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明日に向かって……

 東京拘置所には、数多くの独房が設置されている。広さは四畳半ほどか。洗面所とトイレ、そして鉄格子の付いた窓がある。もっとも、トイレと他のスペースとの間に壁はない。一応、仕切りの板のような物があるだけだ。

 その独房の一室で、小林綾人はノートと教科書を広げて一心不乱に勉強をしていた。教科書を読み、必要な部分を自分なりにまとめてノートに写す。こんなのは久しぶりだ。しかし、勉強のコツのようなものは未だに覚えていた。

 綾人はふと手を止めた。そろそろ点呼の時間だ。看守が部屋の前で立ち止まり、窓から覗いていく。そして、自分は看守に向かい称呼番号――拘置所に入ると同時に個人に与えられる番号――を言う。ただ、それだけである。いったい何を確かめようと言うのか……時間の無駄としか思えないが、これも決まり事である以上は仕方ないだろう。




 坂本尚輝が呼んでくれた救急車……しかし間に合わなかった。ルイスの体は、合計五発の銃弾に貫かれていたのだ。その銃弾は、肺や腎臓などの内臓を深く傷つけてしまっていた……ルイスは救急車の中で、死亡が確認された。

 綾人はその後、尚輝の通報により駆けつけた警察官によってスーツの男たちと共に警察署に連行され、そこで取り調べを受けた。

 綾人は自分の身に起きた出来事のほとんどを、包み隠さず話した。その結果、今は東京拘置所にいる。裁判はかなり長引き、その間に綾人は十八歳になっていた。


「小林、面会だ」

 物思いにふけっていた綾人を、現実に引き戻したのは看守の声だった。やがて鍵を開ける音が聞こえたかと、頑丈な鉄製の扉が音を立てて開く。

 綾人は頷き、看守と共に独房を出た。そして、面会室に向かって歩き出す。


 現在、綾人は被告人という身分である。まだ裁判が終わっていないため、彼は拘置所にいるのだ。拘置所は刑務所と比べると、自由な部分は多い。金さえあれば、本や食べ物などもある程度は購入できる。受刑者になってしまえば、それも出来なくなるのだが。また、面会も受刑者と比べると比較的自由である。一日の回数に制限はあるものの、基本的には誰とでも会うことが出来る。

 そして、面会室に入った綾人を待っていた者は……かつて蒸発した、父親の小林芳夫だった。


「元気か、綾人……」

 芳夫は綾人を見つめ、かすれたような声を出した。その顔には、何かを必死でこらえているかのような表情が浮かんでいる。

 綾人は改めて、父の顔を見つめた。約十年ぶりに、強化ガラス越しに見る父の顔は酷くやつれていた。綾人の記憶にある父は、もっと軽薄な雰囲気を漂わせていた気がする。へらへら笑いながら家の中でうろうろし、いつも母に怒られていた。

 だが、今目の前にいるのは……疲れた表情の中年男だった。確か、坂本尚輝とほぼ同じ年齢のはずだが、尚輝より老けて見える。この十年ほどの間に、いったい何があったのだろう。

「うん、元気だよ。風邪もひいてないし、怪我もしてないし」

 綾人はそう答えた。それに対し、父は頷く。だが、それきりだった。父はそれ以上、何も話そうとしなかった。

 重苦しい沈黙が、その場を支配する……綾人は困惑した。東京拘置所の面会の時間は限られている。一人五分ほどしかないのだ。綾人はそのことを父に教えようと思い、声をかけた。

「あ、あのう――」

「すまねえ……」

 突然、父が押し殺すような声を発した……そのまま崩れ落ちる。

 そして、父は狂ったように泣きじゃくった。泣きながら言葉を絞り出す。

「俺の……俺のせい……だ……俺が……お前を人殺しに……変えちまったんだ……俺が――」

「それは違うよ」

 父の涙ながらの言葉を、綾人は一言で遮った。その表情からは、穏やかでありながら強い意思が感じられた。

「父さん……父さんには、何の責任もないよ。俺は馬鹿だった。どうしようもない馬鹿で、身勝手な男だった……だから人殺しになったんだ。最悪のクズに成り果てたんだよ……俺は死刑になったとしても、仕方ない男だ。人の命を奪った以上、本来なら自分の命を差し出さなきゃならないんだよ」

「あ、綾人……」

 父は顔を上げ、嗚咽を洩らしながら綾人の顔を見ている。

 そんな父に向かい、綾人は優しく微笑んでみせた。

「この先、いつになるかわからないけど……刑務所を出られたら、俺は父さんに会いに行くよ」

「綾人……ありがとう」

「……」

 その瞬間、綾人の表情が暗くなった。


 ・・・


「俺は今まで、ケンカで負けたことねえから。こないだ北海道に行った時なんか、ヒグマが出たんだよ……でも、車で轢き殺してやったけどな。いくら俺でも、ヒグマには素手では勝てねえよ……あ、でも鹿は素手で殺したことあるぜ」

 この、子供も騙せないような武勇伝を得意げに語っているのは……言うまでもなく上田春樹である。春樹は今、キャバクラに来ていた。そして横にいるキャバ嬢に対し、武勇伝を語っている真っ最中だ。




 廃墟の中で戦いが始まった時、春樹は素早く身を隠した。そしてルイスがリューに撃たれ、綾人がリューに立ち向かっていった時……皆の注意がそちらに行ったのを利用し、春樹はその場から逃げ出した。どさくさ紛れに、倒れている男たちの体から財布を抜きとった挙げ句……誰にもバレずに脱出したのだ。

 そして……この経験は、春樹に異様なまでの自信を与えていた。目の前で行われた、凄まじい戦い。挙げ句に、ルイスが銃で撃たれたのだ。そんな修羅場を、自分は見事に生き延びてみせた。裏社会の住人たちが揃っていた、あの場で……自分はもしかしたら、本当に凄い人間なのかもしれない。

 いや、間違いなく凄い人間なのだ……。


 自信とは、自分を信じることから生まれる。自分を信じるには、信じるに足る根拠が必要だ。今までの春樹には、その根拠がなかった。

 しかし、あの廃墟での経験が……春樹に自信を与えてしまった。その自信は度胸となり、春樹に異常なまでの行動力を与えて、さらに嘘をつく際の得体の知れない説得力と化していたのだ。




 春樹の武勇伝は続く。

「いやさ、この前ヤクザに呼び出されて事務所に拉致られたんだよ。周りは五人くらいのスーツの奴らがいてさ、マジで殺されるな……と思ったね、いやホントに」


 そう言いながら、春樹はあの時のことを思い出していた。同時に、その後のことも……。

 テレビのニュースによると、病院の跡地に寝泊まりしていた少年二人と便利屋の坂本尚輝が、たまたま現れた中国人たちと言い合いになり、挙げ句に乱闘……その結果、中国と日本のハーフであるリューが拳銃を発砲し少年の一人が死亡。別の少年がそれを見て逆上し、劉を撲殺した……少年と坂本そして中国人たちは、駆けつけた警官に全員逮捕されたらしい。

 そのニュースを見た時、春樹はあまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまった。いったい何が起きていたのか、自分には未だにわかっていない。ただ、ニュースで報道されていたような単純なケンカでないのは確かだ。どこの何者が、こんな穴だらけの話を作ったのだろうか……。

 まあ、いい。今の春樹には関係ない。劉を殺した少年と坂本、それに中国人たちは逮捕された。しかし、それは奴らが間抜けだった……それだけの話だ。自分は逃げ延び、こうしてキャバクラで遊んでいられる。奴らは敗者で、自分は勝者……それだけのことだ。

 しかし、一つ気になることもあった。あの場にはもう一人、若い男がいたはずなのだ。途中でいきなり乱入し、中国人たちを叩きのめした。そして、劉の頭を床に叩きつけていた少年を止めていた……その男だけは逮捕されていないようである。

 恐らく逃げ延びたのだろう。それもまた、自分には関係ないが。


 キャバクラを出た後、春樹は酔いを覚ますためにゆっくりと歩いた。今から、寝ぐらにしている風俗嬢の家に帰るのだ。最近、転がりこんだばかりだが……居心地は悪くない。もうしばらくは、あの家に居るとしよう。

 だが、春樹は全く気づいていなかった。

 後ろから、自分の後をつけて来る者の存在に。


 春樹は結局、もっとも重要なことを学ばなかった。そして、学ぶ機会を永久に失ってしまったのだ……後ろから迫って来た者は音もなく近づき、首に腕を回す。

 春樹は抵抗する暇もなく、意識を刈り取られた。




 どのくらいの時間が経過したのだろう……春樹は意識を取り戻した。だが、両手両足はきっちりと縛られ、口には猿ぐつわがかけられている。動くことはもちろん、喋ることも出来ない……。

 部屋の中には数人の男がいる。こちらを見下ろしている二人の男と目が合った……一人は若い男だ。どこかで見た記憶がある。だが、そんなことはどうでも良かった。

 なぜなら……もう一人の男は、あの桑原徳馬なのだから。


「西村陽一、とかいったな……お前、俺たちがこいつを探してるのを、どうやって知ったんだ?」

 桑原は冷酷な表情で、若い男に尋ねる。だが、視線は春樹を捉えたままだ。春樹は震えだした。心底からの恐怖だ……。

「まあ、蛇の道は……って奴ですよ。じゃあ、後はよろしくお願いします」

 そう言うと、若い男は軽く頭を下げた。そして立ち去ろうとする……だが、桑原は手を伸ばし、彼の腕を掴んだ。

「待ちなよ……なあ西村、俺の下で働く気はないか? お前みたいな奴、今どき珍しいからな……どうだよ――」

「申し訳ないんですが、俺はヤクザになれるほどの根性はありませんので。失礼します」

 若い男はそう言うと、腕をすっと引き抜いて去って行った。

 すると、桑原のボディーガードの巨漢が憤然とした様子で後を追おうとする。だが、桑原が制した。

「板尾、ほっとけ。今はそれどころじゃねえ。それよりも……」

 桑原は言葉を止め、しゃがみこんだ。

 そして春樹を見つめ、にいと笑う。

「そう怖がるな。とりあえず、お前はマグロ船に乗ってもらう。個人的に、マグロは大嫌いなんだが……俺に対する大きな借り、そいつを返すために働いてもらうぜ」


 ・・・


「じゃあ、上田春樹はマグロ船に乗せられたんですか……あいつにふさわしい幕切れですね。ま、命があるだけで儲けもん、ですかね……」

 成宮亮はカップラーメンをすすりながら、そんな言葉を吐いた。しかし亮にとって、春樹はさほど興味をそそられる対象ではない。亮にとっての最大の興味の対象は、この一連の事件の全貌だった。


 亮は今、西村陽一が寝ぐらにしているアパートに来ていた。そしてカップラーメンをすすりながら、陽一の話を聞いている。

 このアパートには、他の住人が誰も住んでいない。そのため、今回のような知られてはいけない話をするには、うってつけだ。


「いいや、あいつは死ぬよ……」

 陽一は静かに答える。すると、亮の手が止まった。

「え、どういうこと……ああ、生命保険かけて海の上で殺すんですか」

「それもあるが、それだけじゃ済まない。桑原は、臓器売買のブローカーに上田を売ったのさ。上田は生命保険をかけられ、海の上で死亡扱い……だが、実はフィリピンかどこかに連れて行かれ、内臓を全部抜き取られる……って訳だよ」

 何の感情も交えず、淡々と語る陽一。彼もまた、春樹に関しては欠片ほどの憐れみも感じていない。あいつは愚かな男だ……陽一の思いはそれだけだった。キャバクラなんかに行かず、静かに生活していれば命だけは落とさずにすんだ。

 しかし、春樹はキャバクラに行き武勇伝を語るという、あまりにも愚かな習慣を捨て去れなかった。運に恵まれ、生き延びたにもかかわらず……。

 この業界で今まで生きてこられたこと自体が、そもそも奇跡なのだ。

「馬鹿な奴ですね。まあ、あんな奴はどうでもいいです。陽一さん、結局……この事件て何だったんですかね?」

 ふたたび麺をすすりながら、尋ねる亮。陽一は苦笑した。

「これは……俺の推測がかなりの部分を占めてるんだが……」

 そう前置きすると、陽一は語り始めた。




 発端は……いや、発端からして既に複雑だった。

 ラエム教の教祖である猪狩寛水の命を受け、邪魔者を始末していたルイス……だが、そこで予想外の出来事があった。ルイスを乗せた車が事故に巻き込まれ、運転手は死亡……ルイスも怪我を負った。

 そこに通りかかったのが、桑原徳馬とその子分たちである。桑原はルイスを助け出したが……その過程で様々なことを知り、ルイスを自らの借りているマンションの一室に軟禁した。

 猪狩寛水と、取り引きをするために。

 そして同じ頃、中村雄介と小林喜美子が殺された……小林綾人の手で。


 さらに、鈴木良子と名乗る女が動き出したのもその頃だった。鈴木は夏目正義に、中村雄介を探すよう依頼したのだ……かつて、自分の家庭を滅茶苦茶にした挙げ句に離婚にまで追い込んだ中村雄介を探しだし、そして殺すため。

 しかし、夏目は中村を見つけられなかった……しかも、夏目は詳しい調査状況を話そうとしない。業を煮やした鈴木は、便利屋の坂本尚輝を雇い、かつて中村とコンビを組んでいた佐藤浩司を先に探し出すことにした。

 まずは佐藤を拷問して情報を聞き出し、その後に殺す……そして中村も殺す。鈴木は既に、復讐のみに生きる殺人鬼と化していた。


 そして、無関係のはずの三人の運命は……ここから交わり始める。

 綾人の乗る自転車が、桑原の運転する車にぶつけられた……それを見ていた春樹が桑原に因縁をつけ、そして桑原に拉致される。

 春樹はマンションの一室で、ルイスの世話をすることとなった……鈴木が狙う佐藤とともに。

 佐藤は春樹と共にコンビニに行き、道中で春樹を怒鳴りつけた……その怒鳴り声がきっかけとなり、尚輝は佐藤を発見する。想定外の事態により、儲け損ねた尚輝によって……。

 そして、儲け損ねた尚輝は……金につられて佐藤を拉致し、鈴木の元に連れて行った。その過程で、ルイスを逃がすという最大のトラブルを引き起こしたのだ……。

 一方……何もかも失い、虚ろな状態でさ迷い歩いていた綾人。だが彼は、ルイスと出会った。




「後は……お前も知っての通りだ。綾人はルイスの世話をしていた。上田はラエム教の連中に保護され、ベラベラと嘘をついた。坂本は佐藤が殺されたのを知り、独自に動き出した。さらに劉たちが絡んできて……当事者の誰一人として、何が起きているのかがわからないまま、事件が終わったのさ」

 陽一は喋り終えると、水を一口飲んだ。亮はカップラーメンを食べ終わり、神妙な面持ちで陽一の話を聞いている。

「じゃあ……鈴木はどうなったんです?」

「知らないな。もう死んでるんじゃねえか」

 陽一は答えた。そう、鈴木は既に死んでいる。陽一が殺したのだ。陽一は夏目と共に、無人となった綾人の家を訪れた際……鈴木を発見した。そして拉致し、とある場所に監禁したのだ……。

 そこで鈴木を拷問して話を全部聞き出した後、彼女を殺して死体を焼却炉で焼いた。殺さなければ、あとあと非常に面倒なことになるのだ……殺すしかなかった。

 だが、それは亮の知る必要のないことだ。


「てことは……綾人は拘置所、上田は地獄ですか。じゃ、坂本のおっさんはどうなったんです?」

「坂本か……あいつは今、夏目さんの所で働いているよ」

「え? 何でまた?」

「俺が紹介したのさ……逮捕歴があったりすると、再就職は難しいからな。あいつもいい年齢だし……」

「え……陽一さん、いつからそんな親切になったんですか……」

 若干ひきつった顔で、そんなセリフを吐く亮。陽一は苦笑したが……。

 次の瞬間、例えようのない寂しさを感じた。

 ルイスと殺し合う……ここ数日間、陽一の心の中を占めていたものはそれだった。本当に久しぶりに、陽一は熱くなっていたのだ。

 しかし、そのルイスが死に……全てが終わってしまったのだ。


 俺は明日から、何をすればいいんだ……。


 陽一は虚ろな表情で、天井を見上げた。だが、その顔に笑みが浮かぶ……。


 いや、まだ終わっていない。

 あいつは、この先どう動くかな……。


 ・・・


 坂本尚輝の朝は早い。まだ暗いうちに起きて、外を走る。まるでプロボクサーだった頃のように、尚輝はひたすら走る。あの事件がきっかけとなり、尚輝は再びトレーニングをするようになった。四十を過ぎてはいるが、まだまだ体は動くようだ……メンテナンスさえ、しっかりしておけば。




 廃墟の中……尚輝は迷ったが、結局は救急車を呼んだ。さらに、警察にも通報した。このままだと、スーツの男たちが何をしでかすかわからない……拳銃を取り上げているとはいえ、この人数に襲いかかられては危ない。 それに……奴らには罰を与えたかった。

 ルイスを殺した罰を。


 尚輝は取り調べの際、己の身に起きたことを包み隠さず話した。鈴木良子と佐藤浩司の件も……その結果、尚輝は逮捕された。

 幸いにも、判決は懲役三年、執行猶予五年だった。佐藤浩司の殺害に直接は関わっていないこと、自ら申し出て捜査に協力したことが心証を良くしたようだ。


 それ以来、尚輝は裏の仕事とは縁を切った。

 執行猶予中、だというのも理由の一つだ。ルイスや陽一のような本物の怪物と出会い……自分はああは成れないと思ったからでもある。さらに佐藤や中村や春樹のようなクズの生きざまを見て、こうはなりたくないと思ったのも理由の一つだ。

 しかし、もっとも大きな理由は……綾人だった。


 尚輝は今も思い出すのだ……死に逝くルイスに向かい、語りかけていた綾人の姿を。

 人を殺してはいけない理由を、泣きじゃくりながらルイスに教えていた綾人……その姿は、尚輝の心に強い衝撃を与えたのだ。

 裁判の間……拘置所の独房の中で、尚輝は何度も、あの姿を思い出した。泣きながら、ルイスの亡骸にすがっていた綾人。その姿を思い出すと、自分がどうしようもなく醜いクズに思えてくる。

 尚輝は自分のこれまでの人生を振り返り、そして己に問いかけた。

 俺が死んだら、あんな風に泣いてくれる人はいるのだろうか……と。

 そんな人間は、どこにもいない……と、己の中の何者かが答えた。




 尚輝はランニングを終えると、公園のベンチに座りこんだ。これから夏目正義の経営する『工藤探偵事務所』に出勤するのだ。西村陽一の紹介してくれた職場である。陽一は、警察が来る前に逃げた。そして独房にいる尚輝に、何かと差し入れや手紙をくれたのだ。夏目正義のことも、手紙の中に書かれていた。

 そんな陽一は今も、あちこちで悪さをしているらしい……最近は連絡を取っていないが。

 いつかは陽一にも、足を洗って欲しいものだ。尚輝がそんなことを考えた時――


「坂本さん……ですよね……」


 ベンチで座っていた時、不意に女の声が聞こえてきた。尚輝は立ち上がり、そして振り返る。

 そこには、女が立っていた。年齢は二十代後半から三十代前半、近所の住民なのだろうか……スウェットを着ている。髪は短く、化粧っ気のない素朴な感じの顔立ちだが、同時に親しみやすさも感じられた。犬用のリードを右手に持っており、リードは可愛らしい仔犬の首輪に繋がっている。

 尚輝は首をかしげた。見覚えがないのだ。

「あ、あの……失礼ですが、どちらさんで……」

「あたし、大場久美子です……大場政夫の妹の……覚えてませんか? あたし、坂本さんの大ファンだったんですよ」

 女はそう言って、にっこり微笑んだ。しかし、彼女とは対照的に……尚輝の方は驚きのあまり、返事も出来ずに立ち尽くしていた。


 大場政夫……かつて、同じジムに所属していたプロボクサーである。尚輝の後輩にあたる男だ。尚輝は大場の才能に非凡なものを感じ、何かと面倒を見ていたのである。

 大場もまた、尚輝のことを尊敬しており、尚輝の試合の時はいつもセコンドを務めてくれていたのだ。

 しかし……尚輝が片目の視力を失い、ボクシングを辞めてからは疎遠になってしまった。

 その後、大場は世界チャンピオンにまで登りつめたのだ。しかし、交通事故で命を落とした。そして大場には、妹がいたのも覚えている。たまにジムに来て、トレーニングを見学したりしていた。

 もう、十年以上前の話だが……。


「坂本さんは、この辺に住んでるんですか?」

 久美子は微笑みながら尋ねる。

「あ、ああ……」

「だったら……そのうち、兄のお墓に顔を見せてあげて下さい。あたし、待ってますから……」

 そう言って、久美子は真っ直ぐな瞳で尚輝を見つめた。

 尚輝は柄にもなくドキドキし、目を逸らしてうつむく……。

 そして思った。


 生きていれば、こんなこともあっていいよな?


 ・・・


 父との面会が終わり、綾人は独房に戻る。口元には笑みが浮かんでいた。だが、それは父と再会できた喜びではない。



 綾人が逮捕された直後……見知らぬ弁護士が、彼を訪ねて来たのだ。そして弁護士は、西村陽一からの手紙を渡した。勾留中の被疑者への手紙は全て警察によって中身をチェックされる……しかし、弁護士からの手紙はチェックされずにそのまま被疑者が読むことが出来る。

 綾人は不思議に思いながら、その手紙を読んだ。

 だが、その中に書かれていたことは……。

 ルイスの生い立ちと、事件の全貌だった。

 ルイスがラエム教の教祖である猪狩寛水によって、殺人マシンにされていたこと。

 ヤクザによって監禁されていたが、偶然の為せる業により逃げ出したこと。

 そして、猪狩寛水は……最悪の場合、ルイスを殺すよう指示していたこと。

 つまり、猪狩寛水は……ルイスの人生を滅茶苦茶にした挙げ句、殺すよう指示していたのだ。

 そして手紙の最後には、死体が見つからなければ、ただの行方不明だ……とも書かれていた。

 そこまで読んだ時、綾人はようやく理解した。

 陽一が自分を誘導しようとしている。あちら側の世界に……。


 綾人はその後、母と中村雄介を殺した件に関しては口をつぐんだまま、警察の取り調べを受けた。もし仮に今後、母と中村を殺した件について調べられたら……綾人はしらを切り、誤魔化し抜くつもりだ。一人殺せば有期刑ですむ。だが三人殺したとなれば……未成年の時の犯行といえど、死刑の可能性大だ。自分にはまだ、やらねばならないことがある。こんな所で死ぬわけにはいかない。

 この先、仮に母と中村を殺した件が明るみに出たら……最悪の場合、脱獄するつもりだ。ルイスが死んだ今、罪を償って真人間になる必要はない。悪に染まってでも生き延びる。


 裁判の判決は、もう間もなくだ……弁護士の話によると、未成年の時の犯行であること、被害者の劉が中国人マフィアと深く関わっていたこと、友人のルイスを拳銃で射殺されたこと、身を守るために殺してしまったこと……などの要因が考慮され、五年から七年くらいの懲役刑になるであろう、とのことだ。

 綾人は神妙な面持ちで頷きながら……内心では、ほくそ笑んでいた。想像していたより、ずっと早く出られそうだ。

 そして今日、父が身元引受人になってくれた……これで、仮釈放の可能性も見えてきた。

 あとは、出来るだけ早く刑務所を出る。そして出所後には、父に生命保険をかけて臓器売買のブローカーに叩き売るのだ。これで軍資金が作れる。

 父が蒸発したせいで、母と自分はしなくてもいい苦労をしたのだ。父には自身の命で償ってもらう。

 奴にも……。


 綾人の目に、不気味な光が宿っていた。彼は一心不乱に勉強を続け……毒物や爆発物に関する知識を吸収していく。まるで悪魔にでも取り憑かれているかのように。

 独房の隅の方には、ラエム教の機関誌があった。綾人がわざわざ取り寄せてもらっている機関誌だ。表紙には、猪狩寛水が穏やかに微笑む写真が掲載されている。

 だが、その機関誌にはボールペンが突き刺さっていた。

 表紙の猪狩寛水の写真……その額に。







 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。今回はコンパクトにまとめることを心がけてみましたが、新たな課題が……それはともかく、感想や評価やブックマークしていただいた皆様、レビューを書いて下さったかきくけ虎龍さん、本当にありがとうございました。





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