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甦る野良犬

 印刷工場でいつものように仕事をしながら、小林綾人は昨日の奇妙な出来事について考えていた。自転車に乗っていたら、車に跳ねられたのだ……とは言っても、軽く当てられただけだが。自転車ごと倒れはしたものの、どこにもケガはしていない。丸一日が経過した今でも、どこかが腫れたり痛んだりしたとか、そういった症状はない。事実、綾人はすぐに立ち去ろうとしていたのだ。

 しかし、そこに現れたチンピラ風の男――確か上田春樹と名乗っていた――は綾人に近づき、こんなことを耳打ちしたのだ。

 俺に任せろ、そうすれば運転していた男から金をふんだくってやるから。俺はこういった交渉のプロだしヤクザの知り合いも多い。悪いようにはしないから、俺の言う通りにしろ……などなど。上田は僅かな時間に、機関銃のような勢いで耳元でまくし立て、綾人は言われるがままに名前と連絡先を教えてしまったのである。

 あの男は、そのうち連絡してくるのだろうか……いずれにしても、少し面倒なことになりそうだ。もし警察沙汰にでもなったら、自分もまた色々と調べられる可能性がある。

 そうしたら、自分のしたことがバレるかもしれない……。


 まあいい……その時は死ぬだけだ。

 俺が自分で終わらせる。

 そう、予定が少々早まるだけだ。刑務所に行くぐらいなら……自分できっちり終わらせる。

 いや……。

 いっそ死刑にならないのだろうか?


 綾人は手を動かしながら考えた。自分は二人殺している。だが現在の法律では、十八歳未満の者を死刑にすることはできないのだ。恐らく自分の言い渡される刑は無期懲役だろう。

 そして刑務所の中で、一生を監視されながら過ごす……。

 そんなのは御免だ。




 五時になり、工場を出る綾人。今日もまた、いつもと変わらない日々だった。そう、たまにおかしな幻覚を見る以外には、生活に何も変化はない。殺したはずの相手の顔が見えるという幻覚……一昨日、昨日と二日連続で見た。

 人を殺したら幽霊に祟られる、あるいは悪夢にうなされる……昔、そんな話を聞いたことがある。だが、今のところ幻覚以外には影響が出ていない。もしかしたら、あの顔の幻覚こそが幽霊の為せる業だったのかもしれないが……だとしたら、大した害はない。あれなら、放っておいても構わないだろう。

 しかし……。


 俺は、このまま生きてしまうのだろうか?

 人を二人も殺しておきながら、おめおめと生き続けるのか?

 警察に捕まることなく、自ら命を断つこともできずに……。


 そんなことを考えながらも、綾人は駐輪所に停めておいた自転車に乗ろうとした。だが、その時……。


「あのう、君は……小林綾人くんだよね?」


 突然、背後から何者かに声をかけられたのだ。綾人は反射的にビクンと反応する。そして、恐る恐る振り返った。ついに来るべきものが来たか、と思いながら……。

 そこに立っていたのは、くたびれた雰囲気の中年男であった。中肉中背で地味なスーツ姿。ニコニコ笑ってはいるが、その笑顔の裏には得体の知れない何かを秘めているように見える。普通のサラリーマンには見えない……。

「あ、俺はこういう者なんだけど……ちょっと話を聞かせてくれないかな?」

 そう言うと、男は名刺を差し出した。

 綾人は名刺を受け取り、ドキドキしながら眺めた。そこには……工藤探偵事務所 代表取締役・夏目正義と印刷されている。綾人はホッとした。警察ではない……だが次の瞬間、探偵という職業もまた、自分の脅威と成りうることを思い出した。

「ナツメ……セイギさん、俺に何か用ですか?」

 綾人は顔を強ばらせながら尋ねる。

「いや……俺の名は、正義と書いてマサヨシと読ませるんだよ。大した用じゃないから、そんなに構えなくてもいい。なあ、綾人くん……君は中村雄介さんという人を知ってるかい?」

 苦笑しながら、逆に聞き返す夏目。綾人の表情がさらに強ばる。顔色も変わってきた。脇からは、じんわりと汗が吹き出してきている……。

「中村……雄介……知りません」

「知らない、か……実は、この中村さんて人はね、君のお母さんの勤めていた会社でアルバイトをしていた学生なんだよ。ところが、行方不明になってしまってね……本当に知らないのかい?」

 言いながら、夏目は顔を近づけてくる。綾人は後退りながら、どうにか口を開く。

「知りませんよ……そんな人――」

「あ、そう言えば君のお母さんも行方不明だったよね……確か、一月くらい前からだっけ? 実は中村さんも丁度その頃に行方不明になってるんだよ……これはアレかな、二人で駆け落ちでもしたのかなあ……」

「し、知らないって言ってるじゃないですか!」

 綾人はわめくような口調で言葉を返し、そのまま自転車に乗った。

 だが、夏目も動いた。自転車の前に出て来て、進路をふさぐ。

「そうかい……君は何も知らないってワケか。わかった。今日は引き上げるよ。でも、また来るからね。中村さんと君のお母さんは同時に失踪した……これは何か関係がある。俺はそう思ってるんだ。君だって、お母さんのことは心配だろ……俺の推理が間違いでなければ、中村さんと君のお母さんは同じ場所にいるはずだ。俺は必ず探し出すよ……まあ、今日は挨拶ってことで、もう引き上げるよ。また今度、いろいろ聞かせてもらうから……」


 ・・・


 古びた四階建てのマンション。そこの四階の角部屋に上田春樹はいた。目の前には、手錠で繋がれた少年がいる。彫りの深い端正な顔立ちの、どこか異国情緒が漂う雰囲気……だが、この少年は、警察に追われている連続殺人鬼であったのだ。




 昨日……桑原徳馬とその部下により、春樹は無理やりこの部屋に連れ込まれたのだ。

 そして桑原は言った。


「お前……さっき銀星会の名前を出してたな。組長さんにスカウトされた、とも言ってたよな……どうせ、あちこちで銀星会の名前を使って悪さしてたんだろうが? 本当なら、銀星会にとっとと引き渡してやりてえところだが……んなことしても、こっちは大して得しねえ。それよりも、俺の仕事を手伝え。そうしたら見逃してやる」


 桑原の言う仕事……それは、一人の少年を部屋に監禁し見張ることだった。見た目は、某アイドル事務所にでも所属していそうな顔立ちだ。背はさほど高くないし、体つきもしなやかな筋肉質ではあるが、威圧感を与えるようなものではない。

 だが、桑原はこう言い放った。

「こいつは化け物だ。油断してると殺られるぞ」


 この少年の名前はルイス……名字はない。それどころか、戸籍もないらしいのだ。ルイスという名前にしたところで、偽名かもしれない。

 確実にわかっていることはただ一つ。

 この少年は、世間を騒がせている連続殺人事件の犯人である……ということだけだ。


「確実にわかっているのは……このガキは三人殺してる、って事だ。だが、それだけじゃねえらしいぜ……他にも相当、殺してるはずだ。こいつは殺しが何よりも好きなキチガイなのさ。警察もずっと前から、こいつには目を付けていたんだ……だが、捕まえられなかった」


 ルイスには戸籍がない。バカな日本人が、出稼ぎに来た外国の女に産ませた子供なのである。しかも、産まれてすぐに捨てられたのだ。本来なら、子供の誕生に伴うであろう様々な手続きを全て省かれ、父と母に見捨てられ、陽の射さない場所に放置されていた。普通の幼児なら、すぐに息絶えていたであろう。

 だが、この少年は生き延びた。

 そして、地下の世界に蠢く怪物として成長した。


「まあ、そんな都市伝説みてえな生い立ちなんだが……どこまで本当なのか、俺は知らねえ。肝心なのは、こいつは高く売れるってことだ。警察、あるいは裏の人間……どちらがより高く買ってくれるか、はっきりするまでは、この部屋に置いておくつもりだ。そこで……お前はガキを見張るのを手伝え。それと、絶対に傷は付けるな」

 そこまで言うと、桑原はいったん言葉を止めた。

 だが次の瞬間、その表情が変わる。七三に分けた髪と眼鏡、そして安物のスーツ姿……一見すると、うだつの上がらない中年サラリーマンだ。にもかかわらず、異様な凄みを醸し出している。春樹はようやく理解した。桑原は本物なのだ。ヤクザという枠すら越えた、本物の怪物なのだ。こんな恐ろしい男は見たことがない……。


「お前、あるいはこのガキ……どちらかでも逃げたりしたら、生まれてきて御免なさいって思うことになるぜ。俺はしつこいぞ……覚えとくんだな」


 そして、桑原は二人の子分とともに部屋を出て行ったのだ……春樹の有り金や免許証、それにスマホなどを全て奪い取った後に。


 春樹は目の前の少年を見つめる。殺人鬼という話だが……確かに、目は虚ろで顔に表情がない。もともとの端正な顔立ちと相まって、まるでマネキンのようだ。両手首に手錠を掛けられ、両足首にも手錠を掛けられた状態で壁に背中をもたれさせ、床に座り込んでいる。さっきからその体勢のまま、じっとテレビの画面を見つめていた。

 そして春樹は、呆然と殺人鬼を見ていることしか出来なかった……あまりにも急すぎる状況の変化。頭も体もまだ対応できていないのだ。

 だが、それはまだ序の口であった。


「お前、桑原さんの前でフカシまくったのかよ! バカじゃねえのか?」


 声と同時に、いきなり後頭部を小突かれた春樹……振り返ると、そこにはジャージ姿の若い男がいた。いかにも気の強く頭が悪そうで、そして喧嘩早そうな顔つきだ。春樹は一瞬、ムッとした表情を見せた。しかし――

「てめえ何だよ、その面……やんのかオラ!? どうなんだよ!?」

 男の罵声。と同時に、春樹は襟首を掴まれ立たされた。

 その時、春樹の顔に浮かんだもの……それは怯えの感情だった。


 春樹は今までの人生において、自分より弱いとわかっている者――しかも無抵抗――にしか暴力を振るったことがない。目の前の男は、自分に対し明確な攻撃の意思を見せている。しかも自分より五〜六歳は若く、何より自分よりも喧嘩慣れしていそうだ……。


「何とか言えや! ええ! おっさんよお!」

 男は春樹を睨み付けながら、なおも罵声を浴びせてきた……春樹にはわかっている。ここで引いてしまったら、自分はこの年下の男に顎で使われることになるのだ。絶対に引いてはならなかった。

 だが……。

「す、すみませんでした……」


 ・・・


 真幌市はもともと下町であった。駅から五百メートルも離れると、そこは昔ながらの古き良き時代の風景が残っている。築三十年の木造アパート、土管の放置され鉄条網に囲まれた空き地、得体のしれないゴミ屋敷などがある。

 しかし駅の周辺は開発が進んでいて、若者向けの雑誌などで取り上げられることもある。お洒落な店も少なくない。

 そんな駅前ではあるが、お洒落とは真逆の、総合格闘技のジムもある。看板にはグラブをはめた女性モデルの写真が使われているが……中はいかにも男臭い雰囲気だ。

 そのジムの中に、西村陽一の姿もあった。


 己の中に蠢く怨念を吐き出そうとするかのような勢いで、陽一は一人、サンドバッグを蹴りまくった。三十秒間、凄まじい勢いで蹴りを叩き込む。

 そして次の十秒間は、鉄棒にぶら下がり懸垂を繰り返す……さらに二十秒のインターバルを挟み、再び三十秒間サンドバッグを蹴り続ける。

 時刻は既に午後十時を過ぎており、他の会員は既に帰っていた。ジムに残っているのは、陽一とトレーナーの二人だけである。トレーナーはプロの格闘家であり、会員のほとんどが帰った後、ジムの片隅で黙々と自身の練習に励むのだ。しかし、そんな彼も時おり陽一のトレーニングを横目で見ては、呆れたような表情を浮かべていた……。


「じゃあ、お先に失礼します。ありがとうございました」

 自身のトレーニングメニューを消化した後、陽一はトレーナーに挨拶してジムを後にする。ウエイト・トレーニングのジムと総合格闘技のジム、その両方に陽一は通っているのだ。暇な時は肉体を鍛え、様々な知識を頭に詰め込み、場合によっては必要と思われる技能の習得に努めることもあった。

 陽一の一日は、こうして過ぎていく。彼の生活は、機械のように規則正しいものだ。ほとんどの犯罪者が、法を犯して得た金をあっという間に使い果たす。結果、またしても犯罪に手を染める……この負のスパイラルは大抵の場合、当人が逮捕されることで止まるのだ。

 それに対し、陽一はまるで違う。悪銭身につかず、という言葉があるが、彼には当てはまらない。そもそも、普段から金を使わないのだ……もっとも、それは陽一がストイックだからという理由ではない。頭のキレる男だから、という理由でもない。もっと単純に、彼は金を使うことに興味がない……ただ、それだけなのだ。


 無人のアパートに戻った陽一。そして携帯電話を取り出す。これはいわゆる「飛ばし」の電話だ。一月の間は掛け放題だが、それを過ぎると繋がらなくなる代物である。彼も昔はスマホを使っていたが……今では機種にはこだわらなくなっている。


「亮……次の仕事はどうなってる?」

(ああ、どうも。今ん所はまだですね。ねえ陽一さん、稼ぎたいならもっと割のいい仕事が――)

「俺は、詐欺みたいな面倒くさいことはやらない。前にも言ったはずだ」

(そうでしたね……ま、気長に待っててください。いっそ、このまま足洗ったらどうです?)

「バカ言うな。とにかく、何かあったら電話しろ」


 電話を切り、陽一はため息をついた。どうやら、しばらくは暇なようだ。となると……。

 陽一は、思案げな表情で携帯電話を見つめた。

 ややあって、もう一度携帯電話を開く。


「あ、士郎さん……こないだの話ですが、引き受けますよ。今んところ、暇ですし」

(そうか……はっきり言って、大した仕事じゃないし、金も安い。タダ働きの可能性も低くないぜ。それでもいいのか?)

「構いませんよ。今は暇ですし……」

(そうか……じゃあ夏目さんにお前の番号を教えておくからな)

「ええ、お願いします。確認ですが……夏目さんは二人殺してる奴と接触するんですよね?」

(いや、そこはまだはっきりしないんだ……夏目さんは、その恐れがあると言ってたが)

「そうですか……そいつから、夏目さんをガードすればいいんですね」

(そうだ。俺はあの人に借りがあるからな……頼んだぜ)


 電話を切り、陽一はふと考えた。夏目正義……都内で私立探偵をしている四十過ぎの男だ。直接、会ったことはない。ただ、堅気の人間であるらしい……とは聞いている。

 そして今回、夏目が殺人犯かもしれない男と接触する。陽一の仕事は、夏目をガードすること。


 一方、いま電話で話した天田士郎アマダ シロウは裏の仕事人である。年齢不詳だが、恐らくは三十前後。陽一がこの業界に入ってから、ずっと世話になっている男だ。見た目は平凡だが、人間の死体を解体して薬品で溶かす……という、常人ならば気を失いそうな作業を、缶コーヒー片手にやり遂げてしまう男なのである。

 他にも、大学生でありながら裏の世界に片足突っ込んでいる成宮亮ナリミヤ リョウなど、陽一の裏の世界での知り合いは少なくない。

 数年前までは、引きこもりのニートだった陽一……皮肉にも裏の世界に関わったことにより、彼は自立できたのだ。

 しかも、陽一は裏の世界にいたおかげで、友人らしきものも出来たのだ。


 ・・・


 なんてツイてないんだよ……。

 こんなのって、あるかよ……。


 坂本尚輝は目の前の予測不能な事態を前に、ただただ呆然としていた。こんなことがあっていいのだろうか……自分の人生にはいつも、不幸な偶然が重なる。どうやら、死ぬまでこの不快な流れからは逃れられないらしい。


 吉田が若い愛人宅に入ったのを確認すると、尚輝はその現場に乗り込むための準備を始めた。カメラやICレコーダーなどの存在を確認し、愛人の部屋に近づく。

 ドアの前に立ち、ブザーを押した。だが、その瞬間――

 凄まじい勢いで、ドアが開く。そしてバスローブをまとった若い女が姿を現した。完全に混乱した表情だ……。

 女は叫んだ。

「早くして! 動かないし息してないの! 早く病院に……あんた誰よ!?」




 吉田繁は倒れていた。

 よりによって、愛人宅で急に心臓麻痺を起こしたのだ。あるいは、腹上死というヤツなのかもしれないが……いずれにしても、吉田は息をしていないのだ。

 尚輝の金づるになったかもしれない男が。


 救急車が到着した。そして目の前で運ばれていく吉田……息もしてないし、心臓も止まっていた。恐らくは死んでいる。これから病院で蘇生のための処置を施すのだろうが……まず無理だろう。


 クソが……。

 俺の計画がパーじゃねえか。


 尚輝にとって、吉田の生死などどうでもいい。それよりも、入るはずだった金が入らないことの方が切実な問題だった。

 しかも、このままだと……依頼人である吉田の妻・秀子から何を言われるか。浮気調査をしていた自分が、愛人宅にて亭主の死体を発見していた……これは、あらぬ疑いをかけられても仕方ない状況である。依頼人である自分に内緒で吉田繁と接触し、双方から金を巻き上げようとした……と秀子が判断したとしても仕方ない。

 もちろん、それはあらぬ疑いではなく、実際に尚輝がやる予定だったことなのだが……。


 尚輝は頭をフル回転させ、今後の対策について考えた。まず、秀子の追及に関しては……シラを切り、ごまかし、丸め込む。それで何とかなるだろう。


「吉田を尾行していたら、若い女の部屋に入っていくのを見た。そこで、どういうことなのか調べようとしたら……こんなことになっていた」


 いかにも、取って付けたような言い訳だ。しかし、今の自分にはそれくらいしか出来ない。秀子からの追及は、それで凌ぎきる。

 問題なのは、予定が狂ったことだ。本当に腹立たしい……。

 思えば、自分の人生はこうした不運の連続だった。高校受験の時は、第一志望の試験を受けるため電車に乗っていたらチンピラに絡まれ、挙げ句の果てには警察沙汰に……結局、尚輝は滑り止めの高校に行く羽目になったのだ。

 さらに大学受験の時は……父親がリストラに遭い、無職となってしまった。結果として、進学を諦める羽目になった。

 そんな生活の中、ようやく見つけたプロボクサーという道、そして世界チャンピオンという夢。初めは、ほんの気まぐれから高校時代に始めたボクシング……しかし、いつの間にかのめり込み、プロライセンスを取得した。もともと小さな頃からやんちゃな性格で、喧嘩の場数も多く踏んでいる。しかも運動神経もいい。尚輝は順調に勝ち星を重ね、あっという間に日本ランキング四位まで上り詰めた。ボクシング雑誌にも、名前と写真が載った。深夜とはいえ、試合がテレビで放送されたこともある。

 いずれは世界チャンピオン……尚輝はその目標に、己の全てを懸けていた。己の人生そのものを。尚輝は生まれて初めて、夢を見たのだ。その夢に向かい、ひた走っていた。

 だが、たった一発のパンチが全てを台無しにした。




 やりきれない表情で、事務所のあるマンションに帰って来た尚輝。一階にある事務所に入ろうとした時――


「おっさん……さっさと行けやあ!」

 突然、背後から聞こえてきた罵声。尚輝はゆっくりと振り返る。何者の言葉かは知らないが……今は気が立っているのだ。もし自分に向けられた言葉なら、ぶちのめしてやる。


「おいおっさん! さっさと歩けや!」


 またしても聞こえてきた罵声……だが、尚輝に向けられたものではなかった。若くガラの悪いジャージ姿の男が、仲間らしき男を怒鳴りつけていたのだ。二人ともコンビニ帰りらしく、食料品などの入ったビニール袋をぶら下げている。

 そして二人はエレベーターに乗り、扉を閉めようとボタンを押す。だが、その時――


「すみません! 私も上がります!」


 叫びながら、エレベーターに飛び込む尚輝。二人と目を合わせぬようにしながら、すました顔でエレベーターに乗った。

「あんた、何階だよ?」

 ジャージ姿の若者が尋ねてきた。同時に、その手が階数の書かれたボタンに伸びる。尚輝はそちらに視線を移した。四階のボタンが既に押されている。

「四階です」

「あ、そう」


 四階に到着した。尚輝は降りると同時に、スマホを取り出した。スマホを覗くふりをしながら、二人の様子を盗み見る。ジャージ姿の若者は、もう片方の男を小突きながら角の部屋に入って行く。

 四〇四号室に。


 尚輝は自分の幸運に感謝した。昨日、鈴木良子より依頼を受けていた人探し……こんなにもあっさり見つかってしまうとは。

 あのジャージ姿の若者は、ほぼ間違いなく佐藤浩司だ。

 鈴木良子が探していた男だ……。






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