瑠璃の杯
最終話
涼しい風が体を撫でたように感じて、杯は揺らめく眠りから目をさましました。
正倉院展終了まぎわの溢れるような人出は、杯がまどろんでいるうちに、とぎれとぎれの人波に変わっていました。
いつの間にやら、週末だけ開催されるナイトミュージアムの時間帯になっています。
大きなガラス窓の向こうには、博物館敷地内のイルミネーションが光っています。今日は金曜日、あさっての日曜に最終日を迎えたなら、杯はまた箱の中へ戻されます。箱から出されるのは一年に数日間の点検だけ。展示に出されるのはおよそ十年に一度くらいです。
箱の中にいるのは、たいくつ……。杯はいつもそんなふうに考えていました。もっとも、箱の中にいる間は眠り続けて長い夢を見ているのですが。
美しく壮麗だった寧楽の都や、異国から訪れた客人や、杯をそばにいおいて愛でてくれた人たちのことを。今はもう誰もいません。
シルクロードの終着点ともよばれる宝物庫に収められて千年数百年。ただ「ありつづけるだけ」。美しいといわれても、貴重な文物といわれても、瑠璃杯は時の流れに押し流されて遠くへ来てしまった虚しさだけを感じます。
ふと目線と同じ高さのガラスケースの中央に置かれた瑠璃杯は、正面に立ち止まっている四十前後のトレンチコートを着た男性にようやく気づきました。
ケープを羽織った二歳くらいの男の子を片手で抱っこしています。男の子はきょろんとした黒目がちの瞳で杯を見ていました。右の親指をしゃぶり、左手で男性の長い黒髪を握っています。
この男性は、どこか見覚えかあるような……杯は考えました。宮に仕えていた官吏だったか、出入りしていた僧侶だったか、たくさんいた皇子の誰かか……?
「きれいだね」
男性はうっとりとした微笑みを浮かべ、吸い寄せられるように展示ガラスに顔をちかづけ……。
ごつん。
ガラスに白い額がぶつかり、男性はあわてて革手袋の手を額に当てます。
よくあることですが、派手なぶつかりように警備員が振り返り、回りの人も足を止めて、くすりと笑っています。杯は愉快になりました。
「笑われてしまったよ」
男性は男の子に笑いかけました。男の子は紅葉のような手で、男性の額をなでました。
トレンチコートという芝居がかった服装に、どこか時代のズレを感じます。一重の切れ長な目をした秀麗な顔立ちの男性は、外見に反してすこし抜けているようです。
こんなことが前にもあったと思い当たります。でも、それはずっと昔のことです。都の名前が江戸から東京に変わったころ、永い眠りから起こされて東大寺の廻廊での展示会のとき。こんなふうに展示ケースのガラスに勢いよく額をぶつけた男性がいました。そしてそのあと、連れの青年が……。
「ジロさん!」
順路を逆もどりしてきた青年が声をかけました。
「またぶつけたんでしょ、音が聞こえたよ。ほんとに何回ぶつけたら気をつけるの。そんなにオデコ赤くして」
青年は今風でした。茶色の肩につくくらいの髪に、やはり色白で整った顔立ちで耳たぶにピアスが光っています。
「夢中になりすぎ。みんなは見終わって、出口でジロさんをずっと待っているんだけど?」
そう言うと、男の子を引き取りました。あまり似ていませんが年の離れた兄弟でしょうか。
「長く生きてるわりに、なぜ皆せっかちなのか……久しぶりで懐かしく見ているものを」
「ジロさんが寝ていた間に、ぼくらは何回も見ていたからね」
……杯は過去の再演に戸惑いました。なにせ東大寺での展覧会はもう百五十年ほどまえのことですから。
「目立ちすぎ……怪しまれたら面倒だよ」
ジロと呼ばれた男性の耳もとに口をよせ、青年は小さくささやきます。
「なぜ? 親子にしか見えないだろうよ。弥市とわたしは」
「名前までつけちゃうし。てかネーミングのセンスが天保止まりだし」
もう、と青年は唇を尖らせました。青年に抱っこされた男の子は眠そうに眼をこすりました。
「親に返せと? 雪の中に置き去りにされていたのだぞ。はだか同然で、痣だらけで。人のすることか」
男性の声には静かな怒気が含まれていました。こんなにかわいい子を……とつぶやくと、眉をしかめて男の子の頭をなでました。
「いやいや、ぼくらだってヒトとは言えないじゃん。それに、この件に関しては『上』はまだ正式には認めていないよ」
「許してもらう。この子はわたしと長く旅をする」
「言い出したらきかないからジロさんは。でも、ぼくも一緒だっていうのを忘れないで。早くいこう、気づかれるまえに」
そう言ってから青年は声をいちだんと低くしました。
「窓が鏡になってる」
杯はつられて窓を見ました。自分の前にいるはずの二人の姿は鏡状になった窓にはいませんでした。ただ、展示品をゆっくりと見て回る老若男女が三々五々映っているだけ。
「……ああ」
ジロは名残惜しそうに瑠璃色の杯を見つめました。
それからため息をつき、何か心に決めたようで下がりぎみだった眉がきりりと引き上がりました。
ようやく歩き出したジロは一度だけ振り返りました。そして、また……と唇だけで杯に挨拶を送ると、わずかにガラスケースへと腕を伸ばしました。
すると、どうでしょう。杯は誰かの手をかすかに感じたのです。
それはまるで涼しい風のようでした。
杯は去りゆく二人の背中を見送りました。
不意に自分がたどった年月を思いました。
たくさんの仲間と並べられていた砂の町の工房。駱駝の背にゆられて見知らぬ町からさらに船で荒波を乗り超え、ようやく着いた都。壊れないようにと大切に扱ってくれた人たち。
今は杯はふれられることはあっても、使われることはありません。ただ大切に飾られるだけです。たくさんいた仲間も長い年月で砕け散り、いまは自分だけが残ったとも聞きました。
あの人たちも長く生きている……?
ならば、再び会うこともあるのかも知れません。
次に展示される時に、またジロたちは杯に会いにくるのでしょうか。
そのときには、ジロと青年の姿は変わらず、ただ弥市だけが少年か青年になっているのでしょうか。
……それとも……。
箱の中でゆっくりと夢をみていたらいい。瑠璃杯は静かに目を閉じました。
趣味全開でm(__)m




