を挙げてしまった。よもや小娘にここまで圧倒されるとは思ってもいなかったのだ。

 だが、話が早くて非常に助かる。

「マリア姫様のおっしゃるとおり、貴女の処遇について軍内部で様々な意見が対立し検討されました。このままこの国に留まっていただき、エストラルド皇国と“より強固な”関係を築くことが出来れば良いのですが……」

「はっ!」

 マークの言葉をマリアは一息で切り捨てた。人質生活にうんざりしているのだから当然だろう。

「でしょうね。ですから、軍はこれを“機会”と判断しました。エストラルドを手に入れるための」

「……ちょっと?」

 話の流れの不穏さを感じたマリアの語尾が硬くなる。

 マークは淡々と続ける。

「周囲の列強と互角に渡り合えていたのは、偏にカイル国王の手腕によるもの。臣下には引き続いて我が国や三国連合を牽制できる能力が無い。失礼ながら姫様の父君母君にも。ならばこれは好機だと」

「……ちょっとアンタ?」

 マリアの言葉が荒くなる。これが彼女の地なのだ。

 意に介さず、マークは続ける。

「行動を起こすにはお題目が必要となります。そこで、今からエストラルド皇国の軍服を着た部隊が屋敷のホールに乱入、無差別に発砲して出席者を虐殺します」

「なっ!」

 マリアが絶句する。

「もちろん必要な目撃者はある程度残します。その部隊を軍が鎮圧、重大な敵対行為として発表して宣戦布告を行います」

 マリアはもう無言だった。怒りに肩を震わせている。歯ぎしりまでして。

「貴女は協力的な方ではない。聡明で、鋭く、意志も強く、そして反抗的だ。エストラルドを制圧した後、禍根を残さないために、貴女も今晩ここで巻き添えになったと発表されます」

 そこで、ようやくマークは話を一度切った。

「……ふざけんじゃないわよ」

 マリアが呟く。感情が分かりやすく込められていた。が、マークは無視して簡潔に言い切った。

「ここで死んでいただくことになっています」

「お断りよ」

 即答だった。

 無感動なマークの目。

 憤怒を込めて抗うマリアの目。

「……お断り、ですか。何故?」

 マークが事務的に問いかけた。

「ふざけたこと言ってんじゃないわよ。そんな話誰が納得するもんですかっての、当たり前でしょうが」

 明確な怒気を膨らませながら、マリアが声を震わせる。

 マークは何も言わない。

「冗談じゃないわよ。みんな来てるんだから、ウィーバーさんもスミスさんもラドグリフさんも……ミハエルさんなんかリンダちゃん連れてきてるってのに……」

 マークの眉が動いた。

「出席者の心配ですか? それどころではないでしょう? そもそもこの国の人間が死んだところで気にすることではない。人質の貴女には」

 淡々としたマークの声。そこには何の感情も読みとれない。

「バカにしないでっ、私はそこまで卑屈じゃないわ! そんなこと関係なく優しくしてくれるのは分かる、優しくしてくれたらちゃんと分かるんだからっ」

 うつむきながら、声を抑えながらマリアは叫びを振り絞る。

 その一瞬だけ、マークの顔に微笑みが浮かんだ。

「では、私とご同行いただいてよろしいですね?」

「……は?」

 相変わらず抑揚のないマークの声だったが、そこに混じった温度を察して、マリアは顔を上げた。

 やや面倒くさそうなマークの顔が迎える。

「私は暗殺の命を受けてここにいるのではありません。マリア姫様をエストラルド皇国へお送りする命を受けてここにいるのです」

「へ?」

 話の急展開にさすがについてこれなかったか、今までで一番拍子抜けした声が返ってきた。そのあどけなさに、マークは思わず苦笑する。

「“軍内部で様々な意見が対立した”と申し上げましたでしょう? 軍全体としてはマリア姫様の暗殺と開戦でいく方針ですが、中には貴女に帰国していただいて戦争を回避し、なるべく良好な関係を維持したいと考える者もいます。私は後者の命を受け、貴女を無事護送するために来たのです」

 シュミット中将の命であることは伏せる。軍命とは反する『お願い』なのだ。漏れたら中将の立場が危うい。

「え? えっと、その、あれ?」

 マークはさらさらと続けたのだが、マリアはまだ混乱しっぱなしだった。毅然と振る舞っていた姿とのギャップが大きいその様子は、年相応の少女の素が表れているようで微笑ましい。

 が、今は時間がない。

「マリア姫様、私はこの屋敷での虐殺と貴女の死、そして開戦を回避するために貴女を祖国まで護送する命を受けて参りました。ご同行いただけますか?」

 決断を促すために、マークは呑みやすくなる言葉を並べて提示し、もう一度問いかける。

 その言葉はマリアの混乱を一掃した。

「ええ」

「軍命に反した行動です。危険が伴います。残念ながら、御身の安全は絶対ではありません。それでもよろしいですか?」

「分かってる」

 返答が早い。マリアはすっかり立ち直っていた。

「早くみんなを帰さないと。誰一人として死なせるもんですか」

「お待ちを」

 踵を返そうとするマリアをマークが鋭く呼び止める。そして取り急ぎの手筈をマリアに言い含めながら、真剣な顔の裏で、真っ先に他人の身を案ずる姿に苦笑していた。

「分かったわ」

 指示を理解したマリアがうなずく。それからマークの目をのぞき込んだ。

「アンタ、名前なんだっけ?」

 思わず苦笑が表に出てしまいそうになった。

「アーハート中尉です」

 引き締めた顔のまま、マークが答える。

「じゃなくて、名前よ、な・ま・え」

 腰に手を当ててマリアが言い返した。振る舞いを装うつもりはもう毛頭無いらしく、お転婆そうな地が丸出しになっている。

「マーク、ですが?」

 虚を突かれたマークから不思議そうな声が出た。その面前に指を突きだして、にっこりと微笑む。

「うん、そうそう、今みたいに嬉しいときは素直に顔に出しなさい、マーク。その方が人間味があっていいわ」

 溌剌とした、その生き生きとした笑顔に、マークは応えられなかった。その無反応ぶりには気を留めず、マリアはドアへと振り返る。

 一歩踏み出す前に、もう一度マークへと顔を向けた。

「それから、私のことはマリアでいいからね」

 そう言い残してからマリアはドアノブに手をかける。マークの体が機械的に闇へと沈んだ。

 “ライアットはどこ?”と叫ぶマリアの声が足音とともに遠ざかってから、マークは再び物陰から姿を現す。そして荷物を開き、持ち込んだ道具を点検して組み立て始めた。

 ……嬉しい顔、か。

 さっきのマリアの言葉が思い出される。それこそ無表情にしていたはずだったのだが、マリアには作った顔は通じないにしても、自分が喜んでいるとは思ってもいなかった。思わぬ指摘に、マークの思考が少し奪われる。

 手が勝手に作業を進める。意識する必要は無い。条件反射になっている。

 ややあって、マークの口に本気の苦笑が浮かんだ。

 そうだな、俺は嬉しい。殺す仕事ではなく、護る仕事だからな。

 最初で最後の。

 荷物の底からエストラルドの軍服を取り出して、手早く着替える。必要な物は荷物にまとめて背負い、残ったものと、そして着てきたリーツ軍の礼服を鞄に入れて部屋の隅に置いた。少しだけ分かりにくいように。

 それは保険だった。もしこの任務に失敗した場合、エストラルド側がこれを発見できれば、マリアを連れだしたのが実はリーツ軍の者だったと主張できる。リーツ軍の一士官による暴走であれば、エストラルドはこの件には関与していないことになり、敵対行為など存在しなくなり、宣戦布告の口実を否定する要素の一つになるだろう。後の根回しはシュミット中将の双肩にかかるわけだが。

「護ってみせるさ」

 愛用の“グリズリー”を左右のガンホルダーに納める。そして窓際へと移動し、雪遊びで子供が使うソリを細長くしたような“ボード”を窓の側に置いた。

 一方、マリアはシャルを引き連れて、ほとんど駆け足でホールへと舞い戻っていた。

 ……居た!

 第一外交官のライアットの姿を見つける。都合のいいことに、マリアの位置に近い人混みの中だ。

「ライアット、ライアット!」

 人をかき分けながらマリアが叫ぶ。

「マリアお嬢様!? どうされました?」

 駆け寄ってくる姿に驚いたライアット外交官が慌てて迎えた。その袖を捕まえて、マリアは呼吸を整える。

 マークの言葉が脳裏に蘇った。

“ただ出席者を帰すのではなく、軍の部隊に殺させないようにする必要があります。貴女を取り戻すために突入するという理由を、貴女が自発的に帰国すると宣言することによって成り立たなくするのです。なるべく多くの客に聞こえる状況で、今晩の仕切り役の第一外交官に、こう告げてください”

「今、エストラルドからの使いが来て、カイル伯父様が亡くなったって!」

「何ですとっ!?」

 マリアの大声とライアットの叫び声が響きわたる。とたんに会場が騒然とし始めた。

「それで、至急皇国に戻って欲しいって! だから行ってくるね!」

「お、お嬢様! お待ちください!」

 踵を返そうとするマリアをライアットが引き留めようとする。

“引き留められても応じないように。良くて現状維持、下手すれば軟禁され、リーツ側に善後策を考える時間を与えるだけです”

「何言ってるの! もう迎えも来てるんだからっ!」

 ライアットを振り切って、マリアは駆け出す。ただし、わざと引き離さない程度の速さで。

「お待ちください、お嬢様!」

 ライアットの他にも数人が追いすがってきた。

“この部屋に戻るときに、何人かを引き連れてきてください。彼らには、皇国の迎えが姫様を連れていく場面の証人になってもらいます”

 そして手筈通りに舞い戻って部屋へと飛び込む。中にはエストラルド軍の服を着たマークが待っていた。

「マリアお嬢様っ! あ、貴方は!?」

 マリアに続いて入ってきたライアット達に、マークが敬礼で応える。

「エストラルド皇国陸軍第1大隊特務中隊情報部所属のケンツ・パーシヴァル小尉であります」

 もちろん嘘っぱちだ。

「エストラルド陸軍……パーシヴァル小尉?」

 ライアット外交官が目を丸くした。事態の成り行きについてこれていない。狙い通りだ。

「はい。軍命によりマリア様をお迎えにあがりました」

「あ、いや、しかしそんな話は……」

「外に部隊が控えています。何分火急のことでまだお手元に届いてはいないでしょうが、我々の行動に併せて外交ルートでも既に正式な通達が回っています」

 現状把握に努めようとするライアットを遮るように、マークが真っ赤な嘘を手早く続ける。冷静になる暇を与えてはいけない。彼らを“エストラルド皇国軍の部隊がマリア姫を連れだしていった”証人にするのだ。

「それでは、マリア姫様」

「ええ!」

 マークの差し伸べた手をマリアが取る。マークの足がボードの起動スイッチを踏み、加斥岩を軽く叩く連続音が響き始めて、ボードが浮いた。

 マークが窓を開ける。

「ちょ、ちょっと!? お嬢様!?」

 察したライアット外交官が奇声を上げた。窓の外は急斜面、というより崖だ。木々の頂上は一階にすら届かないほどの。

 ここは三階である。

 マリアはにっこりと笑い返した。

「それじゃ、行ってくるね。大丈夫だから心配しないで」

「部隊の者を待機させていますので。失礼」

 “エストラルド軍部隊が迎えた”ことをもう一度強調しながらマークも畳みかける。

 そして、ボードを窓の外へ放り投げ、マリアを抱えて飛び出した。

「マリアお嬢様あああぁぁぁぁぁ!」

 窓へと飛びついたライアットの悲鳴が夜空にこだまする。その悲鳴を背に、マークはボードの上へと着地した。

「ちょ、ちょっとおおおぉぉぉ!?」

 今度はマリアの悲鳴が響き渡った。

「お、落ちる、落ちてるうぅぅぅっ!」

「ええ、落ちていますね」

 マリアの絶叫に、マークはあっさりと答えた。

 そもそもボードは一人乗り、それも地面に浮いて滑るように進むためのものだ。二人乗りで空を飛ぶ能力など元から無い。従って、勢いがある程度は相殺される、とはいうもの、の。

 絶賛落下中なのだ。

「じゃないでしょうがあっ!」

「まあまあ」

 くってかかるマリアを平然とたしなめながら、マークはボードを足で操って落下地点をずらしていく。

 そして、葉ぶりの良い枝めがけてそのまま突っ込んだ。

「きゃあああぁぁぁっ!」

 悲鳴に併せて、枝が次々とへし折られて葉が舞い散る。

 最後に、どすん、とボードが地面を響かせた。

 散らされた葉が、二人の後を追ってくるように降ってくる。

「ちょっと、落ちるなら落ちるって言っときなさよ!」

「すみません、時間が惜しかったもので」

 激高するマリアにマークは笑って応えた。そして、

「このくらいで怯んでいたら身が保ちませんよ?」

と続ける。

「……アンタ、結構底意地悪いわね」

 悔しがるマリアに笑顔で応え、マークはボードの具合をチェックした。ガタはきてるが、動くことは動く。

 よし、問題無し。

 ボードを再起動させる。やや異音を立てつつ何とか浮き上がるその姿は、整備班が見れば即刻修理行きなのだが、マークは意にも介さない。

 ちなみに、マークは整備班からは“壊し屋”と呼ばれている。

「では、マリア姫様はこれを羽織ってこの上にお座りください」

 フード付きの外套を差し出しながら指示するマークに「わ、分かったわ」とやや引き気味に応えながらも素直に外套を羽織り、ボードに腰掛けてから、

「マーク、私のことはマリアでいいって言ったでしょ?」

と口をとがらせた。

「そうもいきませんよ」

とマークは苦笑してから、一瞬思案した。

「では行きますよ姫。急ぎますから振り落とされないように」

「分かってるわよっ」

 まだむくれ気味のままでマークに言い返して、マリアは「マリアでいいって言ってるのに」としつこく繰り返した。名前呼び捨てなど出来るはずもないから妥協してみたのだが、マリアには妥協案とは受け取れなかったらしい。

 ボードの出力を中の上にして先頭を掴み、マークが走り出す。

「わわわっ」

 結構な急発進に体勢を崩しかけたマリアが慌ててボードを掴み直した。

 周囲の木々が次から次へと後ろへ流れていく。その速度はならされた道を全力疾走しているのと何ら変わらなかった。それも単距離走で。とても生い茂る木々の間を縫っているとは思えない。マークはボードの先頭を細かく動かして滑るように進めていた。

 さて、どれだけ稼げるかな?

 わざわざ派手に飛び出したのだ。あれだけ騒ぎ声があがれば、外に潜んでいた突入役の兵たちも異変に気づいたはずだった。彼らにすれば完全なイレギュラーだから混乱は生じて、立て直して追ってくるまで間が出来るだろう。

 それまでの間に、出来るだけ距離を稼がなければならない。追ってくるなら殺す気でくるだろう。戦闘は避けられない。しかし、大使館の側でドンパチになっては“迎えにきた”のが怪しい話になってしまう。

 とはいえ、森の中でマークの疾走に追いつける者などそうはいない。実のところ、運さえ良ければこのまま振り切ってしまうことも不可能ではない。

 良ければ、である。

 周囲の気配に注意しながら、マークはとにかく走り続ける。

 少しして、銃声が響いても何とか無関係と言い張れそうなぐらいには距離が稼げた。

 走る悪寒。

 とっさにマークはボードごと身を屈めた。頭のあった位置を銃弾が飛び抜けるのと同時に、マークが振り向きざまにグリズリーを抜き撃つ。

 ガォンッ!

「きゃあっ!」

 急に沈み込んだこととすぐ横の轟音に、マリアが悲鳴を上げた。

「な、何?」

「追っ手です」

 面食らうマリアにマークは淡々と答えながら周囲の気配を探る。

 気配は無い。

 ……居るな。

 マークは胸の内で舌打ちした。気配が無さ過ぎる。本来あるはずの、森の生き物などの気配まで感じられない。抑えた殺気が充満しているのだ。

 囲まれそうだな。日頃の行いが悪いからなあ。

 のどの奥でだけ軽口を吐いた。どうやら運は悪かったらしい。それも最悪に近い。これだけの腕前はおそらく第1師団、それも精鋭どころだろう。

 たかだか茶番を演出するにしては手が込みすぎている。

 情報が漏れていたと考えた方が良さそうだった。中将への依頼主は大方穏健派の議員達だろうから、その辺りで嗅ぎつけられたと見るべき。とすると、始めからこの事態を想定してきていると考えられた。その上でここまで泳がされた。

 マークは全感覚を全開にした。気を抜けば、マリアの部屋に置いた“保険”が早速役に立ってしまう。

「……マーク?」

 様子を察したマリアが恐る恐る呼びかける。

「身を低く、しっかり掴まってて下さい」

 低い声。マリアがボードにしがみついた。

 完全に包囲されたらお終いだ。とっさに撃ち返したから、こちらの居場所は割れている。

 ならば。

 ボードを急発進させて木々の間へと突進する。先ほどまでよりもさらに速く、短距離走の選手顔負けの勢い。

 ダタタタタッ!

 追いかけるように後方右手から連射が続く。相手はラインメイルPV36マスターモデル。20口径のリーツ陸軍制式新型自動小銃だ。木々を盾に走り抜けながらマークが撃ち返した。

 ガォンッ!

「きゃあっ!」

 轟音とマリアの悲鳴の中、後ろで何かが倒れる音をマークの耳が拾う。愛用の拳銃L.W M500は50口径、10インチの銃身から火薬割増で弾き出される弾頭は“グリズリー”の通称よろしく熊でも打ち倒す、拳銃では世界最強の代物だ。防弾着をまとっていても、食らえば無事では済まない。

 その代わりに、拳銃としては規格外なほど重い、リボルバーには5発しか装填できない、反動が酷いと、携帯拳銃としては非実用的、それどころか欠陥品に近い。実際、好き好んで使っているのは第2師団でもマークだけだった。

 一人倒したことを確認しながら、マークは走り続ける。すぐに後方左手、後方、右手から銃撃が浴びせられた。

 ダタタッ! タタタ! ダタタタッ!

「きゃあああっ!」

「舌をかみますよっ」

 マリアの悲鳴を遮りながら、続けざまに3発撃ち返す。全て手応えあった。撃ち尽くした銃を戻して、素早くもう一丁を取り出す。

 ……?

 まだ包囲されていない前方左手へと駆け抜けながら、マークは違和感に眉をひそめた。

 攻めが甘い。単発過ぎる。反撃で倒されたからといって、殺る気ならもっと波状攻撃を仕掛けてくるはずだ。逃げる標的二つを仕留めるのに守り重視もあるまい。となると。

 追い込まれてる、か。

 進行方向はエストラルドとの国境を目指して西。今は主に右手側、つまり北から圧力をかけられているから、やや南よりになっている。このまま進めば、リーツからエストラルドへと東から西に流れるタルキス川に出る。夏前の雨季には大河となるが、乾期の今は水も引いて、川岸もそこそこ広い。

 このまま行けば袋の鼠だな。

 川岸には別の部隊が先回りしているのだろう。そこに追い込んで挟み撃ちにして叩く、といったところか。

 マークの思考を遮るように銃撃が浴びせられる。速度は緩めずに蛇行しながらグリズリーで応戦、手応えは無かったが、また追っ手が静かになった。

 今のも前方右手と右手からだった。やはり左手へと、南のタルキス川岸へと誘導している。

 潰すか。

 腹を決めて、誘いに乗って左へと流れながらも、出鱈目に蛇行しつつ残り3発を乱射する。そして一際大きい木の根本の窪みに身を寄せた。

「姫、姫!」

「あ、えっと、何?」

 聞き慣れない轟音が間近で鳴り続けたせいか遠くなったマリアの耳に、マークが小さいながら強く呼びかける。

「追っ手を片づけてきます。姫はここに隠れていて下さい。動かないように」

「う、うん」

 脳にまで響いたのか目の焦点がぼやけていたが、マリアは何とかうなずいてボードから降りる。マークは「失礼、お借りします」とマリアの外套をはぎ取って、マリアの代わりに自分の荷物をボードに乗せて、外套を被せた。

「いいですか? ここを動かないように」

 手早く弾を込めながら、マークが念を押す。マリアは今度はしっかりとうなずいた。

 さてと。お引き取りいただくには面倒な相手だが……。

 マークは意識を集中する。元々川岸へ向かうつもりだったから予定通りなのだが、こんな強面の付き添いはそこに含まれていない。

 口元が歪む。わずかに滲む、暗い歓喜。 

 悪く思うなよ。

 マークが飛び出す。続けざまに2発撃ち放ち、夜風のように森の闇へと消えた。

 その姿を見送ってから、マリアは極力木の窪みに身を沈めた。始めのうちはラインメイルの連射音の合間にマークのグリズリーが撃ち返す応酬が激しく続いたが、段々と銃声の間隔が広くなっていき、やがて散発的になる。

 静かになった。

 小一時間は経っただろうか。マークは帰ってこない。

 不気味だった。こんな状況は、命を狙われながら一人夜の森の中で潜む経験は、マリアにはもちろん無かった。轟音が飛び交う先ほども十分に恐ろしいものだったが、静寂になるとそれはそれで恐ろしい。

 もし、この後自分を訪れる者がマークでなかったら。

 背筋を悪寒が走り抜ける。気がつけば、自分の体は小さく震えていた。

 何よっ!

 自分の震えを見たマリアの中で、持ち前の負けん気が爆発する。かえって気が保ち直された。

 だって、寒いんだもんっ!

 マークに外套をはぎ取られたため、マリアは薄手のドレス一枚の姿だった。暖房も使える屋敷ならともかく夜の森の中、それも寒暖の差が大きい秋本番である。実際、寒いのだ。

 それを意識すると、今度は寒さが骨身に染みてきた。思わず泣きそうになり、夜空を見上げる。

 木々の隙間から月が覗いていた。頭上、真上に丸く輝いている。いつの間にか真夜中になっていたらしい。

 タタッ! タタタッ!

 マリアの身が電気が走ったかのように硬くなる。しばらくぶりの銃声だった。

 ……拳銃の音じゃなかった……。

 身震いが大きくなる。耳を澄ましたが、もう銃声は続いてこない。静まり返っている。何も聞こえない。

 いや、音はした。

 土を踏む、草を踏む音。最後に銃声のした方向から近づいてくる。一歩一歩、淡々とした足音。

 ぼんやりと浮かび上がってくる、エストラルドの軍服。手にはライフルらしき銃。

「姫」

 月明かりに浮かんだマークの顔で、マリアの強ばりが一気に解けた。そんな様子に気づく素振りもなく、マリアの傍まで淡々とマークは進んできた。手にはグリズリーではなくラインメイルを携えている。

「お待たせしました」

「お、遅かったじゃない!」

 軽く微笑んでみせるマークにマリアの不安が吹き出す。思わず突っかかってしまった。

「申し訳ありません。手間取りました」

 苦笑しながら詫びるマークに、マリアはばつが悪くなる。自分を護るために命を懸けた相手に言う台詞ではなかったことは自覚していた。

 目線を泳がせてから、恐る恐る口にする。

「……殺したの?」

「手加減できる相手ではありませんでしたから」

 事務的にマークが答える。その顔に特段の表情は無かった。目にも。

 言葉に詰まるマリアの様子を見て、マークが軽くため息を交えながら続ける。

「できる限り行動不能に留めるのは骨が折れました。おかげで随分時間がかかってしまい、申し訳ありません」

 マリアがまじまじと見つめる。マークは肩をすぼめる。マリアの体から本格的に緊張が抜け落ちて、マークは苦笑した。

 くしゅんっ。

 二人とも一瞬呆気にとられる。続けてもう一度マリアがくしゃみをして、マークはようやく気づいた。

「いけない、冷えてしまいましたね」

 素早く外套でマリアを包む。震えていた。夜中にこんな薄着でいれば無理もなかった。

「だ、大丈夫よっ」

 気丈に振る舞っているが、顔色はそう言っていない。戦地ど真ん中で待たされたのも堪えているだろう。早いこと休ませないといけない。

「失礼」

「ちょ、ちょっとっ!?」

 慌てるマリアをかまわず抱き上げてボードに乗せ、「急ぎましょう」と告げてマークは走り出した。

 また慌ててボードを掴むマリア。マークの疾走に衰えはない。舌を巻きながらも、その様子にマリアはようやく安心した。

 一方、マークは即座に臨戦態勢へと切り替えていた。

 追跡部隊は自分の目的地でもある川岸へと追い込もうとしていた。挟まれないために後ろを片づけたものの、時間は十分に経ってしまった。出迎えの布陣は、まず間違いなく整っている。

 鬼が出るか、蛇が出るか。

 追ってきたのが手間取るほどの手練れだったのだ。待っている輩も相応のものと考える方が妥当だ。奪ってきたラインメイル一丁とグリズリー二丁で足りるかどうか、難しいところだった。

 しかし、のんびりとしている時間は無い。まだ時折くしゃみをするマリアの体調も気がかりだが、夜があければ行く先々に幾重にも包囲網が敷かれてしまうはずだ。マークは急げるだけ急いだ。

 瞬く間に森を走り抜け、タルキス川が間近になる。マークは速度を緩めて、ボードの出力を最低まで落とし、夜風が葉を鳴らす音に紛れて音を消しながら川岸手前の茂みで止まった。

 口を開きかけるマリアを手で制して、川岸の様子をうかがう。

 ……マジか?

 マークは思わず天を仰ぎそうになった。

 月明かりに照らされながら獲物を森へと向ける敵影はたった二名。しかし、その二名が問題だった。

 片方は2mほどはある大男。身幅もハンパなく、力比べを挑んできたサンダース軍曹よりも軽く一回りは大きい。陸軍西方軍団に名を轟かせる第1師団の猛者、ゲイル・クロード小尉だ。

 そして、手にする獲物は彼をも上回る巨大さだった。その銃身、いや砲身は持ち主の身長を軽く凌ぎ、ドデカいシリンダ型弾倉が異様な姿をさらしている。その自重を支えるために、加斥岩を使って浮力を発生させる“フローター”が砲の下部全体にセットされている。特大の特注モノだ。でなければ、いかな巨漢でも1cmも持ち上げられまい。

 それもそのはず、現役の陸軍戦車TS87の主砲である30口径75mm戦車砲をそのまま流用して携帯型リボルバーカノンに改造した巨大銃火器なのだ。開発部門の“狂人”スミス技師長渾身の試作銃火器UWPS-2改、通称“タンク”である。

 その横に控える者の獲物も、それに負けず劣らず物々しい。月明かりに黒光りする1.5m超の銃身は6本一束、高速回転して毎分1500発の弾丸をまき散らす重機関銃だ。12.7mmの口径、つまりマークのグリズリーと同じ50口径とはいえ弾はライフル弾、破壊力は比べものにならない。試作銃火器UWPS-1、通称“ガトリング”だ。

 同じくフローターが押し上げて支えているのだが、こちらは銃身を回転させるモーターやバッテリー、そして2000発近い弾丸がセットになるため、100kgを超えるバックパックも背負わなければならない。その底にもフローターが取り付けられて重さは携帯可能なまでに軽減されているが、その巨大さは如何ともし難く、使い手がガトリングを持っているのかガトリングに使い手が付属しているのか分からないほどだ。

 使い手が小柄であれば、なおさら。

 夜風に輝く、緩く波打つ金髪。

 リナだった。

 UWPS運用実験特務兵で来るか……。

 試作とはいえリーツ共和国軍兵器開発部門の謹製、使い手を選ぶという欠陥はあれども既に実戦を幾度も経ている銃火器だ。あの二人が使う限り、もう実用品と同様である。

 それにしても大げさな布陣だった。先ほどの連中にタンクとガトリングが加われば、もはや一個中隊に匹敵する戦力にもなるだろう。たかが護衛一人の小娘を暗殺するのに投入する兵力ではない。この、きっちりと正攻法で固めつつ必要以上の駒をぶつけてくる容赦ない攻め手は……。

 アリシア・フォスター小佐か。

 風にたなびく深紅の髪が脳裏を横切った。指揮官としての功績で“紅騎士”と呼ばれるだけのことはある。

 追っ手を先に片づけておいて良かった、とマークは心から胸をなで下ろした。挟み撃ちにでもなっていたら、まず無事では済まなかっただろう。優秀な猟犬に追い立てられた兎が虎の前に飛び出すようなものだ。

 二人は動かない。その兎が猟犬を全滅させたとは思ってもみないだろうから、待っているのだ。

 静かにラインメイルを構える。

 100m少々の距離、拳銃では不可能だがライフルなら十分射程距離だ。気づかれる前に、まずリナの背負うバックパックを打ち抜く。シンプル故に頑丈なリボルバー型のタンクに比べて、制御機構が複雑なガトリングは一部でも破損すれば間違いなく動作不良を起こす。それでリナは無力化できる。考えうる最小限の負傷で。残るはタンクだが、如何な強力な大砲といえども、いや超重巨大な大砲故に、一対一ならば機動力を武器に渡り合えるだろう。

 慎重に狙いを定める。照門にリナからはみ出したバックパックを捕らえた。

 意識が一点に集中する。風が緩く吹き抜けて、止まった。

 くしゅんっ!

 夜の静寂が慎ましやかに、しかしはっきりと破られた。

 マークの真横で。

 凍り付くマーク。そっと振り向いた顔先で、くしゃみをしたマリアが口から手を離して“ごめんっ”と手を合わせた。

 ……おいっ!

 ガシャッ!

 マークの無言のツッコミと、物々しい音とが同時にあがる。タンクとガトリングがこちらへと向けられていた。

 ちっ。やはり聞き逃してはくれなかったか。

 胸の内で舌打ちする。抑えたくしゃみで、距離があっても、気づかないほど大らかな相手ではなかった。リナの耳が良いことは十分承知していた。

 こちらの茂みをまっすぐににらみつけるリナの顔。マークの胸に少し罪悪感が生まれる。

 それを見越したかのように、リナが叫んだ。

「アーハート中尉ぃっ!」

 響きわたる叫び声。そこには、普段には無い悲痛さが混じっていた。

「……マーク?」

 叫び声に含まれるものを察したマリアが、怪訝そうにささやく。

 マークは、一息吸い込んだ。

「すまん! リナっ」

 言外に含まれる問いかけに答えて、マークはボードの出力を跳ね上げて森の奥へと飛び退く。

 マークの答えに、初めて呼ばれたファーストネームに、リナの中で何かが切れた。

 ギィィィィィィィィィ!!!

 ガトリングが甲高い悲鳴を放つ。

 ドガガガガガガガガガ!!!

「きゃあああっ!」

 マークとマリアが居たあたりを炸裂音がなぎ払う。一帯が穴だらけになるのを見て、悲鳴を上げたマリアが震え上がった。

 二人を追ってリナが森へと飛び込み、続けざまにガトリングを撃ち放つ。

 響く炸裂音、なぎ払われる木々。

「な、何よアレっ!? あの娘何!?」

 文字通り何十何百と降り注ぐ弾幕の間で、悲鳴混じりにマリアが叫ぶ。

「陸軍の試作重機関銃、部下のリナ・ウェルトヘイン准尉です!」

 走りながらマークが手短に答える。

 ガトリングは、通常は装甲車両などに備え付けられる、間違っても持ち運べるはずのない重機関銃を一兵士が運用出来るかどうか、その限界を試す目的で作られたものだ。元が元だけに射撃時の反動が凄まじい。本来は固定することで吸収するその衝撃は、銃の後部に取り付けられたフローターと同じ構造の“リフレクター”が相殺する仕組みになっているが、それでも高速連射のタイミングと完全一致させられるわけがなく、銃身が常に細かく鋭く跳ね回ってしまうという欠陥を抱えている。狙ったところにまともに弾は飛ばないのだ。

 天賦の平衡感覚と繊細さを誇るリナでなければ。

 マークはひたすら木々の間を風のように蛇行し続けた。この大森林地帯を元にしてタルキスは林業も盛んで、タルキス川沿いは木材資源の収穫地でもあり、手頃な大きさに育ったものは伐採されるため、ガトリングを防げる程の大木は数少ない。下手に立ち止まってあの斉射を浴びようものなら、痛みを感じる前に挽き肉になってしまう。

 それに。

 ドオォウゥンッ!!!

 ドゴアァァンッ!!!

 砲声と轟音がほとんど同時に響きわたり、地響きとともにマーク達の右手奥、やや離れた位置にあった大きめの木が地面ごと抉られ吹き飛んだ。

「きゃあぁぁぁっ!」

 衝撃波に当てられたマリアが振り落とされそうになる。

 確かに“戦車”だ!

 川岸に残ったゲイル・クロード小尉の砲撃。“歩兵が持ちうる限界の火力”を追求した結果生まれたタンクの、現役の戦車砲がガトリングからの盾になりそうなところをクレーターに変えてしまう。

 マリアを支えながら急旋回、一瞬遅れてそこをガトリングの爆音がなぎ払っていく。

 見事な連携だった。付け入る隙が見あたらない。

「ちょ、ちょっと、痴話喧嘩はよそでやってよっ!」

 マリアの叫びに思わずつんのめりそうになる。体勢をキープして、走りながら「何言ってるんですか!」とマークが怒鳴り返した。

「あの娘、アンタの想い人なんでしょおがっ!」

「部下だと言ったでしょう!」

「あっちはそう思ってないわよっ!」

 戦車砲と重機関銃の轟音が響きわたる中で二人の怒鳴り合いが続いた。そのあまりに場違いな内容に、マークの気が抜けそうになる。

 肝が据わっているというか、何というか……。

 気を取り直して計算する。

 タンクからの砲撃は2発、ガトリングは通算でそろそろ1分近く連射したか?

 砲弾の射出に耐えるためにタンクのシリンダは論外に肉厚な鋼鉄製で、装填数は4発しかない。ガトリングも1分強も連射すれば弾切れになる。撃ち尽くすまで逃げ切れれば勝ちだ。

 ……が。

 そう上手くいかないのは目前だった。激高して惜しみなく連射していながらも、リナは的確にマーク達を川岸へと追い立てている。実際、もう瀬戸際まで追い込まれていた。

 ドガガガガガガガガガ!!! 

 ドゴアァァンッ!!!

 ガトリングとタンクの爆音が順番に炸裂する。悪魔の連射に追い立てられたところへ巨人の一撃をお見舞いされ、爆風で押し出されるようにマーク達は川岸へと飛び出した。

 ヴィィィィィ……。

 追って森から現れたリナのガトリングがか細い悲鳴を上げて沈黙する。弾切れだ。

 リナは口元を歪めた。

 その様子を一瞥して、マークはゲイルと向き合った。向こうは既にこちらへと砲門を定めている。

 残り1発。

 だが、その1発が問題だ。戦車砲と小銃で真正面の早撃ち、しかも相手は後は引き金を引くだけの姿勢では勝負にならない。

 砲門はマークではなく、マークの足下へと向けられている。弾道を読まれてかわされる可能性を踏まえて、着弾の衝撃で仕留めるつもりなのだ。自分一人ならともかく、マリアを抱えている現状では厳しい狙われ方だった。

 勝負どころだな。

 マークは腹を据えた。

「彼女は部下ですよ、姫。上官として慕われているとは思います」

 マリアへは顔を向けずに、先ほどの続きを小さな声で告げる。「あのね、アンタ……」とその横顔を横目で睨んだところで、しかしマリアは口をつぐんだ。

 マークが本気でそう思っていることが分かったのだ。

 そう、マークは本当にそう思っていた。それはリナだけに限った話ではない。上官として慕われる、軍人として信頼されることは認識出来ても、一個人として、人間マーク・アーハートとして慕われるということが認識出来ないのだ。

 幼少期から戦場で育ち、傭兵として破壊と殺戮、軍人として戦闘、そして汚れ役として破壊工作と暗殺で評価され認められてきた、いや、それでしか存在を認められなかったマークには、それ以外で必要とされるという事態が認識できない。それは受け入れるとか理解するとかの次元ではなく、その項目自体が意識から完全に欠落していた。

 兵士として、暗殺者として必要とされる存在。それがマークにとっての自分であり、そして全てだった。

 自己認識がそこで完結してしまっているのだから、マークには周囲の好意は届かない。それどころか、任務の度に闇の淵から首をもたげてくる、破壊と殺戮に狂喜する自分を受け入れている彼は、むしろ善い人間とは微妙に距離を作ろうとする傾向すらあった。

 マリアの目には、その姿は遠く、ひどく寂しげに写った。

 一方、ゲイルは向かい合うマークの姿に戦慄を覚えていた。

 狙い通りの形勢に持ち込めたとはいえ、自分の残弾数はたった1発、ウェルトヘイン准尉のガトリングは弾切れだ。

 決して不味い攻撃ではなかった。それどころか、急造のコンビだったにもかかわらず完璧と言っても過言ではないコンビネーションだった。息を合わせるウェルトヘイン准尉の働きぶりに、彼は内心舌を巻いていたほどだ。それなのに残り1発、ギリギリで何とかなったに過ぎない。本気で殺す気でやったというのに。

“逃亡阻止の任務ですが、生死は問いません。むしろ殺す気でやりなさい。おそらく、それで拘束できるでしょう”

 緊急召集を受けて参じた席で、指揮を執ることになったアリシア・フォスター小佐の言葉が蘇る。まったくその通りだった。第1師団の中でも、あの攻撃を五体満足でしのぐ者など思い浮かばない。

 しかし、もう詰んだ。

「アーハート中尉、投降して下さい」

 低い声で機械的に、しかしはっきりとゲイルは告げた。マークは応えない。

 ここまで出来る男が簡単にうなずくとは、ゲイルも始めから思っていなかった。やはり爆風で倒す他ないと決心したところで、小佐の言葉がもう一度脳裏を横切った。

“拘束できる”

 そう、“拘束”と言った。生死は問わない、殺す気でと言いながらも、殺してでも阻止するようにとは言わなかった。

 その機微に気づいたゲイルの中で、狙いに若干の修正がなされる。フローターをつけてなお論外な超重量のタンクを唯一扱える巨漢は、理知的で思慮深い、人間的な男だった。

 と、ゲイルの目が変化を捕らえた。

 砲門の先のマークの手がゆっくりと動き始める。横へと上がっていき、そして掌を広げた。ラインメイルが地面へと落ちる。

 来るか。

 ゲイルの神経が張りつめる。

 マークがにやっと笑った。

「断る」

 両者が同時に動いた。マークがマリアを抱えて身を沈める。ゲイルが引き金を引く。

 ドゴアァァンッ!!!

 爆撃が大地を抉る。衝撃が四方へと走り、爆風の中で石礫が散弾のように飛散する。

「なっ!」

 ゲイルの目が驚愕に開かれた。

 爆煙を突き破るように現れたマークの姿はマリアを抱いたまま低めの放物線を描いて後方へと飛び、そして身を翻して、その足は地面を数m削りながらも着地の衝撃に耐えきってみせたのだ。

 しのいでみせた、戦車砲の砲撃を。あまつさえ距離まで稼いで。

「ば、バカな……」

 ゲイルは呆然と立ち尽くした。

 確かに、狙いをずらしはした。仕留めるのではなく、確実に行動不能にする程度には。だがそれも相手を見くびったところはなく、むしろ彼の中では“もしかしたら死ななくてすむかもしれない”ぐらいの期待が持てる程度のもの。非戦闘員を抱えて無事に済むなどあり得ない話だった。月明かりの下、さらに距離をあけられたその先でマリア姫に話しかけているらしき姿に、ゲイルは畏怖を感じていた。

「姫。姫、大丈夫ですか?」

「……ぁっ、……ぅう……っ」

 マークが揺すりながら呼びかけても、マリアはすぐには受け答えが出来なかった。見れば半分目を回している。無理もない、本当なら気を失うぐらいが当然なのだ。その様子にかまわずに素早く目を走らせて、マークは一安心した。どうやら、目立った外傷は見あたらない。

 助かった。情けもかけてもらえたようだな。

 ゲイルへと視線を向けながら、マークは一息つく。

 砲弾が炸裂する瞬間、マリアを抱えたマークは、ボードを裏返して衝撃波に乗ったのだ。出力を最大にしてボードに出来る限りの衝撃を吸収させ、砕ける直前に踏み切って後ろへと跳躍。それも高く舞い上がってしまわないように注意して。

 ボードを踏み切るのが一瞬早くても遅くても衝撃をまともに喰らってあの世行き、また、跳ぶ角度が高くても低くても地面に叩きつけられて致命傷。まさに刹那の神業である。

 それでも足の一本や二本は逝ってしまうのも覚悟していたのだが、五体満足で済んだあたり、狙いがわずかに外されたことをマークは理解していた。胸の内で素直に感謝する。

 それから、着地点がまさしく今まで目指していたポイントだった偶然にも。

 腕の中で、マリアが大きく息を吐くのを感じた。

「……い、生きてる?」

「ええ、生きていますよ」

 息を吹き返したマリアが、憮然と頬を膨らませた。

「死んだと思ったわ」

「死なせませんよ」

 見上げるマリアに、マークが微笑む。そして、石で偽装した木の蓋を取り払い、中のレバーを思い切り引いた。

 ボッ!ボボボムッ!

 川と岸の境で籠もった爆発音が続き、同時にマークの背後で地面にカモフラージュしていた板がバネ仕掛けで跳ね上がる。

「へっ?」

「えっ!?」

「何だと!?」

 マリアと、離れたリナとゲイルが驚く中、川から流れ込んだ水で穴から押し上げられてきたのは、二人乗りの小型ボートだった。

 即席の簡易ドック。マークの午前中の仕込みの一つだ。

 間髪入れずにマークはマリアごとボートへと身を翻す。そしてエンジンをスタートさせて川下へ、エストラルド方面へと舵を切った。

「アーハート中尉ぃぃっ!」

 今度ははっきりと悲痛さの表れたリナの叫び声。しかし、急加速する船上から応えはなかった。

 ボートはみるみる速度を上げて、瞬く間に激戦の地を引き離していく。

 夜の空気が、ボートに切り裂かれたお返しとばかりに肌から温もりを奪っていく。マリアは外套の裾を重ね合わせて、マークの顔を横目で覗いた。

 無表情だった。少し所在無さげな様子ではあったが。

 マリアの感覚では、上司として慕っているだけの相手にあれだけマジギレすることは、まずあり得ない。彼女が自覚しているかどうかは別にしても、それを超えた想いがあるはずだ。それをこの男はまるで感じ取っていない、本気で上官として慕われているだけだと思っている。

 何となく虫の居所が悪くなってきた。マークの来歴を知る由もないマリアの中の審判員が“お手上げレベルの鈍感”の判を押したのだ。

 ……こんなののどこがいいっていうのよ?

 勝手にむくれながら、まじまじと“鈍感男”の横顔をにらみつける。

 確かに、頼りがいはありそ……あったけど。

 追ってきた兵士との森の中での乱戦、巨大な銃器をふるう相手との川岸での激戦を思い出す。大勢を打ち倒し、重機関銃で狙われてもかわし、大砲で撃たれても宙を舞いしのぐ。

 いかなる時も揺るぎ無かった顔。やや所在なさげな顔。

 ほんの少しだけ、寂しそうな……。

 視線を感じたマークが振り向く。

 目が合って、マリアは急いで顔をそらした。

「どうかしましたか?」

「な、何でもないわよっ」

 平然と訊くマークに、マリアは慌てて応える。

「姫? 大丈夫ですか?」

 マークが少しのぞき込み気味になる。顔が近づく。

「ななっ、何でもないったら!」

 マリアが動揺する。動悸が速くなってやや息苦しかった。顔も火照ってきて、ぼんやりして考えがまとまらない。

 マークの手が流れるように動く。

 マリアに触れた。

 冷たっ。

「……熱い。いけない、熱が出ていますね」

 眉をひそめるマーク。マリアは呆気にとられた。

 そう言われると何だか熱っぽいし、頭もくらくらする。自覚したことで症状が一気にあふれ出した。

 意識が遠のきかけてふらつくマリアをマークが支える。

 まずい、少々過酷すぎたか。

 心の中でマークが舌打ちする。精鋭相手の戦闘に加えてUWPS運用実験特務兵との戦闘にまで巻き込まれたのだ。加えてこの寒空の中に薄着、熱の一つも出さない方が不自然だ。準備と配慮が足りなかったことをマークは後悔した。

 しかし……。

 自分の上着を脱いでマリアに羽織らせながら、マークは後方へと目を走らせる。

 今のところ新たな追っ手の姿は見えない。しかし、指揮がアリシアだとなると、これで手詰まりになってくれるとは考え難い。十中八九、包囲を破られた場合の次善策を用意しているはずだ。マークは確信していた。

 まだ振り切ってはいない。姿は見えなくても、こちらは見られている。

 ここで休む訳にはいかなかった。まだ逃走経路は一本のままだ。複数に見せかけて相手を迷わせるところまで予定を進めなければならない。

 その時、マークの意識が異変を拾った。

 森の中からこちらへ近づいてくる気配がある。大勢ではない、おそらく単独。しかし、小型故に馬力も少ないとはいえ、流れに乗って進むボートに併走してこれるとなると……。それも木々の間を、だ。

 進行方向の川下へと目を向ける。乾期で川幅も随分狭まっている。特に、次に流れが蛇行する辺りは10m少々しかない。

 来るな。

 ボートのエンジンを切って追跡者とは逆の川岸、砂地が広がる川辺へと舵を切る。ボートは瞬く間に川辺へと近づく。残り3m、2m……。

 その瞬間、森から影が飛び出した。

「くっ!」

 影に蹴り飛ばされたマークが川辺へと転がる。遅れてボートが川辺へと乗り上げ、中からマリアの悲鳴が上がった。

「きゃあっ!」

「そのまま伏せて、姫!」

 素早く起きあがって体勢を整えながらマークが叫ぶ。見据えた先、5mほどのところで影が月明かりの中で「へへっ」と笑った。

「よお、ダニエル」

「逃がしゃしませんよ」

 約10mを飛翔したダニエル・コルトー准尉が屈託ない笑顔を見せる。

「お前が追っ手か」

「ウス。ま、保険っスよ。出番があるとは思い難かったんスけどね」

 肩をすくめて見せるダニエル。そして、

「でも、信じてたっスよ、師匠」

と続けて胸を張った。マークは思わず苦笑する。

「何でお前が自慢するんだよ?」

「いやあ、そりゃあ弟子としては」

 “自慢の師匠ですから”と笑顔で伝えるダニエルに、マークは頭をかいて応えた。

 確かに、マークはダニエルに格闘術の手ほどきをしたことがあり、それ以来“師匠”と呼ばれていた。マークの技を学ぶ中で、マークがそれを身につけるために費やした時間や労力を理解した彼は、その膨大な鍛錬の権化であるマークを敬愛するようになったのだ。

 もっとも、マークの10年分をたった1年で身につけてしまったダニエルに、彼は驚嘆を通り越して唖然としたものだが。

 マークがダニエルの足元を目で指して問いかける。

「使いこなしているみたいだな」

「ええ、バッチリっスよ」

 小さく飛び跳ねながらダニエルが親指を立てる。

 膝も足首も曲げずに。

 陸軍開発部門の試作軍用装具UTPS-8、通称“ラビット”。靴底に加斥岩を仕込んだ特殊機構の軍用ブーツが可愛らしい通称のように、もといそれを超えた非常識な能力を発揮するのは、先ほどダニエルが証明して見せた通りだ。10m程度は楽に跳べるし、森の中でもボート相手ならば追いついてみせる。

 もっとも、それも使いこなせるならば、だ。その跳躍力はそのまま高出力を意味し、ゼロから最大値までの幅が広すぎて、力加減を間違えれば歩くことすらままならない。チューニングがピーキー過ぎるのだ。人間離れした運動センスと卓越した身体能力がそろわなければ“兎”の背で振り回されてしまう。

 その超人が、マークの前で構えをとった。

「さあ、一緒に帰ってもらいますよ師匠。リナが泣くんで」

 表情を一転させたダニエルが声を低める。真剣な表情と終わりの一言が、マークを微笑ませた。

「お前が拭いてやれ」

「師匠じゃないと、ね」

 “今は”と目で言いながらダニエルが気を張りつめた。空気が変わり、夜の冷気よりも肌を刺してくる。その本気に応えて、マークも拳を構えた。

 ……が。

「何故手ぶらで来た?」

 マークが疑問を口にした。ダニエルは銃火器はおろかナイフ一本も携帯していない。

「それじゃ意味がないんで。俺は師匠を越えてみせる。そのために鍛えてきたんだ」

 ダニエルの答えにマークは苦笑した。いかにもこの若者らしい答えだったが、軍人としては難ありだ。私情よりも任務を優先させなければならないというのに。だが、それがあながち無謀というわけではない。それを許すだけの技量があることを、マークは重々承知していた。

 空気が重い。

 5mなどラビットを履いたダニエルにはゼロ距離と何ら変わりはない。だが、5m程度ならマークの間合いの中でもあった。それを理解しているダニエルは迂闊には攻めてこない。

 しかし、これではらちがあかない。

 マークはガードを少し開け、にやりと笑う。

 意図を理解して、ダニエルも笑って応える。

 唐突にダニエルの位置が目の前になった。なった瞬間に、すでに右拳が目前に突き出されている。

 左手で受け流しながらダニエルの背後へ。手が痺れた。威力を捌き切れていない。

 間髪入れず、ダニエルの右肩がマークに接してくる。とっさに後ろへ間を取るのと、ダニエルが大地を踏みしめるのが同時。

 くっ!

 ダニエルの肩に触れられたところから衝撃が伝わる。かわしきれずに下がったマークの体勢が少し崩れた。そこへ上から踵が降ってくる。前方へ回転しながら、巻き込むように放たれる左後ろ回し蹴り。受けるために上げる両手、しかしダニエルの踵は触れずにその向こう側を吹き抜け降りる。足を伸ばし切らずに、地面へと降ろして踏みしめた。

 最初に踏み込まれたときと同じ姿勢。

 ドズンッ!

 鉄球でも落ちたかのような重量音が響きわたる。ダニエルの渾身の右拳をマークが両手で受けたのだ。

「さすがっスね」

「お前こそ」

 不敵に笑い合ってから、お互いに飛び退いて間合いを取る。

 ……本当に、大したものだ。

 痺れる両手で構えながら、マークは賞賛を惜しまなかった。

 マークの体術の基礎は足にあった。拳を放つにしても、攻撃を受けるにしても、大きな力を発するためには必ず地面を踏みしめる。自分一人の力、人間の力だけではなく、不動の大地を支えにするのだ。攻撃も防御もさながら大地が繰り出すようなもので、放たれる拳を喰らうのは地面から突き出す岩に激突するのと変わらない、尋常ではなく重い一撃となる。また、力自慢が突進しても、地に根を生やした大木を相手にしたかのように受け止められてしまう。

 力のベクトルの始点・終点を不動の大地に完全一致させる技。それがマークの強さを成す一つの基盤だった。

 それをダニエルは完全に体得していた。

 いや、実際はそれどころではなかった。ダニエルはラビットを履いているのだ。わずかな力加減で跳ね飛んでしまう、通常でも制御困難な高出力推進機構。そんなものを身につけていてマークと対等以上に渡り合える、ということは。

 ……まずいな。

 マークは評価を大幅に改めた。目の前に立ちふさがるのは、もはや弟子などではない。力の使い方では自身を凌駕する、自分以上の技量を誇る闘士だった。

 今のやりとりは通常の格闘戦に倣ったもの、特殊な武器を使わない、無手の試合のようなものだ。自分を認めさせるために、ダニエルはあえて使わなかったのだ。証明が終わったのならば、任務遂行のために次は使ってくるだろう。

「いきますよ」

 マークの危惧通り、ダニエルの気配が変わった。

 瞬間、ダニエルの姿が目の前から消える。

 視界の端をかすめて消える影を追うと、今度は逆サイドへと影が飛翔して、また視界の外へと消える。

 目で追おうとした瞬間、後ろで大地を蹴る音。

 とっさに振り向きながら飛び退くマークに、弾丸のように襲いかかるダニエルの跳び蹴り。かろうじて両手を十字にして受けたが、モロに喰らってマークは吹き飛ばされた。

 何とか転がらずに着地するマークの眼前に広がるダニエルの靴底。反射で首を捻ってその跳び蹴りをかわす。背後でまた足音がするのと、マークが横へと大きく飛び退くのが同時、マークが居たところを影が吹き抜けていった。

 マークが大急ぎで体勢を立て直す。そのそばから、前後左右から飛来する影の連撃。

 手に負えんっ!

 かろうじて捌きながら、マークは声に出さずに呻いた。川を楽々飛び越えるラビットの跳躍能力を駆使して、瞬時に死角へと移動しながら加えられる攻撃。何しろ一歩で視界の外へと逃げられてしまうのだから堪らない。スピード最優先で低く飛翔するダニエルはまさに疾風、さながら竜巻に囲まれているようだった。

 試用した誰もがまともに扱えなかった馬鹿げた試作機をここまで使いこなすか!?

 打ちつける暴風の中心でマークは舌を巻いた。

 そのとき、マークの中で何かが切り替わった。

 闇の淵から迫りあがる塊。

 受け入れるマーク。いつものように。

 口元に浮かぶ狂喜。

 マークの体が右へと傾く。飛び退く方向を狙って、ダニエルが襲いかかる。

 その腹にマークの右拳が食い込んだ。

「ぐはっ!」

 カウンターで撃墜されたダニエルから呻き声があがる。ボディへの一撃なのに、意識が飛びかけた。歯を食いしばって耐える頭上から、マークの肘が降ってくる。かろうじて両手で受けるダニエル。

 !?

 マークに押さえつけられる形になりながら、ダニエルは混乱していた。さっきマークは右へ跳躍しようとしていた。いや、跳躍“しよう”ではなく“した”姿勢だった。それなのに居るはずのところにその姿はなく、代わりに自分がカウンターを喰らっている。

 マークは、“右へ飛んだ姿勢”で後ろへと下がっていた。

 唐突にこめかみに衝撃が走った。マークの右膝が直撃して脳を揺らされる。

 そ、そんなっ!?

 ぐらつきながらも何とか立て直そうとするが、あり得ない衝撃に驚きは隠せない。あの姿勢からでは当てるのが精一杯、そんな重さの一撃は出せないはずだった。

 飛び退こうとする前に、目前にマークが現れる。動きにリズムが、予備動作が無い。コマ落としのフィルムを見ているかのようだ。

 マークの右足が踏み込む。左肩が動いた。

 左ストレート。

「がはっ!!」

 受け流そうと左後方へ捻った体に、そのわき腹にマークの膝が深々と突き刺さる。踏み込んだはずの右膝。体重が乗っていたはず、軸足だったはずなのに。それも間合いを詰めて。

 踏み込んだ姿勢のままで、マークはさらに踏み込んできたのだ。

 理不尽な一撃をまた腹に叩き込まれて悶絶する。デタラメな姿勢と動きからなのに、いずれも力の乗った、大地を支えにしたマークの打撃だった。今度こそ意識が遠のく。

 かすむ意識の中、見上げたダニエルの目に映った最後の光景は、組んだ両手を高く掲げ、口元を愉悦に歪めた恩師の、光る獣の目だった。

 ……“戦場の悪魔”……。

 頭蓋へと降り下ろされる一撃でそのまま地面へと叩き伏せられ、ダニエルは昏倒した。

 ダニエルが完全に沈黙したのを確かめる。それから、ようやくマークは大きく息を吐いた。

 本当に大したやつだよ、お前は。

 ダニエルを見下ろしながら、マークは彼に本気の賞賛を捧げた。マークの10年を1年で身につけた天才は、もうその10年を完全に凌駕していたのだ。

 ただ、マークのその後の10年を彼は知らなかった。

 訓練ではなく実戦での本気、マークの本性を引き出した相手はそうは居ない。生き残っているものが居ないのだ。殺すための技は自分が生き残るためのもの。伝え広めるものではない。

 マークは、現役の暗殺者だった。

 それでも、伝えなくてもこの若者ならばいずれは勝手に届くだろう。今見せてしまったのだから、ダニエルならば2、3年もすれば。それを思うと、恐ろしくもあり、楽しみでもあった。

 さて、と。

 気を取り直して、ダニエルの言葉を思い出す。“保険”と自分のことを言っていた。鵜呑みにするならば、これで一通りは片づけたことになる。そう思うならひと段落なのだが、そうは甘くないはずだ。

 保険が“迷わず”追ってきた。

 マークは全身の神経を総動員する。どんな些細な気配も漏らさないように、周囲に意識を張り巡らせた。その上で、迅速に行動を開始する。

 ボートへ駆け戻るマーク。中ではマリアが身を丸めて横たわっていた。「姫」と声をかけても反応がない。手を触れた額が熱く、呼吸も浅い。どうやら本格的に体調を崩したようだ。早く休ませないといけない。

 その時、マークの肌が這うものを感じた。薄く小さく、しかしはっきりと伝っていく。

 肩口から胴体へと、殺気が。

 ボートに積んでおいた備品の中に手を突っ込んで、握りだしたもののピンを引き抜く。瞬く速さで振り向いて、殺気を向けてくる方向へ投げつけた。

 一瞬、昼夜が逆転する。

 宙を舞ったスタングレネードはさしたる爆音はないが閃光は最上級、つまり照明弾と同じで目眩ましの効果しかなく、対峙する相手を麻痺させるには少々物足りないものだ。

 しかし、“目”を潰すにはこれ以上のものはない。

 狙い通りに、その光はマークから1km以上離れた空に浮かぶハインツ・レオンハルト少尉の目を焼いた。

「うっ!」

 視界を奪われてハインツが呻く。狙撃銃のスコープで覗いていたことが仇になった。強力な閃光弾を目の前で受けたようなもの、これでは少しの間はまともに見えやしない。覗いていた利き目は、特に。

 それにしても、とハインツは驚きを隠せなかった。

 あのコルトーを沈めた腕もさることながら、こちらが張り付いていることに気づいていて、狙撃のタイミングに感づいてスタングレネードを放ってくるとは。この距離で殺気を感知したとでも言うのか? 

 今回の任務は部隊の“目”として標的を追跡することだった。従って、徹頭徹尾観察しかしていない。位置が気づかれるとすれば、コルトーが倒された後、ハインツが狙撃を決意してからのはずだった。

 それに、月夜だから空中に浮かぶのは避けて、頭一つ抜き出た木の先に寄り添うようにしながら飛行していた。ハインツが乗る試作軍用装備UTPS-4Ⅲ、一人用小型浮遊砲台“オウル”の前面の弾避けには迷彩柄がプリントされている。目視では発見不可能だ。

 やり過ぎの感のある包囲網を突破され、万一の保険も切り抜けられた場合の最終手段として、動力の加斥岩で発生してしまう振動の中でも遠距離を正確に撃ち抜ける技量を持つハインツが選ばれたのだが、これでは完全に標的を見失うことになる。本末転倒だった。

 オウルは“浮遊”砲台だ。高速飛行は出来ない。視界が回復して駆けつけても多分もぬけの空だろう。大人しく待っている間抜けはいない。少なくとも、自分ならこの隙に姿をくらます。

 そのハインツの想像通り、マークはスタングレネードを放った後に即座にボートを発進させていた。

 全速力で川辺から離脱しながら、後方を振り返る。

 引き金を引く瞬間まで殺気は抑えるようにな、ハインツ。

 届かぬアドバイスを心の中で呟く。その点だけに限れば、ハインツよりも森の中で乱戦した精鋭部隊の方が上だった。しかし、それも後は場数の問題だから、いずれは彼も国外にまで名が知れ渡る一流のスナイパーになるだろう。

 それにしても、とマークは口元を緩めた。

 ハインツは胴を、おそらくは腹を狙ってきた。彼の腕ならばヘッドショットが決まる距離だ。胴体の中でも急所を外して致命傷にならない箇所を撃とうとしたのだろう。

 “リナが泣くんで”と言いながら挑んできたダニエルの顔が浮かぶ。あいつも素手で打ち倒そうとしてきた。そろいもそろって、何とか生きて捕らえようとしたわけだ。普段から衝突している二人が、リナのために、と。

 最後に、善い若者たちが残っていることを確かめられて素直に嬉しかった。

 大丈夫だ。自分がいなくなっても。

 寂寥がほんの微かに混じる安心を感じながら、マークは舵を切る。

 ボートは暗い川を切り裂きながら夜の闇へと突き進んでいった。


「……それで、結果は?」

「はっ! 追跡部隊のうち死亡3名、意識不明の重傷者が2名、他重傷者10名、軽傷者24名! UWPS及びUTPS運用実験特務兵では、タンクとガトリングは兵は無事ですが弾切れにより戦闘不能、ラビットは左肋骨骨折他の重傷、オウルは閃光手榴弾により狙撃及び追跡を不可能に追い込まれ、目標の現在位置は不明であります!」

 アリシアの抑えた声に勢いのある報告が返った。

 報告を読み上げる声に余計な驚きが感じられたが、それも無理もない話だった。

 リーツ陸軍最強の第1師団の中でも精鋭が集まる空挺強襲大隊から選ばれた2個小隊約40名が全滅、火力で言えば歩兵1個中隊にも匹敵するタンクとガトリングも及ばず、一対一ならば倒せるものなどいないはずのラビットが病床送り、挙げ句に隠密だったスナイパーの目まで眩まされて逃走されたのだ。

 しかも死者は3名、最小限に近い被害だ。つまり、本気で襲った空挺強襲部隊が、極力行動不能になるように配慮して倒されたことを意味する。

 時刻は午前6時手前、もう朝だ。見失ってから5時間以上経過している。

 全ての面で、完敗だった。

「ちっ、だから中隊ぐらい出せと言ったのだ」

 忌々しげに毒づく声。露骨に敵意の込められた口調に、アリシアは平淡に返す。

「申し訳ありません。ですが『秘密裏に』との指令でしたので。ウォルフ中将もご納得いただけていたかと」

「ふん、逃げられては元も子もない」

 ウォルフが睨みつけながら吐き捨てる。その視線を無視するように心がけながら、内心で呆れていた。

 無茶苦茶な注文をつけながら、よく言うわ。

 勤務明けて自室でくつろごうとしたところに非常召集をかけられ、来てみれば「エストラルドのマリア姫を陸軍一士官が暴走して『誘拐』した。この『二名』を『秘密裏』に『殺害』せよ。質問は受け付けない」と言う。しかも既に部隊は配備済みで作戦は実行中ときた。

 『誘拐』された姫ごと『殺害』。しかもたった『二名』のために『秘密裏』に動いているのが空挺強襲大隊の精鋭2個小隊で、挙げ句に始まった後の召集。

 きな臭いことこの上ない。

 中でも最も腑に落ちないのが、マリア姫を連れ去ったのがマーク・アーハート中尉だというところだ。暴走などと理由づけられていたが、彼が自分の意志でそんなことをする理由もメリットも全くない。何より、あのアーハート中尉が暴走など信じられなかった。

 自分の意志でなければ誰かからの命令。軍人である中尉が従うとなれば、おそらく軍上層部のどこかからのもの。しかし軍はその行動を暴走として秘密裏に処理しようとしている。交友国のエストラルドの姫もろともに。

 政治の臭いがした。それも嫌な部類の。

 自分が作戦の成否を問わずスケープゴートにされると読んだアリシアは、どうぜ責任を被せられるのならばと、2個小隊を適当に動かして失敗させることで、不可解で理不尽な命令を密かに拒否するつもりでいた。ところが何故か居るウォルフ中将が執拗に口を挟むため、仕方なく特務兵も動員することにしたのだ。全て合わせば戦力では1個中隊並ということでウォルフも納得したのだが、逆にアリシアはやりすぎだと思って心配していた。

 クロード小尉が察しの良い人でよかったわ。

 実は、作戦が“無事”失敗して、アリシアは密かに胸をなで下ろしていたのだ。

 クロード小尉は第1師団所属だから顔も見知っていたが、第2師団所属のガトリング特務兵がウェルトヘイン准尉だとは思ってもいなかった。緊急召集に応じて作戦指令室に彼女が現れたときには、アリシアは正直血の気が引いた。よりにもよって、アーハート中尉を慕っているこの娘に殺害命令を下すことになるとは、と。ウォルフ中将の手前、殺害を前面に押し出しながらも断言はしない程度の含みしか持たせられなかったが、こちらの意図に気づいてくれたらしいクロード小尉に、心の中で礼を述べていた。

「とにかく捜索隊を出せ、それに交通規制もかけろ」

 ウォルフ中将のがなり声が続く。聞き流しながら、アリシアは机の上の地図に目を走らせた。

「……いずれも手遅れかと思われます。目標を見失った地点がこちら、この先の川下には、昔伐採に使用していた廃線に隣接しているポイントがあります。この廃線は、この分岐点でリーツ―エストラルド間を走る鉄道とまだつながっています。何らかの車両でも使えば、夜のうちにかなり進んでいるでしょう」

 地図上を整った指先でなぞりながらアリシアが説明する。

 ボートを用意しているぐらいだから、どうせ他にもあるんでしょう?

 胸の内で、行方をくらませたアーハートへ笑いかけた。この廃線でなくても、バイクの一台ぐらい隠してあるはずだ。逃走経路を割り出すことは、時間的にも労力的にも意味はない。いずれにしても……。

「どこを通るにしても、行き先は決まっています」

 アリシアの指がすっと滑って、止まった。タルキス川も鉄道も通る、リーツとエストラルドとの国境にある街。

「アリアドネか」

「はい。国境上にあるこの街は両国の窓口として、物資も人間も最も行き交う地点です。国境を越えるなら、その中に紛れ込むのがまず選択肢に上がるでしょう」

 地図をのぞき込むウォルフ中将にアリシアは答えた。それに、エストラルドへの入り口としてはその街が最も近い。包囲網が張られる前に、アーハート中尉なら最速を取るだろう。

「ふん、あそこならでかいスラムがあるからな。隠れるならもってこいか……。おいっ!」

 一人で納得してから、ウォルフは自分の師団の士官を捕まえに行って、何か指示をし始めた。

 ……いけ好かない奴。

 無言で毒づくアリシア。彼女はウォルフ中将が嫌いだった。

 何が“リーツの狼”だか。狼に失礼だわ、狼にはもっと気品があって気高いもの。

「あの、フォスター小佐、どうしましょう?」

 呼びかけられて我に返る。士官が指示を待っていた。

 アリアドネへと言いかけた口を閉ざし、少し思案する。

 アーハートの顔が浮かんだ。

 ……そう言えば、昨晩はお風呂に入り損ねたな。服も昨日のままだし……。

「一時間後にアリアドネへと出発します。軍用列車の準備と第1師団から追跡部隊の編成を。捜索及び目標の拘束を前提とした人選と装備で。私は一度自室へ戻ります」

 「はっ」と返答する士官を残して、アリシアは部屋を出た。早足で館内を進む。

 シャワーぐらい何とか……。

 自分で区切った時間に焦りながら、自室についてドアを開ける。入ったところに出迎えがいた。嬉しそうに一鳴きする。

「ただいま、ケイト」

 尻尾を振る愛猫を抱き上げるアリシア。猫が何やら訴えかけていることに気づいた。

「ああ、そうね」

 棚の中からブラシを取り出して、そのまま床へと座り込む。そして、せがむ猫にブラシをかけ始めた。

 手早く、しかし穏やかに優しく当てられるブラシに、猫はうっとりと目を細める。

「また出かけるから、少しだけね」

 柔らかい声に、猫が気持ちよさそうな鳴き声で応えた。

「……死人がまだ少なくて良かったわ。それに、あの娘がひどい目に遭わずに済んで」

 ブラシの動きと同じく、穏やかな優しい声で猫に語りかけるアリシア。普段、任務中は気を張って鋭くなっている口調が元に戻っていた。

 特務兵たちを送り出した後、アリシアはウェルトヘイン准尉の経歴を取り寄せて目を通していた。年の離れた兄が軍で戦死していた。優秀な軍人で、人当たりもよく周囲の信望も厚く、彼女は兄をとても慕っていたらしい。アーハート中尉に兄の面影を重ねているところもあるのかもしれない、とアリシアは感じた。

「……危うい感じがしたの。守ってあげないといけないって」

 アーハート中尉も同じように感じていたのだろう、と思った。あの人、そういうのにどうも鋭いみたいだから。はっきりとか、何となくとかは分からないけれど。そのくせに肝心なところはまるで気づかないみたいね。

 一人苦笑してから、思い直した。

 いや、気づく気づかないじゃないわ。何か、こう、壁みたいなものがある感じ……。

 壁の向こう側で、誰からも背を向けて一人たたずむアーハートが思い描かれた。その姿の寂しさに、アリシアの胸が締め付けられる。

 膝の上から、怪訝そうな鳴き声が上がった。手が止まっていたらしい。

「ああ、ごめんね、ちょっと考えごとしてたから」

 苦笑してから、ブラッシングを再開する。とはいえ時間がないから、省略型で始末をつけた。

「はい、お終い」

 床に下ろした愛猫が不服そうに唸るが、頭を撫でながら優しく言い含める。

「ダメよ。本当に時間がないの。続きは帰ってからね」

 アリシアの優しい撫で方には弱いらしく、すぐにゴロゴロと喉を鳴らしてから、あっさりと自分の定位置に戻って丸まった。普段から優しいご主人様に不平不満はさらさらないらしい。

 その様子を見届けてから、アリシアは手早く軍服を脱いでバスルームへ直行する。吹き出す湯を浴びると、徹夜明けのくすんだ疲れが流し落とされていくような気がした。

 ……あの娘、肌キレイだったわね。

 ウェルトヘイン准尉の姿が脳裏を横切った。シャワーを浴びる自分の体を見る。湯を弾く、とはいうもののさすがに二十歳の頃のようにはいかない。そもそも、軍人をやっていて肌の手入れも何もありはしないのだ。

 いえ、身だしなみですからっ。

 誰へとは無しに強く抗弁して体を洗う。そしてシャワーを止めて、物思いに沈んだ。

 壁の向こうでたたずむアーハート。その後ろ姿が、闇の中へと消えていく。

 手の震えが、寒気によるものか恐怖によるものか、アリシアには分からなかった

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