逃走者
小林綾人はルイスを連れ、街中を歩いていた。私立探偵に家を訪問された上、公園であんな騒ぎを起こしてしまったのだ……もう、今まで住んでいたアパートには居られない。
昨日の夜……綾人は家に戻ると同時に荷物をまとめた。とは言っても、大した物があるわけではない。着替えや身の回りの細々とした物、そして通帳などである。
そして念のため、ルイスに声をかけた。
「ルイス……君はどうするんだい? 俺はこの家を出て行くけど……」
「何で出て行くの?」
ルイスは不思議そうな顔で尋ねた。
「……ここには居られないんだ。怖い人が大勢来るから――」
「来たら全員殺す。綾人守る」
表情一つ変えず、淡々とした口調で言い放つルイス……綾人はどう答えればいいのかわからなかった。ルイスが自分を心配してくれるのは嬉しいし、ありがたい話ではある。だが、人は殺さないで欲しい。
「ルイス……約束しただろ、人は殺さないって」
「うんわかった約束した。でも何で人を殺しちゃいけないの?」
ルイスは無邪気な表情で、同じ質問を投げかけてくる……綾人は答えに窮した。ルイスの問いかけは、今の自分にとってあまりにも難解なものだ。答えられるはずがない。
「ルイス……駄目なものは駄目なんだ」
そう言いながら、綾人は己に対する嫌悪感を覚えていた。駄目なものは駄目……まるで答えになっていない。ただ頭ごなしに否定しているだけではないか。ワイドショーの頭の固いコメンテーター並みの愚かな答えである。しかも、自分は人殺しなのだ。それも、実の母親の首を絞めて殺害した……。
そう、この手で首を――
「綾人どしたの」
ルイスが顔を覗きこんできた。綾人は我に返り、微笑んで見せる。いつの間にか呼吸が荒くなっていた。気分も良くない。だが、ひとまず落ち着かなくてはならない。ルイスに心配をかけてはならないのだ。
「大丈夫だよ、ルイス……俺は大丈夫だから」
綾人はルイスと共に家を出た。ルイスは不思議そうな顔をしながらも、素直に綾人に付いて来ている。綾人には行く当てなどない。そもそも、何のためにこんな逃避行をするのか……それすらわからない。今までは警察が来たら、いさぎよく逮捕されるつもりでいたのだ。逃亡生活は過酷なものと聞いている。自分のような人間には耐えられないだろう。そんなことをするくらいなら、さっさと逮捕された方がマシだ……。
ついこの前までは、そう思っていたはずだった。なのに今は、ルイスを連れて街中を歩いているのだ……一体どこに行けばいいのか、それすらもわからぬままに。
「綾人どこ行くの」
不意に、ルイスが尋ねてきた。綾人はため息をつく……それを聞きたいのは、他ならぬ自分なのだが。
「さあ、どこに行こうか……」
綾人は言いかけた。だが、不意にある考えが頭を掠める。
「ルイス……君はもう、テレビが観られないかもしれないよ。テレビ好きだったろ?」
「うん好き」
「だったら……警察に行った方がいいんじゃないのかな?」
「けいさつ? 何で?」
ルイスは首をかしげる。綾人は辺りを見回した。すぐ近くにバス停がある。綾人はそこまで歩き、設置されているベンチに座った。ルイスも隣に座る。
「ルイス……警察はわかるね?」
「うんわかる。犯人を逮捕する人だよ。でもルイスは犯人じゃない」
「え……」
綾人は思わず口ごもる。ルイスには犯罪を犯したという自覚がないらしい……だが、それも当然だろう。昨日の乱闘は、そもそも綾人を守るのが目的だったのだ。
その時、綾人の中に閃くものがあった。
そうだよ……。
ルイスは俺を守るために、あいつらを叩きのめしたんだ。
警察に行ったら、俺のせいでルイスは逮捕されてしまうんじゃないか……。
「ルイス……当分テレビは観られなくなるけど、いいかい?」
「うんいいよ」
ルイスは素直に頷いた。
そして二人は今、街中を歩いている。だが、綾人は奇妙なことに気づいた。さっきから、時おり視線を感じる。通りすがりの女の視線だ。綾人は不思議に思い振り返ってみた。もしかしたら、ルイスが突拍子もないことをしてるのではないか、と思ったのだ。
しかし、ルイスは普通に歩いている。綾人は首をかしげるが、次の瞬間に視線の理由に気づいた。ルイスは顔が良すぎるのだ。整った美しい顔は、商店街では否応なしに目立つ。しかも、今は昼間である。暇な奥さん連中が多いのだ。そんな中にルイスが歩いていては……。
仕方ない。人通りの少ない道を行くとしよう。
「綾人どしたの」
立ち止まっている綾人に疑問を感じたのか、ルイスは首をかしげた。綾人は苦笑し、辺りをを見回す。
「ルイス……ちょっとこっちの道を行こうか」
二人は裏通りに入って行く……だが、綾人は何も気づいていなかった。
自分たち二人が、妙な男に尾行されていることに……。
二人は人通りのない裏通りを歩く。だが、綾人は途中で立ち止まった。
自分たちが行くべき場所……それをようやく思いついたのだ。現在は立ち入り禁止となっている、古い病院の跡地である。幽霊が出るという噂もあった。幼い時に一度、怖いもの見たさで入ってみたことがあったが……あまりの不気味さに、すぐに引き上げたのだ。そこなら、少なくとも雨露は凌げる。
「ルイス……ここからしばらく歩くと、病院の跡地があるんだ。今からそこに行こうか――」
「君たち……ちょっと待ってくんないかな」
綾人の言葉を遮る、背後からの突然の声。綾人は驚きのあまり、その場で硬直した。そして、恐る恐る振り返る……。
・・・
「じゃあ、こういう訳なんだな? お前は偶然、桑原徳馬と知り合った。そして仕事を手伝えと言われて、部屋に連れて行かれた。で、ルイスを見張っていたが……二人組の男に連れ去られた、と。これで間違いないな?」
「は、はい! 間違いありません!」
上田春樹は大声で返事をしながら、大げさに頷いて見せる。だが、実際に起きた出来事とは違うのだ。二人組が連れ去って行ったのは、佐藤浩司というチンピラだ。ルイスではない。
しかし、ルイスが連れ去られたことにしておこう……と春樹は考えた。このピンチをどうやって乗り切るか……頭の中で計算しながら応対していたのだ。どうやら、ラエム教はルイスと何らかの関係があったらしい。新興宗教と殺人鬼の関係……それが何なのかは、全くわからない。
わかっているのは、自分の身に危険が迫っているということだけだ。
春樹は今、ラエム教の施設らしき場所に監禁されていた。両手両足を縛られ、椅子に座らせられている。部屋はさほど大きなものではない。コンクリートが剥き出しになっており、天井には裸電球がぶら下がっている。そして窓はない。どうやら地下室にいるらしい……もっとも、連れて来られる時には目隠しをされていたので、よくわからないが。
そして今は、ルイスが逃げ出した時の状況を説明させられていたのである。
目の前には、ハ虫類のような顔つきの男がいる。小洒落た雰囲気のスーツ姿で、頬の肉は削げ落ちているが……目は危険な光を帯びている。
「で、そのルイスを連れ出した二人組だが……いったい、どんな奴らだ?」
「え……」
春樹は言い淀んだ。二人組は運送会社の配達員のような制服を着ており、さらに帽子を目深に被っていたのだ。人間の顔の印象は、着ている物によって著しく変わる。特に制服は、人の顔の印象を消してしまう効果があるのだ。一人の顔は覚えているが、もう一人は全く覚えていない。
しかし――
「そうですね……一人は厳つい感じです。もう一人は若い感じでした」
春樹は頭を回転させ、そう答える。ここでもし、片方の顔しか覚えていないなどと言ったら、自分はどんな目に遭わされることか……。
いや、恐らくは消されるだろう。ラエム教の裏事情を僅かでも知ってしまった自分を、生かして帰すはずが無い。
だから……嘘と真実とを混ぜた話をして、少しでも時間を稼ぐ。時間を稼げば、隙が生まれる可能性も出てくる。
その一瞬の隙に賭けるしかない。
「厳ついのと若いの、か……なあ上田、厳つい方は何歳くらいだった?」
スーツの男は尋ねる。
「ね、年齢ですか……そうですね、二十代から三十代……もしくは四十代から五十代の男でした」
「……おい、どっかのバカな元刑事みたいなこと言ってんじゃねえよ。そんなもん、ほとんどの犯罪者に当てはまるだろうが。適当なこと言ってんじゃねえ……それとも何か? 八十過ぎて人をさらったりするジジイがいるのかよ?」
スーツの男は、そう言って笑った。だが、目は笑っていない。春樹の体を恐怖が蝕んでいく。もし、嘘をついていることがバレたとしたら……目の前の男は、何のためらいも無く自分を殺すだろう。春樹は僅かな間に頭をフル回転させ、生き延びるための言葉をひねり出す。
「え、ええ……年齢不詳な感じでしたね。老けた二十代にも見えるし、若作りした五十代にも見えます……ただ、いい加減なことを言いたくなかったんですよ。出来るだけ正確な情報を、と思いまして……私の憶測による情報で皆さんを混乱させてはいけないと思いまして……」
春樹は喋り続ける。とにかく、今は時間を稼ぐことだ。時間を稼ぎ、隙が出来るのを待つ。
「ですから、私もそう言わざるを得なかったんですよ……その連中の顔さえ見れば、すぐにわかるんですけどね」
いかにも残念そうな表情で言う春樹。だが、頭では必死で生き残り策を考えていた。この連中は、何のためらいもなく自分を殺す……ならば、自分の利用価値をアピールするしかない。春樹は喋り続ける。
しかし――
「おい上田……お前、ちょっと黙れよ。俺にも喋らせろ」
スーツの男の声には、冷ややかな殺意があった。春樹は身の危険を感じ、すぐさま口を閉じる。
スーツの男は、じっと春樹を見つめる。無言のプレッシャーは凄まじく、春樹は目を逸らせた。
「お前に一つ聞きたい。桑原徳馬だが……奴からどんな話を聞いてたんだ?」
「く、桑原さんですか……何の話でしょう?」
春樹は逆に聞き返す。もちろん、向こうが何を言わんとしているのかはわかっている。ルイスについて、自分が桑原から何をどう聞いているのか……それを確かめるつもりなのだろう。だが、今は僅かでも時間が欲しい。時間稼ぎをしなくては……。
「わかんねえ野郎だな……桑原は、ルイスのことを何て言ってたんだ?」
スーツの男の声に苛立ちが混じる。
「え、あ、はい……生まれつきの殺人鬼だと……下水道で生まれた――」
「なるほど、そう聞いてるのか……」
スーツの男は、一瞬ではあるが考えこむような仕草を見せた。
やがて、何かを思いついたような表情を見せる。
「おい上田……命が惜しかったら、俺の言う通りにしろ。いいな?」
・・・
街の空気が、変化している。
西村陽一は、その変化を敏感に感じ取っていた。街のあちこちに、妙な連中を見かける。明らかにカタギでない連中……だが、ヤクザとも微妙に違う。いったい何が目的なのか不明だ。
そして陽一はすました顔で歩きながら、どう動くべきか考えていた。夏目正義には引く気が無いらしい。ならば、自分がそばに付いているしかないのだ。まずは、あのルイスという少年が向かって来た場合にどうやって撃退するか、だが……一番頼りになる武器は拳銃である。しかし街中で拳銃をぶっ放したりしたら、自分は確実に逮捕されるし、夏目にも迷惑をかけてしまう。催涙スプレーは意外と範囲が広いため、夏目も巻き添えにしかねない。それに自分もダメージを受ける可能性があるのだ。スタンガンはリーチが短いし、逆に警棒は接近されると使いにくい。
何より、こうした武器の類いは……相手に奪われてしまったら終わりなのだ。だからといって、丸腰で行く気にはなれないが。
「陽一……お前、人殺しでもしそうな面だな」
会うと同時に、そんなセリフを吐いた夏目。陽一はニヤリと笑った。
「まあ、向こうがどう出て来るか、ですね……それより夏目さん、念のため言っておきます。ルイスは危険な奴だ。もし俺が殺られそうになったら、その時はさっさと逃げてください。間違っても、俺を助けようとか自分でどうこうしようなんて考えない方がいいですよ」
「やれやれ、俺はそんなに頼りないのかい……わかったよ」
夏目は苦笑し、歩き始めた。
そして二人は、綾人の家の前に立ち、じっと待っていた。ブザーを鳴らしたが、誰も出て来ない。しんと静まり返っている。
「こいつは……逃げたかもしれないな」
夏目が呟く。陽一は同意するかのように頷いた。
「ええ……人の気配が無いですね。どうします?」
「だったら、ちょいと確かめてみるか……陽一、ちょっと見張っててくれ」
そう言うと、夏目はカバンから細い針金のような器具を取り出した。そして鍵穴に差し込んでいく。陽一は苦笑し、辺りの様子を窺う。どうやら夏目は、不法侵入する気らしい……。
「夏目さん、あなたがそこまでやる人だとは思いませんでしたよ」
「まあ、俺も善人じゃないからな。底辺に生きる人間は、こんなことでもしなきゃやっていけないんだよな……」
言いながら、夏目は手際よく鍵を開けた。そして立ち上がる。
「じゃあ陽一、見張っていてくれ。俺が中に入るから、お前は外で見張っていてくれ」
「いや、まずは俺が中に入ります。待ち伏せてるかもしれない。中の安全を確認しますから……ヤバいと思ったら、すぐに逃げてください」
「おい待てよ……いくら何でも、真っ昼間から殺し合いを――」
「あいつは……ルイスはやる男です」
そう言うと、陽一は夏目の脇をすり抜けて入って行った。
部屋の中は意外にも、整理整頓されていた。ルイスのような人間は、得てして両極端だ。ゴミ屋敷のような家か、はたまたチリ一つ落ちていない家かのどちらかだ。ルイスは後者のタイプだったらしい。あるいは小林綾人が後者なのかもしれないが。
さらに部屋を見て回る陽一……ついさっきまで、生活していた気配がある。だが、母親の部屋は荒らされていた。空き巣の初心者が金目の物を求めて、大慌てで荒らしたような様子だ。だが、他の部屋は荒らされていない……となると、空き巣の正体は綾人か。逃げる前に、金目の物を探した可能性が大だ。
となると……。
陽一は部屋を出た。夏目は落ち着いた様子で、じっとスマホをいじっている。
「夏目さん、問題ないですよ。誰もいませんね。俺は何も持ち出してないんで、あとはお好きに」
「そうか……わかった。もし誰か来たら、メールしてくれ」
そう言うと、夏目は部屋に入って行った。
一方、陽一はゆっくりと歩く。部屋を出てから、何者かの視線を感じていたのだ。誰かが自分たちを監視している。
陽一は一瞬、どうしようか迷った。
しかし、携帯電話を取り出す。
(ちょっと急用が出来ました。申し訳ありませんが、引き上げます)
夏目のスマホにメールを送信すると、陽一はさりげなく歩いた。携帯電話を耳に当て、わざと大声で喋り始める。
「おう……俺だ俺……馬鹿野郎……そうだよ、こないだの女は最高だったぜ! また頼むわ!」
言いながら、こちらを監視している何者か……その潜んでいる場所に近づいて行く。
次の瞬間、陽一は襲いかかった。
・・・
「君たち……ちょっと待ってくんないかな」
坂本尚輝はそう言って、二人を呼び止めた。だが、正直なところ未だに状況が呑み込めていないのだが……。
なんで、お前らが一緒にいるんだ?
尚輝は、小林喜美子の息子である綾人に話を聞こうと出向いたのだ。しかし、綾人は荷物をまとめて何処かに出かけようとしていたところだった。まあ、それはいい。
しかし、横にいる少年は……。
あの時、佐藤浩司と一緒に部屋に居たガキじゃねえか。
そう、あの不思議な少年だ……手錠をかけられ、物憂げな表情でうろうろしていたのだ。尚輝は佐藤を拉致すると同時に、少年を逃がしてあげた……はずだった。
しかし、その少年が何故か綾人と一緒に歩いているのだ。
尚輝はどうしたものか考えながら、二人の後を追った。
商店街を歩く二人。しかし、途中から人通りの少ない裏道に入っていく。尚輝は、声をかけるなら今だと判断したのだ。
「な、何ですかあなたは……」
綾人は怯えたような表情で答える。一方、少年は物憂げな表情でこちらを見ていた。尚輝を恐れている様子はない。
「小林綾人くん……だな? 俺は坂本尚輝って者だ。便利屋をやってる。ある人を探すよう依頼されてな……中村雄介さんて人だ。君のお母さんと仲良かったらしいんだが――」
「し、知りませんよ!」
綾人の表情が、たちまち変化した。怯え、恐怖、怒り、罪悪感といった感情が浮かんでは消えていく……罪を犯した者にありがちな態度だ。
ひょっとしたら……。
こいつ、中村雄介の失踪に関わっているのか?
だとすると、鈴木良子とも関係あるのか?
状況は、さらに混迷の度合いを増してきた……少なくとも、尚輝にはそう思えた。ますます訳のわからないことになりつつある。だが、はっきりしたことも一つある。
小林綾人は、中村雄介の失踪について何か知っている。
「小林くん……君、何か知っているんだろ? 俺にさっさと教えた方がいいよ……でないと、痛い目に遭うから」
言いながら、尚輝は近づいて行く。目の前の二人を叩きのめすのは簡単だ。左ジャブ一発で鼻血を出し、顔を押さえて戦意喪失するだろう――
「あんたに用ない」
不意に発せられた、無機質な声……あの奇妙な少年だ。少年は恐れる様子もなく、尚輝の前に立った。
尚輝は足を止め、訝しげな表情で少年を見る。自分が怖くないのだろうか……尚輝の身長はさほど高くない。だが、かつてボクサーだった名残は顔のあちこちにある。少なくとも、簡単に引き下がるタイプの男には見えないはずだ。
だが次の瞬間、尚輝の背筋に冷たいものが走る。彼は思わず後方に飛び退き、同時に両拳を顔の位置に上げて構えていた……。
尚輝は一度、来日したフライ級世界チャンピオンのスパーリングパートナーを務めたことがある。まだ四回戦ボーイの時だったが……その時、尚輝は世界チャンピオンのプレッシャーを肌身で感じた。威圧され動けなくなりそうなくらい、ヒリヒリとしたプレッシャー……単なるスパーリングのはずなのに、尚輝はすっかり縮み上がってしまったのだ。
だが目の前の少年は、その世界チャンピオンをも上回る何かを秘めている。そう、尚輝の勘が告げているのだ。こいつは恐ろしい化け物だと……。
少年が一歩、前に進み出る。尚輝はビクンと反応した。身構えたまま後ずさりを始める。そして足が震え出した。紛れもなく恐怖の反応だ。震えは体全体に広がっていく。
少年は無表情のまま近づいて来た。尚輝は震えながらも、左ジャブを放つ。
だが、恐怖のせいで体が固くなり、遅くキレの無い左ジャブになってしまった。素人の力んだパンチの方が、まだマシだったろう……。
少年は尚輝の左拳をあっさりとかわす。さらに、その左腕を掴む。凄まじい腕力が腕から伝わる……しかし、それは一瞬だった。
次の瞬間、目の前の光景が一回転し――
尚輝の体は、地面に叩きつけられていた。全身に走る激痛……尚輝の口から、呻き声が洩れる。
「ル、ルイス……止めるんだ……」
綾人の震える声。少年は立ったまま、じっと尚輝を見下ろしている。尚輝は自分でも認めたくないほどに怯えていた。目の前にいるのは、本物の化け物だ……恐怖が全身を蝕み、心をも侵していく。
このままでは殺される。
嫌だ。
死にたくない!
「ゆ、許してくれぇ! 殺さないでくれぇ!」
気がつくと、そんな言葉を叫んでいた。目からは涙がこぼれ、鼻水が垂れる……尚輝は恥も外聞もなく、恐怖に突き動かされるがままに動いていた。起き上がると同時に、額を地面に擦りつけ土下座する。
少年はそんな尚輝を、じっと見つめた。
「あんたは思ったよりつまらない」
綾人と少年が立ち去って行った後も、尚輝はしばらく動けなかった。恐怖が全身を蝕んでいたのだ。
ようやく立ち上がり、歩き始めたのは、かなりの時間が経過してからだった。いろんな考えが頭を駆け巡る。
俺も、もう四十なんだ……。
喧嘩で勝った負けたなんて言ってられねえ。
あいつは化け物だ。本気でやり合っても絶対に勝てなかったよ。
そう、大したことじゃない。
大したことじゃ……。
だが、心の奥底では全く違う何かが蠢いている……尚輝はその存在に、気づいていないふりをした。