小説未満 (思い出)
若いころに見かけた光景。小説に使いたいけれど、たぶん使えない。でも、書きたくて……。
それは、晩秋の出来事だったように記憶している。
市内の総合病院からの帰り。駐車場を出てすぐの信号機につかまり、私は車を止めて信号が青になるのを待った。
その時、私の横をリヤカーを引いたおじいさんがゆっくりと過ぎていった。
リヤカーは農作業で使うものより小さく、ちょうど半分ぐらいの大きさだった。荷台に立方体の木の箱が乗せてある。それをおじいさんが引っぱっている。
こんな市街地の真ん中で珍しいなあ……と、思った私はリヤカーの後ろを見送って目を見張った。
木の箱の後部は開いており、カーテンが掛けられていた。そして、開かれたカーテンの奥には……。
可愛らしいおばあさんと、柴犬がちょこんと乗っていたのだ。
箱の中に座っているおばあさんと犬。
それを引っぱるおじいさん。
私はそれをなかば呆然と見送った。
帰宅してから母に話すと、リヤカーの老夫婦は有名らしく母も知っていた。
車を持たないおじいさんが、おばあさんの通院のためにリヤカーを改造して乗せているらしいという話だった。
もしかしたら、おじいさんは現役時代に自宅と職場があまり離れてなくて、車が必要じゃなかったのかも知れない。でも、齢を取りおばあさんの通院が困難になったとき、知恵を絞り工夫をこらしてリヤカーを改造したのかも……。
そして、家に残していては淋しかろうと愛犬をおばあさんと一緒に乗せて、リヤカーで病院まで通っているのではないか。
おじいさんは70代に手が届くくらいだったろうか。中肉中背というより少し細くて、おばあさんはどことなく品のある方だった。
にこやかに犬と並んでほほ笑むおばあさんと、リヤカーを引くのが苦ではないという表情のおじいさん。
いまでも、あの一組の老夫婦と犬のことは時おり思い出す。
淡い光に包まれていたように見えたあの光景を。
その総合病院はすでにありません。