暴力脱走
「おい小林……てめえ、昨日の態度は何なんだ?」
朝、いつも通りに出勤してきた小林綾人を迎えたのは、班長の卯月のこの言葉であった。そう言いながら、まるでチンピラのような態度で綾人を睨みつける。昨日、残業を断ったのが感に触ったらしい。
「てめえ、何か勘違いしてんじゃねえか? ちょっと来いよ……きっちり話つけようや……」
そして綾人は物置に連れこまれた。目の前には、卯月の怒れる顔がある。卯月はチンピラが威嚇する時のように苛立ちを露にし、壁を殴ったり、物を蹴飛ばしたりしている。だが、綾人は冷めきった目で見ているだけだった。
綾人は知っていた……卯月は一見すると、爽やかな好青年ではある。しかし、その内面は……街のチンピラとさして変わりない。工場内での権力を傘に、下の人間に対しては横暴な態度で接しているのだ。以前、工場に勤めている知的障がい者に暴力を振るう場面を見たことがあった。知的障がい者ならば、反撃はもちろん訴えたりもできないだろう……そのような計算の下、卯月は殴る蹴るの暴行を加えていたのだ。
そして、自分も今まさに卯月の暴力の被害者になろうとしている。
しかし――
「すみません……何が言いたいんです?」
落ち着いた表情で、言葉を返す綾人。不思議と恐怖を感じなかった。恐怖よりも、ただ面倒くさかった。その落ち着きはらった態度を見て……卯月の顔に困惑の表情が浮かぶ。
「な、何だと……てめえブッ飛ばすぞコラ……」
それでも、卯月は意地を見せた。低い声で凄み、そして睨み付ける……だが、綾人はその視線を真っ直ぐ受け止めていた。もう、どうなっても良かったのだ。
「何が言いたいのか、さっぱりわかりません。いい年して恥ずかしくないんですか? 付き合いきれないんで、仕事に戻ります」
「てめえ殺すぞ……」
卯月のその言葉を聞いた瞬間、綾人のこめかみがピクリと動いた。
「殺す、って言ったな……あんた、人を殺したことあるのかよ?」
綾人は静かな声で聞き返した。彼のあまりにも落ち着いた様子を目の当たりにして、卯月の表情がさらに変化する。今度は、怯えの色が加わった……。
「て、てめえなんか、俺の力でいつだってクビに出来るんだぞ……わかってんのか――」
「そうですか。じゃあ、俺クビでいいです。面倒くさいんで帰ります」
淡々とした表情で、言葉を返す綾人。正直な話、どうでも良かった。今さら、この仕事に固執しなければならない理由は何処にもない。何故、もっと早くこうしなかったのだろう……。
そして綾人は、怒りで震えている卯月を残し、そのまま立ち去った。背後で卯月が何やら喚いていたが、綾人は無視して着替え、そして外に出た。
帰るために自転車に乗ろうとしていた綾人。だが、その動きが止まる。
綾人は振り返り、工場を見つめた。中学卒業後、就職してからの二年間……ほとんど休まずに通い続けていた。給料は高くはない上に、キツい部分もある仕事だった……しかし、これまで不満を感じたことはなかった。少なくとも、こんな形で辞めるほどの不満は無かったはずだ。
その反面……二年通い続けた場所であるにもかかわらず、そこに愛着らしきものが無いのも確かだった。
結局、ここに就職した一番の理由は……母の負担になりたくないから、だった。母に親孝行したかったのだ。しかし母が消えた今、工場に通い続ける理由も消えてしまった。
そう、母が消えた今では……。
「綾人……あんた……」
母の声……綾人が視線を移すと、母は怯えきった表情で綾人を見ていた。
「母さん……」
綾人は近づく。自分のしでかしてしまった事の大きさの前に打ちのめされ、どうすればいいのかわからなかった……。
だから、母にすがりたかった。幼い頃のように、母の温もりに身を委ねたかった。
しかし、母は――
「こ、来ないで!」
叫びながら、必死の形相で後退っていく……綾人は立ち止まった。
絶望のあまり、その場に崩れ落ちそうになる。
綾人は、母にまで見捨てられたのだ。
母さん……。
あなたは、俺を拒絶するのか。
俺は……。
もう……俺には、何もない。
次の瞬間、綾人の心はドス黒い何かに塗り潰されていった。それの命ずるまま、綾人は母の首に手をかける。そして、両手に力をこめた――
あの日、俺が殺したのは……中村雄介と母さんだけじゃない。
俺は……俺自身をも殺してしまったのだ。
俺自身の中にいた、善なる人間を殺した。
もう、戻れない。俺の人生は終わったのだ。
あとは、どのようにして終わらせるか……それだけだ。
・・・
上田春樹はじっとルイスを見つめる。人形のように整った顔立ちだ。目、鼻、口など、一つ一つのパーツのバランスもいい。まともな育ち方をしていれば、さぞかしモテたことだろう。
だが、ルイスはまともではない。本物の殺人鬼なのだ。その気になれば、自分などいつでも殺せる……。
「おい上田、暇だから面白い話でもしてくれや」
隣の部屋から、佐藤浩司の声がした。春樹は内心うんざりしながらも、隣の部屋に行く。
ルイスは無表情で、じっとテレビを観ていた。
昨日、桑原徳馬が二人の子分を連れて訪れた時……春樹は思いきって尋ねてみた。
「あのう、すみません……ちょっといいですか?」
「何だ」
桑原は不気味な目で、こちらを見つめる。春樹は震えそうになりながら、どうにか言葉を絞り出した。
「だ、大丈夫なんでしょうか……あのルイスってガキが暴れ出したら――」
「そん時は、お前らが何とかしろ。ただし、傷は付けるな」
桑原は無表情のまま、そう言い放った。しかし、春樹はなおも食い下がる。桑原への恐怖よりも、ルイスから受ける脅威の方が遥かに上回っていたのだ。
「それ無理ですよ……あいつは普通じゃないんです。本物の殺人鬼ですよ……あいつがその気になったら、俺たちは一瞬で殺されます――」
言い終えることは出来なかった。桑原の手が、春樹の襟首を掴む。
「だったら、ルイスの手綱を握っておとなしくさせとけ。暴れ出さないように、機嫌よくさせておけ……それだけの話だろうが。少しは頭を使え」
言いながら、桑原は顔を近づける。同時に、襟首を掴む手の力が強まる。春樹は苦しさのあまり、返事が出来なかった。
「俺もな、あのガキが本気で暴れ出したら、お前らじゃあ勝ち目がないだろうと思う。だがな、お前らの仕事はルイスを取り押さえることじゃない。ルイスの世話をすること、だ。ルイスはここで快適な生活さえさせておけば、逃げ出したりしないはず……俺はそう読んでいる」
桑原はいったん言葉を止めた。同時に、手の力が緩んでいく。春樹は大きく息をした。桑原の腕力は、見た目からは想像もつかないほど強い。改めて、桑原もまた怪物であることを思い知らされた気がした……。
「いいか……もし力ずくで取り押さえるのが目的なら、俺はお前ではなく、この板尾を残す」
そう言うと、桑原は自分の横にいる巨漢を指差す。身長は二メートル近くあるだろうか。体重は百キロ……を遥かに超えているだろう。小山のような体格である。
「板尾は昔、相撲取りだった。八百長がバレてクビ切られたがな、今でもパワーは衰えちゃいねえ。なあ、そうだろ板尾」
桑原の言葉に、板尾は小さく頷いた。
「こいつなら、ガキが暴れても取り押さえられるだろう。だが、こいつには他の仕事がある。それに、肝心なのは取り押さえることじゃねえ」
ここで、桑原の表情が変化した。穏やかな、優しさすら感じさせるものへと……そして、桑原は言葉を続ける。
「大切なのは暴れ出さないようにすること、だ。今の俺たちにとって、ルイスは大事な取り引き材料……傷つけるわけにはいかねえんだ。お前らの仕事は、奴に快適な生活をさせ、おとなしくさせておくことだ。それに……ルイスは今まで、マンホールの中で暮らしてたんだ。それに比べれば、今の生活は極楽さ。あいつに不満さえ感じさせなきゃ問題ないはずだ。わかったな?」
優しく、諭すような口調で語る桑原。春樹はそれ以上、何も言えなかった。
「は、はい……」
「あの、佐藤さん……桑原さんは昔、銀星会の幹部だったんですよね?」
春樹が尋ねると、佐藤は頷いた。
「そうだよ。昔は銀星会の幹部だった」
「今は違うんですか?」
「ああ……五年くらい前に、あの人が仕切ってるカジノに強盗が入り、売上金を奪われたんだ。その責任を取らされて、あの人は破門させられたんだよ。ま、もともと銀星会でも敵の多い人だったらしいからな」
「へえ、そうだったんですか……」
「あの人はな、敵に廻したらおっかねえぞ……やることが、本当にえげつないからな。けど、下の人間への面倒見はいいぜ。上に立つ人間てのは、ああでなきゃあな」
「そうですね」
春樹は表面上は頷いて見せている。だが、佐藤の評価など知ったことではなかった。銀星会を破門された、という話は聞いたことがある。だが、どういう事情かは全く知らなかった。
銀星会に敵が多いのならば、それを上手く利用できないだろうか……。
「おしっこしたい」
突然、ルイスの声が聞こえてきた。二人は立ち上がり、隣の部屋に行く。そしてルイスをトイレまで運び、手錠を外した。春樹はこの瞬間が怖くてたまらないのだ。手錠が外され、両手が自由になったこの瞬間が……しかし、佐藤は気にも止めていないようだ。能天気に、こんなことを言っていた。
「足は動かないんだから大丈夫だよ。いざとなったら、俺がボコッてやるし。向こうが襲ってきたら、殴ってもかまわないって桑原さんも言ってたぜ」
確かに、足錠はかけられたままだ。しかし、両手さえ動けば問題ないのではないか……。
両手さえ自由に動けば、ルイスは簡単に人を殺せるのではないか。
その時、来客を知らせるブザーが鳴った。
「チッ、誰だよ。桑原さんが来る訳ねえしな……おい上田、出てみろ。差し入れかもしれねえぞ」
佐藤が面倒くさそうに言う。春樹は言われるがまま扉に近づいた。
・・・
テレビのニュース番組を観ながら、西村陽一はコーヒーを飲んでいる。特に気になるニュースがあるわけではないのだが、これは陽一の習慣だった。仮に、自分の仕事に何らかの影響を与えかねないような事件が起きた場合、計画を出来るだけ早く変更しなくてはならないからだ。場合によっては、計画の中止も視野に入れて動く。
しかし今、仕事と呼べるようなものはない。強いて言うなら、二〜三日後に殺人犯かもしれない、小林綾人という名の少年と会うくらいだ。実につまらない仕事である。
陽一は、綾人の写真を取り出した。そして眺めて見る。夏目正義からもらった物だ。実物はまるで違う、と夏目は言っていたが……いずれにせよ、大した相手ではなさそうだ。
ただ一つ気になるのは、綾人の暗い瞳だった。自分の気持ちを押し殺し、機械のように生きてきたのではないか……そんな印象を受ける。かつての自分とは真逆だ。
そして陽一は、数年前の自分を思い出していた。
数年前の陽一は、綾人とは違っていた。ひたすら世の中を憎み、部屋の中に閉じ籠っていたのだ。学校にも行かず、仕事にも就かず……暗い部屋の中で、世の中の全てを呪っていた。
一方の綾人は、中学を卒業すると同時に印刷工場に就職。そして、毎日きちんと通っていた。夏目の話によると、成績は上位であったにもかかわらず、進学はしなかった。その理由は、母に負担をかけたくないから……だというのだ。
自分とは、まるきり正反対の孝行息子である。
そんな少年が、果たして殺人を犯すだろうか。それも、実の母親とその若い彼氏を……。
気がつくと陽一は、自分が初めて人を殺した時のことを思い出していた。鼻と耳にピアスを付けたチンピラに殴られ、蹴られ……陽一は地面に倒れ、体をくの字に曲げる。だが、暴力の嵐は過ぎ去ったわけではなかったのだ。
「死ねやあぁ!」
喚きながら、チンピラは落ちていた角材を拾い、振り上げる。その目には、明らかな殺意があった。
その時、陽一は悟った……殺らなければ、殺られることを。同時に、隠し持っていたナイフを抜く。
そして立ち上がると同時に、チンピラの体を突き刺した。
もしあの時、チンピラに遭わなかったら?
あの時に、ナイフを持っていなかったら?
俺は、奴を殺さずに済んだ。
だが、陽一は頭を振る。過ぎ去ったことに対し、ああしていれば……こうしていたら……などと考えるのは時間の無駄だ。
それよりも、考えるべきは綾人少年のことである。綾人にも、自分と同じく魔の瞬間が訪れたのかもしれない。一日の出来事の全てが、綾人にとって不利に働くような……そして、引き金となる決定的な何かが起きてしまった……だとしたら、二人を殺したとしても不思議ではない。犯罪のスパイラルにハマる瞬間……その時、個人のモラルや意思などは、あまりにも無力なのだ。
そう、陽一にはわかっている。いざとなった時には、人は自らの意思すらコントロール出来ない。誰もが犯罪者となる可能性はあるのだ。もっとも、ほとんどの人間はそれを知らない。犯罪者が自分とは違う人種である……そう思い、ニュースなどで報道される犯罪者を口汚く罵る。そして自分が悪を憎む善人であることを確認し、安心するのだ。自分がそちら側に行くかもしれないことなど、欠片ほども考えずに……。
そんな事を考えていた時、携帯電話が震え出した。成宮亮からだ。陽一は電話を手にする。
「亮……どうした?」
(あ、陽一さん……今大丈夫ですか?)
「大丈夫だよ。どうしたんだ?」
(ちょっと気になることがありましてね……桑原徳馬って知ってます?)
「桑原……知らないな。そいつがどうしたんだ?」
(実はですね……その桑原の子分の佐藤浩司ってチンピラがあちこちに電話かけて、フキまくってるらしいですよ……デカい仕事をしてるとか)
「どうせ、チンピラの与太話だろう」
(まあ、俺もそう思うんですが……桑原の奴、真帆市をウロウロしてるみたいなんですよ。与太話はともかく、桑原はおっかないらしいですからね……真帆で派手な動きは慎んだ方がいいですよ)
「……亮、すまないが、その桑原について詳しく教えてくれないか?」
桑原徳馬、四十歳。五年前までは銀星会の幹部をしていたが、破門された後は清田興業という会社を立ち上げ、そこの社長に収まっている。ただし、その実体はヤクザであるらしいが。極めて冷酷な性格で、かつ有能な男……という噂だ。銀星会という看板を失ったにもかかわらず、未だに他のヤクザから一目置かれる存在であるらしい。部下からの人望もある。現に銀星会を去った桑原に付いて行き、銀星会を抜けた者もいたくらいだという。
そして陽一は、今聞いた情報について考えた。桑原という男は、この真帆市で何をする気なのだろう。聞けば、有能な男らしいが……。
だが、その時……頭に閃くものがあった。
そういえば……。
五年前、俺は銀星会の仕切るカジノの売上金を奪ったんだよ。
ひょっとしたら、桑原はあの仕事のせいで破門になったのか?
・・・
古いマンションの四〇四号室……そのドアの前に、二人の男が立っていた。宅配業者風の作業服を着て、帽子を目深に被っている。うち一人は坂本尚輝であった。尚輝は小さめの段ボール箱を手に持っている。床には、キャスターの付いた大型トランクが置かれていた。
そして、尚輝はブザーを押した。
「どちらさんですか?」
ドアの内側から、男の声が聞こえてきた。尚輝は笑顔を作り、口を開く。
「すみません、お届け物なんですが……受け取りのサインと印鑑をお願いしたいんですよ」
「宅配便か……わかった。今行く」
面倒くさそうな男の声。そしてドアが開く……。
その瞬間、尚輝は持っていた段ボール箱を投げつける。同時に右ストレートを顔面に叩き込む……男は実に呆気なく吹っ飛んでいった。
「いやあ、尚輝さん凄いッスね。パンチの強さは現役レベルじゃないスか」
言いながら、部屋に入っていくのは寺島勇だ。尚輝と同じく、かつて将来を有望視されたプロボクサーである……覚醒剤所持と使用で逮捕され、ライセンスを剥奪されるまでは。今では、ただのヤク中のチンピラである。尚輝が今回の助っ人として呼んだのだ。寺島は肩を怒らせ、部屋にずかずか入って行く。尚輝はその後に続いた。すると――
「な、何だてめえら!」
吠えたのは佐藤だった。そして、寺島に殴りかかっていく。
しかし、寺島は大振りのパンチをいとも簡単にかわした。
次の瞬間、寺島の左ボディフックが佐藤の腹にめり込む……佐藤は腹を押さえて崩れ落ちた。
「さあ、とっとと引き上げようぜ」
寺島に声をかける尚輝。佐藤は縛り上げ、体を曲げて大型トランクに詰めた。部屋にいたもう一人の男は、鼻血を出しながら呆然としている……。
だが、その時。
「どうしたの」
声と同時に、トイレから出て来た者がいる……ハーフの少年だった。白い肌と金髪といい、人形のように整った顔立ちといい、明らかに場違いな雰囲気を醸し出している。
「お前……誰だよ……」
尚輝は思わず呟いた。なぜ、こんな少年がここにいるのだろう。先ほどブン殴った二人と、まるで違うのだ。
「ルイス」
少年は答える。自分たちを恐れてはいないようだ。尚輝は困惑しながら、少年を見る。だが少年は、尚輝たちの存在を気にも止めず、そのまま奥の部屋に歩いていこうとした。
その時、尚輝は少年の歩き方がおかしいことに気づく。足元を見ると、足首に手錠が掛けられていた。これは、明らかに普通ではない状況だ……尚輝は鼻血を流し、床にしゃがんで震えている男を睨む。
「お前ら……ここで何してたんだ?」
尚輝の怒気を含んだ問いに対し、男は震えながら口を開いた。
「そ、そいつは殺人鬼なんです……俺たちはそいつが逃げ出さないように見張ってたんです――」
「はあ? おい、デタラメ言うんじゃねえよ、この変態野郎が……」
尚輝は怒りに震えた。そして寺島もまた、いかにも不快そうな表情で男を睨みつけながら言った。
「てめえ、あいつの手錠を外してやれ」
「え!? それはヤバいです――」
「うるせえ! さっさと外してやれ!」
今度は尚輝が怒鳴りつける。男は怯えた表情になり、慌てて少年の足首に掛けられていた手錠を外した。だが少年はきょとんとした顔で、じっと立ち尽くしている。
その様子を見て、尚輝はさらに不快になった。こいつらは、知能面で障がいのある少年をさらってきて、この部屋に監禁していたらしい。
そして、この変態どもは――
「おい、さっさと逃げろ。もう、お前は自由だ」
気がつくと尚輝は、少年にそんな言葉をかけていた……すると、少年は首をかしげる。
「逃げていいの?」
「ああ、逃げていい……とっとと逃げるんだ。ここから遠く離れろ」
「わかった逃げる」
少年はそのまま、歩いて行く。そしてドアを開け、外に出て行ってしまった。尚輝や寺島には目もくれず、礼も言わずに……。
そして尚輝は、去り行く少年の後ろ姿を見ていたが……突然、奇妙な違和感に襲われた。上手く説明できないが、何かがおかしい。もちろん、あの少年が殺人鬼などという与太話を信じる気にはなれない。だが……少年の様子から、普通でない何かを感じ取ったのも確かだ。今までは、佐藤をさらうという仕事に意識を集中させていた……そのため、違和感に全く気づいていなかったのだ。
だが、今ははっきりと感じる。得体の知れない違和感、そして不安。自分はもしかして、間違ったことをしてしまったのではないだろうか――
「どうしたんスか坂本さん? もう用は無いですよね? さっさと引き上げましょうよ……」
寺島の声。尚輝は我に返り、大型トランクを運びだした。佐藤の身柄を押さえた以上、ここに長居する理由は無いのだ。あとはさっさと立ち去り、鈴木良子に佐藤を引き渡すだけだ……尚輝は寺島と共に、その場を立ち去った。
この時の尚輝は、何も知らなかった。
恐ろしい殺人鬼を、野に放ってしまったこと。
そして、とんでもない事件に巻き込まれてしまったこと。
自分のしでかしたことの重大さに全く気づかぬまま……尚輝は佐藤を連れ去って行った。